伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

スタンリー・キューブリック(2): 美術教師が伝えた映画の可能性

人との交流は苦手だが、人の演技の撮影には深い関心


www.youtube.com

 

スタンリー・キューブリック(1)から

いつも35ミリ・カメラを首からぶらさげていた

キューブリックは中学校の成績にみあった地元の公立高校のウィリアム・ハワード・タフト校に進学します。中学校で成績のよい生徒たちはブロンクス科学高校に通いますが、キューブリックの成績では無理でした。しかしこのタフト校で、キューブリックは思う存分、写真の世界を追求し、また「映画」への関心もふくらませました。


タフト校に入学するとキューブリックは写真部に所属します。キャンパスではキューブリックはどんな時でも35ミリ・カメラを首からぶら下げていました。写真部員はバスケットの試合や演劇などの学校行事を撮影する任務が課され、キューブリックの撮った写真も校内新聞や雑誌に掲載されました。

しかし校内での撮影では天候に関係なくいつもレインコートを着ていて変な奴とおもわれはじめます。ふつう写真部員がカメラを首からぶら下げていても、学生たちはそれほど気にもとめないはずです。新聞部員がキャンパスのイベントを取材したり放送部員が校内放送をするのと変わらないはずです。

 

 

が、いち写真部員だったキューブリックは変わり者にみえた。どうしてか。おそらくその服装や性格だけでなく、スポーツの試合などの学校行事での撮影とは無関係に、校内でもこれぞとおもう”決定的瞬間”を絶えず狙っていたからにちがいありません。


キューブリックは再び出席率が悪くなり成績も急降下していきました。学校側はキューブリックを社交性を欠く風変わりな劣等生として、両親にことの事態を通知しています。型通りの教育システムでは、ほとんどの場合、芸術的な非凡な才能は、変わり者の烙印を押されるだけ、という症例がここにもあらわれました。


太平洋戦争末期、ルーズヴェルト大統領死去を報じる「写真」を売る


キューブリックはタフト校の写真部の一員として高校生活を取り続けています。写真部の任務の一つはチアリーダーたちの写真を撮ることでした。キューブリックチアリーダーたちを撮影して現像し焼き付け、を自分の名前を押して彼女たちに渡しています。 

 

 

キューブリックは「Stanley Kubrick Photo NY Shakespear Avenue 1414」というゴム印のスタンプをつくって自分の撮った写真に押していました(キューブリックがリスペクトするウィージーも「Weegee Photo」とスタンプを押しています)。それはプロ・カメラマンであることの証だったのです。17歳にしてすでに「ルック」誌に写真を掲載されるプロのカメラマンとして活動しはじめていたキューブリックにとって、写真は学内で名を売り評価をあげる行為でも、趣味でも課外活動でもありませんでした。


キューブリックの写真を「ルック」誌に掲載されるきっかけになったのは太平洋戦争末期のルーズヴェルト大統領死去の時でした。それは後にクリント・イーストウッドが映画化した硫黄島の戦いで、摺鉢山に星条旗が翻った翌月(1945年4月)のことですから今からおもえばかなり前のことです。

その頃に、映像作家キューブリックの着実な第一歩が刻まれていたのです。キューブリックがいつもの新聞スタンドの前を通り、ふと視線を向けると、新聞がルーズヴェルト大統領の死去を報じていました。その衝撃的な大文字のタイトルと新聞売りのおじさんの表情が、キューブリックのインスピレーションを捉えたとのです。

 

 

シャッターを切ったキューブリックはすぐに暗室に駆けつけ、現像し焼き付け、”決定的瞬間”を押さえた写真を売り込みます。「ニューヨーク・デイリー・ニュース」の購入の申し出を断り、天秤にかけつつ、5ドル高く値をつけた「LOOK」誌に25ドルで売りました。実際、同誌の次号に大きくフィーチャーされました。

これ以降キューブリックの運命がどんどんフォーカスされていくことになります。

 

人との交流は苦手だが、人の演技の撮影には深い関心


キューブリックの写真への情熱は、タフト校の教育的基準の枠外でした。ほとんどの教師から、本来の能力にみあった行動もできず努力も足りない、さえない生徒と判断されていました。しかし、キューブリックの才能に気づいた教師が2人いました。

2人ともキューブリックの「写真」を通じて見抜いたのです。1人は国語教師のアーロン・トライスターで、「教えることは演じることだ」という信念をもっていた彼は、シェイクスピアなどの文学作品の全登場人物を一人で演じわけながらまさに教室を舞台に”上演”していました。キューブリックはその迫真の演技を、撮りたいと感じました。

 

 

そしてその写真は1946年4月の「LOOK」誌に、4枚の組写真となって「教師、『ハムレット」大熱演」という大きな見出しで掲載されました。これは当時のフォト・ジャーナリズムでよく用いられるようになった「組写真」の方法ですが、それよりも人との交流は苦手のキューブリックが、目の前で演じてる人を撮影することに深い関心を示し、適格な構成力と判断で仕事に持ち込めることを証したことの重要性です。

同時に、将来の映画の撮影に対応できる能力を示すものでもありました。教師アーロンは実際、キャンパス外では俳優業もしており、教室内であれ本格的な生の演技を撮影できたことは、キューブリックにとって大きな糧となり自身となったはずです。


美術教師が伝えた映画の可能性


2人目はアート・プログラムの教師ハーマン・ゲッターです。ハーマンは授業ではセザンヌピカソなどの作品や美術の歴史を教えていましたが、壁画家でもあり映画製作もしていたハーマンには、発明からまだ半世紀しかたっていない「映画」の可能性に気づいていました。

 

そして写真に興味をもつ者ならば、映画にも関心を向けるはずだと、キューブリックと芸術を専攻していたアレグザンダー・シンガーに映画撮影術を学ぶことをすすめたのです。

キューブリックは独自に映画について研究しはじめました。合成を試みたり、照明やレンズをいじったり、グラフレックス・カメラの構造を調べだしました。

 


授業に出る代わりに映画館に通った


そしてキューブリックは授業に出る代わりに映画館に向うようになります。2つの映画館で上演する週に2回ある2本立ての映画を観るためには授業に毎日出るわけにはいきません。都合、週8本もの映画をかなり継続的に観ていたことになります。

この時代のティーンエイジャーは、映画館によく行く方で、それでも週一回土曜日に映画を観てのがふつうだったので、キューブリックがいかに異常なほど映画を観ていたかわかります。

 

しかも漫然と観ているのではなく、映画を構成するすべての要素に目を向け、自分が映画を製作する様子をイメージしながら観ていたといいます。まさに「マインド・イメージ」のトレーニングです。そして映画館にかかる映画よりもましなもの(はるかにましなもの)を自分なら撮れるという確信を覚えながら観ていたといいます。

「スターやジャンルの好みで映画を見ることはなかった。すべてを観てすべてを学んだのだ」と後年語っています。

 


キューブリックは美術教師ハーマンに映画について話すようになります。その斬新なアイデアにハーマンは驚き、直感します。「この子は映画撮影のピカソだ」と。キューブリックはすでにこの時、自身が映し出す映像を「マインド・イメージ」としてもっていました。

そしてキューブリックの「心の樹」の一番の太い幹は、まるで何枚もの写真がシークエンシャルなロール・フィルムとなって「映画」のようにイメージが動きだすように、一気に伸びあがっていくのでした。


キューブリックの高校時代の成績は卒業時、全生徒509人中414番でしたが、キューブリックにとっては何の意味ももたない順位でした。ところがその成績証明書をニューヨーク大学へ送付したのは、太平洋戦争がすでに終結した1945年11月で、発動され復員兵援護法のもと、膨大な帰還兵が大学に入学する時期と重なってしまいました。

結果、希望するニューヨーク大学にすすむことはできず、キューブリックニューヨーク市立大学夜間学校へ入学します。

 

スタンリー・キューブリック(3)に続く: