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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

フリーダ・カーロ(1):インディオの女性の「乳」で育ったフリーダ

フリーダは、インディオの女性の「乳」で育った。3歳の時、カーロ家の運命が暗転 


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はじめに
フリーダ・カーロは、18歳の時、バスの事故で足腰を串刺しにされて以降、47歳で亡くなるまで32回もの手術(主に背骨と右足)をしています。それだけでも大変な人生であるのにフリーダは、病と闘いながら22歳の時にメキシコの大人物で天才的な壁画家ディエゴ・リベーラと結婚(10代の時の予言通り巨大なメキシコのカエル王子を手に入れるのだ)。

後に後遺症となった萎えた足を長いメキシコ・スカートで隠し、トロツキーイサム・ノグチとも浮き名を流します。その情熱的な愛の遍歴はラテンアメリカの女性の憧れの的になったほどです。

フリーダは、つねに出会った「命」につねに「愛」をこめることのできた女性でした。自己の苦痛は芸術へと「転化」されたとはフリーダの中心テーマである「自画像」に対していわれますが、「マインド・ツリー(心の樹)」的に言えば、事故に会う以前にフリーダの内に得体の知れない根深くも錯綜した大きな「自意識」が準備されていなければ、なにも「転化」はされません。

 


鋭い機知と感性、権威を覆そうとする反逆的姿勢で、フリーダは一度退学処分すら受けているほどでした。また限りなく広がっていた内なる夢想の世界、男の子と一緒になって遊んできた奔放なお転婆娘、アマチュア画家になった父との知的交流、バイセクシャルな性など、フリーダの内界を旅することはなかなか容易ではなりません。フリーダの中心主題の「自画像(セルフ・ポートレイト)」はどのように生まれてきたのでしょうか。どうしても思春期からはじまってしまい、また父を「写真家」だったとしか扱わない映画『フリーダ・カーロ』ではなかなか見えてこない、フリーダ・カーロの心の「地図」と前代未聞の形をした「樹」を一緒にみてみましょう。

 

フリーダは、インディオの女性の「乳」で育った


フリーダ・カーロ(マグダレーナ・カルメンフリーダ・カーロ=イ=カルデロン:Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderon)は、1907年7月6日に、メキシコ市郊外の古い住宅街に誕生しています。マグダレーナ・カルメンは洗礼名で、フリーダが呼び名となりました。フリーダとはドイツ語で「平和(フリーデ)」を意味しています。

その名づけは机の上に敬愛するショーペンハウエルの写真を飾っていた父の直感だったようです。きっと内省的で鋭い感性をもつようになり、娘のうちで一番自分に似るだろうという予感は当ります。長い苦しみに耐えぬき、驚くほど活動的で相当のお転婆だということを除いて。

 


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誕生後すぐに、フリーダの「マインド・ツリー(心の樹)」を形成するうえで、重要なことが起こりました。母マティルデが病気になったため、インディオ女性が乳母として雇い入れられたのです。フリーダはインディオ女性の「乳」で育てられたことで、後年もより強くそのことを重要視しています(絵にも描かれた)。

肉体的にも精神的にも、フリーダの「マインド・ツリー」の「樹液」は、メキシコの古(いにしえ)の大地とメキシコ的血脈につながりをみせることになります。母マティルデの母方の祖父はインディオででしたが、祖母イザベルはスペイン人だったためインディオの血は流れているものの、カーロ家の者が直接インディオの女性の「乳」で育ったことは、フリーダが初めてだったのです。


母の父(祖父)が、フリーダの父に「写真術」を教えた


フリーダの顔の中で最も特徴的な、あの一本につながった太い眉毛の来歴は、インディオからではなく、父の母から受け継いでいるといわれます。父ギリェリモ・カーロ(ウィルヘルム・カーロ:ギリェリモは、ウィルヘルムのスペイン語読み)は、ドイツのバーデン・バーデンで生まれ、ニュールンベルグ大学を卒業してすぐ19歳の時にメキシコにやってきました。

母が亡くなった後すぐにギリェリモの父が再婚し、その継母とまったそりがあわず、メキシコ行きの旅費を渡され旅立ったのでした(それ以降、父は一度もドイツには帰国していません。つまり移民となった)。父ギリェリモの両親は宝石商を営むハンガリー系のユダヤ人で、当時世間の関心を高めていた写真関連の商材も扱っていました。

 

 

この「写真」が、メキシコに来てからのギリェリモの人生を大きく拓くきっかけになっていきます。また同時に、人生の浮き沈みを痛い程知ることにもなります。ただ、父ギリェリモが写真家になる直接のきっかけは、母マティルダの薦めでした。

 

フリーダの父と母の出会いは、父ギリェリモが最初の妻を2度目の出産の折りに亡くした後に、職場を同じくする宝石店での恋でした。母マティルダカルデロンは、その母がスペイン人将軍の娘にして修道院育ち、その父はインディオの血をひく写真家アントニオ・カルデロンだった。フリーダからすれば母方の祖父にあたる写真家アントニオが、父ギリェリモにカメラを貸し与え撮影技術を教え込んだのでした。

 

インディオの人間が、写真発祥の地のヨーロッパから移民してきた人間に、「写真」術を伝えるとはなかなか興味深い襷(たすき)がけのような人生の構図です。

フリーダが29歳の時に描いた作品『祖父母・父母・私』はまさに<家系樹>となっており、フリーダ自身、どんな家系のなかにいるのか強く自覚していました。

 


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フリーダ3歳の時、カーロ家の運命が暗転する。家は抵当に

 

父ギリェリモは、写真家アントニオと一緒に、植民地時代・イディオ時代の建築物を撮るためメキシコ中を旅します。メキシコ市に写真スタジオを開設しました。

そしてどのような経緯かはわかりませんが、この時期に撮影された写真は、メキシコ独立百年記念祝典にあわせて出版される豪華写真集に掲載されます(大蔵大臣からの委嘱で、400枚ものガラス乾板でメキシコの伝統的建築が記録された。そしてギリェリモは「政府委嘱メキシコ文化遺産写真家第一号」の栄誉をうけることになります)

 

フリーダだけでなく、父ギリェリモもある人の手引きをきっかけに自身予想しえないような仕事を生み出すことになるのです。しかし、フリーダが事故の後で人生が転位したように、父ギリェリモは逆に、メキシコ文化遺産写真家第一号として刻まれてから人生がうまく立ちいかなくなります。

 

Frida Kahlo: Making Her Self Up

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それはディアス独裁政権からの委託の仕事だったため、独裁政権が崩壊(1910年に勃発したメキシコ革命による)すれば政府委嘱の仕事は幻のように消えてしまったのです。その後10年間続く内戦の間、父ギリェリモは写真からの収入はまったくゼロになってしまいます。


フリーダが生まれて3年後には、家は抵当に入れられ、立派なフランス製家具は売り払われ、多少の収入にと下宿人を家に住まわせたりしていたほどです。あまりの暗転に父ギリェルモはすっかり言葉数が少なくなり、人間嫌いにすらなっていったといいます。所帯をなんとか切り回すようになったのは母でしたた。

フリーダによれば、「母は読み書きができず、金勘定だけしか知らなかった」ようです。が、母マティルダは娘たちに編み物や刺繍、家事に掃除、礼儀作法をしっかり教え込んだため、三つ子の魂百までの通り、フリーダの家の美しさと整頓ぶりは生涯通じてのものになりました。また毎日、娘たちを教会に通わせ信仰心をもたせました(フリーダと妹は、古めかしく信心ぶることには反発しますが)。

 


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フリーダは母にアンビバレントな感情をもっていました。母には残忍といわれるほど思いやりに欠ける部分と、知的に優れアクティブな面がありました。残忍な面とは、悪戯好きのフリーダに激怒する時、「お前はお父さんの子でもお母さんの子でもない。くず籠から拾ってきたのよ」と言ったり、15歳の時ボーイフレンドと駆け落ちした姉マティルデ(フリーダより8歳年上)がその後、何度もお土産をもって謝りに訪れたが母は会おうとしませんでした(2人が和解したのはなんと12年後)。そんな母をフリーダは「私の上官」と呼んでいました。


フリーダは幼児期、丸ぽちゃで元気で悪戯好きな子供でしたが、6歳を機に一変します。小児麻痺罹り、9カ月間部屋に伏せざるを得なくなります。体調は回復し、ようやく部屋から出られた頃には、顔つきも痩せてひょろ長くなり、表情は陰鬱に、気質は内向的に成り代わっていたといいます。フリーダの「マインド・ツリー(心の樹)」に明らかに変質があったようです。

「イマジナリー・フレンド(心の中の友)」といいますが、「空想」の中に同じ年頃の少女が現れて強い友情をもったりしはじめたのもこの時のことです(ニルヴァーナカート・コバーンのケースとよく似ています。カートの場合、男の子が現れ両親はその子の食卓の席まで用意していた)。その「空想」の世界は、自分の部屋の窓ガラスに息を吹きかけくもらせ、そこに「ドア」を書き、その「ドア」の向こう側にある世界だったといいます。あるいは乳製品の工場の名前だったという「PINZON(ひよ鳥)」の文字の「O」も「空想」の世界へのもう一つの入口でした。心の中の友は、陽気でよく笑う女の子で、2人はいつもの杉の木の下の同じ場所に行き一緒に笑ったといいます。

フリーダ・カーロ(2)に続く: