伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

チェ・ゲバラ(2):「スペイン内戦」を裏庭で疑似体験、読書する少年

「スペイン内戦」を裏庭で疑似体験、読書する少年


未熟児として誕生、すぐに肺炎に罹る


チェ・ゲバラ(1)から:

エルネスト・ゲバラ(これ以降、青人するまではエルネストと表記します)は、1928年6月14日、アルゼンチンの第二の都市ロサリオで生まれています(5人姉弟の長男)。両親が商用でパナラ川を下りブエノスアイレスに行く途中のロサリオで陣痛をもよおし、ロサリオ市の大学付属100年祭記念病院で誕生しました。


www.youtube.com

未熟児として生まれ、すぐに肺炎を患っています。2歳の時、重度の喘息の発作がおこり、最初の医者は気管支炎と診断しますが、実際には生後すぐにかかった肺炎が関係していたようで、どの医者もこれほどの重い喘息にかかった子供は見たことがないといわれていたそうです。エルネストが最初に覚えた言葉は「注射」だったともいわれているほどです。

 

エルネストは生後2年間は父がマテ茶のプランテーションを所有していたミシオネス州アラグアタイで育っています。しかしプランテーションの作物をがっさり盗まれたり不運も重なり住居がなかなか定まらない頃でもありました。未開の地の「ミシオネスのジャングル」も持っていたようですが、どうも利用できずに終わったようです。

その直後、父はパラグアイとの国境近くで今度はなんと造船所を共同経営しはじめますが、ここでも事業はあまりうまくいっていません。後年、ゲバラは「ゲバラ家はどんな事業をしても破産するんだ」と語っていたのはこうした父の事業の失敗のことを語っていたのかもしれません。

 


悪化する喘息、小学校は欠席がちに


エルネスト4歳の時、ゲバラ家はブエノスアイレスにある小さなアパートに移り住みます。5歳の時、いつも日曜には父はエルネストを連れ一緒に射撃をしています。幼少時からエルネストはピストルを扱いなれていたという記述などは、こうした背景があるからでしょう。6歳の時、妹のアナ・マリーアが誕生。妹アナは5歳位になるとエルネストが散歩する時に喘息の発作をおこした時などいつもエルネストを支えるようになります。


7歳の頃に、喘息が悪化し小学校も欠席がちになります。家では母が文字を教え、父はチェスを教えました。8歳になるまでガリシア人の乳母が雇われていてなにかと手助けしてもらっています。しかし喘息は回復せず、逆に9歳の時、喘息の合併症を起こし酷い時には痙攣をともない、つねに酸素吸入器を使用しなくてはならないほどでした。

 


「スペイン内戦」を空き地で再現し、「疑似体験」する


この頃、食事の後に、父がゲバラ一族の歴史を語るのをエルネストは夢中で聞いています。とくには地理学者となった祖父がインディオの襲撃に遭いながらチャコ地方の国境を確定していった冒険譚に惹き付けられています。後のゲバラの南米を巡る旅と冒険を知っている私たちからすれば興味のある話です。

それ以上にエルネストを刺激する大事件が海の向こうで勃発します。第二次世界大戦の前哨戦となる「スペイン内戦」です(1936〜39:ソビエト連邦とメキシコが支援した人民戦線とドイツ・イタリアのファシズムと隣国ポルトガルが支援する右派のフランコの反乱軍の戦い。戦後フランコ独裁政権を樹立)。そしてスペイン共和派の医師の子供たちが、エルネストの住む村に亡命してきたのです。

 

 

エルネストはスペイン市民戦争の情勢を、父が買ってくれたラジオと新聞を通しもらさずにチェックするようになります。それだけでなく家の裏の空き地に人民戦線の拠点・首都マドリードの包囲網を想像力をたくましくして<戦場を再現>したのです。

地面にはマドリード市民たちが協力してつくったように友だちと協力して塹壕を堀り、石やレンガを盛り壁までつくりあげました。仕上げはパチンコによる武装でした。エルネストは共和派(ソビエトが支援した人民戦線側)の将軍の名前をすべて暗記し、<再現した戦場>で「疑似戦争」を戦いました。


この「スペイン内戦」は、エルネストが8歳から11歳までの最も好奇心が強い4年間も続き、想像以上の影響を与えていったにちがいありません(<再現した戦場>は途中家が引っ越しているのでずっと続いたわけではなさそうです)。

 

影響を与えた以上に、エルネストは友だちを誘い、緻密な情報から<再現した戦場>で「疑似戦争」を行っているほどなのです。「情報」を的確に得て「判断」し、「行動」しながら「考える」後のゲバラ流の(しかもゲリラ戦のごとき)戦法が、すでに家の裏庭で繰り広げられていた。もちろんそれは少年ならではの空想的な遊びにちがいありませんが、<空想的な遊び>こそ、少年の魂を生き生きとさせるのです。


裏の空き地でのエルネスト少年の政治的立場は、スペイン共和派ー「共産主義」で、市民や労働者たちが支援した陣営でした。ここで確認しておきたいのは、アルゼンチンは19世紀初頭までスペインの植民地だったことです。

ラジオから聴こえてくる言葉(無論スペイン語)はダイレクトに少年の耳に入り、少年の心を突き動かしたにちがいありません。

 


スペインのフランコ・ファジズムは、人民戦線派5万人に死刑判決。メキシコは1万人の知識人や技術者たち亡命者を受け入れる。人民戦線政府は、1976年までメキシコの地に存続します。カストロゲバラが出会ったのもメキシコの地だった。

 

スポーツでの負けん気


<戦場を再現>しはじめた8歳の時、エルネストに相当の負けん気があらわれてきています。たとえばスポーツです(スポーツは負けん気を醸成させます)。卓球の地区試合でエルネストは何カ月も2位だった時、密かに家に卓球台をつくり一人で黙々と練習し、次の試合でずっと勝てなかった相手を負かしチャンピオンになっています。

そしてこのあたりから少年が、スポーツ少年になっていくのか、スポーツで鍛えられた少年になっていくのかの最初の分岐点がきます。勉強が好きか嫌いかではありません。学校での勉強は、およそどんな少年少女でも嫌いですから。

勉強というより、心を躍動させてくれるもの、世界を拡げてくれるものと出会いです(それは一つに限ったものではありません)。スポーツにそれを見いだした少年は、いっそうスポーツにのめり込んでいくことになります。


セルバンテスやJ.ベルヌを「原書」で読んでいた


エルネスト少年の場合、それは読書からやってきました。いつも本を読んでいるエルネストの姿が周りの人に目撃されています。この頃読んでいたのは、ジュール・ベルヌ、スティーブンソン、セルバンテス、デュマ、エミリオ・サルガーリ(イタリアとラテン諸国のジュール・ヴェルヌ的存在)らの本でした。

驚くべきことに、エルネストはこれらの本を、原書で読んでいたのです。つまり母国語のスペイン語ではなく(セルバンテスとサルガーリはスペイン語でしょうが)、フランス語や英語で読んでいたわけです。

 

 

S.ソダバーグの映画『28歳の革命』でも、キューバのジャングルの中、休憩している時、一人で本を読んでいる姿を映しています。またゲリラに参加を希望する農民たちに「文字は読めるのか」とよく聞いています。なぜなら文字が読めないといくらでも相手側に騙されてしまうことをよく知っていたからです。

 

すでにゲリラに参加している若者には暇さえあれば文字を教えたり勉強につきあったりしています。少年時代、「スペイン内戦」の実情を知ったエルネストは、ファシズムがいかに効果的な宣伝を用いて戦争を優位に戦ったか(それはナチスでも同じです)、また戦争には裏の裏があることをよく知っていたからだとおもわれます。 

 


【少年期:Topics】ゲバラ家はエルネストの喘息によい環境を求めて何度も転居している。9歳の時には新しい一戸建ての家に移る。父は喘息に効く良い薬があると聞けば手に入れ、薬草を試し、犬や猫や鳥を遠ざけ、枕の中身を替えたり、絨毯を取りはらったりあらゆることを試しますある時など祈祷師が喘息には夜にネコと一緒に寝るのがよいと言われ、ネコを布団に入れて寝たら朝ネコが死んでいたことも。

飲むサラダといわれる南米産のマテ茶も喘息には効かなかったが、後の南米の旅やゲリラ戦で食べ物に窮してもマテ茶で乗り切っている。とにかくどんな方法、どんな食事療法でもエルネストの喘息は治らなかった。新居も無理だと悟って、ゲバラ家は2年後に再び引っ越し。


9歳の時、エルネストは「変身」という趣味をみつける。あまりに治らない身体を「変身」によって忘れよう、克服しようとしたのかもしれない。エルネストが「変身」したのは、インディオガウチョ、ギリシア人や公爵でしたが、学校の劇に出たときはボクサー役だった。「変身」はエルネスト少年に限ったことでもないわけだが、気質や性格によって「変身」の仕方や方法はさまざまになる。

もともと危険を恐れない無鉄砲な気質があったエルネスト少年は、3階から飛び降りたり、チョークを食べたり、屋根から屋根へ飛び移ったり、喘息などおかまいなしだ。それが「変身」の結果の行動かどうかは分からないが、当時のガールフレンドのドローレスによれば、「彼の行動は衝動的なものでも自己顕示欲でもなく、それができるかどうか、どうやったらできるか試すためにやっていて、本当の動機は<経験>することだと感じていた」ようだ。また、その頃の友人は、エルネストには決断力があり、ゆるぎない自信と自分の意見を持っていたと記憶している。

チェ・ゲバラ(3)へ続く: