「異形の家」に生まれ落ちた太郎。「漫画」に革命をもたらした人気漫画家の父・一平と、子供をまったくかまわない母かの子。弟と妹は2歳で死去。「天才教育」もなにもなく、「世間的愛情」が欠けた岡本家には子供の居場所はなかった。「不登校児」となって小学校を何度も変わり、「太陽」だけが唯一の話し相手、「太陽は身内だ」と言う孤独な少年だった。

岡本太郎―岡本敏子が語るはじめての太郎伝記
岡本太郎―岡本敏子が語るはじめての太郎伝記

「『自分探し』なんて言葉が流行っているけれど、おかしな言葉ね。今ある自分以外の自分なんて、どこにもないのに。自分が生きづらいことを、親がこうだったから、ああだったからと、親のせいにする人も多いでしょう。子どもの時に受けたトラウマがどうだ、とか言って。なんて甘ったれているんだろう、と言いたい。太郎さんが聞いたら、きっと怒り出すでしょうね」(『岡本太郎岡本敏子が語るはじめての太郎伝記』岡本敏子/聞き手・篠藤ゆり アートン)


大阪万博の「テーマ館」シンボル「太陽の塔」や、縄文土器や沖縄・東北のプリミティブな美術に光をあて、「芸術は爆発だ!」「なんだ、これは!」「芸術は呪術だ!」などの熱いメッセージでも記憶される芸術家・岡本太郎については、1996年(84歳)没後10年前後からの再評価も相俟ってさまざまに再露出しましたが、岡本太郎という人間に迫りうる最も理にかなったベストな方法は、岡本太郎の「幼少期」、つまり岡本太郎という人間の”根っこ”をまず知ること、と感じた方もおられることとおもいます。
岡本太郎は、シンボル「太陽の塔」の内部に、全長45メートルもの高さの「生命の樹」をつくりだしています。これは生命を奏でるエネルギーの象徴でもありましたが、それはまさに”根源の世界”から発したものであり、岡本太郎が自らの裡に強烈に感じとっていた「生命の樹」だったにちがいありません。またそれだけでなく、岡本太郎にとって「太陽」は、小学校1年生の時にはすでに、最も「身内」な話し相手のような存在になっていたのです石原慎太郎の『太陽の季節』に描かれた障子を破る場面から、岡本太郎「太陽」をイメージにもってきたという話しがあるが、どうやら岡本太郎「太陽」に関して、かなり根源的なイメージをずっと抱いていたようだ。後述するように、それは小学校1年生の時にまで遡る。太郎少年はその1年「不登校児」になっていた)
岡本太郎の強靭な生命力、表現欲から産み落とされたものはあまりにも大きく、人間力もパワフルだっただけに、そうした少年時代のことはとかく見過ごされがちといってもいいでしょう。また流行漫画家の父一平と、女流作家岡本かの子に関する話だけでも興味尽きないものがあります。素の、裸の岡本太郎、太郎少年とはどんな人間だったのか。「生命の樹」ならぬ「心の樹(マインド・ツリー)」のアプローチで、迫ってみようとおもいます。
一平 かの子―心に生きる凄い父母
一平 かの子―心に生きる凄い父母

岡本太郎は、1911年明治44年2月26日、流行漫画家の父・一平と、後に女流作家で歌人の母・かの子(本名:大貫カノ;新体詩や和歌を「明星」や「スバル」に「大貫可能子」の名前で発表)。生誕の地は、川崎市高津の本宅ではなく大地主・大貫家の寮(別宅)があった南青山でした(現・岡本太郎記念館がある場所)。岡本太郎ファンの方には、漫画家の父一平と作家の母かの子のこと、かなり風変わりな一家に生まれ育ったことはよく知られていることとおもいますが(後述するように意外と知られていない面もかなりあるが)、とくに父方の祖父(一平の父)の岡本竹次郎の存在あらずして一平も太郎もなかったといえます。
一平が北海道函館で生まれたのも、雑書編集や原稿書きをしていた岡本竹次郎が函館師範学校に採用され教鞭をとりだし(竹次郎の夢は、儒者として仕えていた藩の再興だった)、書家・岡本可亭としても知られる存在でした(「山本山」など日本橋の大店の看板の多くは祖父の字だった。あの北大路魯山人が岡本竹次郎に師事し書を学んでいるほどです。じつは一平は当初、漫画家になろうとしていたわけでなく画家や小説家をめざしていました。7歳の時、狩野派の絵を学んでいる)。実際に日本画家武内桂舟に師事し藤島武二の絵画研究所で学び、東京美術学校に入学しています。ゴッホに影響を受けた絵画も描いているほどです。しかし由緒ある家の再興にはおぼつかず帝国劇場で舞台芸術の仕事に就いていても、漫画その頃に朝日新聞社に紹介されます。漫画家ではなく、漫画記者としてでした。紹介者はあの夏目漱石でした漱石は一平の漫画の技量を評価していた)。一平はクローズアップや鳥瞰法といった当時最新の映画の手法を漫画表現に導入、絵巻物の様にまだ横へ時間軸が動いていた漫画を、初めて上から下へと移動して見るようにしたのは一平だったといいます。一平は漫画に「革命」をもたらしていたのです。また「肖像漫画」は、一平の絵の才能と漫画が結びついたものでした。

太郎に訊け!―岡本太郎流爆発人生相談
太郎に訊け!―岡本太郎流爆発人生相談

一方、母かの子ですが、太郎とすれば「母親というものを持った覚えはないよ。だけど、あれだけ生々しく女で、濃厚に”女”として生きた女性と暮らしたのは誇りだ」ったといいます。かの子の実家は神奈川県川崎市高津の大貫家、多摩川にかかる二子橋のすぐ近くでした。かつては幕府御用商で大和屋と号する大地主で、「家霊」が濃密に漂うような空気に包まれ、大貫家には不幸が何度も訪れます。不慮の死や自殺者も出、谷崎潤一郎と学友で、文学を教えられた一番仲がよかった次兄も急逝。かの子も内気な性格で、あだ名は「蛙(かわず)」。跡見女学院で進歩的な教育を学んで<近代的自我>を備えた女だといわれても、魔性を帯び、童女にもみえたというかの子(それが一平を虜にした。かの子は後に「家霊」という短篇を書いている)。最も実際には、恵まれた環境の中、かの子は小さな頃から週に一度は芝居に連れて行かれ、琴を習い、短歌を詠んでいます。かの子が一平と知り合ったのは19歳の時、東京美術学校(現・東京藝大)での信州への避暑の際でした。
そんな両親が暮らす家庭環境ゆえ、岡本太郎が一流の画家になったのはさもありなんと思われるかもしれませんが、それは一面の話しにしかすぎないようです。太郎に言わせれば、「生まれついての生命力で勝手に育ってきた感じがする」というのです。太郎が生まれ落ちたのは「異形の家」とも言われる家でした。「異形の家」のはじまりはだったかといえば、父はとにかく子供には無関心、母も育児や家事にはまったく疎く苦手で、だから太郎は幼い頃から放りっぱなしの状態、「母親としては稀代の不器用で母らしからぬ母だった」といいます(太郎の言葉)。母方の親戚も「太郎はよく無事に育ったものだ」と噂するほどでした。大地主の長女に育ったがゆえ、ありあまる教養とは真逆に、誰かの世話をすることはまず不得手だったわけです(不得手が直接的原因だったわけではないとおもわれますが弟と妹はいずれも2歳くらいで死去。太郎は実質的にずっと1人っ子だった)
ただし母かの子のイメージは後の芸術にも恋にも激しく一途な女性のイメージとはずいぶん異なるものがあります。父が仕事でいない時は朝日新聞社に勤務の頃)、近所付き合いもなく訪れる人も稀なため、太郎は母と2人きり世間と隔絶されたような淋しい毎日だったというのです。黒髪を束ねていず、幻影のように青白く、時々号泣する痩せていた母を見て、近所の悪ガキが太郎に「お前んチのかあさんはユーレイだ」と言い、そのことが酷く辛かったという太郎。そんな母が情熱を向けていた短歌・文学に、太郎が小学校にあがる前に打ち込みだすのです。机を前にはりついて何か書きものをしつづける母に、かまってくれないと太郎が騒ぐと、母は帯で太郎を柱にしばりつけ、いくら泣きわめこうがほおっておいたのでした。
自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)
自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)

小学校は家の近くにある青南小学校に入学(1917年。大正6年)。入学時のエピソードで有名な話しとして、「一、二、三.....」と数字を書ける者はいるかということで、太郎が黒板に書いたら、「四」を書く順序が違っていたということで「書けもしないくせになぜ書けると言うんだ!」と怒鳴られ、先生を睨みつけたこと。以降、太郎は嫌いな先生の授業は最後まで指で耳を押さえて聞かないようにしていたというのです。感受性が強い太郎は先生の人間的ないやらしさを見抜いてしまうのです。このエピソードは、大人が押し付けようとする鋳型を、太郎が全身で拒否しはじめた最初のものです。小学校入学以前でも太郎はもう異端児ぶりを発揮しています。5歳の時、父一平が働いていた朝日新聞社の編集局に連れて行ってくれた時のこと、大阪と電話が通じているので受話器をもたされた時のこと、「バカヤロー」と言って快感をえる太郎がすでにいました。
話しを少しまき戻すせば、小学校にあがる前になぜ太郎は、まだ学校で習いもしない数字を書けたかといえば、「天才教育」かと思いきや、そうではないのです。まずは家中、本で溢れていたので自然に覚えていったようですが、それは一平やかの子から覚えさせられたのではなく、なんとか親と対等になりたいという望みから自ら覚えようとしたのでした。
愛する言葉
愛する言葉

「岡本家の場合、別に親が何を教育したわけでもなかった。勝手に自分自身をつかんでいった。<自立心>がなければ、あの家ではやっていけなかったのだ。岡本家の場合、とにかく人並の親がやってくれることは、何もやってくれない」
岡本家には、<世間的な愛情>とは無縁の家で、たとえば小学校一年の時の初めての運動会では、一平やかの子のどちらも姿をあらわすことはありませんでした。岡本家が、「異形の家」だったと言われるのも後にかの子の恋愛相手だった早稲田大学生と夫一平との了解のもと同居するという、何も天才画家を育てあげるような家庭環境だったという異形さではなく、一平やかの子も自身の情熱に一心で、子供の居場所もない。ならば両親と少しでも渡り合あって振り向かせるしかない。太郎の内部からにじみでるような論理的な思考回路は、そうした「異形の家」にあって太郎自らが習得した<生き方>だったのです。論理的な思考回路は、どちらかといえば情緒的な感性がかっていた両親とわたりあう”武器”となったといえます。

そんな太郎が今でいう「不登校児」になったのは、入学して1カ月もたたないうちでした。母かの子がどんなに行くように諭してももう言うことは聞き入れません。学校に行っても先生に怒鳴られ立たされるの繰り返しだったのです。学校の代わり太郎が行っていたのはドブ川で、水の中をのぞきこめば藻の不思議な動きや色彩の神秘さに遊んだのでした。両親はもはや打つ手なしと、京橋にある一平の父(祖父・岡本竹次郎、書家名岡本可亭ーおかもとかてい)の家に太郎を預けるのです。太郎から感じられる東京の下町気風は、旦那衆の集まりや謡いの会が催されたこの時に受け継いだのではといわれています。最もここでも小学校にやらされますが、嫌がらせやイジメ、理不尽さを我慢しない純情で一本気な太郎。寄宿舎制の私塾「日新学校」と十思小学校ともにつづきませんでした。

「…朝、学校に行くのがイヤだから、のろのろ、とぼとぼ。そんなとき太郎さんは、太陽と対話しながら歩いていたそうです。太陽は、親父みたいなちょっと偉い人格で、上から自分を見下ろしている。見上げて話しながら歩いていると、だんだん目がチカチカしてきて、思わずパッと目を閉じてしまう。すると瞼の裏にパーッと、真っ黒な太陽が飛び散った。それが、後に48歳のときに出版した『画文集・黒い太陽』につながっていったのね。
 子どもの頃から<太陽>を身近に感じていたようで、『太陽は身内だ』みたいなことも、よく言っていました。実際、太陽をテーマにした作品が多いけれど、その原点は小学校1年生にあった。それにしてもなんと孤独なんでしょう。<太陽>とだけ話をしている子供なんて」(『岡本太郎岡本敏子が語るはじめての太郎伝記』岡本敏子/聞き手・篠藤ゆり アートン p.14~15 )

太郎と爆発---来たるべき岡本太郎へ
太郎と爆発---来たるべき岡本太郎へ


太陽こそが、唯一の友だち、身内と感じるばかりの太郎は、小学1年生の間の1年間に3つの学校にかよわされ、そのどこにも馴染めず「不登校」になるばかり。この頃、島根から上京し岡本家に居候しながら慶應義塾大学に通っていた恒松安夫(すでにこの頃には岡本家の台所を含め一切を切りもりしていた。後に歴史学者・政治家、島根県知事)の発案で、自由主義的な慶応義塾幼稚舎はどうだろうと、1年生からやり直すつもりで入学試験に太郎を連れて行ったのでした。当時、慶応幼稚舎は学科試験はなく、子どもから感じ取った校長先生の判断のみ。慶応幼稚舎に入学し、太郎が寄宿舎でつけられたあだ名は「不死身の太郎さん」。冬でも制服の下はシャツ1枚。「出る杭は打たれる」という言葉を「釘」と覚え間違いしたのはこの頃のこと。結局ここでも太郎は誰にも心を開けることはできず、自分だけ「異質」な気がしつづけ、虚無感に襲われ、死んでしまいたいと自殺を考えていたという。1週間に一度、土曜日だけ帰宅する太郎でしたが、家では太郎の帰りを待って出迎える空気もまったくなく、居候の恒松安夫が用意する食事を食べるばかり。小学校時代、太郎は家でどんなものを食べていたのかすらほとんど覚えていないというのもこのためでした(後に婦人雑誌で「御自慢の料理」について取材がある時、まっさらな割烹着を身につけ写真におさまっていたかの子。そんな母に唖然としつつ太郎はそんな写真を笑って見ていた)。ただこの寄宿舎生活時代に、太郎はある「楽しみ」を見つけたのです。
▶(2)に続く-未

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壁を破る言葉
壁を破る言葉
岡本太郎と太陽の塔 (小学館クリエイティブビジュアルブック)
岡本太郎と太陽の塔 (小学館クリエイティブビジュアルブック)

芸術と青春 (知恵の森文庫)
TARO100祭: 岡本太郎生誕百年の記録
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岡本太郎 爆発大全
岡本太郎 爆発大全
強く生きる言葉
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TAROの塔 DVD-BOX
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NHK 土曜ドラマ岡本太郎生誕100周年企画 TAROの塔 オリジナルサウンドトラック
NHK 土曜ドラマ岡本太郎生誕100周年企画 TAROの塔 オリジナルサウンドトラック

「映画」と「絵画」ーデイヴィッド・リンチのなかに生えている大きな「根」の源流にあるもの。小さい頃から絵を描くのが好きだった。庭に「発見」した生命の活気と死。米国農務省所属の研究者の父は、樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていた。14歳の時、「絵」に向って突っ走り出した

デイヴィッド・リンチ 改訂増補版 (映画作家が自身を語る)
デイヴィッド・リンチ 改訂増補版 (映画作家が自身を語る)

はじめに:「夢」のこと

映画『ツイン・ピークス』や『ブルー・ベルベッド』、そして『イレイザー・ヘッド』『エレファント・マン』から『ロスト・ハイウェイ』にいたるまで、映画監督デイヴィッド・リンチは、観る者の心を掻き乱す異様な気色の映画を次々に生み出してきました。しかしその異様さは、つねに平凡な日常の縁や裏側にすでに潜んでいるものばかりなのです。その感覚はすでに少年時代から培われていて、事実、無限の記憶的断片や感覚的印象(イメージ)、場所的感覚や感触まで自身の<少年期>から反射させているのです。デイヴィッド・リンチもまた、多くの映画監督と同様、少年時代に映画監督になろうという”夢”などもっていませんでした。14歳の時に、デイヴィッド・リンチが全力を込めて突き進んだのは「画家」だったのです。
「マインド・ツリー(心の樹)」をお読み頂いている方は、そろそろお気づきのことと思いますが、少年少女時代の「夢」はあまり堅牢にもたなくてもよい、ということなのです。名を成したスポーツ選手や著名人が、少年少女に向って、「夢」を持って、それを実現するために最善の努力をしよう、と熱く語りすぎ、「夢」は心と身体の成長とともに”変化”したり他の関心をもっていることと”重なったり、結びついたり”することを、真正面から語る人をまず見た事がありません。生涯同じ「夢」を持ち続け、それを成し遂げた人の言葉は、重く、貴重なものが込められてはいますが、「夢」は心や感性の成長とともに、「(再)発見」したり、変化し成長するものだということを、併せて少年少女に語るべきなのだと思うのです。
このデイヴィッド・リンチの「マインド・ツリー」でもわかるように、世界的な映画監督になったリンチでも子供の頃は、自分が大人になったら何になれるのかなにも見えずー2ブロック向こう側のことはまったく関心がなかったー14歳の時に、はじめて潜在的な絵への関心が、友人の画家だった父と出会うことによって自覚できるようになっていったのです。この年頃では、映画などまだ関心の埒外で、映画産業だけですらさまざまな仕事があることを知ることは義務教育の学校に半ば閉じられている少年少女が知り得ることはまず稀でしょう。さらに言えば、「夢」とは、いっけん偶然に思い込んだものを、直感的に思いつく職業の中から選んで言葉に出すわけですが、そのじつかなりの割合で、それまでに感受した自身の願望をあらわしてはいます。そして重要なことは、「夢」は<編集>されうるもので、社会・経済・技術の変化が急なこの時代、一途な「夢」実現願望は、若者に希望を失わせ、落胆させ、閉塞させるばかりになります。
「何々になるのが夢」といった場合、その夢を思い浮かべてから、ようやく実現させようとやっ気になるまでに5〜10年はたっているでしょう。その間に、その「夢」の仕事は、すっかり活力を無くし、仕事のあてすらなくなってしまっているケースもかなり生じているはずです。デイヴィッド・リンチが画家の「夢」から、映画の世界に向かう契機となったのは、じつは少年の頃から彼に潜在していたある”欲動”でした。その”欲動”は、リンチ自身の「心の樹」の”根っ子”から、魂の<根源>から発せられているものだったのです。このあたりはまた別のところで記しますが、そこが「夢」の<編集>ポイントになってくる場所なのです。それではデイヴィッド・リンチの「夢」の<編集>ポイントは何処にあったのか、一緒にみてみましょう。まずは少年デイヴィッドの「夢」が蒸(む)してくるところからはじめます。

Crazy Clown Time [解説付・ボーナストラック1曲収録・初回限定国内盤] (BRC304X)

父は米国農務省所属の研究者で、樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていた

デイヴィッド・リンチ(David Keith Lynch)は、1946年1月20日アメリカ北西部のカナダと接する「宝の州ーTreasure State」と呼称されるモンタナ州のその西端に位置するミズーラモンタナ州で2番目に大きな街で、現在人口約5万7000人)で生まれています。誕生してわずか2カ月後に、リンチ家はアイダホ州サンドポイントに引っ越しているので、デイヴィッド・リンチ自身が言うようにモンタナ州ミズーラは、単に”生まれた”土地だけと言っていますが、後に40代半ばになって自身の履歴を「イーグル・スカウト、ミズーラ、モンタナ」と圧縮して指し示すと刻印されたように浮き出すのです。このモンタナ州ミズーラは父や祖父母が生まれた場所であり、また米国農務省所属の研究者だった父ドナルド・リンチが研究職をおそらくこの地からはじめていて、デイヴィッドも父方の叔父母も近くの人口200人程の小さな村でドラッグストアを営み、リンチ一族にとって縁(ゆかり)のある土地だったようです。少年デイヴィッドは、モンタナに連れて行かれた時、その叔父母の店の隣が、夫婦ともに風景画を描く家で、訪ねる機会があれば一緒に絵を描いていたといいます。デイヴィッドが大好きな絵と、蟻や昆虫といった生命(いのち)を発生させる深淵な森をひかえた土地柄が、少年デイヴィッドの世界観を生み出す”土壌”であり”地形”になったことは疑いようもありません。
デイヴィッドは子供の頃、母方の祖父母(曾祖父母はフィンランドからの移民)が住んでいたニューヨークのブルックリンを訪れた時、地下鉄がホームに入ってくる時の轟音や風や匂いのすべてが恐怖に感じたといいます。少年デイヴィッドの「マインド・ツリー(心の樹)」の地形には、”土壌”のない都会のそれは魂と身体の安定を失する場でしかなかったのです(デイヴィッドは青年になっても都会が怖かったという)。映画『ロスト・ハイウェイ』や『マルホランド・ドライブ』に登場する都会で生まれ育った主人公たちが、いかに魂の場所と安定を欠きやすいか、<暗闇と混沌>の中で迷いはててしまうのか、その悪夢をデイヴィッド・リンチは描くのです。

州境のない広大な森の入口のような場所へ頻繁に引っ越していた

父ドナルドはつねに樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていて、自由に使っていい広大な森が実験用に国から用意されていたのです。その森はモンタナ州やその西のアイダホ州、さらにその西側に広がるワシントン州にあったのでしょう。広大な森は、州境など関係なくひろがっていますから。父ドナルドは多くはその森のあちこちにある入口の土地に、幾度となく転勤することになります。モンタナ州からワシントン州スポーケンへ、ついでノースダコタ州ダラムアイダホ州ボイシへ。デイヴィッドが14歳の時には、一家は今度は東海岸ヴァージニア州アレクサンドリアへ引っ越していました。東海岸ヴァージニア州アレクサンドリア(初代大統領ジョージ・ワシントンの故郷とも言われる町で、ポトマック河畔に広がっている。アメリカの首都ワシントンD.C.は、ポトマック河畔に沿って北方約10キロにある)でも、父ドナルドはいつも林野部の職員が被る灰色がかった緑色のテンガロン・ハットで職場まで、車やバスに乗ることなく数キロ歩いて行っていました。当時デイヴィッドはそんな父の姿が恥ずかしかったが、後にそれはすごく渋いことだとおもうようになったといいます。
父ドナルドは若い頃、このヴァージニア州に南接するノース・カロライナ州にあるアメリカでは抜群の知名度を誇るデューク大学に通っていましたリチャード・ニクソン元大統領や、「フォーチュン」誌編集長リック・カークランド、GM最高経営責任者リチャード・ワゴナーら、匆々たる人物が卒業している)。このデューク大学で父ドナルドは、デイヴィッドの母になるエドウィナ(ニックネームはサニー)に出会っています。母は卒業後に英語の先生として勤めた後、結婚し専業主婦になっていますが、1940〜50年代ほとんどの家庭で母は家にいるのがふつうでした。
コーヒーブレイク、デイヴィッド・リンチをいかが
コーヒーブレイク、デイヴィッド・リンチをいかが

頻繁な引っ越しが子供に与える影響のこと。そのプラスとマイナス

頻繁な引っ越しは、多感な年頃の子供には、さまざまな影響を与えます。ほとんどの場合、皆と打ち解け新しい友達をつくるにはかなり時間がかかり、仲間でないことが気になって仕方がなくなるとデイヴィッドは語っています。少年デイヴィッドはその辺は巧みで、学校や皆にうまく溶け込むことができた、といいますがうまくいかないとずっとクラスから浮いてしまうのでその場合は子供ながら本当に大変なことだということも知り得たといいます。またデイヴィッドによれば、引っ越しにはプラスの面もあって、環境に順応する能力を磨くことができることと、もしずっと学校で仲間はずれになっているなら引っ越しによって再出発のチャンスができるのだと。そしてこれはデイヴィッド流の感覚によれば、引っ越しは自分の中のシステムにショックを与え、するとどこかのチャンネルが開き、なにかが少し目覚める可能性があるといいます。
周囲と順応でき友達は沢山でき、思い返しても楽しい思い出をいくらでも思い出すことができるデイヴィッドでしたが、一方で一人で庭に群がる虫を見ているのが好きでした。遠くから見れば綺麗な庭も、芝生の下には芋虫や地虫や蟻が無数に這い回っていたり、桜の木には脂(やに)が滲み出ていてそこにも蟻が群れていたことを知ります。まさに映画『ブルーベルベット』の冒頭で描かれた映像で、少年の頃に、デイヴィッドはどんなに美しい世界も近づき覗き込んでみると必ず蟻や虫が潜んでいることを「発見」し、その感覚を大人になるまで維持しているのです。
少年デイヴィッドがそうした感覚に鋭くなったのは、植物や昆虫の病気や生長に小さな頃からつねに接していたからでした。それは農務省勤めの研究者だった父が、つねに樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていたことの影響であり、学びであり、継がれた好奇心からだったのです。

大きな魚をつかまえよう―リンチ流アート・ライフ∞瞑想レッスン
大きな魚をつかまえよう―リンチ流アート・ライフ∞瞑想レッスン

小さい頃から絵を描くのが好きだった。庭に「発見」した生命の活気と死

デイヴィッドは小さい頃からいつも絵を描いたりそこに色を塗っていたといいます。描いていた多くは当時一番のお気に入りだったブルーニング・オートマティック水冷式サブマシンガンで、ピストルや弾薬、飛行機もよく描いていました。第二次世界大戦が終焉し、周りにはまだその感覚や空気が漂っていて、デイヴィッドは木製のライフルからヘルメットにアーミーベルト、それに飯盒(はんごう)ももっていた頃でした。絵を描くことが好きだと分かった母は、デイヴィッドに塗り絵帖を買い与えることはしませんでした。それは創造力についての母エドウィナなりの考え方で、塗り絵帖を与えてしまうとせっかくの創造力やイメージ力を限定してしまうと思ったからだといいます。その代わり、父がいろんなサイズの紙を山のように持ち帰ってきていました。林業にも関する仕事だったので、紙だけは仕事柄いくらでも手に入ったのでした。
おそらくは絵を描いていた頃のこと、デイヴィッドはクローズアップで好きなものを描いているのが好きだったので、少年デイヴィッドの世界は、2ブロックほどの範囲以内ですっぽりと収まってしまったいたといいます。実際に、その範囲以外の記憶がほとんどなく、思い起こすことができないというのです。けれどもその2ブロックの範囲内の世界は、少年デイヴィッドにとって一つの宇宙のように広大で無限でした。それは物事のディテールが虫眼鏡を通して見るかのように異様に膨らんでくるかのようにーミクロコスモスが目の前に迫り来るかのようにー少年デイヴィッドの感覚を捉えるのでした。走り回るのが仕事の子供ならば、一足で飛び越えてしまったりするような庭の片隅にしゃがんで、デイヴィッドは何時間でも過ごすことができたといいます。その庭は一皮剝けば生命の活気に満ち、いろんな世界が出現することがいったん分かれば、子供にとってもう一つのプレイランドの家の中は、少年デイヴィッドにとっては閉所恐怖症をもたらしかねない場所になっていました。それでもデイヴィッドが子供時代は、牧歌的で本当に幸福だったと思えたのも、庭の<自然>と<生命の多様性>がすぐ近くにあることを知ったからだったのです。同時に、幸福な少年時代であったがゆえに、その庭で誰にも知られないままおこなわれている生命の腐敗や死、生き物同士の攻撃や虐殺があることを知ったデイヴィッドは、美しいものの裏側、世界の裏側のことに敏感になっていったのです。少年デイヴィッドの「マインド・ツリー(心の樹)」は、家の庭を芝生の裏側に無数に根を這わせ、さらにそこと地続きの深い森へと続いていたにちがいありません。そしてその根は、生命(いのち)が水分とともに別の生命の腐敗と死からなる養土としていることを感知してしまっていたのです。
そのため幸福な少年時代だったと同時に、少年デイヴィッドは、一方で「子供の頃は恐怖の中で暮らしていたというより苦しんでいた。こんなの普通じゃない」と感じ取っていて、自分だけがどうもどこか感性帯が違うのではないかという疑いが生じてきて、それは子供ながらほとんど確信に近いものがあったといいます。映画『イレイザーヘッド』の異様な胎児や、チーズと七面鳥の肉で人間の頭のかたちをつくりそれを粘土でくるんで蟻がやってくるのを待ってつくった「クレイ・ヘッド・ウィズ・ターキー、チーズ・アンド・アンツ」というアート作品などは、その確信の延長線上にあるものにちがいありません。デイヴィッド・リンチは自身を「アイデアやイメージに波長を合わそうと試みる”ラジオ”のようなもの」と形容していますが、自然や生命もまた何処か”向こう側”からやってくるのであり(それはデイヴィッド・リンチが映画製作において偶然や事故、ツキや直感に対しつねにオープンだということにつながる)、それに静かにチャネルを合わせようとすることが、そもそも創作のはじまりであり重要な要素なのです。サウンドやリズム、イメージの質感、色感覚に、異様にこだわるのも、空間のなかの”見えない”領域や地形を感受するからに相違ありません。
デイヴィッド・リンチの映画空間―Lynch
デイヴィッド・リンチの映画空間―Lynch

画家だった友達の父のスタジオを訪れ、画家の道に全力ですすむことを決意

14歳(1960年)は、少年デイヴィッドにとって一大転機の年でした。将来どうなるのだろう、どうしたら一番いいのか、あまりにも獏(ばく)として、絵を描くのが好きだということ以外なにも思いつかなかったといいます。せいぜいが父が林業関係の科学を専門にしていたので、薄ぼんやりと自分もそうなるのかなと思っていたくらいでした。ところがある日のこと、当時のガールフレンドの家の前で、友達のトビー・キーラーに偶然会ったことが少年デイヴィッドの運命を決定づけます(じつは友達のトビーはその女の子が好きで家の近くに居合わせたのだった。後にトビーはデイヴィッドから彼女を奪うことになる)。トビーはどうもデイヴィッドが絵を描くのが好きだということを知っていて、自分の父は画家なんだとデイヴィッドに教えたのです。トビーの父はアート界にその存在が広く知られる画家ではありませんでしたが人生を絵に捧げていた渋い画家で、デイヴィッドはワシントンD.C.近くのジョージタウンにスタジオを構えるトビーの父ブッシュネル・キーラーを訪ねます。少年デイヴィッドはブッシュネル・キーラーに会い、絵を見て、本当に魂に触れたといいます。まるで即答で、絵の道にすすむことを決意したほど、映画監督デイビィッド・リンチとなったいまでも、人生のなかで屈指の素晴らしい出来事だったといいます。ブッシュネルは少年デイヴィッドにロバート・ヘンリーが著した『アート・スピリット』という本を教えてくれました。芸術的生活の規範を示した内容が語られたこの本は、少年デイヴィッドにとって「聖書」となります。叔父母の店の隣で風景画を描く夫婦と一緒に絵を描き、またいつも絵を描くことが好きで好きで仕方のなかった少年デイヴィッドだったからこそ、ブッシュネル・キーラーの存在や『アート・スピリット』が少年デイヴィッドの魂に深く届いたのです。樹幹からまさに太い枝(画家へ)が生えだそうとしていた状況だったにちがいありません。

イーグル・スカウトに所属し、ジョン・F・ケンディの大統領就任式に立ち会う

またこの頃、ボーイ・スカウトに参加していた少年デイヴィッドは、勲功バッジを集めるため精力的に活動し、晴れてイーグル・スカウト(ボーイ・スカウトの中でもリーダーシップがあり優秀な者の僅か2%程しかなれない)に所属することになるのです。世間的にはこの頃、ボーイ・スカウトは徐々にどこかダサイ存在になってきていたといいます。デイヴィッドによれば、当時イーグル・スカウトですらどこか恥ずかしくなるような空気があったといいますが、勲功バッジとその狭き門は少年デイヴィッドにとって精力を出し切るべき対象であったことは間違いありません(イーグル・スカウトと同時に絵も精力を出し切るべき対象に)。優秀なイーグル・スカウトに所属できたおかげで、少年デイヴィッドは、1961年1月20日ジョン・F・ケネディの大統領就任式で、ホワイト・ハウスの外の観覧席のVIP席に、他のイーグル・スカウトのメンバーとともに招待されるのです。その日は少年デイヴィッドの誕生日(15歳)でもありました。1メーター50センチ程の目の前をアイゼンハワー大統領と、これから大統領就任式に向うジョン・F・ケネディが車に乗って移動していく姿を目撃するのです。▶(2)に続くー近くup

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「聴く」から「歌う」への変化の時代。1970年代初期、時をおなじくし複数の人たちが”発明”していた「カラオケ」。楽器の教則本を売るバンドマンだった男がなぜ「カラオケ」をビジネス化することができたのか。アイデアマンだった父と商売熱心な母から少年期に体得していた商売センス


カラオケを発明した男
カラオケを発明した男

誰もが手軽に歌え楽しめる「カラオケ」を”発明”し(ビジネス化)、1999年8月23日号の「タイム」誌で、「20世紀で最も影響力のあったアジアの20人」(日本人は、他に昭和天皇、豊田英二、黒澤明盛田昭夫三宅一生。他国では、ガンジータゴール孫文ダライ・ラマ14世に蠟小平、毛沢東ら)に選ばれてしまった井上大佑(だいすけ)。いまでこそカラオケは、日本にみならず東アジアを中心に世界各地で当たり前の様になっていますが、1970年代までは社交場カラオケがほとんどで、カラオケテープの曲に合わせて歌詞カードを見ながら歌うのが普通。「映像カラオケ」と一発選曲の「オートチェンジャー」、そして「カラオケボックス」がお目見えしたのは、1980年代に入ってのことでした。それ以降、時代の先端技術・ニューメディアと融合し、通信カラオケへ。様々な家電・音楽業界の大手、カラオケ専業メーカーがしのぎを削って技術やアイデア競争が繰り広げられました。
どうも「カラオケ」の”発明”そのものは、写真や映画の”発明”と同様に、時をかなり同じくして複数の人たちが”発明”していました。全国カラオケ事業者協会の歴史年表をみても、すでに軽音楽のBGM再生機として使われていたコインボックス内蔵の8トラック式小型ジュークボックスに「マイク端子」が付けられたものが存在していました。そのカラオケのルーツともいえる「マイク端子」付きジュークボックスに根岸重一氏(日電工業)らが軽音楽テープを使って歌唱するサービスが提案開発されていました。「聴く」ことから「歌う」ことへの変化でした。

「軽音楽テープが「聴くこと」を目的としているとすれば、カラオケテープは「歌うこと」を目的に作られたものでした。厳密に言えば、プロ歌手ではなく、素人に歌いやすくアレンジされていなければならないわけです。仮にこうした定義に基づくと、国民皆唱運動を展開した山下年春氏(太洋レコード創業者)が'70年に発売した伴奏テープ(8トラック式)は、初のカラオケソフトと言えます。
その翌年、井上大佑氏(クレセント創業者)がスプリングエコー、コインタイマー内蔵のマイク端子付き8トラックプレーヤーを手作りで製作。弾き語りで録音した伴奏テープ10巻(40曲)をセットして店舗へレンタルで提供しています。店舗での使用料金は1曲5分間100円でしたが、神戸市(兵庫県)の酔客の人気を博し評判になります。カラオケが業務用として誕生し、普及していったことを考えれば、カラオケ事業の始まりは'71年だと言える」(全国カラオケ事業者協会 - 歴史年表解説より)
ここで重要なのは井上大佑(だいすけ)が、「弾き語りで録音した伴奏テープ10巻(40曲)をセットして、店舗へレンタル提供」したことでした。その頃、井上はバンドマンをしていますが、同時にバンドの先輩たちがつくった楽器の教則本を売り歩く日々を送っています。そんな井上がカラオケをどうして手掛けるようになったのか。ダンスホールやキャバレーで演奏するバンドマンは神戸だけでなく、日本全国に何千人といたなか、どうして井上大佑が「カラオケ」を”発明”、ビジネス化するようになったのか。その秘密は、井上大佑という人物のなかにあったのです。
カラオケ秘史―創意工夫の世界革命 (新潮新書)
カラオケ秘史―創意工夫の世界革命 (新潮新書)


井上大佑(だいすけ:本名 祐輔)は、昭和15年5月10日、大阪市西淀区に生まれています。カラオケの発祥、ビジネス化は関西から火がついたといわれるように、井上家もまた関西にあり、大佑少年は関西で育っています。「カラオケ」草創期、井上大佑がバンドマンとして活動していた時、神戸ならではの”あること”が、井上の”アイデア”、”イマジネーション”を刺激したといいます。”あること”とは何だったのか。
またアイデアマンだったといわれる井上大佑ですが、じつはそのルーツは幼少期にこそあり、さらには父と母もまた「アイデアマン」でした。幼少期から父母の”薫陶”を受け、刺激を受けつづけていたからこそ、「カラオケ」は「ビジネス」になると直感し、たゆまず創意工夫し続けることができたのです。まずは戦前、大阪西淀区の十三駅近くにあった井上家の様子からみてみましょう。
大佑の父・井上栄一(故郷は奈良県生駒)は、ビリヤード場に麻雀屋、レストランを経営しています。戦時下の出征時には、兵士の家族写真を撮るために写真屋も開き(最後の写真となるかも知れずお金を惜しまず家族写真を残す家庭が多くあった)、さらには融資先だった鉄工所の社長にもなっています。ビリヤード場に顔を出す海軍将校を通じて鉄工所で駆逐艦用のパイプをつくり海軍におさめ、半軍需工場となったおかげで徴兵されずにすんだとも。
父・栄一の教えがあります。「少ない資本でみな同じ条件で商売をするのだから、そこで成功するためには、同じビジネスであっても『頭を使え』ということ」でした。また祖父・栄太郎は、大阪から東京まで自転車で出掛けるような気丈夫な人物だったといい、屈っせずに物事を成し遂げていくメンタリティは祖父からも継がれていたのでしょうか。3歳の時、屋根の上で飛び回って遊んでいた時に落下、生死を彷徨っています。偶然、雲水が立ち寄り、意識が回復すれば「大佑」という名にするとよいと告げられ、その時依頼「大佑」の名になっています。その時の怪我で小学校2年までは言語障害が残っています。とにかく大佑少年はひどい悪戯ら小僧で、「ゴンタ坊主」と呼ばれていました。
カラオケ上達100の裏ワザ
カラオケ上達100の裏ワザ

敗戦後、十三駅界隈も空襲ですべて焼け出され家も消失。こういう時は、父より母・春子の方が行動的になり、始発電車で神戸までケーキや菓子類を仕入れに行き、西宮で自分の店に菓子を並べて売るのでした。母は旅館の女将の様な存在で家事と子育てしながら一家の中心になって率先して商うのでした。母は「商売好き」だったといいます。一方、父は西宮競輪場に行って、小さな大佑と一緒にモク拾いをして混ぜ合わせてこっそり闇煙草をつくり、西宮球場甲子園球場前につづく路上で露店を開いて売ったりしています。通常はピーナッツや落花生、ラムネを売るのですが、他の露店は絶対にやらない「アイデア」で売上げをのばすのです(たとえば英文週刊誌や英文写真集でピーナッツや落花生を包んで量をかさ上げするだけでなくハイカラに見せて売ったりした。その英文週刊誌を入手するため父は大佑に山の手に住むアメリカ将校の所に行ってタダで雑誌をもらってくるよう指示。彼らは日本の子供たちには優しくするようにと命令を受けていて、子供が行けば読み終わった雑誌や写真集などをいつでもくれたという)。こうした「アイデア」を父はいつも繰り出すのでした。と同時に、どんなつれない客にも頭を下げる父に、息子大佑は「商売」の厳しさを教えられたといいます。
カラオケ進化論~カラオケはなぜ流行り続けるのか~
カラオケ進化論~カラオケはなぜ流行り続けるのか~

そんな父のアイデアマンぶりと母の商売っ気は、たとえば小学生の大佑の遊びのなかにも次の様にあらわれたりしています。大佑の一番の遊びは武庫川での魚釣りナマズ、ウナギからコイ、フナ、どじょうなどがいた)だったのですが、魚を突くヤスを自分でつくるのは当たり前で(拾った八寸のクギを列車の線路に載せ、列車に釘を轢かせてペチャンコにし、今度は自転車屋でグラインダーを使わせてもらって削ってつくる)、次には鋭利なヤスをたくさんつくって仲間たちに売り、さらに獲れたどじょうは3軒の家に売る手はずも整えていました。小学4年の時には、子分の子供たち(10人から15人は常時集まった)に、電線関西電力の工事現場へ行き、電線の切れっ端を集めて来いと命令し、鉄クズ屋のおじさんに売り込むのです。子供ながらに朝鮮戦争特需を受けとっていたわけです。阪急電車の枕木の交換の際にも、太い釘を拾い集め、売ってはお金にかえていました。戦後、関西にも野球少年はたくさんいましたが、大佑は小学低学年の時、ボールが股間に当たった痛さを忘れることができず、ボールを怖がり野球はしなかったようです。運動らしい運動もしなかった大佑でしたが、中学時代は剣道同好会に所属。「音楽」と出会い、のめり込みだしたのは中学卒業後でした。ブラスバンドの花形だった小太鼓(ドラムセットの中のスネアドラムのこと)がどうしてもやりたくて仕方なかったのです。それからどのように「カラオケ」につながるのか。それがなかなか興味深いのです。
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参考書籍『カラオケを発明した男』大下英治河出書房新社

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歌がうまくなる本―カラオケ初心者からプロ志向まで
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1週間で3オクターブの声が出せるようになる本 無理な力を入れずに声域を拡げる驚きのボイス・トレーニング(CD付き)
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一人deカラオケ
一人deカラオケ

「私は人間などではない。私はウサギなのだ」と語り、蜜蝋や脂肪、フェルトなど「素材」に関心を向け、はたまた『自由国際大学』開設、『緑の党』結党にも関与したヨーゼフ・ボイス。生まれ育った土地の「自然」との深い関係。「自然を観察」することを教えた母。少年時代、家で「動物園」をつくり「植物コレクション」は周囲を驚かせた。ゴムナジウム時代、旅回りサーカス団の虜になって姿を消していた


ボイスから始まる (五柳叢書)
ボイスから始まる (五柳叢書)

「芸術教育はすべての学科に含まれなければならない。つまり基本的なことを多く学ぶ小学校が特に重要なのだ、という考えを何度も表明している。ボイスは『成長を前もって準備することができるならば』、思春期の成長をより高次の芸術的能力へと高めることのできるひとつの段階となりうるとみている。発達心理学的研究によれば、調和のとれた発達段階における素朴で直感的な芸術的能力は思春期に中断してしまう、というノイエンハウゼンの発言を、それは教師がなっちゃいないからそのような能力がとぎれてしまうのだ、とボイスは反撃している。
いまの教師はまるで心理学者のように、子供は人生のある一時期にすぎず、またある時期には別になるだろうし、最終的にはすべてがすばらしい成果につながるだろう、とのんきに観察しているだけなのだ。実際、教師は創造的な活動ができる子供たちの可能性をまったく見落としてしまっている」(『評伝 ヨーゼフ・ボイス』ハイナー・シュタッヘルハウス著 山本和弘訳 美術出版)
評伝 ヨーゼフ・ボイス
評伝 ヨーゼフ・ボイス


『自由国際大学』開設、『緑の党』結党にも関与したヨーゼフ・ボイスは、まったくのっぴきならないアーティストだ。「芸術」の概念を<社会変革>や<教育>に拡張し、「社会彫刻」を打ち出した。その「拡張された芸術概念」芸術概念は、神話と実存と自然科学とが相互作用することによって発展していくと考え、さらに動物学や医学、社会理論とも連携。また革命的思想家ルドルフ・シュタイナーに、蜜蜂と人間との興味深い比較へと導かれはボイスは、立体作品において、蜜蝋や脂肪、フェルト、さらには銅、鉄、玄武岩といった「素材」への関心を深めていきました。同時にそれは自身の遊牧生活やシャーマニズムへの関心からもやってきた課題でした。
よく知られているようにボイスは、ウサギ、鹿、大鹿、羊、蜜蜂、白鳥などをお気に入りの動物にしていました。「私は人間などではない。私はウサギなのだ」とすら語っていたボイス。そうした動物は神的な性質をもち、ボイスのローイングや彫刻、アクションのなかでいろんな関連をもちながら登場してきます。ボイスとその動物たちとのルーツはどこにあるのか知った時、ボイス芸術の”キー”に気づくことになります。「社会彫刻」や「拡張された芸術概念」がボイスのなかでどのように生まれたのかを知った時、煙に巻いたかのようなボイスのパフォーマンスや作品に、ぐんと近づくことになるとおもいます。
「動物たちは身を捧げた。まさにそのことによって人間は現在の人間にありえたのである」ヨーゼフ・ボイス
BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命

ヨーゼフ・ボイスは、オランダに近いドイツ西部、デュッセルドルフやエッセンに近い、ライン河下流左岸の都市クレーフェルトに(人口約24万人)1921年5月12日に生まれています(同じくクレーフェルト生まれには馬具職人のエルメス、ミュージシャンでクラフトワーク創始者ラルフ・ヒュッター、フィギュアスケートイナ・バウアーらがいる)。ただ誕生したその年に、ボイスはオランダの国教までわずか10キロにある街クレーフェ(Kleve/人口5万人程)に移り住み、後にボイスは、この小さな街で誕生したと記すようになります。生まれた記憶もない土地よりも、生まれ育った記憶のある確かな土地こそ、誕生の地にするのは人間の性。またそれ以上に、クレーフェの土地と自然は、ボイス少年の感性と人間形成の源泉となったのです。後年ボイスはしばしば1歳半の頃、自然のなかにいた自分を詳細に回顧することができると語っていたといいますが、クレーフェの土地と自然がいかにボイスそのものとなったかを告げているようです。実際に、草や樹木、茸について多くを知り、蠅や蜘蛛、魚、カエル、ハツカネズミやドブネズミを捕まえまるで小さな動物園とでもいうような迷路的展示空間を設けたのもクレーフェの地でした。

ここでボイスの家族についてみてみましょう。父ヨーゼフ・ヤコブ・ボイスは商人だったといいますが、世界大恐慌以前はクレーヴェ近くのちいさな町リンデルで酪農業共同組合の幹部だったようです。大恐慌のあおりで共同組合はつぶれ、兄弟とともに小麦、飼料店を設立、商人だったというのは、小麦や飼料の商いでした(戦時中は地方行政の仕事に就いていた様)。小麦や飼料となれば、大地や動物とボイスとの関係をみれば、直接的ではないにしろボイスの記憶に潜在したのでしょう。ただ、几帳面な性格で家庭的ではなかった父ヨーゼフとの関係はまったく冷え冷えとしたものだったようで、ボイスは厳格なカトリックの空気に支配された家から脱出することを願っていたといいます。一方、ヴェーゼルのヒュルザーマン家出身の母は、少年ボイスに、芸術的な関心を与えることはありませんでしたが、芸術的な「感性」の土壌になるものを授けたようです。ボイスが幼少から好み馴染んだ「自然を観察」することは、母から伝えられたようです。母は厳密なものではなくとも「自然科学的関心」を持っていた人でした。
芸術と政治をめぐる対話

クレーフェの地は少年ボイスに「自然」だけでなく、壮大な歴史文化的「物語」をも与えます。クレーフェのランドマーク的存在といえば、「白鳥城」とも呼ばれるシュヴァネンブルクの城で、築城の起源は聖杯王パルジファルの息子である<白鳥の騎士ローエングリン>にあるといわれています(17世紀のヨハン・モーリッツ伯爵は植物学者でもあり、白鳥城に素晴らしく美しい庭園をつくりだした)。ボイスの初期ドローイングに「白鳥」が多く描かれているのは、動物としての白鳥と郷土の歴史物語への深い思いからだったのです。また後にボイスがヴァーグナーの楽劇を好んだのもこれが精神的土壌でした。さらに近郊にたつグナーデンタール城はボイス少年のお気に入りの遊び場で、その城にかつて暮らしていたクローツ男爵に憧れていました。男爵はなんとフランス革命時にパリに出向き、ジャコバン党に与し、フランス国民集会で人類の普遍的理想を説き、スパイとして捕獲されロベスピエールによって処刑されます。
ギムナジウム時代、ボイスは多面的で複雑な性格をみせています。じっとしていられない性格のボイスは独創的な悪戯ら者で落第も経験する一方、校長先生はボイスをかばったり、かつて戦争体験で両脚が義肢だった英語教師が学校まで安全に通勤できるよう自転車で学校まで伴うリーダー役であり、早朝の挨拶は一番大きな声を出す快活な生徒だったといいます。そんなボイスは、自宅に帰ればほとんど実験室の様な自室でさまざまな植物や茸などを観察し帳面に書き留め、「植物コレクション」(15歳の時、絵にあらわれた芸術的早熟さは周囲を驚かせていた)をつくりあげただけでなく、ネズミや蠅、蜘蛛、カエル、魚などを飼育するミニ「動物園」をつくりだしています。その一方、チェロとピアノのレッスンを受けていました(学校のオーケストラではチェロ担当だった)。後の作品「鹿追い」や「チンギスハン」のイメージは、この頃羊飼いの様に走り回っていた記憶を呼び覚ましたものといいます(『評伝 ヨーゼフ・ボイス』ハイナー・シュタッヘルハウス著 p16)
フルクサスとは何か?―日常とアートを結びつけた人々 (Art edge)
フルクサスとは何か?―日常とアートを結びつけた人々 (Art edge)

この頃ボイスは、小説もよく読み込んでいて、ロマン主義文学のヘルダーリンノヴァーリスゲーテやシラー、またスカンジナヴィアの詩人ハムスンには魅了され、哲学では、実存主義の先駆者キルケゴールに熱中していました。たとえば、「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが肝要」であり、「自分の存在に無関係に成立する<客観的真理>よりも、自分の存在と直接重要性を持つ<主体的真理>のほうが大切ではないか」というキルケゴールの認識はボイスに通じます。そして、エドヴァルド・ムンクの画を画家のなかで最も評価し、作曲家でお気に入りだったのはサティとリヒャルト・シュトラウスでした。
そんななかボイスは「彫刻」に目覚めていきます。さらにボイスはしばしばクレーフェの彫刻家モートアトガードエゴン・シーレを虜にした彫刻家ジョルジュ・ミンネを敬愛)と知り合いアトリエを訪れています。そして17歳の時(1938年)、ボイスの芸術家人生にとって決定的な影響を与え、”霊感”を与え、まさに手本となった彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックを”発見”するのです(ボイスはレームブルックから彫刻を”直感”によって把握する、新たな彫刻概念を獲、それは後に「心的な材料」で彫刻をつくりだす「社会彫刻」へとつながっていく)。このギムナジウムの校庭で、ナチスが命じた焚書しなくてはならない書籍のなかで見出し、灰になる寸前、レームブルックの彫刻の複製図版が載ったカタログを抜き取って救ったのでした。その本の山の中にはトーマス・マンの作品やスウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネの『植物分類体系』もあったので、ボイスは抜き取っています。
ギムナジウム時代、ボイスの”心根”は、なんとも広く深く伸びていっていることがわかります。そしてその独特なかたちをとりはじめた”心根”ゆえ、ボイスは小さな旅回りサーカス団の虜になり、動物飼育係として働いたり、サーカス団のポスター貼りや大工仕事をして過ごすようになるのです。ギムナジウム卒業時(大学入学資格試験がある)前の1年間にわたってのことでした。ギムナジウム卒業がご破算になったと嘆き悲しんだ両親は、息子ボイスをライン河上流で探し出し連れ戻し、マーガリン工場で働くよう仕向けましたが、教師たちがボイスを援護し1年かけて卒業までこぎつかせています。
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絹織物業者であり「画商」でもあった父。実家でもある宿屋「メーヘレン」には、デルフトの名立たる画家たちが画商の父と交渉するため訪れていた。家のすぐ裏手にあった「素描学校」。『真珠の耳飾りの少女』の少女と東方海洋貿易の中心地デルフトとの関係

フェルメール ――謎めいた生涯と全作品 Kadokawa Art Selection (角川文庫)
フェルメール  ――謎めいた生涯と全作品  Kadokawa Art Selection (角川文庫)

フェルメールといえば、レンブラントゴッホと並び今やオランダを代表する画家である。2012年初夏に、『真珠の耳飾りの少女(制作1665年頃)が来日し、各メディアでも大いに話題になったあのフェルメールである。フェルメールの絵と認められているのは今日、32〜35点だと言われ、作品点数の少なさと当時、金と同じほど稀少だった「青色=ウルトラマリン」を少女たちの衣装にもちいたミステリー、そして清らかな光や特徴的な<静謐な絵>の謎などが絡み合い、フェルメールはほとんど「神話」の様に扱われてきました。
作品「真珠の首飾りの女」「手紙を詠む青衣の女」「牛乳を注ぐ女」「赤い帽子の少女」「恋文」「音楽のレッスン」「小径」「デルフトの眺望」「地理学者」「天文学者」「信仰の寓意アレゴリー」などの作品に垂れ込めて「神話」は、制作背景や意図など謎はまだまだ残しつつも、幾つものベールは開けられていきます。
フェルメールの生涯に光があてられはじめたのは、ようやく1970年代の後半からだったといいます。それは17世紀のオランダ・デルフトの芸術家・職人の経済社会的地位に関する古文書にあたって研究をかさねていた経済史家が、その過程でフェルメールに関する未発表資料を偶然見つけたのです(光は美術史ではなく経済史の研究からやってきた)。その発見から従来のフェルメール像や絵画に検証が加えられ、神話からリアルなフェルメールがようやく語られるようになっていったのでした。

また、フェルメールの写実的な絵の制作には、「カメラ・オブスクラ」(カメラ発明以前の光学装置)がもちいられているという研究もなされていますが、重要なことはフェルメールこそが、当時「写実」第一だった絵画の世界に、色彩や対象の引き算など「創作」を加えたものこそがフェルメールの絵画世界だったということです(「デルフトの眺望」ですら)フェルメールに光学的知識を与えたのは、望遠鏡や顕微鏡の製作者たちとも情報を交換しあっていた音楽家で詩人のコンスタンティンホイヘンスや、フェルメールの死後、財産管理人に指名されたデルフト生まれの有名な顕微鏡製作者アントニー・ファン・レーウェンフックでした。このこともまたフェルメール絵画の興味深いパースペクティブに興味を付加しています。
真珠の耳飾りの少女』に心奪われた多くの人もフェルメールがどの様に絵画世界にかかわっていったかを知った時、さらに関心は深まり、フェルメールのえもいわれない「静謐」な絵画空間の秘密により迫れるとおもいます。ただそれでもフェルメールの生涯は、とくにその幼少期や、性格や気質、自身11人もの子供をもった家庭環境など、ベールに包まれた部分は多くあり、フェルメールの決定的「伝記本」と銘打たれた書籍は存在していません。が、幾冊ものフェルメール研究書や論文、アート本などから新たな研究の光を受けたフェルメールに接近することができます。それではフェルメールが生まれる前のオランダ・デルフトの町とデルフトの町の変化からみてみましょう。
フェルメール 光の王国 (翼の王国books)

ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:ヤン・フェルメールとも)は、1632年10月31日(1675年に43歳で死去)に、オランダのデルフトの町に生まれています。デルフトは17世紀半ば頃、商業の中心ではあったもののいち地方都市にすぎなかったと言われていますが、じつはデルフトはオランダの建国にとって極めて重要な役割を果たすことになった土地だったのです。17世紀、デルフトはオラニエ公の宮廷との緊密な関係にありました(海辺のハーグから内陸のデルフトへ宮殿を移す。死後4年後に息子のマウリッツがスペインの無敵艦隊を撃破しオランダは実質的独立を果たす)。オラニエ家から出現したのが、「オランダ建国の父」と呼ばれるのウィレム沈黙公で、彼こそスペインとオランダとの80年戦争で北ネーデルランド諸州をまとめ陣頭指揮をとった人物でした(北が現在のオランダ、南部の現在のベルギーをめぐるハプルブルク家スペインとの領土問題)
オラニエ公家やそのかかわりのある人たちが、宮殿の内部装飾として欲したのが、「肖像画」や「歴史画」だったのです。そのためデルフトには、画家たちに多くの絵を発注し活況を呈することになりますが、オラニエ公家が好んだのはイタリア古典主義的伝統にそった絵画で、貴族趣味的なものでした。またウィレム沈黙公の暗殺で、オラニエ公家からの絵画の注文は減少、「肖像画」や「歴史画」で腕をあげることは、デルフトの画家たちにとって栄誉と報酬とともに制作しがいのあるジャンルではなくなっていったのです(オランダ芸術の中心地であったアムステルダムでは新たな絵画も展開されつつあり、後にフェルメールは一時期アムステルダムに絵の修業に出ます)
つけ加えれば、デルフトには時を同じくする17世紀に、東方海洋貿易を一手に担った東インド会社の中核的支部があり、あの『真珠の耳飾りの少女』の少女が身にまとっているとされる日本の着物や中国の磁器など東洋の文物が描きこまれたり、部屋の壁にかかる地図が多く描きこまれたことなど、海洋交易国家オランダを映しだしているのです。
フェルメールの世界―17世紀オランダ風俗画家の軌跡 (NHKブックス)
フェルメールの世界―17世紀オランダ風俗画家の軌跡 (NHKブックス)

フェルメールの父レイニール・フェルメールは、デルフト広場に面した「メーヘレン」という名の宿屋を経営していただけでなく、絹織物業者であり、画商でもありました(画家、画商、職人が所属した同業組合「聖ルカ組合」のメンバー。父レイニエルの本姓は、フェルメールではなく、ヤンスゾーン・フォス[Vosは英語の狐(Fox)]で、アムステルダムの同姓同名者に間違われないように、後にファン・デル・メール→フェルメールへと変更)。じつは父が画商をはじめた契機は、フェルメールの母方の祖父が、かなりの額にのぼる(当時で評価額2000〜3000ギルダー。点数としては17点)絵画コレクションを所有し、死後、フェルメールの母に相続され、そして父へと手渡されます。父が「聖ルカ組合」のメンバーだったのは、画家ではなく画商だったのですから。父レイニールが画商になったのは、フェルメールが生まれる1年前のことでした。
父は宿屋を経営する傍ら「画商」だったことはよく知られていますが、どのような絵画を扱う画商だったかを知れば、フェルメール誕生の背景としてさらに興味がましてきます。まず重要なのは、フェルメールの幼少期、すでに身近に「絵画」が存在していたことです。そこにあったのは後にフェルメールの師匠筋ともなる(また結婚の証人)画家ブラーメルは、フェルメールの父が所蔵する絵をコピーしたり、フェルメール家とは近い関係になりました。そして宿屋「メーヘレン」には、画商の父と交渉するためデルフトの一線の画家たちが訪れ、子供心にフェルメールは多くの画家たちを見知ったり、画家という職業があることを早くから感じ取っていました。とくにデルフトで有数の画家ブラーメルとの交流は、少年期から青年時代にかけてフェルメールに大きな影響を与えつづけたといいます。
さらにフェルメールの絵画への関心の芽を育てたのは、宿屋「メーヘレン」のすぐ裏手にある「素描学校」(画家コールネーリス・リートウェイクが主宰)があり、幼少期にフェルメールはそこで絵画の手ほどきを受けたのだろうと推測されています(『フェルメール論』小林頼子著 八坂書店 p.42)。宿屋「メーヘレン」はフェルメールが8歳の時から、その住居兼の建物に一家で引っ越していますが、生まれた「空飛ぶ狐」と呼ばれる家もその近くにありました。
▶(2)に続く-未

http://youtu.be/oZnQDqT-7aM
マウリッツハイス美術館 フェルメールの魔術


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真珠の耳飾りの少女 通常版 [DVD]
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フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)
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謎解き フェルメール (とんぼの本)
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美術家だった父・岡本唐貴は、「日本プロレタリア美術家同盟」に参加、三平が誕生した時、特高警察に検挙、投獄中。若き黒澤明に絵を教える。警察の監視から逃れ被差別部落や在日朝鮮人集落周辺に住む。長野・真田村への疎開。そこで村の記憶である真田一族の歴史を知る。「赤本」や「立川文庫」を読む。『カムイ伝』の原点の自然を知る

白土三平論

「優れた芸術家の生涯を眺めていくと、その人物を形成してきたものが本人の一代だけの努力と習練だけではなく、先行する世代から長い時間を通して蓄積されてきた知的・芸術的体験であることが、しばしば理解されてくるときがある。芸術家を父親とした息子や娘が、幼少期より薫陶を受け、長じて芸術家として大成するといった事例は、古今東西枚挙に暇がない。能楽観阿弥の後を継いだ世阿弥から、画家オーギュスト・ルノワールを父とした映画監督ジャン・ルノワール岡本かの子を母とした岡本太郎まで、われわれはいくらでもその例をあげることができる」(『白土三平論』四方田犬彦著 作品社 2004年 p.17)


白土三平といえば、『カムイ伝』『サスケ』『忍者武芸帳影丸伝』がすぐに思い出される。月刊漫画『ガロ』もまたそうだろう。私自身も少年時代、マンガやテレビアニメでずいぶんとお世話になった。今でも「サスケ」のTV主題歌は記憶に残り、時折、口に出てくる。が、原作者の白土三平はどんな人間で、白土漫画がどのように生み出されたか、といったことはほとんど知る機会がなかった。戦後10代で紙芝居作家となり、『忍者武芸帳影丸伝』が「貸本マンガの金字塔」だったこと、『カムイ伝』と『カムイ外伝』を含め、なんと37年がかりで描き継がれ、しかも依然未完であることなども知らなかった。つく加えれば、月刊漫画『ガロ』青林堂もまた事実上、白土三平が自己資金で創刊(1964年)したものだった(編集長・長井勝一ではなかったのか? 
『ガロ』刊行以前、足立文庫という貸本屋向けの卸を営みつつ、神保町に貸本マンガを出版する日本漫画社を立ち上げたばかりの長井勝一に、白土三平が作品を持ち込み買い取られている。長井勝一は貸本で仕入れていた白土マンガ『こがらし剣士』を読んで興味を持っていた。それが接点となり長井勝一白土三平初の長編マンガ『甲賀武芸帳』を出版。2人は月刊漫画『ガロ』刊行になだれ込んでいく)。

「ガロを創刊するあたりの経緯は、今でも謎だね。よく、できたなぁと思う。大手出版社の雑誌で仕事を始めたけど、やってるうちに話が壊れていく。それなら雑誌を作ってしまおうか、と自然発生的に思いついた。損だの得だのは関係ないんですよ。自分と同じような気持ちの仲間がいるだろう、そういう若い人たちの発表の場ができたらいいなぁ。そういう話を長井勝一さんとしていた。それにしても、いざ雑誌創刊の話を持ってこられて、それに乗った長井さんも不思議な人ですよ。普通ならビビる。俺も長井さんも暢気というか楽天的だったんだね」(『白土三平カムイ伝の真実』毛利甚八小学館 2011年 p.110 : 白土三平へのインタビュー)<<

白土三平伝-カムイ伝の真実

実際、雑誌名「ガロ」も、白土三平の「忍法秘話」の忍者名であり(我々の道を行くという「我道」という意味合いと、アメリカのマフィアの名前のイメージも込められたという)青林堂から出版されたものの制作は白土三平の制作会社・赤目プロダクションだった(『カムイ伝』の掲載は創刊号に間に合わず、旧短篇が採録されている)。これに刺激を受けた手塚治虫は、雑誌『COM』を自ら創刊、ライフワーク『火の鳥』もまた、白土三平のライフワーク『カムイ伝』への対抗心からだったといいます。「手塚治虫にとって白土三平は最大のライバルだった」といいます夏目房之介の言葉/『白土三平カムイ伝の真実』毛利甚八著p.10) 。もっとも白土三平の方は、戦後の闇市時代の昭和22年頃、手塚治虫の「赤本」マンガを貪り読んでいます(獲ったカブトムシと手塚マンガを交換した。『甲賀武芸帳』や『サスケ』『ワタリ』など白土初期マンガには手塚治虫の影響が濃いといわれる。『白土三平伝ーカムイ伝の真実』)

岡本唐貴自伝的回想画集 (1983年)
岡本唐貴自伝的回想画集 (1983年)


ともあれ戦後日本マンガの始祖とも呼ばれる天才・手塚治虫がライバル視した白土三平にはどんなライフ・ヒストリーがあるのか。そして1960年代後半の学生運動とシンクロしていった『カムイ伝』は一体どのように生み出されていったのでしょう。ライフワーク『カムイ伝』は白土三平の”魂の土壌”から生み出されていたものだったことがみえてきますが、冒頭に上げた一文のように、それは白土三平一代の”魂の土壌”ではありませんでした。そこは日本左翼美術史のなかの重要人物・岡本唐貴の”魂の土壌”でもあったのです。「岡本唐貴」とは、白土三平の父でした。

白土三平は昭和6年(1932年)、2月15日に、東京杉並で長男として生まれています。本名は、「岡本登」です。南画や西洋画の研究から独自の画報を生み出し蘭学のリーダー的存在だった渡辺(華山)登に因んでつけられたもの。まずは父・岡本唐貴について少したずねてみます。岡本唐貴(本名・岡本登喜男)は岡山県浅口郡連島町(現・倉敷市に生まれています。生家は地主でしたが、岡本唐貴の父白土三平の祖父)には放浪癖があり、家の相続も嫌い転居を繰り返した挙げ句、商売にも失敗。古本屋をはじめたものの脳卒中で急死しています。その時、岡本唐貴16歳。残された古本を読み漁った唐貴は、ボードレールの『悪の華』など文学と芸術に強い関心を抱き、同時に当時の米騒動労働争議から社会的不正義への怒りを覚えていきます。

岡本唐貴は80歳の時に「自伝的回想画集」を刊行しています。そのなかの「自伝走り書き」によれば、17歳の時1920年、画家を目指し東京へ。翌年、中央美術展に入選。同年に東京美術学校(現・東京芸大の彫塑科入学。2年後に二科展入選。文学者からアナキスト、社会労働家たちと交際。二科会内の急進グループ「アクション」に参加。三科造形美術協会の結成に、つづいてグループ造型の結成に参加。全日本無産者芸術連盟(ナップ)を改組した日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)の結成に参加。その年に後に映画監督になる黒澤明に絵を教えています。日本プロレタリア文化連盟(コップ)が成立。「第2回プロレタリア美術大展覧会」ポスターを、雑誌「戦旗」「東京パック」に挿絵を描いています。

日本プロレタリア美術史 (1967年)
日本プロレタリア美術史 (1967年)


息子・登(三平)が誕生した年、特高に検挙・投獄されています。特高警察の拷問から脊椎カリエスを発症(力仕事ができなくなる)。その翌年に、小林多喜二の死顔を描いています。現実会の結成、日本美術会の結成に参加。1943年に共産党入党(1958年離党)。そしてキリコらイタリアの形而上派やキュビズムの影響を受け、絵画の形式の否定への関心。ダダイズムに接近。後の作家、劇作家で演出家の村山知義と論争し友好を築きます。アナキズムダダイズムブルジョワ芸術の限界とみた岡本唐貴は、「人間集団主義による健康性に根差した絵画の復活」を求め、モニュメンタリズムの運動を提唱。東京都美術館で見ることができる「丘の上の2人の女」はその時のものです(日本という出自と西欧的近代の前衛精神の間に引き裂かれた画家の自我がみられるといわれている)。岡本唐貴は次第に左傾化。1928年に「ソシアル・リアリズム」という論文を発表。新しいリアリズムには社会主義が導入されなければならないと主張。1929年、ナップの下部組織として、「日本プロレタリア美術家同盟」が結成され、岡本唐貴は委員として活躍。この頃、19歳の黒澤明が、岡本唐貴のもとで絵画の手ほどきを受けたといわれています。

忍者武芸帳影丸伝 1 復刻版 (レアミクス コミックス)
忍者武芸帳影丸伝 1 復刻版 (レアミクス コミックス)

唐貴は画家を志していた相馬きみと結婚。岡本一家は、特攻警察の監視を逃れ、三平が2歳(1934年)から5歳まで、大阪と神戸を流転しています。闘病生活にあえぎながらも唐貴は関西のプロレタリア美術運動を再編成しようと企てていますので筋金入りです。しかし警察から目をつけられた一家が借りられる借家は限られ、被差別部落在日朝鮮人集落周辺へ。差別や貧富について闘っていた唐貴からすれば願うところ。三平は昭和10年(4歳)には大阪・生野で在日朝鮮人集落の風景を見、長屋で暮らした大阪・小曽根村長島(現・豊中市)でも強烈な記憶を刻んでいるようです。その地で父の友人で在日朝鮮人の鏡職人の男性が、拷問で身体を痛めた父の代わりに亀をとったりして遊んでくれた記憶を三平は深く刻んでいます。三平の心の裡で、被差別部落在日朝鮮人集落の人々は仲間として隣人となったのでした。三平は少年時代、「動物学者」に憧れたのもまだ自然が残っていた小曽根村長島での体験からでしたし、後に『シートン動物記』をマンガ化したり、『カムイ伝』での自然な動物描写の原体験もここにあるようです。



以降、東京と関西を行ったり来たりしていた岡本一家は、12歳の時(当時中学1年。戦中の1944年)、長野・別所温泉近くの八木沢に縁故疎開。その年暮れに山に囲まれた一軒屋の借家を見つけ引っ越した先が長村(現・上田市真田町)でした。三平はこの真田村で農業と自然に依拠した古い生き方を体感しています。三平は学校の友人と一緒に、父が手に入れてきた『キノコ図鑑』を持って、村人にならって山にわけ入りキノコを識別、採集、保存方法を学んだのでした(『甲賀武芸帳』に始まる三平の後にまでつづくキノコへの愛着はこの時から)。野山を飛び交う小動物たちもまた、白土漫画に常々描かれます。それは自然の過酷さと人間社会のメタファーでもあったようです。学校では軍事訓練に報国隊の勤労動員(食料増産や軍需工場)、家では山仕事に力仕事。掘り起こした松の根は、厳冬を乗り切る燃料に。山菜採りにイワナの手づかみ漁は、人間の「狩猟採集本能」を甦えらせるほどです。
カムイ伝全集―決定版 (第1部1) (ビッグコミックススペシャル)
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「自然のなかで飢えを切り抜けながら大人になるという通過儀礼」、これこそ三平少年が自然に溢れた真田村で体験でした。ただ東京からのただ一人の転校生であったここと、父親が政治的「アカ」であることを教師や軍事教練を教える軍人にさとられては危険だということで、かなり孤立感があったようです。ところが学校にいた軍人の一人が、威張り散らすばかりの教師と異なり、運命に対する清冽な覚悟をもったその姿が、三平少年を魅了するのです。白土三平ペンネームの「白土」とは、なんとその軍人の名前「白土牛之助」に因んだのでした。
そしてこの真田村(長村)とは、戦国武将の「真田幸村」とその側近の忍者たちをめぐる歴史的物語に満ちた土地。一家の家からそれほど遠くない山の中腹に真田信綱を祀る信綱神社があっただけでなく、三平が通学していた中学校(現・松代高校/移転前の場所。明治維新の先駆者佐久間象山や日本初の新劇女優松井須磨子富岡製糸場での日々を綴った『富岡日記』の著者和田英は、松代高校出身者。松代町松代藩真田十万石の城下町)は、いにしえには真田幸村城址でした。豊臣方につき逆境の運命を生きることになった真田一族の記憶は村のいたるところにあったそうです。三平は友だちの雑貨屋にあった「赤本」や「立川文庫」を読んで、真田一族や忍者の物語に親しんでいます。後に白土三平が、『真田剣流』や猿飛佐助ら真田十勇士の物語を描く原体験が、この地にありました。当時、真田村から千曲川を越え、塩田あたりの農村には、おそらく『カムイ伝』に描き込まれることになった、江戸時代からほとんど姿を変えていない集落がまだ多く残っていたのでした。
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江戸後期から種苗業で繁盛した草間家は地元の美術科のパトロン。祖父も父も芸者遊びに狂う。家の中はメチャクチャで両親は喧嘩ばかり、水玉模様や網模様は、幼少期に「心の病(「非定型精神病」)」あらわれた「幻視」だった。10歳の頃に描いた「母の肖像画」に無数の水玉模様を描き込んだ

無限の網 草間彌生自伝 (新潮文庫)
無限の網 草間彌生自伝 (新潮文庫)


「物心つく頃から私の視覚や聴覚や心の襞には、自然界や宇宙、人間や血や花やその他さまざまなことが、不思議や怖れや神秘的な出来事として強烈に焼きついて、私の生命のすべてを虜にして離さなかった。そして、しばしばこれらの得体の知れない、魂の背後に見え隠れする不気味なものは、怨念にも似た執拗さをもって、私を脅迫的に追いかけ廻し、長年の間、私を半狂乱の境地に陥れることになった。
 これから逃げれ得る唯一の方法は、その『モヤモヤ』、輝いたり、暗く深海に沈んでしまったり、私の血を騒がせたり、怒りの破壊へとけしかけるモモンガア、それらは一体何だろうかと、紙の上に鉛筆や絵具で視覚的に再現したり、思い出しては描きとめ、コントロールすることであった」(『無限の網 草間彌生自伝』作品社 2002年 p59 )


草間彌生といえば、その奇抜なファッションに、水玉模様や網模様が無限に反復、増殖する絵(ポルガドットとネットは、一つの原型の二つの現れ)、男性器状の突起が無数生えたオブジェにソフトスカルプチャー、人前でのSEXパフォーマンス、電飾彫刻や合わせ鏡をもちい無限の広がりをみせるインスタレーションなどがすぐに思い出されます。それらは今やポップ・アートや環境芸術の先駆とも位置づけられるほどの先鋭的、前衛的活動でした。
遡れば、28歳の時(1957年)、単身渡米し1960年代後半の全米の話題をさらっていく裸体のボディ・ペインティングとボディ・フェスティバル、度肝を抜くファッション・ショーにヌードダンサー一座を引き連れ「パフォーマンス」の先駆者の一人として位置づけられています。さらに映画制作「草間の自己消滅」(1968制作)や自身もブティックを開店(1969年)など、アメリカでは最も有名な日本人アーティストとして知られています。また全米のデパートやブティックでも販売されたクサマドレスやテキスタイルを手掛けただけでなく、小説、詩集も多数発表していますプライベートでは、コラージュ・アーティト、ジョセフ・コーネルとの日々はそのすべてがほとんど伝説です。

草間彌生が描き出さなくてはならなかった水玉模様や網模様、無数の男性器状の突起物、そして裸体ハプニングとは何だったのか。草間アートを随分見知っている方ならば、どこかでその背景や出来事を幾らか聞き及んだことがあるかもしれません。しかし『無限の網 草間彌生自伝』を具に読んだ時、その噂や聞き及んだ情報は、かなり揺らぎはじめるにちがいありません。
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まずは草間彌生の生い立ちから確認してみましょう。草間彌生は、1929年3月22日、長野県松本市に生まれています。生家は広大な土地を持ち、江戸後期から種苗業と採種場を営んできた旧家で、大勢の雇い人が働き、各地に卸しと小売りをしていました。資産家となった草間家は、地元の画家のパトロンでもあり、そんなかたちで草間家は「美術」とつながっていたようです。しかし婿養子だった父・草間嘉門は奔放な性格で芸者遊びに狂い放蕩の限りを尽くすような人物でした。女郎屋から芸者のもとに通ったり、家の家政婦にも次々と手をつけたり、芸者を身請けして勝手に上京してしまったこともあったほど。しかしそれは父・嘉門だけでなく、草間家の祖父とにかく草間家は父子の二代にわたって、女遊びに明け暮れ、祖父と父が競争で女を漁っていたというのです。なんという草間家。
そんな父に気位が高く激しい気性だった母は絶えず怒り荒れ、両親は喧嘩ばかり。母は彌生に小遣いを手渡し、どんな寒い日にも父の跡をつけてどこに行ったのか探偵させるのです。とにかく家の中はメチャクチャだったといいます。彌生は子供心にも、男は無条件にフリーセックスをし、女は耐える一方、「こんな不平等なことがあっていいものだろうか」と憤りを感じています。このことは「後の思想形成に大きな影響を与えた」と自身語っているほどです。どこかで聞いた話ではなく、日々そうした修羅場を目のあたりにしていた子供が受ける影響はどれほど強く深いものでしょうか。
草間彌生全版画集 All prints of KUSAMA YAYOI 1979-2004


彌生が幻覚や幻聴を体験するようになったのはいつ頃からか。『無限の網 草間彌生自伝』では、12歳の時、長野県立松本第一高等女学校に入学した頃からと記していますが、実際には小学校時代、否、それ以前からだったと思われます。というのも同著の同頁(p.55)後半、「幼い頃から…」からはじまる次の一文は、中学生の時分の体験でなくそれ以前のものと思われるからです。

「幼い頃から.私は採種場へスケッチブックを持ってよく遊びにいった。そこにはスミレ畑が群をなしていて、私はその中でもの思いにふけって座っていた。すると突然、スミレの一つ一つがまるで人間のようにそれぞれの個性をした顔つきをして、私に話しかけてくるではないか。そして、それがどんどん増殖していって、耳が痛くなるほどに語りかけてくる。人間だけが喋れると思っていたのに、私に言葉をもって交流してきたスミレたちに、まず私は驚いてしまった。その時、私にはスミレの花が人間の顔に見え、それが全部私の方を向いている。私は恐怖で足がガタガタと震えるのをどうすることもできなかった。
 走って夢中で家に逃げ帰ると、今度は家の犬が人間の話す言葉で吠えかかってきたのだ。すると今度は逆に自分の声が犬の様になってしまっている。どなってしまったんだろうというパニック状態で家に飛び込んだ。青くなって押し入れにもぐり込み、やっと息をつくことができた。思い返しても、それが現実だったのか夢だったのかほとんど判断できなくなっていた」(『無限の網 草間彌生自伝』p56 )

はやくも10歳の頃に描いた「母の肖像画」には、すでに無数の水玉模様が描き込まれています。それは眼前の母の姿に、彌生の視覚にどうしようもなく浮かび上がってくる無数の水玉模様が、1枚の絵の上に融合したものでした。別の書籍『クサマトリックス角川書店 2004年)でも、小学校に入学した頃の体験として「幼い頃より、物もまわりにオーラが見え、スミレの花や犬など、植物や動物の話す言葉が聞こえるといった幻覚を体験するようになる。絵を描くことが好きな少女だった草間は、幻想や幻覚、幻視体験、怖れや不安感を絵に描き始める」と記しています(草間氏本人の確認が入った一文として)
蟻の精神病院
蟻の精神病院


少女彌生のこうした幻覚・幻視体験については、23歳の時に郷里の松本市公民館で初個展が開かれた際、立ち寄った信州大学精神病理学の泰斗、西丸四方(芸術にも深い関心があり、彌生の絵を購入)によって診断されています。西丸博士は、草間彌生を、統合失調症と躁鬱の感情障害の波が合併した「非定型精神病」と診断。通常は幻覚のほとんどは幻聴であることが多いといいますが、草間彌生のように「幻視」を伴うのは稀な症状とみています。西丸博士は、精神科病棟は窓に柵をとりつけ扉に鍵をかける閉鎖病棟ではなく、開放病棟を設置した「改革者」であり、彌生に出会った3年前に刊行された『精神医学入門』(1949年)は、以降半世紀以上、精神医学の教科書の先駆的名著とされています。

じつは西丸博士が東京帝大医学部をでて精神科に向ったのは、実弟の西丸震哉(食生態学者、作家、登山家)が小さな頃から鮮明な幻覚を見ていて、彌生の珍しい「幻視」にも寄り添うことができたのでした(以降、彌生は西丸博士を良き相談相手として、また患者として長く交流がつづく。家を離れるように助言したのも博士だった)。西丸博士とのやりとりを通じ、彌生は独学独流だった絵を描く行為に、意識的にアプローチができるようになっていくのです。さらに西丸博士を通じて博士の恩師、東大精神医学教授・内村祐之へ、そしてゴッホ研究家としても著名な式場隆三郎へと紹介され、そこから白木屋での個展へとつながっていきます。同公民館での2度目の個展では、美術評論家瀧口修造とも出会い、タケミヤ画廊での個展、そしてニューヨークのビエンナーレへと繋がっていくのです。
無限の網―草間弥生自伝
無限の網―草間弥生自伝


彌生の「幻視」とはどんな時に生じたのか、それはどんな様子だったのか、『無限の網』でみると、

「ある日、机の上の赤い花模様のテーブル・クロスを見た後、目を天井に移すと、一面に窓ガラスにも柱にも同じ赤い花の形が張りついている。部屋じゅう、身体じゅう、全宇宙が赤い花の絶対の中に、私は回帰し、還元されてしまう。これは幻ではなく現実なのだ。私は心底から驚愕した。…夢中で階段に駆けていく。下を見ると、一つ一つの段々がバラバラに解体していく。その有様に足を取られて、上から転げ落ち、足をくじいてしまう。
 のちの私の芸術の基本的な概念となる、解体と集積。増殖と分離。粒子的消滅感と見えざる宇宙からの音響。それらはもう、あの時から始まっていた」(『無限の網 草間彌生自伝』作品社 2002年 p61 )


ある時は、夕刻時に山並みの稜線からパァーと光が溢れ出て、さまざまなキラキラするものが目に飛び込んでくる。そんな時には家に飛んで帰って、見たものをスケッチブックにどんどん描いていきます。そんな幻視イメージが消えないうちに記録しようとすると、イメージは次から次へと沸き上がってきて、手が追いつけない状態に。そうした幻視イメージを描いた手帳は何冊にもなったといいます。「その時に感じた驚きや恐怖をそうやって静めていく。それが私の絵の原点である」と彌生は語ります。
彌生は西丸博士と出会うまで、相談できる人などいず、幻覚・幻視からくる不安に自分ひとりで耐えていました。その理由の一つに、幻視が生じるのは聴覚を一部欠損しているのではないか、自分だけが知る秘密が暴露されてしまうことへの怖れがあったといいます。

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クサマトリックス/草間弥生
草間彌生Art Book Hi,Konnichiwa
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天と地の間
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草間彌生 手ぬぐい(かぼちゃ/黄)
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