伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

デニス・ホッパー(2):祖母が週に一度連れていってくれた映画


祖母が週に一度連れていってくれた町の映画館

 


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D.ホッパーの両親はどうしてたかといえば、父ジェイ・ホッパーは鉄道郵便局員で、その仕事柄ほとんど家にいなかったといいますま。母マージョリーは、カンザス州のダッジ・シティで、プールを経営し水泳教室を開いていました。

時折、デニスをプールに連れて行って遊ばせてくれましたが、そんな時はデニスは無我夢中に遊びました。なぜならグレートプレーンズで鍛えた想像力で、町中の小さなプールでも大きな海に仕立てあげることができたからです。デニスはダイバーになって潜ったり鮫獲りになりきって泳いだりしたのです。つまり両親はそれぞれのことに忙しく、デニスを祖母の農場に預けていたというわけです


デニスが5歳の時、日本軍によるハワイ・パールハーバー奇襲をもって米国も第二次世界大戦に突入します。間もなくすると突然、母がデニスに「パパが弾薬の事故で死亡してしまった!」と語って聞かせるのです。デニスはきょとんとして聞いていたようです。5歳のデニスに父の死を完全に理解することができなかったのです。「パパとまた天国で会えるからね」と言う母の励ましに頷くだけでした。

 

 

父がいなくなった翌年、デニス6歳の時、デニスの「マインド・ツリー(心の樹)」に大きな影響を与える出来事が起こります。それは父を失いますます空想の世界に耽溺するデニスに、励まし刺激を与えようとした祖母の計らいでした。

 

祖母は「すごいご褒美をあげるから」と、デニスに農場の卵を集めるのを手伝わせました。祖母はその卵をエプロンに包んで、母も働いているダッジ・シティにデニスを連れて行き、家のドアをノックしては卵を売り歩いたのです。

そしてその卵の売り上げで、祖母はデニスを映画館の暗闇に連れて行ったのです。その映画館はバルコニーがある薄汚れて暗くてちっぽけな映画館でしたが、デニスにとってまさに「魔法」の世界でした。地平線を見ながらあれこれ空想していたものが、眼前の空間に突如現れ、しかもそこで決闘し、馬に乗り、音が響き、言葉を喋るのです。デニスが興奮する様子をみた祖母は土曜日の午後の週1回、デニスを映画館に連れて行くようにしたのです。

 

 

デニスにとってこの週一回の「魔法」の世界の体験はどれほどの宝物になったことでしょう。次の映画を観るまでの1週間、デニスは観た映画の世界の中で遊びつづけるのです。戦争映画を観たならば、向こう1週間は塹壕を掘って前進し敵に備え、決闘のシーンを観れば、杖もて農場の牛(の角)とやり合ったのです。

 

この頃、スクリーンを賑わわせた映画俳優たちは、歌うカウボーイ(ミュージカル西部劇)のジーン・オートリーや、シンガーで西部劇スターのロイ・ロジャース(ローリング・ストーンズキース・リチャーズが少年の頃、大のお気に入りでよく真似た)、カントリーミュージックのシンガーでコメディアン俳優のスマイリー・バーネット、ランドルフ・スコット(戦争映画)たちでした。

農場での空想の中に入りこんできた「演技」をする人たちの存在ー最初の頃はおそらく「演技」ということも知らなかったでしょうーが、俄にデニス少年の心の内に宿りはじめるのです。

 


4年ぶりに父が帰ってくる。

父は大戦中、「スパイ」としてアジアで暗躍していた


映画という「魔法」の世界に生きはじめて4年余りがたった日、ちょうど第二次世界大戦終結をむかえて間もなくのこと、驚天動地のことがデニスの人生に起こります。死んだ父が帰ってきたのです! これにはデニスも祖父母も口をあんぐりとあけて驚くしかありませんでした。一人だけ、つまり母だけは冷静でした。母だけが、戦争中、父がアメリカの諜報機関(CIA)に雇い入れられていて、死をもってしてその存在が巧妙に隠蔽されていたことを知っていたのです。

戦争中、父は中国からビルマへ、そしてインドに入り、再び中国に入って中国共産党毛沢東ともともに日本軍と闘ったといいます(第二次世界大戦では中国は連合国側にあった)。最終的に北京にまで進出してきた日本軍を降伏させるための密使でした。

 

父は「スパイ」だった。

 

この事実は、映画の虜になっていた少年デニスを魅了しました。映画の中に登場するような「スパイ」。少年デニスにとって父は現実の<ヒーロー>のように思えたのです。

鉄道郵便局員だった父の姿は、本当でなく、「スパイ」こそが父の本当の姿だった。存在感がほとんどなかった父のその意味がわかったような気がしたのです。

 

 

デニスは父を見直したと同時に、自分に嘘をついた母に対して心がわだかまるようになっていました。母は少年デニスに、このことは極秘事項で、国家から誓約されたものだったと説明しましたが、腑に落ちないものが残っていきます。少年デニスのなかで、権威に対する、そして大人に対する不信感がはじまった最初の出来事でした。


9歳の時、ガソリンを吸って「幻覚」を見、

ビールをおぼえる


「ヒーロー」の父が鉄道郵便局員に復帰して戻ると、デニスは再び農場に取り残されます。そして父は再び遠い存在になり、前と同じように存在感が希薄になっていったのです。母もダッジ・シティで新たな仕事をはじめ、母の姿も再び遠のいていきました。デニスが祖父のトラックのタンクからガソリンを吸い込みはじめたのはちょうどこの頃。「幻覚」を見るためでした。

ガソリンを吸い込むと、目の前に奇怪な生き物や道化師、妖精たちが宙をまったりするのです。デニスはこの方法を何処かで(恐らく映画から)覚えたようです。9歳から10歳になろうとする頃、あまりにも豊かだったデニスの空想力から羽根がもぎ取られてしまいます。映画を観る前は、生き生きと物語りながら遊び、映画を観るようになってからは役になりきって遊んだのですが、もう以前のようにはいかなくなったのです。

 

 

デニスが野球のバットを振り上げてトラックのフロントガラスやヘッドライトを叩き壊したことに、祖父母は大きなショックを受けます。祖母はデニスを映画に連れ出すことをとりやめてしまいます。少年デニスは今度はガソリンの代わりに、冷蔵庫にあるビールを取り出して麦畑の中に隠れて飲むことを覚えるようになります。

こうした行為は父や母への反抗でもあったかもしれませんが、それ以上に少年デニスの好奇心からはじまったもののようです。研ぎすまされた感性や探究心は、時に予想もつかない方角に向ってしまうものです。そのためにはそれなりの理由と背景があることは間違いありませんが。


祖父は農場にいる時は、デニスに農場のことや、農場で飼われている動物についていろいろと教えています。デニスも祖父の後をついて回り、仕事ぶりをみるようになります。気づけばデニスは農場の手伝いにかり出されていました。祖母も庭の草むしりをデニスにたのんだりしました。きらきら輝いていた想像の王国は地に落ち、豚小屋の糞の始末と、鶏小屋の掃除が回ってくるようになりました。

6歳年下の弟ディヴィッドも農場に連れて来られていたので成長したデニスは我慢しなくてはならなかったのです。その代わり祖母は新鮮なオニオンたっぷりのサンドウィッチをいつもつくってくれました。

 

 

ところが10歳になる直前、母が突然、農場に現れます。デニスと弟ディヴィッドを引き取る話を祖母にします。デニスはショックを受けます。デニスは生まれ育ったこの農場が大好きだったのです。なぜならそこが「オリジナル」だったからです。

デニス・ホッパー(3)に続く:

デニス・ホッパー(3):演劇朗読コンテストで3度で優勝

弟の喘息の悪化で西海岸へ。カリフォルニア州の演劇朗読コンテストで3度で優勝


10歳の頃、カンザスシティのプールバーで小遣い稼ぎ


デニス・ホッパー(2)からの続き:

デニスが大好きだった農場から引き剥がされた先は、カンザス州とミズーリ州にまたがる「ハート・オブ・アメリカーHeart of America/アメリカの地理的中心地」と呼ばれるカンザスシティでした。

しかし、少年デニスにとってのアメリカの中心地、心の中心地は、祖母と一緒の農場でした。父と母がこの街を選んだのは、「世界のバーベキューの都」という呼称もあるほどの都市に出れば、仕事次第で食も物質面でも満たされた暮らしができると考えたからでした。

もう一つの理由は、喘息持ちの弟ディヴィッドの健康面のことだったため、10歳にもなるデニスはこの地でもほっておかれるようになります。

 


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カンザスシティは、1930年代に銀行強盗などを繰り返したカップル「ボニーとクライド」が警察官と銃撃戦を繰りひろげた街の一つだったり、ジャズ・ミュージシャンのチャーリー・パーカーが生まれ育った街でもあり、また禁酒法の規制を逃れて夜通し営業するナイトクラブがかつていたるところにあった(それがジャズ・ミュージシャンたちがジャズを磨き、新たなジャズービバップをつくりだす土壌になった)、危険な香りのする夜の街でもありました。

 

そんな街で、少年デニスは年長の少年たちが屯(たむろ)って煙草を吸っている場所に近寄るようになります。10歳にしてすでにビールを呷(あお)るようになるかとおもえば、プールバーに入り浸るようになり小遣い稼ぎすらするようになっていきます。そうすれば映画で見たギャングのようなタフガイになれそうだとおもったのです。母にはデニスがわけのわからないイメージに振り回されているようにみえるだけでした。

 

 

一応デニスは中学校に通ってはいましたが、暗記ばかりの授業はデニスの想像力を塗りつぶすばかり。けれども学校行事のドラマや美術、それに歴史だけは別で、少年デニスはやる気を起こしていました。ところがそれ以外の教科はからっきしで、息子デニスに医者や弁護士といった社会の尊敬を集める仕事に就いてもらいたがっていた母にはあまりにも心外でした。そんな母や父の態度を感じて、少年デニスの心はどんどん両親から遠ざかっていくばかりでした。

 


14歳の時、弟の喘息の悪化で、

一家はカリフォルニアに移り住む


デニス14歳の時(1950年)、カリフォルニアのサンディエゴに移り住むことになります。しかし、これはまったくの偶然からでした。ホッパー家からすればその選択が最良だったのです。両親が今まで一度も訪れたことのないカリフォルニアに移り住む決意をした理由は、弟の喘息の発作が悪化したためで、掛り付けの医者が気候が温暖で、陽光が降り注ぐカリフォルニアへの移住を薦めたのです。

両親にとっても西海岸なら仕事も多く条件も良さそうで、子供たちの通う学校面でも選択肢が広がるという考えもありました。

 


デニスにとってもいつも見ていたあの陽が沈む地平線の向こう側、映画の都ハリウッドに近づけることを夢想してみれば行かない手はありません。デニスを乗せた車は、何度もガス・ステーションでガソリンを入れ、ガソリンを吸い込んで車は、どこまでものびるフリーウェイを疾走していきます。

少年デニスの人生もこのフリーウェイの疾走から転がりはじめたのです。もし、弟の喘息が悪化していなかったら、デニス・ホッパーカンザスシティのプールバーにいつまでも屯(たむろ)しつづけていたかもしれないのです。


デニスはグロスモントの中学校に編入し2年間過ごした後、ヘリックスの高等学校に入学します。デニスにとってついていたのは、中学・高校とどちらの学校にも優れた演劇部があったことでした。デニスは演劇部に所属し溌剌と活動します。

芝居をやっていない時は、海辺に出て、砂浜に何時間も座り、太平洋から打ち寄せる波の音を聞いていたといいます。少年デニスにとって、じつは海岸から見る本物の太平洋も、フリーウェイから見えたロッキー山脈も心に描いていた(マインド・イメージ)ものより小さかったというのです。遥か地平線しか見えない農場にいた頃、デニスが心に描いていたものはとてつもない海であり、山だったということです。

 

 

少年デニスの「マインド・イメージ」にあった想像上の海や山のサイズを、実際の海や山にサイズダウンしなくてはならなかったように、演劇の世界でも、他のことでも、少年デニスの「マインド・イメージ」は桁違いに大きく、豊かなものだったといえます。それは祖母と暮らした「オリジナル」の農場で培ったデニスのイマジネーションの豊穣さだったのです。


カリフォルニア州の演劇朗読コンテストで3度で優勝


少年デニスは、詩や独白の朗読で抜群の評価を受けます。高校時代、デニスはカリフォルニア州の演劇朗読コンテストで3度にわたって優勝するのです。高校の弁論部のチームにも刺激とイマジネーションを吹き込みます。

この頃、読書といえば覚え込む必要のある戯曲や詩だけでしたが、デニスの「マインド・イメージ」には、農場や映画館で収穫されたものが豊富にあり、戯曲や詩は少年デニスの「オリジナル」のイメージから生命を吹き込まれていたのです。このことが後に、旧弊な考えの映画監督と衝突することになっていきますが。


まだこの頃は両親はデニスを誇りにおもっています。タバコとビールを呷(あお)っていたカンザス時代からすればその変貌ぶりは驚かされるばかりでした。ただ瞳孔が異様に拡大している時があり、その様子に両親は気づいていませんでした。

 

 

瞳孔の異様拡大ーそれはマリファナからくる症状で、さらにはマリファナがもたらす喉の渇きを多量のビールで押さえようとしていたことからくる現象でした。デニスはシリアスに芝居ばかりやっていたわけでなく、とにかくパーティー好きで、教師の物真似は皆を爆笑させ、冗談はノンストップで繰り出されるのでした。

皆はデニスがハイになればなるほど盛り上がるので、デニスのピッチはあがりっぱなしでした。


デニスがエンターテインメントの世界を体感した最初は、アート・リンクレッターのタレント・ショウで、ヴェイチェル・リンゼイの詩「エイブラハム・リンカーン、真夜中に歩く」を朗読し喝采を浴びたことでした。少年デニスはその喝采に体中が興奮し、陶然とし、その喝采を何度も味わいたいと強くおもうようになります。

少年デニスは、シェイクスピアの戯曲が上演される本格的な劇場「オールド・グローブ」(サンディエゴにある)やラ・ジョラにある「ラ・ジョラ劇場」に足を向けだしました。そうした場所の雰囲気や匂いがたまらなくなり、そこでうたれている芝居を観ようと新聞配達や空き瓶の回収でチケットを買えるだけのお金を稼ぐようになります。

 


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サンディエゴの劇場「オールド・グローブ」のオーディションに合格。「あんたらの夢を実現するために生きるつもりはない」 


そしてついに少年デニスは劇場「オールド・グローブ」が催すオーディションに臨みました。そこでデニスは渡された台本を苦もなく読み、オーディションを突破しました。

演劇朗読コンテストで3度優勝した経験はだてではありません。しかしその興行は、クリスマスの時期限定の短期興行だったため、デニスは欲求不満になります。演技への欲求は募る一方です。

劇場「オールド・グローブ」でまたチャンスが巡ってきました。チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」のオーディションに合格し、腕白小僧の役で、デニスは俳優デビューするのです。


ところが両親は、そんなデニスを認めようとしませんでした。朗読コンテストでの優勝を喜んでいた両親が、芝居で身をたてようと考えるようになった途端、当惑しはじめたのです。「俳優なんかになってほしくないの。何か立派な仕事に就いてほしいの」という母。役者稼業は、母が息子に対して思い描く将来ではなかったのです。

 

 

何度両親と議論してもいつも返ってくるのは俳優業への警告でしかありませんでした。両親は、快楽を求めがちの人間にとって役者やショウビジネスは、人生を踏み外すためにあるようなものと感じていたのです。デニスは後年こう振り返っています。

「家での生活は悪夢だった。誰もがノイローゼになっていた。おれがクリエイティブなことをやりたいと言へば喚き出すんだ。クリエィティブな奴は、酒場で野垂れ死にするのがオチだと」
「あんたらの夢を実現するために生きるつもりはない」
  『デニス・ホッパーー狂気からの帰還』エレナ・ロドリゲス著/白夜書房

 

デニスは自分の夢を生き抜こうと行動を起こしました。サンディエゴ・コミュニティ・プレイヤーズ・シアターにアタックをかけます。デニスはここで端役ながら重要な役割をもらい演じはじめたのですが、両親との価値観の相違は埋まることはありませんでした。高校1年のある夏の日(16歳)、デニスは荷物をまとめ早朝に家を抜け出しました。向った先は、パサディナ劇場があるロサンジェルス郊外の町パサディナでした。

デニス・ホッパー(1):カンザスの小さな農場から

祖母が週一度連れていってくれた町の映画館。9歳の時、ガソリンを吸って「幻覚」を見る



はじめに:

デニス・ホッパーは、”アンディ・ウォーホル”より、マルチプルだ2010年春、前立腺癌の転移で74歳で死去した60'sカウンターカルチャーのヒーロー、デニス・ホッパー。しかしD.ホッパーをアルコールとドラッグ浸けで反体制的の破滅型シンボルと見立てると、D.ホッパーの本懐はまるでみえなくなります。

D.ホッパーは、およそアンディ・ウォーホルのようにマルチプル(多様にして複合的)な活動を展開してきたことはすでに広く知られていますが、D.ホッパーの「マインド・ツリー(心の樹)」そのものは、マルチプルな「コピー」だけのA.ウォーホルと異なり「オリジナル」と「コピー」と2本の樹が相対してあるようにおもえるのです。

 


映画『イージー・ライダー』や『ラストムービー』などを監督(出演)し、『地獄の黙示録』や『ブルー・ベルベッド』などで記憶に浸透する役を演じ、数々のインディペンデント映画に出演し、舞台に出、同時に、60'sの核心の写真を撮り、アート(抽象表現主義)作品を生み出しました。

役者なのにカメラをつねに持ち歩きアートに入れ込むD.ホッパーは8歳年上のA.ウォーホルをおおいに刺激し、アンダーグラウンド「映画」製作へ、そして著名人の肖像「写真」へと開眼させています。同時にハリウッド映画スターへの回路もD.ホッパーからもたらされました。

 

D.ホッパーもA.ウォーホルの初個展「Campbell's Soup Cans」をみていて(1962年)、ポップアートの胎動を西海岸の誰よりも早く認識し、カリフォルニアへ来るA.ウォーホルのために俳優たちを招いて歓迎パーティーを開いています。

 


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A.ウォーホルの初個展はニューヨークでなく、ロサンジェルスのフェラス画廊(Ferus Gallery)で催されるのです。その時、D.ホッパーはキャンベル・スープ缶の作品を$50で早々購入さえしています。それは60年代「アート」のグローバル・キャピタルだったニューヨークと、「映画」のグローバル・キャピタルだったハリウッドの「パーティ」でのめくるめく<交換会>でした。

A.ウォーホル初の監督作品『ターザンとジェーンの復活.....のようなもの』は、ハリウッドのホテルの一室で撮影され、そこにD.ホッパーも登場しているのです。D.ホッパーはニューヨークへ、A.ウォーホルはハリウッドへそれぞれ「カメラ」を手に乗り込み、お互いを撮りあったということになります。

 

 

D.ホッパーの「マインド・ツリー(心の樹)」のダブルイメージは、D.ホッパーがジェームズ・ディーン主演の映画『理由なき反抗』(1955)と『ジャイアンツ』(1956)に若者役で出演し、意気投合したジェームズ・ディーンから演技論や役者の有り様を吸収している際にも起こっていました。

 

D.ホッパーは、西海岸のアーティストたち、ブルース・コナー、ウォレス・バーマン、エドワード・ルシェ、エドワード・キーンホルツ、ジョージ・ハームス、ジョン・ティンゲリー、ニキ・ド・サンファール、ジョン・チェンバレンらと深く交流を持ち、自身数多くの作品を制作し(1955〜)、後の映画『イージー・ライダー』(1969)の映像編集は、その時に深く交わっていたブルース・コナーの実験映画から直接影響を受けたものでした。

 


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そして映画『ラストムービー』は、ホッパー自身が語るように、「絵画を使って絵を描いてきたように、映画を使って映画をつくった」もので、「オリジナル」と「コピー」の問題系を反映させたものでした(A.ウォーホルはその『ラストムービー』で使われた「写真」からホッパーの肖像を利用しオマージュを捧げている)。またそれはD.ホッパーの「心の樹」を反映させたものでもあったのです。

 

D.ホッパーのかかわったすべての領域は、「イマジネーション」の発露でした。ホッパーがニューヨークで学んだリー・ストラスバーグアクターズ・スタジオでは、感覚と感情のメモリーをあげて「イマジネーション」をはたらかせることを教えます。

それは役者個々人の「潜在意識」に到達させるための過程と方法でした。そこで深く演技論を学んだD.ホッパーも「潜在意識」に潜行していったはずです。

 

 

それでは一緒にD.ホッパーの「潜在意識」(一隅でしょうが)に向ってみましょう。それはD.ホッパーの大地に深く根ざしたような「マインド・ツリー(心の樹)」の太い樹幹と根っ子、そしてその土壌が培ったものでもありました。同時にこの作業は、D.ホッパーの「潜在意識」が「ミラー(鏡)」となって、その後に私たちが私たち自身の「潜在意識」に向うための一つの準備でもあるのです。

それを迎えた私たちは、自身の”根っ子”と”樹幹”を再認識(再発見)した、新たな「イマジネーション」を放ちはじめるのですから。それぞれの「セカンド・ライフ」、そして「ラスト・ライフ」に向って.....

 

カンザス州の大草原地帯の祖母が所有する

小さな農場に生まれる


デニス・ホッパーは、1936年5月17日、アメリカ・カンザス州、大平原が広がるダッジ・シティ郊外の農場で生まれています。そこは祖母の12エーカー(1エイカーは、10m×10m)の農場でした。

その農場の周囲は、境目がないように果てしなく麦畑がひろがっていました。まさにジェームズ・ディーンが演じた映画『ジャイアンツ』に写された広大な大平原地帯(グレートプレーンズ)そのものです(映画の舞台はカンザス州の南方に位置するテキサス州ですが、グレートプレーンズであることは変わりません)。


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そしてこの映画『ジャイアンツ』に、20歳のD.ホッパーはロック・ハドソンエリザベス・テイラー扮する大牧場主の息子として出演しているのです。またジェームズ・ディーンが一躍スターになった映画『理由なき反抗』にも端役でしたが出演し、デニスは5歳年上のジェームズ・ディーンと友人になっていました。

デニスはジェームズ・ディーンから俳優の香りとエッセンスを学びます。しかしジェームズ・ディーンは映画『ジャイアンツ』が公開される前に自動車事故で24歳で亡くなります。


映画『ジャイアンツ』でD.ホッパー演じる息子の父が所有する牧場の広さは59万エーカーと設定されていますが、D.ホッパーの祖母が持っていた農場の12エーカーがどれほどのものかがわかろうというものです。

 

 

いっけん大草原にある大農場で生まれた悠々しい気質、始原の生命力に溢れるデニス・ホッパーとなりがちですが、地平線に広がるのは当然どこかの身も知らずの大農場主の土地で、D.ホッパーの祖母の土地はすぐ目のとどく所までしかなかったのです。そのため祖母の夫(祖父)は、100キロ離れた小麦の大農園に働きにでることが多かったのです。


が、このグレートプレーンズの壮大さは、幼いデニスに空想に耽る必要を与えたようです。あまりの広大な土地柄ゆえ、周囲には家もほとんどなくデニスには友達といえる存在は、祖母だけだったのです。

そのためかちょっとした出来事や情報が、デニスの「マインド・ツリー(心の樹)」のなかで無限に大きくなっていき、自由奔放なイマジネーションを生み出すようになるのです。地平線の彼方から「想像上の」軍勢が攻めてきたら闘うしかない、と干し草の上で格闘の真似事をしてみたり、といった具合でした。


デニス・ホッパー(2)へ続く:

種田山頭火(2):一家の不幸は母の自殺からはじまった

父の遊蕩三昧、女遊びで、母はノイローゼに

 


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種田山頭火(1)から:
家は三代で一変するといわれますが、まさに種田家の場合、祖父・治郎衛門から孫の山頭火の三代で、大地主からものの見事に無一文となります。漂泊の俳人種田山頭火の句は、この「種田家」の事情を知ることなしに知りえることはありませんし、

種田山頭火の「マインド・ツリー(心の樹)」もまた、11歳の春まで、宮市のこの土地に深く”根”を張っていたのでした(家の一大事で、後に山頭火の心身は根こそぎ東京に移されたかのようでしたが、神経衰弱に陥った山頭火は、再びその”根”を郷土に下ろすことになる)。

 


いったい「大種田」の家に何が起こったのか。

 

まず祖父・治郎衛門が早死に、父の種田竹治郎がわずか16歳の時に莫大な家督を相続しています。役場の助役に就いていた頃には、すでに地元・宮市の料亭・五雲閣に入り浸りはじめ(地主たちの社交場だった)、上客の遊蕩三昧、女遊びが派手になっていったのです。

美人の妻をもらっても女遊びは止まることなく、妾(めかけ)を2、3人いつもかかえていたといいます(竹治郎は24歳の時、20歳の清水フサと結婚。長女フク、「山頭火」となる長男・正一、その後に3人の子をもうけている)。

 

 

田地永代売買の禁が解かれ、地租改正もおこなわれ、地主は地租を現金で納めなくてはならなくなるなど、地主にとっても波乱含みの時代でしたが、いったん火がついた父の遊蕩三昧、女遊びは止むどころか、仕事を通じて政友会(伊藤博文が1900年に組織)と縁ができ魑魅魍魎の政治に手をだし、家計に飛び火するようになります。

竹治郎が選挙運動に奔走しだすと、料亭の勘定も莫大になり、妾問題に加え家計も乱れ、妻フサは絶えきれずついにノイローゼに。種田家は負のスパイラルに突入します。そんな妻フサをさらに疎んじ、竹治郎は家に寄り付かなくなっていったのです。


「一家の不幸は母の自殺からはじまった」


少年山頭火、11歳の春の時のことです。少年山頭火は一生涯、脳裏から決して離れることのない「光景」を見てしまったのです。

それは井戸に身を投げて自殺した母の姿でした。井戸から土間へと引き上げられた母の姿。親戚の者が引き離すまで少年山頭火は泣きじゃくってすがりついていました。母の突然の死後、少年山頭火の「心の樹」は、”根っ子”がざっくり切断されたような感じになったにちがいありません。

少年山頭火は学校を欠席するようになります。小学校時代を通じ、平均すると3日に1日も学校を休んでいますが、母の自殺以降にかなりまとまった日数、学校を休んでいたようです。

 


50歳を過ぎた時、山頭火は自叙伝を書くならば、「一家の不幸は母の自殺からはじまる」と冒頭に書かかなくてはならない、と語っています(現実に自叙伝が書かれることはなかった)。突然の嫁の死で、5人の子供の世話をまかされた祖母のツルは、「業やれ、業やれ」と口癖のように言っていたのを少年山頭火は聞いています。

 

それは悲しいあきらめの気持ちを意味するものでした。一番下の子はまだ3歳で、翌年、山頭火の弟が養嗣子(ようしし)に出され、そのまた翌年には末弟が5歳で亡くなっています。母と弟たちとの相次ぐ別離、少年山頭火を、人間存在の哀しみで満たし、その哀しみは少年の心の内奥に深く深く折り重なっていったのです。

種田家が哀しみのなか崩れようとしているのに、父・竹治郎の遊蕩生活はなんら変わることはなく、あまっさえ一人の妾を家に引き入れるのです。

 


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中学時代、俳句に熱中。「文芸同人雑誌」を発行
母の死から3年後、14歳になった少年山頭火は、私立周陽学舎(当時は中学校。現在は周防高校となっている)に入学(明治29年)。成績はつねに上位にあったといいます。

そしてこの中学時代に、少年山頭火は「俳句」に熱中しはじめ、学友たちと「文芸同人雑誌」を発行しはじめるのです。それは俳句を詠む仲間たちがそれぞれ持ち寄った原稿を綴じたもので、一種の回覧雑誌でした。少年山頭火の「俳句」づくりは中学時代にかなり本格化しはじめていたようです。



 

 

周陽学舎を首席で卒業した山頭火は、山口県下随一の名門校・山口尋常中学に編入することになります。この名門中学は、後に総理大臣となる岸信介佐藤栄作兄弟や安部晋太郎を輩出しただけでなく、山頭火が入学する10年余前には国木田独歩(千葉県生まれだが、司法省の役人だった父の度重なる転任で山口にも住んでいた)が、また25歳年後には詩人中原中也も学んでいます(ホンダF1の初代監督・中村良夫や、『定年ゴジラ』や『ビタミンF』の作家重松清も出身者)。

編入者だった少年山頭火は大人しくしているだけで、学友たちとあまり交わることができず、週末になると学校のある山口市から実家までいつも帰っていました。

このことからも少年山頭火の心は、いまだ郷土の辺りを巡っていたようです。山頭火は故郷に、切断された「心の樹」、失われた「幻肢」のいうなものを感じていたのかもしれません。

 


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最終学年の時でした。少年山頭火は学校のある山口市内の永楽座で、「国民教育論」と題された演説会を聞いています。

それは早稲田大学の初代学長になる高田早苗(さなえ)の演説会でした(文部省告示で明治35年に大学部が開設されることに。高田早苗は大学設立の基金を募るために各地を回っていた)。

この演説会が、少年山頭火の方向定まらなかった「心の樹」を鼓舞したのです。”偉い人”になれという、幼少期から山頭火の心の裡に埋め込まれた教訓と方向が一つになったのです。

 

 


そして少年山頭火が中学を卒業した春に、父・竹治郎が、妾と入籍しています(妾は、母フサが亡くなった後に種田家で生活していたという。この妾以外にも家を一軒買い与えていた別の女性がいた)。

その入籍は、生まれた女児を私生児にしないためのもので、少年山頭火の父への嫌悪を決定的なものにしました。種田家内部に「新たな家族」が生まれてしまったのです。父から、そして「家」から離れるしかありません。少年山頭火は上京を決意します。


・参考書籍:『山頭火&#8212;漂泊の生涯』(村上護著 春陽堂)/『種田山頭火』(新潮日本文学アルバム)/『山頭火&#8212;徹底追跡』(志村有弘編 勉誠出版)/『種田山頭火&#8212;行乞記』(作家の自伝35 日本図書センター)ほか</span>

 

 

 

種田山頭火(1)::季題も定型もない「自由律俳句」の訳

山口・防府の大地主だった種田家。父の遊蕩三昧、女遊びで、母はノイローゼになり自殺。中学時代、俳句に熱中、「文芸同人雑誌」を発行

 


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はじめに:

郷土からもがれた”根っ子”。

型破りの俳句を生みつづけた「漂泊の生涯」


俳人種田山頭火には、「漂泊の生涯」という表現がよくついてまわります。わずかながら聞いた覚えもある「分け入っても分け入っても青い山」や「後ろ姿のしぐれてゆくか」といった季語も定型もない俳句は、どんな「漂泊」の人生から生まれたのか。そのじつ山頭火の生き様は、日本中を「漂泊」していたという以外、ほとんど知らないままでした(少なくとも私自身)。

じつは「マインド・ツリー(心の樹)」をつくりだしていく作業の一つは、こうしたなぜか知っているようでいて、どうやらまったく知らなかった(つまり「作品」の上でしか知らない)人物たちに近接していくことにあります。

 

 

同時に、気になった人物(それぞれに言葉にはしえないような何らかの理由がある)の内面世界を、とくに「幼少期」の体験や環境を知ることは、単なる作品理解、人物理解を超えて、”自分”という存在への「謎」に跳ね返ってくるはずです。

地球上の誰かが、「鏡」になってくれ、”自分”への<問い>を激励し促してくれるのです。

 

種田山頭火は、「定住」するしかなくなった私たち「昭和・平成人」が封印してしまったような、”漂泊する人生”を想起させてくれます。

 

かつて映画『男はつらいよ』の”フーテンの寅さん”に皆がそれぞれに映し出していた熱い心も、その一端だったにちがいありません。

ちなみに故渥美清さんは、人に見せなかった私生活では、種田山頭火や尾崎放哉らの俳句もよく詠んでいて、自身も熱烈な「俳人」(俳号は「風天」)だったといいます(渥美清演じる種田山頭火のドキュメンタリーが企画されたことがあったが、最終段階で企画は不成立)


当初、山頭火は五七五調の定型の俳句を詠っていましたが、31歳の時、萩原井泉水に師事し、季題も定型もない「自由律俳句」を開始しています。

 

 

34歳の時に種田家は破産し、山頭火は妻子とともに熊本に至り、古本屋「雅楽多;ガラクタ」を開業しています。弟と父の自殺、妻との離婚。個人雑誌『郷土』を創刊していた山頭火の「心の樹」の”根っ子”は郷土からもがれていきます。

客観的写生をしていた俳句が、内面の実感を重んじる「自由律」に突きすすんだのも、故郷からもがれるようにして漂泊しはじめた山頭火の「心の樹」そのもののあらわれだったのです。


漂泊中、山頭火が僧衣に頭陀袋をさげた雲水姿をしていたのは一応曹洞宗に属していたからでしたが、実際には限りなく「フリー」に近い雲水だったといいます。


最初の自選句集『草木塔』の頭には、次の句がありました。


「松はみな枝垂れて南無観世音」

 

 

それでは、「行乞(ぎょうこつ)流転」の旅を続け、酒をあびつつ型破りの俳句を詠みつづけた俳人山頭火の”根源”へと辿ってみましょう。

30代半ばまでこだわった「郷土」には何があったのか、山頭火は何を体験し、何を内面に映し出していたのでしょう。

1キロ先の駅まで自分の土地を歩いていけた大地主の種田家


種田山頭火(本名:種田正一)は、明治15年(1882年)12月3日、山口県佐波郡西佐波令村(現・防府市八王子)に生まれています。

佐波郡山口県南部に位置し、西に佐波川が流れ、南方からは周防灘(瀬戸内海)の潮の香が漂ってくる長閑な土地でした(現在は、三陽本線と三陽自動車道にはさまれたエリア)。

 


www.youtube.com 周防灘展望。防府市八王子からとは別のアングル

 

生家のすぐ裏手には、「日本三大天神」の防府天満宮(最も古い天満宮。他は太宰府天満宮と京都の北野天満宮)がありますが、学問の神様となる菅原道真が九州へ流転する手前の宿泊の地でした。

 

後に山頭火は、九州に至り(34歳)、一時「古本屋」(後に額縁店)を営んだことがありましたが、おそらくは防府天満宮と地続きだった(住所は同じ宮市)大地主の許に生まれた山頭火の脳裏に、九州に流された学問の神様・菅原道真公のことが薄くとも潜在していたにちがいありません。

 


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生家の種田家は、8百坪の土地持ちの庄屋で「大種田」と呼ばれていました。

防府天満宮とは逆の南方にあった三田尻駅までの1キロ余を他人の土地を踏まずに行けたといわれます。広い土地には、大きな母屋に土蔵、納屋が軒を連ね、あちこちに黒松などの大樹が茂っていたといいます。

 

種田山頭火(2)に続く:


・参考書籍:『山頭火&#8212;漂泊の生涯』(村上護著 春陽堂)/『種田山頭火』(新潮日本文学アルバム)/『山頭火;徹底追跡』(志村有弘編 勉誠出版)/『種田山頭火;行乞記』(作家の自伝35 日本図書センター)ほか

 

 

スタンリー・キューブリック(3): 取り憑かれる気質


スタンリー・キューブリック: 取り憑かれる気質と「カメラの動き」


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スタンリー・キューブリック2)から:


エイゼンシュテインの映画理論と撮影技術との出会い

 

「ルック」誌(オフィスは五番街にあった)の編集部は、夜間学校へ通い励むキューブリックを見込み、日中できる仕事を依頼します。キューブリックは編集助手として戸外で必要な写真を撮影するようになりました。こうして写真について実践的なことを多く学んでいたキューブリックに、第二の「映画」との出会いが。

写真部のテクニカル・ディレクターだったアーサー・ロスタインが滅法映画が好きで、ロスタインは若きキューブリックに収集していた映画の本を貸し与えました。そのなかにセルゲイ・エイゼンシュテインの映画理論と撮影技術に関する書籍があったのです。

 

 


キューブリックの映画への思いは、理論と撮影技術の知識に裏打ちされ、映画製作は「マインド・イメージ」に完全に映し込まれるようになります。仕事でペアを組んでいたスコロートに自分は将来映画を製作をすると打ち明けていたことからもそれはわかります。

その時スコロートはキューブリックは映画監督をするようなタイプではないと感じ、あまり気にもしなかったと後に打ち明けています。キューブリックは、物静かで、体つきも細く、オーソン・ウェルズジョン・フォードといったハリウッド映画の監督のイメージとはあまりにもかけ離れていたためでした。

グラフ・ジャーナリズムの世界ですら、キューブリックは大人しすぎ、謙虚にすぎるとおもわれていて、そんな青年がどのように映画の道を切り開いていくのか、誰にも予感できなかったにちがいありません。ほどなくするとキューブリックの映画への夢は「ルック」誌のスタッフに知れ渡っていました。

 


その一方、キューブリックは長年憧れていた飛行への夢を実現するため、自家用飛行操縦士免許を取得しています(19歳)。キューブリックはこうだと照準を決めたら持続的、継続的にやり抜いていく資質をもっていることは、この免許取得の一件からも推測できます。同じように、キューブリックは「ルック」誌の給料の一部を映画製作の資金にしようと貯金しもしています。


「取り憑かれる気質」


キューブリックには何かに「取り憑かれる気質」があるようです。映画「アレクサンドル・ネフスキー」(1938製作)を見た時、あるシーンで流されていたプロコフィエフの音楽の虜になり、サウンドトラックを買ったことがありました。

キューブリックは一日何十回と、同じ曲をかけ続け、ついに妹のバーバラが怒り狂ってしまったことがあります。実際、バーバラは我慢ならずそのレコードを壊しています。また古典文学作品の筋書きを寄せ集めた本をいつも持ち歩いていた時なども、ドストエフスキーに取り憑かれ、ブロードウェイで行き交う人に唐突に「ドストエフスキーをどう思う?」と少し狂ってるほどの感じで喋りかけていたそうです。

 


22歳(1950年)の時、キューブリックは「ルック」誌のフォトジャーナリストを”卒業”します。キューブリックは、ニューヨーク芸術映画専門の映画館やニューヨーク近代美術館MoMA)の映画上映会、実験映画を上映するシネマ16などを絶えず訪れ映画を観ています。この頃、映画製作のための教育機関はまだ設立されておらず、映画プロダクションが東海岸のニューヨークに本拠地を置くこともまだほとんどない頃でした。しかし、キューブリックが映画製作者になろうという夢はゆるぎませんでした。キューブリックは独学で映画製作を学ぼうと決心しています。


「映画カメラマン」からスタート


キューブリックは高校時代にハーマン先生から共に映画を教えられたシンガーと、映画製作にむけて共闘することになります。その頃シンガーは、ニュース映画「ザ・マーチ・オブ・タイム」を製作するタイム社で雑用係として働きはじめていました。

シンガーに刺激を受けつつキューブリック、2人で「短編映画」をつくりはじめます。役割分担はシンガーが監督で、キューブリックが映画カメラマンでした。写真撮影の技術をもち、映画カメラのノウハウを得ていたキューブリックは、映画監督ではなく「映画カメラマン」からスタートしたのです。

 


この頃、キューブリックの夢は、「映画製作」であって、「映画監督」ではなかったのです。「映画監督」が、撮影の指示を出し、編集作業もし、映画に対して全権をもつことができるとわかったのは、すべてシンガーを通して、シンガーが「役割モデル」となり、触媒となったからでした。そこではじめてキューブリックは、自分がめざそうとしているのが「映画監督」だということを認識したのです。


あてがはずれたスポーツ短篇映画


ニュース映画会社に勤めていたシンガーが、映画製作コストについて調べあげると、キューブリックは同レベルのニュース映画をかなり安く製作できる感触をつかみます。

キューブリックは、「ルック」誌時代に取材したミドル級ボクサーのヴィンセント兄弟の日常と試合直前の表情を撮ったスポーツ短篇映画「試合の日」を製作しました。

35ミリのモノクロ・フィルムを100フィート撮影できるカメラのアイモを使用したキューブリックは監督、カメラマン、編集者、音響担当とすべてをこなしました。音楽は近所に住む高校の友人で、ジュリアード音楽院の学生ジェラルドに依頼、19人ものミュージシャンが参加しスタジオ録音をしています。

 

 

ナレーションにはCBSのベテラン・ニュースキャスターを起用する念のいれようでした。それもこれも数万ドルは稼ぎだせるとはじいたキューブリックの読みがあったからです。

ところがまったくあてが外れてしまったのです。スポーツ短篇映画はこの当時まだ売買の埒外で、滑稽なボードビルの企画ものしか売れない時代だったのです。


しかし、1951年(23歳の時)、RKOが「これがアメリカだ」のシリーズの1篇として、「試合の日」をニューヨークの有名なパラマウント劇場にかけました。同時上映されたのはロバート・ミッチャム主演の新作映画「禁じられた過去」でした。

こうしてキューブリックは映画の世界に身を投じていきました。数万ドルの稼ぎは夢のままに終わったものの、この第一歩がなくては、キューブリックの映画監督としての将来もまたなかったはずです。

 


若き映画プロデューサーとのタッグ


そんなキューブリックの才能をプロデュースする人物があらわれます。ただまだこの頃には、その人物は、朝鮮戦争で、写真部隊に所属していました。朝鮮戦争に通信隊に配属されていたシンガーが出会ったジェームズ・ハリスという若者でした。シンガーとハリスは一緒に軍事訓練用の映画をつくったり、余暇には15分ものの探偵映画をつくっていました。ある時、シンガーがキューブリックの存在と才能をハリスに話しました。

 

 

写真部隊に派遣される前に、ハリスは兄弟や仲間たちと映画とテレビを配給するフラミンゴ・フィルムズという小さなベンチャー会社を立ち上げていました。退役後、ハリスはキューブリックの作品を観て、その才能と洞察力に惚れ込みます。ハリスはキューブリックにチームを組もうと提案。キューブリックが映画監督として、そしてハリスがプロデューサーとして。キューブリックとハリスはお互いの共通点を認識します。

 

ともに獅子座で、野心に溢れ、度胸を持ち、自信家で、成功への強い意志をもっていることでした。そしてここに「ハリス=キューブリック映画会社」が誕生しました。シンガーは共同製作者としてかかわっていきます。

美術監督は、キューブリック(すでに結婚していた)の妻ルースが担当していきます。ルースはカーネギー工科大学で舞台美術を学び、ニューヨーク・シティ・バレエ団など、劇やバレエの舞台デザイナーとして活動していました。


魅了された「カメラの動き」

 

 


少年期からキューブリックが「写真」に好奇心を抱いたこと、そして高校時代に美術教師から「映画」への関心を呼び起こされたこと、この両者に共通しているのは人間の目ではなく、「カメラ」の目がとらえた世界、「技術的可能世界」への関心でした。

キューブリックは、脚本よりも(当初から「本」を探すのはプロデューサーのハリスの役割だった)、「カメラ」の動きや、新しい「装置」を考えだすことに関心を注ぎ、取り憑かれていきます。

空中の中をあたかも浮遊するような、滑走するような視線、優雅でなめらかな映像を実現するために、リールを初めて使用したカメラを用いたのもキューブリックでした。キューブリックが、つねに魅了されたのは「カメラの動き」だったのです。

それは映画撮影の革命となっていきました。少年時代にキューブリック少年を虜にしたのも、写真撮影に付帯していた「カメラの動き」だったのかもしれません。

 

・参照文献『映画監督スタンリー・キューブリック晶文社 ヴィンセント・ロブロット著(浜野保樹・櫻井英里子訳)

 

 

スタンリー・キューブリック(2): 美術教師が伝えた映画の可能性

人との交流は苦手だが、人の演技の撮影には深い関心


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スタンリー・キューブリック(1)から

いつも35ミリ・カメラを首からぶらさげていた

キューブリックは中学校の成績にみあった地元の公立高校のウィリアム・ハワード・タフト校に進学します。中学校で成績のよい生徒たちはブロンクス科学高校に通いますが、キューブリックの成績では無理でした。しかしこのタフト校で、キューブリックは思う存分、写真の世界を追求し、また「映画」への関心もふくらませました。


タフト校に入学するとキューブリックは写真部に所属します。キャンパスではキューブリックはどんな時でも35ミリ・カメラを首からぶら下げていました。写真部員はバスケットの試合や演劇などの学校行事を撮影する任務が課され、キューブリックの撮った写真も校内新聞や雑誌に掲載されました。

しかし校内での撮影では天候に関係なくいつもレインコートを着ていて変な奴とおもわれはじめます。ふつう写真部員がカメラを首からぶら下げていても、学生たちはそれほど気にもとめないはずです。新聞部員がキャンパスのイベントを取材したり放送部員が校内放送をするのと変わらないはずです。

 

 

が、いち写真部員だったキューブリックは変わり者にみえた。どうしてか。おそらくその服装や性格だけでなく、スポーツの試合などの学校行事での撮影とは無関係に、校内でもこれぞとおもう”決定的瞬間”を絶えず狙っていたからにちがいありません。


キューブリックは再び出席率が悪くなり成績も急降下していきました。学校側はキューブリックを社交性を欠く風変わりな劣等生として、両親にことの事態を通知しています。型通りの教育システムでは、ほとんどの場合、芸術的な非凡な才能は、変わり者の烙印を押されるだけ、という症例がここにもあらわれました。


太平洋戦争末期、ルーズヴェルト大統領死去を報じる「写真」を売る


キューブリックはタフト校の写真部の一員として高校生活を取り続けています。写真部の任務の一つはチアリーダーたちの写真を撮ることでした。キューブリックチアリーダーたちを撮影して現像し焼き付け、を自分の名前を押して彼女たちに渡しています。 

 

 

キューブリックは「Stanley Kubrick Photo NY Shakespear Avenue 1414」というゴム印のスタンプをつくって自分の撮った写真に押していました(キューブリックがリスペクトするウィージーも「Weegee Photo」とスタンプを押しています)。それはプロ・カメラマンであることの証だったのです。17歳にしてすでに「ルック」誌に写真を掲載されるプロのカメラマンとして活動しはじめていたキューブリックにとって、写真は学内で名を売り評価をあげる行為でも、趣味でも課外活動でもありませんでした。


キューブリックの写真を「ルック」誌に掲載されるきっかけになったのは太平洋戦争末期のルーズヴェルト大統領死去の時でした。それは後にクリント・イーストウッドが映画化した硫黄島の戦いで、摺鉢山に星条旗が翻った翌月(1945年4月)のことですから今からおもえばかなり前のことです。

その頃に、映像作家キューブリックの着実な第一歩が刻まれていたのです。キューブリックがいつもの新聞スタンドの前を通り、ふと視線を向けると、新聞がルーズヴェルト大統領の死去を報じていました。その衝撃的な大文字のタイトルと新聞売りのおじさんの表情が、キューブリックのインスピレーションを捉えたとのです。

 

 

シャッターを切ったキューブリックはすぐに暗室に駆けつけ、現像し焼き付け、”決定的瞬間”を押さえた写真を売り込みます。「ニューヨーク・デイリー・ニュース」の購入の申し出を断り、天秤にかけつつ、5ドル高く値をつけた「LOOK」誌に25ドルで売りました。実際、同誌の次号に大きくフィーチャーされました。

これ以降キューブリックの運命がどんどんフォーカスされていくことになります。

 

人との交流は苦手だが、人の演技の撮影には深い関心


キューブリックの写真への情熱は、タフト校の教育的基準の枠外でした。ほとんどの教師から、本来の能力にみあった行動もできず努力も足りない、さえない生徒と判断されていました。しかし、キューブリックの才能に気づいた教師が2人いました。

2人ともキューブリックの「写真」を通じて見抜いたのです。1人は国語教師のアーロン・トライスターで、「教えることは演じることだ」という信念をもっていた彼は、シェイクスピアなどの文学作品の全登場人物を一人で演じわけながらまさに教室を舞台に”上演”していました。キューブリックはその迫真の演技を、撮りたいと感じました。

 

 

そしてその写真は1946年4月の「LOOK」誌に、4枚の組写真となって「教師、『ハムレット」大熱演」という大きな見出しで掲載されました。これは当時のフォト・ジャーナリズムでよく用いられるようになった「組写真」の方法ですが、それよりも人との交流は苦手のキューブリックが、目の前で演じてる人を撮影することに深い関心を示し、適格な構成力と判断で仕事に持ち込めることを証したことの重要性です。

同時に、将来の映画の撮影に対応できる能力を示すものでもありました。教師アーロンは実際、キャンパス外では俳優業もしており、教室内であれ本格的な生の演技を撮影できたことは、キューブリックにとって大きな糧となり自身となったはずです。


美術教師が伝えた映画の可能性


2人目はアート・プログラムの教師ハーマン・ゲッターです。ハーマンは授業ではセザンヌピカソなどの作品や美術の歴史を教えていましたが、壁画家でもあり映画製作もしていたハーマンには、発明からまだ半世紀しかたっていない「映画」の可能性に気づいていました。

 

そして写真に興味をもつ者ならば、映画にも関心を向けるはずだと、キューブリックと芸術を専攻していたアレグザンダー・シンガーに映画撮影術を学ぶことをすすめたのです。

キューブリックは独自に映画について研究しはじめました。合成を試みたり、照明やレンズをいじったり、グラフレックス・カメラの構造を調べだしました。

 


授業に出る代わりに映画館に通った


そしてキューブリックは授業に出る代わりに映画館に向うようになります。2つの映画館で上演する週に2回ある2本立ての映画を観るためには授業に毎日出るわけにはいきません。都合、週8本もの映画をかなり継続的に観ていたことになります。

この時代のティーンエイジャーは、映画館によく行く方で、それでも週一回土曜日に映画を観てのがふつうだったので、キューブリックがいかに異常なほど映画を観ていたかわかります。

 

しかも漫然と観ているのではなく、映画を構成するすべての要素に目を向け、自分が映画を製作する様子をイメージしながら観ていたといいます。まさに「マインド・イメージ」のトレーニングです。そして映画館にかかる映画よりもましなもの(はるかにましなもの)を自分なら撮れるという確信を覚えながら観ていたといいます。

「スターやジャンルの好みで映画を見ることはなかった。すべてを観てすべてを学んだのだ」と後年語っています。

 


キューブリックは美術教師ハーマンに映画について話すようになります。その斬新なアイデアにハーマンは驚き、直感します。「この子は映画撮影のピカソだ」と。キューブリックはすでにこの時、自身が映し出す映像を「マインド・イメージ」としてもっていました。

そしてキューブリックの「心の樹」の一番の太い幹は、まるで何枚もの写真がシークエンシャルなロール・フィルムとなって「映画」のようにイメージが動きだすように、一気に伸びあがっていくのでした。


キューブリックの高校時代の成績は卒業時、全生徒509人中414番でしたが、キューブリックにとっては何の意味ももたない順位でした。ところがその成績証明書をニューヨーク大学へ送付したのは、太平洋戦争がすでに終結した1945年11月で、発動され復員兵援護法のもと、膨大な帰還兵が大学に入学する時期と重なってしまいました。

結果、希望するニューヨーク大学にすすむことはできず、キューブリックニューヨーク市立大学夜間学校へ入学します。

 

スタンリー・キューブリック(3)に続く: