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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

デニス・ホッパー(3):演劇朗読コンテストで3度で優勝

弟の喘息の悪化で西海岸へ。カリフォルニア州の演劇朗読コンテストで3度で優勝


10歳の頃、カンザスシティのプールバーで小遣い稼ぎ


デニス・ホッパー(2)からの続き:

デニスが大好きだった農場から引き剥がされた先は、カンザス州とミズーリ州にまたがる「ハート・オブ・アメリカーHeart of America/アメリカの地理的中心地」と呼ばれるカンザスシティでした。

しかし、少年デニスにとってのアメリカの中心地、心の中心地は、祖母と一緒の農場でした。父と母がこの街を選んだのは、「世界のバーベキューの都」という呼称もあるほどの都市に出れば、仕事次第で食も物質面でも満たされた暮らしができると考えたからでした。

もう一つの理由は、喘息持ちの弟ディヴィッドの健康面のことだったため、10歳にもなるデニスはこの地でもほっておかれるようになります。

 


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カンザスシティは、1930年代に銀行強盗などを繰り返したカップル「ボニーとクライド」が警察官と銃撃戦を繰りひろげた街の一つだったり、ジャズ・ミュージシャンのチャーリー・パーカーが生まれ育った街でもあり、また禁酒法の規制を逃れて夜通し営業するナイトクラブがかつていたるところにあった(それがジャズ・ミュージシャンたちがジャズを磨き、新たなジャズービバップをつくりだす土壌になった)、危険な香りのする夜の街でもありました。

 

そんな街で、少年デニスは年長の少年たちが屯(たむろ)って煙草を吸っている場所に近寄るようになります。10歳にしてすでにビールを呷(あお)るようになるかとおもえば、プールバーに入り浸るようになり小遣い稼ぎすらするようになっていきます。そうすれば映画で見たギャングのようなタフガイになれそうだとおもったのです。母にはデニスがわけのわからないイメージに振り回されているようにみえるだけでした。

 

 

一応デニスは中学校に通ってはいましたが、暗記ばかりの授業はデニスの想像力を塗りつぶすばかり。けれども学校行事のドラマや美術、それに歴史だけは別で、少年デニスはやる気を起こしていました。ところがそれ以外の教科はからっきしで、息子デニスに医者や弁護士といった社会の尊敬を集める仕事に就いてもらいたがっていた母にはあまりにも心外でした。そんな母や父の態度を感じて、少年デニスの心はどんどん両親から遠ざかっていくばかりでした。

 


14歳の時、弟の喘息の悪化で、

一家はカリフォルニアに移り住む


デニス14歳の時(1950年)、カリフォルニアのサンディエゴに移り住むことになります。しかし、これはまったくの偶然からでした。ホッパー家からすればその選択が最良だったのです。両親が今まで一度も訪れたことのないカリフォルニアに移り住む決意をした理由は、弟の喘息の発作が悪化したためで、掛り付けの医者が気候が温暖で、陽光が降り注ぐカリフォルニアへの移住を薦めたのです。

両親にとっても西海岸なら仕事も多く条件も良さそうで、子供たちの通う学校面でも選択肢が広がるという考えもありました。

 


デニスにとってもいつも見ていたあの陽が沈む地平線の向こう側、映画の都ハリウッドに近づけることを夢想してみれば行かない手はありません。デニスを乗せた車は、何度もガス・ステーションでガソリンを入れ、ガソリンを吸い込んで車は、どこまでものびるフリーウェイを疾走していきます。

少年デニスの人生もこのフリーウェイの疾走から転がりはじめたのです。もし、弟の喘息が悪化していなかったら、デニス・ホッパーカンザスシティのプールバーにいつまでも屯(たむろ)しつづけていたかもしれないのです。


デニスはグロスモントの中学校に編入し2年間過ごした後、ヘリックスの高等学校に入学します。デニスにとってついていたのは、中学・高校とどちらの学校にも優れた演劇部があったことでした。デニスは演劇部に所属し溌剌と活動します。

芝居をやっていない時は、海辺に出て、砂浜に何時間も座り、太平洋から打ち寄せる波の音を聞いていたといいます。少年デニスにとって、じつは海岸から見る本物の太平洋も、フリーウェイから見えたロッキー山脈も心に描いていた(マインド・イメージ)ものより小さかったというのです。遥か地平線しか見えない農場にいた頃、デニスが心に描いていたものはとてつもない海であり、山だったということです。

 

 

少年デニスの「マインド・イメージ」にあった想像上の海や山のサイズを、実際の海や山にサイズダウンしなくてはならなかったように、演劇の世界でも、他のことでも、少年デニスの「マインド・イメージ」は桁違いに大きく、豊かなものだったといえます。それは祖母と暮らした「オリジナル」の農場で培ったデニスのイマジネーションの豊穣さだったのです。


カリフォルニア州の演劇朗読コンテストで3度で優勝


少年デニスは、詩や独白の朗読で抜群の評価を受けます。高校時代、デニスはカリフォルニア州の演劇朗読コンテストで3度にわたって優勝するのです。高校の弁論部のチームにも刺激とイマジネーションを吹き込みます。

この頃、読書といえば覚え込む必要のある戯曲や詩だけでしたが、デニスの「マインド・イメージ」には、農場や映画館で収穫されたものが豊富にあり、戯曲や詩は少年デニスの「オリジナル」のイメージから生命を吹き込まれていたのです。このことが後に、旧弊な考えの映画監督と衝突することになっていきますが。


まだこの頃は両親はデニスを誇りにおもっています。タバコとビールを呷(あお)っていたカンザス時代からすればその変貌ぶりは驚かされるばかりでした。ただ瞳孔が異様に拡大している時があり、その様子に両親は気づいていませんでした。

 

 

瞳孔の異様拡大ーそれはマリファナからくる症状で、さらにはマリファナがもたらす喉の渇きを多量のビールで押さえようとしていたことからくる現象でした。デニスはシリアスに芝居ばかりやっていたわけでなく、とにかくパーティー好きで、教師の物真似は皆を爆笑させ、冗談はノンストップで繰り出されるのでした。

皆はデニスがハイになればなるほど盛り上がるので、デニスのピッチはあがりっぱなしでした。


デニスがエンターテインメントの世界を体感した最初は、アート・リンクレッターのタレント・ショウで、ヴェイチェル・リンゼイの詩「エイブラハム・リンカーン、真夜中に歩く」を朗読し喝采を浴びたことでした。少年デニスはその喝采に体中が興奮し、陶然とし、その喝采を何度も味わいたいと強くおもうようになります。

少年デニスは、シェイクスピアの戯曲が上演される本格的な劇場「オールド・グローブ」(サンディエゴにある)やラ・ジョラにある「ラ・ジョラ劇場」に足を向けだしました。そうした場所の雰囲気や匂いがたまらなくなり、そこでうたれている芝居を観ようと新聞配達や空き瓶の回収でチケットを買えるだけのお金を稼ぐようになります。

 


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サンディエゴの劇場「オールド・グローブ」のオーディションに合格。「あんたらの夢を実現するために生きるつもりはない」 


そしてついに少年デニスは劇場「オールド・グローブ」が催すオーディションに臨みました。そこでデニスは渡された台本を苦もなく読み、オーディションを突破しました。

演劇朗読コンテストで3度優勝した経験はだてではありません。しかしその興行は、クリスマスの時期限定の短期興行だったため、デニスは欲求不満になります。演技への欲求は募る一方です。

劇場「オールド・グローブ」でまたチャンスが巡ってきました。チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」のオーディションに合格し、腕白小僧の役で、デニスは俳優デビューするのです。


ところが両親は、そんなデニスを認めようとしませんでした。朗読コンテストでの優勝を喜んでいた両親が、芝居で身をたてようと考えるようになった途端、当惑しはじめたのです。「俳優なんかになってほしくないの。何か立派な仕事に就いてほしいの」という母。役者稼業は、母が息子に対して思い描く将来ではなかったのです。

 

 

何度両親と議論してもいつも返ってくるのは俳優業への警告でしかありませんでした。両親は、快楽を求めがちの人間にとって役者やショウビジネスは、人生を踏み外すためにあるようなものと感じていたのです。デニスは後年こう振り返っています。

「家での生活は悪夢だった。誰もがノイローゼになっていた。おれがクリエイティブなことをやりたいと言へば喚き出すんだ。クリエィティブな奴は、酒場で野垂れ死にするのがオチだと」
「あんたらの夢を実現するために生きるつもりはない」
  『デニス・ホッパーー狂気からの帰還』エレナ・ロドリゲス著/白夜書房

 

デニスは自分の夢を生き抜こうと行動を起こしました。サンディエゴ・コミュニティ・プレイヤーズ・シアターにアタックをかけます。デニスはここで端役ながら重要な役割をもらい演じはじめたのですが、両親との価値観の相違は埋まることはありませんでした。高校1年のある夏の日(16歳)、デニスは荷物をまとめ早朝に家を抜け出しました。向った先は、パサディナ劇場があるロサンジェルス郊外の町パサディナでした。