伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

立花隆(2):読書好きになった環境


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立花隆(1)の続き:
立花隆は自身の若い頃からの放浪癖は、伯父(4人兄弟だった父の一番上の兄)の血筋を引いたのではないかと語っていますが、その伯父は最後には東京・三谷に辿りつき居着いています(隆志少年は”三谷のおじさん”と呼んでいた)。

その後、父は全国出版協会の事務局に入り、機関紙「全国出版新聞」の編集長になっています(後の「読書タイムズ」になっても編集長続ける)。その後「読書新聞」と合併し「週間読書人」になった際に父は営業畑の専務へ。その一方、父は女学校の教師をしていた時分からずっと小説を書いていたといいます。小説家志望でした(隆志も大学時代、小説家にならんと志していた)。

 

母は、羽仁もと子(日本人初の女性ジャーナリストで、東京・目白にある自由学園フランク・ロイド・ライト設計、「婦人之友」誌を創刊。また教会に属さない無教会のクリスチャンでもあった)の信奉者、クリスチャンでした(父も活水学園の教師になるため信仰をもつ必要からクリスチャンに)。橘家にとっては良妻賢母の鑑であり、水戸の女性たちの間では、「友之会」のボス的存在でもあったといいます。

 

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「まず僕が読書を好きになったのは、環境の影響が大きいと思う。僕の父も母も文科系の人で文学を好んでいるし、それに加えて父の仕事が出版関係なので、自然に僕も本に多く接するようになった。

また良く家で父母が文学の話をすることがあるが、僕には良く解らない事が多く、何かとり残されたような気がしてつまらない。

そこで僕も本を読んでそれに関する知識を得ようという気が起こって来た。というようなことが、僕が読書をするようになった最大の理由と思われる」(『ぼくはこんな本を読んできた』文春文庫.p171)

 

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隆志少年が意識的に「読書」をしはじめたのは小学校3年の時のことだったといいますが、小学校入学前には「童話」に夢中になっています。


グリム童話アンデルセンイソップ物語アラビアンナイト小川未明坪田譲治で、小学校入学して以降は、『トム・ソーヤの冒険』や『ロビンソンクルーソー』『アンクルトムの小屋』『宝島』『ピノキオ』など童話から読み物へすでに移っていました。

 

手にとった本はすべて家にあったものでした。小学校3年の時にあった変化は、家の内外にその要因がありました。まず家の内では、全集に手をつけだしています。『山本有三全集』でした(『志賀直哉全集』も読んだが面白くなかったという)。

家の外とは、近所の人に江戸川乱歩の探偵小説を見せてもらったことで、それ以来、探偵小説から冒険小説、推理小説怪奇小説、捕物帳などに病み付きになっていったのです。

ただその類のものは家になく貸本屋や友だちから借りたり、本屋で「立ち読み」するのが常でした。貸本屋では吉川英治の全集『太閤記』と『三国志』も借りて読んでいます(『三国志』のスケールの大きさに魅了される)。

 

驚くのは本屋での「立ち読み」で、日曜日には午前中から水戸の川又書店に入り浸り、1、2冊読んだり、夕方までねばれば4、5冊読むこともあったといいます。
『ぼくはこんな本を読んできた』(文春文庫)を見れば、『西遊記』から『フランダースの犬』『不思議の国のアリス』にシェイクスピア全集など次々に手をだしていっています。難しい箇所はそのままにしてとにかく最後まで読んでいったといいます(シェイクスピア全集などはとくに悲劇的結末に衝撃を受けたという)。夏目漱石の『坊ちゃん』や『我が輩は猫である』は親戚の家で読んだという。

そしてその1年後の小学4年になり隆志少年の「読書空間」は一気に拡大するのです。それは「図書館」を知ったからでした。この「図書館」で隆志少年は初めて理系の本と出会います。大作の『キュリー夫人伝』でした(娘のエーヴ・キュリー著)。

 

この1冊こそ隆志少年が将来にわたって「科学」に興味をもたせた確かな嚆矢の一つでした。それがきっかけとなり大人向けの『現代科学物語』(2巻本:竹内均著)を読み出し、小学生時代の読書体験の中でもっとも強烈な印象を受けた本になるのでした。物質を細分していくと原子になる、そのことを知った隆志少年は仰天したといいます。

 

この『現代科学物語』と同様、『ぼくはこんな本を読んできた』には出て来ない話ですが、『キュリー夫人伝』や『現代科学物語』に関心を持つ最初のきっかけはどうも小学校低学年の時に読んだ『エジソン伝』だったようです。『立花隆のすべて』に、立ち読みばかりしていた自分がどうしても買って欲しいとねだった本だったという話がでてくるからです。


『ぼくはこんな本を読んできた』だけを参照すると、上述の様にヴォリュームも内容も濃い『キュリー夫人伝』がきっかけで理系の世界の扉が初めて開かれた様に描かれていますが、やはり小学生が突如、理科系の大作や大人向け科学読本に手をのばすことはなかったわけです。

しかも『子供の科学』誌を定期購読していて当時の定番ではあるものの「鉱石ラジオ」や「手製の望遠鏡」づくりにも熱中していたようです。

 

そうした知的好奇心に、大部の『キュリー夫人伝』や大人向けの『現代科学物語』が接続されていったとみるのがふつうでしょう。この理科系への関心は、家庭環境に理科系への関心を伸ばす要因はほとんどなかったことから、積み重ねられた「読書」体験こそが、その土壌となったようです。高校一年までは理科系へ行くつもりでいたというのも、その読書体験の強烈さゆえでした。しかしこの後に、隆志少年に思わぬことが起こるのです。

 

 

 

尾崎豊(3):母の気象・気質が受け継がれた

母の気象・気質・性格は、兄よりも弟・豊に受け継がれたようです。尾崎豊の「心の樹」は、尾崎ファミリーそれぞれと強く重なりながらも、とくに母親と最も深く重なっていたとおもわれます。母の死後4カ月後に尾崎豊が突然不慮の死を遂げたのも母の死と決して無縁ではないと父や兄は考えているようです。


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尾崎豊(2)の続き:

9歳にしてのこの悟り感はどうだろう(別人格なのではというほどの)。自分を突き放し客観的に自身をみているだけでなく、このわずか1カ月後に、「希望」と記していた「尺八の先生」と「躰道の先生」と「自衛隊の三番隊長」は、「希望と言うことにしている」と本音を露にしているう希望が実際にあった。父にそうした物件を探してもらおうと要望もしている)。
この時期から2、3年後の次の中学1年の時の日記を以下にあげてみます。

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「午後、全科にわたって父の指導あり。後、ギター練習(テープレコーダー使用)。さて、本年より練東中1年生。中学生の自覚にもようやく目覚め、中間試験には平均約八十点の好レコードをつくった。目下、余暇はギターの練習に凝っている。塾にも喜んで通っている。できれば七月にはAクラスに進みたいものだ(現在Bクラス)。将来はよく決めていないが、両親には医師か弁護士になると言って安心させることにしている。ラジオのアナウンサーにもなりたいと思っている」

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この時期には、「医師」か「弁護士」が両親の希望だったようで、「勘」の鋭い少年尾崎は、表面的にはそう取り繕って両親を安心させておいたのでしょう。

じつは父・健一氏の著作ではあまり描かれていませんが、兄・尾崎康氏の著書(『弟・尾崎豊の愛と死』講談社)には、母は父とは対極的に怒り出したら恐ろしいほどの剣幕で、息子たちに厳しく接していたようです(外では外向的で快活な母は、家では内攻的になり、不安になり自身を苛み、悲観的になり、勢い時にヒステリックになるほど)。


母はどんな心情を持ったひとだったのでしょう。息子豊が高校を停学するようになった時の母の日記からその一端が伺えます。

 

 

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「毎日毎日心の重い日が続く。朝起きると、大きく不安が広がる。心の重さは仕事を何倍もの重さにする。疲れる。身も心も疲れ果てるのに眠れない。これが地獄の辛さかと思う。私の性格でもあろう。業が深いことだ。豊をにくむ気になれない。母親の業なのだ。可愛さあまってか、自分が辛いのだ。学校なんか、中退でもいいのではないか。豊には豊のこれからの人生がある。中退だから不幸になると考える必要はない。しかし。教養人として、よりよく世の中で生きる為に、私は(親として)学校を出したい。私の考えは間違っているだろうか……」

 

「毎日毎日、日誌だけをつけさせて、教育を放棄しているのではないか。そもそも停学とは教育の放棄ではないのか。悪い事をしたからと学校から放逐して家庭におしつける。そして子供も親も苦しみのどん底に落とし込む。希望を与えないでおいて、日誌をつけさせる。…そしてまたある日突然、訪問をうける。復学の望みは、またもたたれる。こうした繰り返しの停学三ヶ月の豊や私の苦しみ、悲しみを先生方は考えたことがありますか……」

 

「豊。とうとう三学年の文化祭に参加できなかった。逃げ出したいと思い、かくれたいと思い、この世から消えたいと思いながら、不安におののく日々の何と多かったことか。もっともっと極悪非道の子に泣く親もあることだろうと思うが、私には私なりの性格からくる悲しさがあった。親の育て方が悪かったのでもあろうと思う。それに対して、親として反省をし、また許しも乞わなくてはならないと思う。いま、少しずつ良くなってゆく豊をみる。今の停学が、豊の人間性を良質のものに変えてゆくのなら、このことは彼の一生にとってよかったのではないかとも思う」(『尾崎豊デビュー』尾崎健一著 角川書店 1993刊 p.38〜44)

 

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尾崎家の中で停学中、出口が見えず最も苦しんでいたのは母でした。母は停学のことで一人カウンセリングに何度も足を運び、次第に不眠症に陥り、コップ一杯のウィスキーを一気飲みする寝酒が欠かせなくなり、睡眠薬にも頼るようになっていきます(デビュー以降、尾崎豊不眠症に陥っていく)。

一方、どこか楽観的で恬淡とした父は、停学でレコーディングに必要な時間がとれるだろうからといった心持ちだったようです(後に父は、母が遺した日記を読みその悩みの深さに驚くことになる)。


尾崎豊の歌に漂う深い孤独感と真実の愛への渇望は、深淵をのぞきこむこほどに内面的に深く強く求める母の魂をどこか映しだしているようです。そこに父が好む哲学や思想が流れ込んでいきました(CBSソニーのオーディション時、尾崎が鞄に入れていた本は、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』。父と豊は高校時代をのぞき、よく哲学や思想、宗教、芸術のことを語り合ったという)。

 

また、父によれば、息子豊が歌う「愛に飢えた孤独感」の根元には、(母が3カ月間入院し)1歳4カ月の時に信州高山の祖父母の家に預けられたことと、なついた頃には婆ちゃんとの急な別れとなったことが無意識の裡の心の深い傷になっていたのではと語ります。

 

実際、尾崎豊自身も遠いその時の記憶によく思いを馳せていたほどでした(祖母が亡くなった時に、実家の寝室で祖母の霊を感じとっている)。

次回は、尾崎豊が4歳の時、毎日のように父や母のところに持っていって読んで欲しいとねだったある「絵本」について紹介しようとおもいます。その絵本は豊少年の柔らかな感性に刺激を与えたようなのです。
&#9654;(3)に続く-未

田中一光(3):キャスティングの手習い


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田中一光(2)から:

鐘淵紡績への入社において一光が希望したのは宣伝(まだ世は「宣伝・広告」の時代ではなかった)でしたが、配属先はテキスタイルの意匠室でした(室長は佐伯祐三と画家をめざしパリ留学した人物でプリントデザイナーに転向した人物)。

演劇部のアトリエ座の同期生は、照明や衣装、舞台美術など全員が演劇に関係する仕事に就いていたので、「宣伝」という一光の希望は異質だったようです。なぜ「意匠」でなく「宣伝」だったのか。おそらくは少年時代に、似顔絵をつけたり切り抜きをコラージュしたり、キャッチフレーズをひねりだし、新作の映画を企画し新聞広告を作ってひとりで楽しんでいた記憶が木霊していたにちがいありません。

 

ところが意に反する配属先の意匠室で一光は、海外からエアメールで次々に届く『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』『モダン・ファブリックス』など最先端の雑誌に目を奪われ、マチスピカソからマグリット、ミロ、グリュオー、アーヴィング・ペンの写真に心を奪われるのです。大阪の駅前にまだ闇市が残るなか、あまりにも斬新な視覚体験の連続。また鐘紡意匠室は松竹少女歌劇の舞台衣装をデザインすることもあり、「少女趣味」の一光はおおいに張り切ることに。

 

が、入社して2年半後、仕事中も芝居の話ばかりで盛り上がっていた一光は左翼と間違えられ(新劇=左翼の時代)、なんとクビになってしまいます(この時、自暴自棄になって自殺しようと白山まで行って躊躇した話が自伝にでてくる)。

クビになった苦痛を紛らわすため行動美術協会で知り合った妹尾河童が手がけていた看板やポスター制作を手伝いだします(鐘紡の勤務時間後、美術をはじめからやり直そうと行動美術協会の研究所に通っていた)。

その時、産経新聞社が建物を建築中だということを知り、面接に行った一光は採用されるのです(皮肉にも鐘紡の重役の紹介状をたずさえていた)。配属先は文書課で、描くことができない心的苦痛がつづきます。しかしこのやりたいことのできない<心的苦痛>こそが、自身の裡に確かに”芽生えた”欲望だということにはたと気づくもとになります。

一光は誰にも頼まれない手書き「ポスター」を描きまくるのです。一光は鐘紡の意匠室にいた間、さまざまな上質の刺激を受けるうちに、「ポスター」をつくりたいという欲望が押さえきれなくなっていきます。

 

一光が勝手に制作していたのは産経グループ内の別会社が企画するイベントのポスターで、「次週上映」とか「前売開始」とか書き込み、実際の印刷物が貼り出されるまで、会社のエレベーター前に無断で貼り出したのでした。


勝手なポスター制作が1年ほど続いた頃、そのポスターがある人物の目にとまり呼び出されます。産経グループ内の別会社の社長でした(ファッションショーの舞台美術も担当していた吉原治良で、日劇の舞台の緞帳のデザインもしていて一光はそのモダンなデザインにしびれていた。吉原治良は1年後に「具体美術協会」を結成)。

 

一光は吉原から舞台美術の助手を任されるようになり制作物の評判が上がると「資材部」に配属されることに(ポスターなども制作していた部署だった。次いで広告部に配属されたもののそこでの仕事は肌に合わず、今度は新聞の部数を伸ばす販促活動をする事業部へとまわされる)。まるで”根比べ”のような日々がつづきます。


事業部の様々な販促活動のなかで、一光は生涯で一番長く付き合うことになるある「ポスター制作」に出くわすのです。それが「能公演(産経能)」のポスターでした。田中一光産経新聞を辞めて以降も、観世能と提携した「産経観世能ポスター」を30年に渡って手がけることになります(生涯で一番長く付き合うことになったこのポスターについて、奈良で生まれ京都で刺激を受けた環境が体質的に合っていたと一光は語っている)。



後に「西欧の先端的なモダニズムのデザインと日本の伝統にルーツをもった意匠を巧みにブレンドし、コンテンポラリーなヴジュアル表現を生み出したグラフィック・デザイナー」と世界で評価を得ていく田中一光の「グラフィック・デザイン」の原点がこの「能公演」のポスターでした。


その後、永井一正木村恒久らと「Aクラブ」を名乗り、早川良雄や亀倉雄策、原弘らと出会い大きな刺激を受け、田中一光は「デザイン」を認識し、「デザイナー」となっていきます。

 


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27歳の時、ライトパブリシティに入社、その3年後に日本デザインセンターに移り、またその3年後に「田中一光デザイン室」を立ち上げ独立(33歳。煙草の「ロングピース」のデザインコンペで優勝し、優勝賞金をデザイン室の敷金にしている)するまでの、20代後半から30代前半、クリエーターならば誰もが我武者らに仕事をし自問自答し煩悶するこの熱くも曖昧な時期について、『自伝ーわれらデザインの時代』のなかで田中一光は自身のその時期を熱く記します。



最後に「アートディレクター」としての田中一光の原点をみてみましょう。西武グループととの仕事が多くなった時、一光は振り返るように次の様に語っています。

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「アートディレクターなどというと聞こえはいいが、興奮が醒めると、自分が単なる手配師にすぎなかったのではないかという虚しさに襲われることさえある。それでも私はこうした裏方が好きで、仕掛けの時間を楽しんでいるのかもしれない。

……すべてを自分の手で行なうのではなく、デザインの総合性という観点から、時にコピーやイラストレーションなどを他人に依頼するほうが、美しい三角形ー起業とデザイナーと社会・消費者ーとなることが多い。つまりキャスティングによってアートディレクションの半分は完成するわけで、それは演劇を上演する作業ととても似ているのである」『自伝ーわれらデザインの時代』(p.210〜211)
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そして、『自伝ーわれらデザインの時代』を読んだ私たちはすでに知っています。美術学校時代の「演劇」の遥か昔、ひとり「芝居」を観にくりだし「映画狂」だった小学生の一光少年は、新聞や雑誌を切り抜きし俳優を並べ「キャスティング」し、広告を作ってひとりで遊んでいたことを。

田中一光によればアートディレクションの半分の仕事はこの「キャスティング」なのです。田中一光はつねにお客を喜ばせる仕掛けを考え、その効果を陰で確かめる行為を好むといいます。こうした感性もアートディレクターに必要な要素で、田中一光はそれを「芝居」の現場と感覚から学んだのでした。

 

ウィリアム・モリス(2):ロマンス小説に耽溺

ウィリアム・モリス(1)から:

8歳の時、父に連れられてカンタベリー大聖堂を訪れていますが、そのとき天国の門が開かれたような圧倒的な印象をもちます。9歳、少年モリスはパブリック・スクールに進学するための私立小学校に入学。13歳の時、父が死去。


この頃ウォルター・スコットのロマンス小説に耽溺。翌年パブリック・スクール入学。学校ではほとんど学ぶことはなかったといいます(何も教えてくれなかったと語っている)。

5年生以下の生徒が大部屋に一緒に詰め込まれているような学校でしたが、そのぶん自由で規律もゆるやか、午後の時間帯に他の少年たちがクリケットをしている間、少年モリスは近くのサバーナクの森や、エイヴバリの古代環状列石群(ストーンサークル)、山稜にあるケルト文化以前の古墳にふれに行っていたといいます。


 

学校での成績は真ん中程で、幾何学だけは最下位でした。ラテン語の学習も大嫌い。どういうわけか「歴史」に関することは何でも惹き付けられたといいます。性格は気だてよくみなに親切ではありましたが、ひどい癇癪もちだったそうです(ただ怒ればすぐに消えてしまう性質のもの)。

少年モリスには始終手を動かしていなくてはいられない妙な癖があり、ある時など机に網の片端をつないで何時間でも編み続けていたといいます。


生涯のうちウィリアム・モリスが手がけたもののほとんどは手仕事だったことを思えば(詩も含む)、奇妙な一致とおもわずにおられません。

 

また幼い頃は家系的に体質が虚弱で食事療法で命を保っていたほどだったといいますが、森を歩きまわり外気に触れるうちにがっしりと逞しい少年になっていったようです。
しかし後年にみられる堂々とした体躯と男性的な積極果敢な態度の奥には、神経質で激しやすい気質と女性的な感じやすさが潜んでいました。そのため異性よりも同性の方に気持ちがむきがちだったといわれています(異性問題とはまったく無縁な人にみえたといわれている)。

18歳の時、聖職者になることを夢に描き、20歳の時、友人バーン=ジョウンズと修道会を組織する計画をたてています。モリス家の空気と少年期の圧倒的な感動は、ウィリアム・モリスの”樹芯”を流れるものでした。

19歳の時、ラスキンの『ヴェネチアの石』に出会い、翌年同じくラスキンの『建築・絵画・講演集』を読み、またラファエル前派を知るにいたったモリスの心の裡で、強烈な<化学反応>が起こります。その<化学反応>は、モリスが子供の頃、日々遊びに行っていた「エピングの森」での体験と記憶とにさまざまに反応しあうものでした。


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「子供の頃、エピングの森のチングフォード・ハッチのそばにあるエリザベス女王の狩猟小屋で、色あせた草木模様の飾りが掛っている部屋を初めて見て、強烈なロマンスの感覚に打たれたことをよく覚えている。その時の感覚は、ウォルター・スコット卿の『好古家』をひもときーこの物語を私は繰り返し読むのだがー、この小説家が絶妙な技をもって夏の詩人チョーサーの新鮮で輝きに満ちた詩句をちりばめてモンクバーンズの『緑の部屋』を描写したくだりに行き当たるたびに、私の心によみがえってくる感覚だ」(『ウィリアム・モリス伝』フィリップ・ヘンダースン著 晶文社
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実際に森の中のその部屋(草木模様も飾りも含め)こそ、ウィリアム・モリスが装飾を手がけることになる多くの部屋の原型になったといわれています。モリス&カンパニーや『ユートピア便り』、ケルムスコット・プレス設立のあたりも極めて興味深く、興味のある方ぜひモリス伝にあたってみて下さい。

余談ですが、建築家フランク・ロイド・ライトの母は、あまりにもウィリアム・モリスのファンで、幼少期の息子フランクの部屋を徹底的にウィリアム・モリス好み(つまり母好み)でしつらえたといわれています。


それがフランク・ロイド・ライトに影響を与えなかったわけがありません。そのあたりこのブログ中のフランク・ロイド・ライトのコーナーであたってみて下さい。

参考書籍:『ウィリアム・モリス伝』(フィリップ・ヘンダースン著 川端康雄他訳 晶文社 1990刊)

 

 

 

宇野亜喜良(3):父が隠し持っていた「春画」の影響

 

宇野亜喜良(2)の続き:

飛行機や汽車の絵に飽き足らず、否、むしろ講談社の「絵本」の挿絵を好み「模写」し腕を上げていた亜喜良少年が、妹の『それいゆ』が気になりだしたのは、ちょうど中学生になって異性がさらに気になりだしたことや(もともとお医者さんごっこが大好きだった)、父が絹織物に描いていたもの(何を描いていたかは記されていないが、絹織物だけに女性的でたおやかなモチーフだったのではないだろうか)、さらには自宅で偶然に見つけてしまった和綴じ本の「春画」の影響、加えて亜喜良少年自身の気質や3歳ちがいの妹の存在などが重なったことからくるものだったのかもしれません。

 

春画」に関しては妹の『それいゆ』を見るようになって以降のことかもしれません。亜喜良少年は好奇心にかられるまま和綴じ本を捲っていくと性行為を描いた「春画」だったのです。

それ以降というもの亜喜良は北斎の赤い芥子はヴァギナに見えて仕方なく、蕾はアヌスにしか見えなくなったといいます。

その体験から、浮世絵や錦絵は「春信」好みになっていきます。華美に流れず、原色を避け抑制をきかせた気品ある色彩感覚を展開 渋く甘美で、デリケートで情緒的でおだやかな。

 

おそらくは『それいゆ』体験の後、「春画」体験前後のこと、亜喜良少年は「竹久夢二」の絵に出会ったのでした。戦後1、2年後、中学生の時だったといいます。

「やるせない甘さ」に満ちた木版本の『たそやあんど』がそれで、父の友人で絵の好きな方から借りたものだといいますから、亜喜良少年の父も夢二的世界をとても好んでいたにちがいありません。


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名古屋市立工芸高等学校(西陵高校分校。図案科、美術科もあった。現在はグラフィックアーツ科やデザイン科、情報科などがある。写真家・加納典明も同校出身)に入学した翌年、高校2年(16歳)の時、宇野亜喜良の人生を決定づけたことが起こります。亜喜良少年のこととその作品が新聞で取りあげられたのです(昭和25年5月)。

なぜ取りあげられたのか。じつは母が経営する喫茶店の壁面を埋め尽くした亜喜良少年の作品が噂になっていたのでした(喫茶店は名古屋・栄近く、書籍商の多い鶴舞からもほど近く、芸術・絵画に関心のあるひとたちにも利用されていたと思われる)。

壁面には仏像の彫塑やジャワの古面の模造、ネクタイのデザインやギニョール(胴体に指を入れて操る人形)など、絵だけでなく当時亜喜良少年が気が向いたまま制作していたものがたくさん掛けられていたのです(すでにその頃には注文されて制作するものもあり、ある種の人たちからは評価してもらってはいた)。

 

 

けれども新聞記事というかたちとなって紹介されたことに亜喜良は心底驚き感激したのでした。この記事が大きな契機となって亜喜良少年は「絵」を自分の仕事にしようと決めたといいますから、母の営む「喫茶店」が宇野亜喜良の将来への懸け橋になったといえるでしょう。


そしてこの高校生の頃は、さらに挿絵の世界に目が開かれていった時期と重なります。吉川英治の『宮本武蔵』や中山介山の『大菩薩峠』で知られる石井鶴三の挿絵から、見事なデッサン力で華麗な色彩で舞妓を描いた宮本三郎の挿絵、モダニズムの最前線の一翼を担い探偵小説に強かった『新青年』の表紙絵を描いていた松野一夫(西洋風俗画)の挿絵と、亜喜良少年は旺盛にさまざまな挿絵に触れています。

 

なかでも東京の風俗に精通し永井荷風の『墨東綺譚』昭和12年、私家版として発表後、東京朝日新聞に連載)に描かれた木村荘八の挿絵に夢中になったといいます。

高校生3年の亜喜良少年が、日々新聞を開いていたのも『花の生涯』(船橋聖一作。昭和27年新聞連載開始)に描かれた木村荘八の濃厚なエロティシズム漂う挿絵に胸をときめかせていたからでした。

 

こうして宇野亜喜良は、タブロー(キャンバス画)よりも「挿絵」に関心を深めていきました。振り返ってみれば、『それいゆ』や『少年倶楽部』、夢二体験、講談社の「絵本」だけでなく、父が絹織物に描いていたものこそ、タブローではなく「挿絵」的なものだったのです。

 


東京に出て以降、日本デザインセンターなどで尖鋭的デザインの仕事にかかりっきりになったりしますが、30歳頃になると宇野亜喜良の”根底”にあるものが疼きだし、イラストレーションに、そして挿絵の仕事に取り組むようになっていったのです(最初の仕事の一つが、和田誠に紹介された児童文学作家の今江 祥智-いまえ よしとも-との仕事で『あのこ』という児童文学の挿絵だった)。

 

サティ(2):「変わり者」の遺伝子

 


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この父アルフレッド・サティなくして、エリック・サティは生得の才を宿すことも伸ばすこともなかったとおもわれます(最もかなりねじれた枝葉の様に)。

父アルフレッド・サティは「音楽マニア」でした。音楽好きだけでなく「言葉」にも長け、数カ国語に通じていました。サティ少年はこの父に直接、学校教育を受けることになります。

 

というのも父は大の学校嫌いで、息子エリックも自分と同じようにきっと学校嫌いになるだろうと先読みし、父自ら息子エリックの教育にあたった時期があったようです(父はかつて自身が通ったコレージュ・ド・フランスに息子を連れ行き講演や講義を聴かせもした)。

 

またこの父にしてこの叔父あり。叔父アドリヤン・サティはオンフールの町で知らぬものはいない存在で「海鳥ーシー・バード」というあだ名をつけられていました。羽目をはずす遊び人で奇人変人といってもよい人物で(ぺてん師で怠け者とも)、サティの「奇行癖」はこの叔父からきているのではないかと疑われている人物です。

さらに母方の方にも奇行癖のある人物がいました。大叔父のマック・コンペイです。劇場で道徳を説くチラシを配ったり車を奇抜な色彩に塗ったり、馬の前で何時間も物思いに耽ったかとおもえばヨットに乗って漂流者のよう港をぐるぐるまわような人物でした。

こうした人物たちに交わって成長したわけですから、「変わり者」の遺伝子を受け継いでいたともいえます。

 

しかしもし祖父のジュール・サティがいなければ、少年サティはたんに奇行癖のある音楽好きの人物で終わっていたかもしれません。

祖父ジュール・サティはサティ家の中では立派な人物だったようで、父と同じく海運業者であり、市会議員・消防隊長も務めていました。

この祖父ジュールが少年サティの奇妙に「音楽好き」に気づいたのです

 

1960年代になるまで40年余り完全ともいえるほど見捨てられていたサティ。脚光を浴びるきっかけは、この映像で演奏しているアルド・チッコリーニがサティの作品をリサイタルにのせたことだったといわれている。曲は「グノシエンヌ」。

下に紹介したのはそのアルド・チッコリーニ演奏のサティ作品集



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「…とはいえこの音楽(『ジムノペディ』)には描写的なところは全くない。もし『ジムノペディ』がイメージを形作るとしたら、そのイメージは本質的に発動的なものなのだ。

まず最初に自分がゆれ動く地面を歩いているような感じがし、なんの解説もないその彷徨から、想像力がゆり動かされる。これは聴くものの頭のなかでしか終わらない音楽なのだ。

 

ジムノペディ』は、いささかクリスタルの球体に似た働きをする。人は自らもたらすものをそこに見出す。それはカンバスとなり、人々は自分自身の気分と連想によってそこに刺繍するよう求められる。聞き入るよりも耳にするための曲なのだ。壁

 

を消す音楽、地平に建てられたばかりの真新しい空間を描き出す音楽。それは旅や異国趣味への誘いではなく、標識もなければ目的もない散歩への誘いなのだ。よしなしごとを考えている自分に耳を傾けるために歩くことへの誘いなのだ」(『エリック・サティ』マルク・ブルデル著 アールヴィヴァン選書 p143)
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少年サティがノルマンディーに住む祖父ジュールの許に連れて行かれたのは、母ジェインが病死したためでした。一家でパリに出て2年後のことでした(サティ6歳)。

パリでは「散歩者」ボードレールの後裔たちが目的もなく舗道を散歩していたはずです(サティはボードレールが亡くなった1867年の前年に生まれている)。そんなパリの散歩者たちを幼いサティも少なからず見ていたことでしょう。

 


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とにかく母を亡くした3人の子供たちのうちエリックと弟コンラッドの男兄弟が父方の祖父母の許に預けられることになったのです(英国教会で洗礼を受けていたエリックは、カトリックとして再洗礼を受ける)。

サティはこの祖父母の許で公立小学校に通い寄宿舎に入ります(小学校は父母の住む家から300メートルと隔たっていなかったが寄宿舎生活は6年続く)。学校の成績はまったく凡庸、規律を守ることはなく、成績に関しては記述することはまるでなしの状態だったようです(第8年級の時、一度だけラテン語で一番になった)。

 

 

ル・コルビュジエ(3):「東方への旅」の前に

コルビュジエ(2)の続き:

ここでコルビュジエの家系と祖先について確認しておきましょう。というのも「ル・コルビュジエ」という名前はもともと33歳の時に雑誌の記事や著書(後に造形作品や建築面でも用いるようになる)に用いていたペンネームで、そのペンネームを用いたことじたい、コルビュジエ自身のものの考え方や姿勢と無関係ではないからです。

スイスに生まれ育ったコルビュジエですがその家系はフランス系で、17世紀初頭の頃まで遡ることができるようです。
コルビュジエは「運命的な力」というものを信じていたようで、その源泉を自身の家系と出身地に求めています。

 

コルビュジエの祖父は、スイスのヌーシャテルでの1848年の革命(フランスで勃発しヨーロッパ各地に伝播したもの。ブルジョワジー主体の市民革命から労働者主体の革命へと転化。ウィーン体制の崩壊の始まりと共和制への移行。ナポレオン3世が介入することになりスイス全体の安全保障の意識が高まることに)の指導者の一人だったとされ、コルビュジエ自身、勇気あるその祖父の存在に誇りをもっていました。

祖父はヌーシャテルの城を奪取した革命家の指導者の一人だったといいます(曾祖父もまた革命に身を投げ、最期は長い牢獄生活がもとで亡くなったという)。

 

コルビュジエはそのことを、「自主独立や鋭い観察、自由な意志や勇気を示した過去を自らの血のなかにもつ者は、それを恥じたり、隠したりする必要はない」と語っています。

スイスのヌーシャテルは、生地のスイスの北西ジュラ地方ラ・ショー・ド・フォンからも近く、コルビュジエは荒涼たる山岳の住人でもあった祖父や祖先を通じ、その土地に息づいているある種の理想主義を抱いていたのです。

 

コルビュジエは自身を祖父や曾祖父の如き「迫害された少数者」「革命家」に自分を重ねようとしていたともおもわれます(『ル・コルビュジエー建築・家具・人間・旅の全記録』(エクスナレッジ刊 p.55)

建築への理想を追い求めたコルビュジエにとって、「旅行」はつねに有益な学習であり続けました。啓示を受けたギリシャパルテノン神殿などについて記し自身の遍歴時代を綴った『東方への旅』がよく知られています(1966年刊行。

 

最後の本となったが、旅自体は1911年、24歳の時のもの。当時実際にもちいた10冊の「手帖」そのものを原本にした『東方への旅ー手帖』がファクシミリ完全復刻版として1987年に内6冊、1994年に残りの4冊が刊行されている。日本語版は『ル・コルビュジエの手帖ードイツ紀行』同朋社 1995年刊)。

 

この「東方への旅」の4年前、20歳(1907)の時の北部・中部イタリアへ旅が最初のものでした(師レプラトニエが自身のイタリア旅行体験談をよく生徒に話しコルビュジエも感化されたものだが、20世紀初頭にはイタリアへの旅は美術や建築を目指す者にとって不可欠な経験とされていた)。

コルビュジエはこの旅で、フィレンツェのカルトジオ会修道院の建築に決定的な影響を与えられます。

修道院は独立した小房につながる回廊によって結ばれた構造となっていて、感銘を受けたコルビュジエは、「人間の真の願望が充たされている。すなわち沈黙と孤独があり、かつ共同生活と日々の出会いがある」と語っています。つづいてイタリアからブダペストへ、そして新しい工芸の中心地ウィーンへと巡り、マーラーの音楽を聴き惚れクリムトと出会っています。

この旅でコルビュジエは、「私がなにかを知っているというつもりはありません。自分が知らないことを知っている」と自己省察し、自身に足りないものを見つけた旅となったようです。

それが翌年のパリヘの旅へとコルビュジエを駆り立てます。両親やレプラトニエ先生の反対を押し切っての行動でした。コルビュジエはパリで2年間滞在していますが、オギィースト・ペレ兄弟のもとで製図の仕事をもらいつつ「鉄筋コンクリート」の可能性を学んでいます(これが後の仕事の基盤に)。

 

時間があればエコール・デ・ボザールの講座を受けたり、図書館に通いつめ、欠落していた数学と幾何学や歴史の知識を我武者らに身につけます。同時に、その間にもコルビュジエの心の裡でラ・ショー・ド・フォンの生活空間とあまりに異なる大都市(パリ)に対する違和感も芽生いていたようです。

 

そして「東方への旅」の前年、母校ラ・ショー=ド=フォン美術学校に提出していた「ドイツにおける装飾芸術の動向の研究」が認められ教官に採用され、公的派遣としてドイツへの調査研究の旅にでます。

新しい教育体制を生み出そうという師レプラトニエの考えが背景にあるものでしたが、すでにこのときコルビュジエの裡には「都市の建設」が胚胎していて、後に著書『輝く都市』へと結実していくのです。