伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

デニス・ホッパー(1):カンザスの小さな農場から

祖母が週一度連れていってくれた町の映画館。9歳の時、ガソリンを吸って「幻覚」を見る



はじめに:

デニス・ホッパーは、”アンディ・ウォーホル”より、マルチプルだ2010年春、前立腺癌の転移で74歳で死去した60'sカウンターカルチャーのヒーロー、デニス・ホッパー。しかしD.ホッパーをアルコールとドラッグ浸けで反体制的の破滅型シンボルと見立てると、D.ホッパーの本懐はまるでみえなくなります。

D.ホッパーは、およそアンディ・ウォーホルのようにマルチプル(多様にして複合的)な活動を展開してきたことはすでに広く知られていますが、D.ホッパーの「マインド・ツリー(心の樹)」そのものは、マルチプルな「コピー」だけのA.ウォーホルと異なり「オリジナル」と「コピー」と2本の樹が相対してあるようにおもえるのです。

 


映画『イージー・ライダー』や『ラストムービー』などを監督(出演)し、『地獄の黙示録』や『ブルー・ベルベッド』などで記憶に浸透する役を演じ、数々のインディペンデント映画に出演し、舞台に出、同時に、60'sの核心の写真を撮り、アート(抽象表現主義)作品を生み出しました。

役者なのにカメラをつねに持ち歩きアートに入れ込むD.ホッパーは8歳年上のA.ウォーホルをおおいに刺激し、アンダーグラウンド「映画」製作へ、そして著名人の肖像「写真」へと開眼させています。同時にハリウッド映画スターへの回路もD.ホッパーからもたらされました。

 

D.ホッパーもA.ウォーホルの初個展「Campbell's Soup Cans」をみていて(1962年)、ポップアートの胎動を西海岸の誰よりも早く認識し、カリフォルニアへ来るA.ウォーホルのために俳優たちを招いて歓迎パーティーを開いています。

 


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A.ウォーホルの初個展はニューヨークでなく、ロサンジェルスのフェラス画廊(Ferus Gallery)で催されるのです。その時、D.ホッパーはキャンベル・スープ缶の作品を$50で早々購入さえしています。それは60年代「アート」のグローバル・キャピタルだったニューヨークと、「映画」のグローバル・キャピタルだったハリウッドの「パーティ」でのめくるめく<交換会>でした。

A.ウォーホル初の監督作品『ターザンとジェーンの復活.....のようなもの』は、ハリウッドのホテルの一室で撮影され、そこにD.ホッパーも登場しているのです。D.ホッパーはニューヨークへ、A.ウォーホルはハリウッドへそれぞれ「カメラ」を手に乗り込み、お互いを撮りあったということになります。

 

 

D.ホッパーの「マインド・ツリー(心の樹)」のダブルイメージは、D.ホッパーがジェームズ・ディーン主演の映画『理由なき反抗』(1955)と『ジャイアンツ』(1956)に若者役で出演し、意気投合したジェームズ・ディーンから演技論や役者の有り様を吸収している際にも起こっていました。

 

D.ホッパーは、西海岸のアーティストたち、ブルース・コナー、ウォレス・バーマン、エドワード・ルシェ、エドワード・キーンホルツ、ジョージ・ハームス、ジョン・ティンゲリー、ニキ・ド・サンファール、ジョン・チェンバレンらと深く交流を持ち、自身数多くの作品を制作し(1955〜)、後の映画『イージー・ライダー』(1969)の映像編集は、その時に深く交わっていたブルース・コナーの実験映画から直接影響を受けたものでした。

 


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そして映画『ラストムービー』は、ホッパー自身が語るように、「絵画を使って絵を描いてきたように、映画を使って映画をつくった」もので、「オリジナル」と「コピー」の問題系を反映させたものでした(A.ウォーホルはその『ラストムービー』で使われた「写真」からホッパーの肖像を利用しオマージュを捧げている)。またそれはD.ホッパーの「心の樹」を反映させたものでもあったのです。

 

D.ホッパーのかかわったすべての領域は、「イマジネーション」の発露でした。ホッパーがニューヨークで学んだリー・ストラスバーグアクターズ・スタジオでは、感覚と感情のメモリーをあげて「イマジネーション」をはたらかせることを教えます。

それは役者個々人の「潜在意識」に到達させるための過程と方法でした。そこで深く演技論を学んだD.ホッパーも「潜在意識」に潜行していったはずです。

 

 

それでは一緒にD.ホッパーの「潜在意識」(一隅でしょうが)に向ってみましょう。それはD.ホッパーの大地に深く根ざしたような「マインド・ツリー(心の樹)」の太い樹幹と根っ子、そしてその土壌が培ったものでもありました。同時にこの作業は、D.ホッパーの「潜在意識」が「ミラー(鏡)」となって、その後に私たちが私たち自身の「潜在意識」に向うための一つの準備でもあるのです。

それを迎えた私たちは、自身の”根っ子”と”樹幹”を再認識(再発見)した、新たな「イマジネーション」を放ちはじめるのですから。それぞれの「セカンド・ライフ」、そして「ラスト・ライフ」に向って.....

 

カンザス州の大草原地帯の祖母が所有する

小さな農場に生まれる


デニス・ホッパーは、1936年5月17日、アメリカ・カンザス州、大平原が広がるダッジ・シティ郊外の農場で生まれています。そこは祖母の12エーカー(1エイカーは、10m×10m)の農場でした。

その農場の周囲は、境目がないように果てしなく麦畑がひろがっていました。まさにジェームズ・ディーンが演じた映画『ジャイアンツ』に写された広大な大平原地帯(グレートプレーンズ)そのものです(映画の舞台はカンザス州の南方に位置するテキサス州ですが、グレートプレーンズであることは変わりません)。


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そしてこの映画『ジャイアンツ』に、20歳のD.ホッパーはロック・ハドソンエリザベス・テイラー扮する大牧場主の息子として出演しているのです。またジェームズ・ディーンが一躍スターになった映画『理由なき反抗』にも端役でしたが出演し、デニスは5歳年上のジェームズ・ディーンと友人になっていました。

デニスはジェームズ・ディーンから俳優の香りとエッセンスを学びます。しかしジェームズ・ディーンは映画『ジャイアンツ』が公開される前に自動車事故で24歳で亡くなります。


映画『ジャイアンツ』でD.ホッパー演じる息子の父が所有する牧場の広さは59万エーカーと設定されていますが、D.ホッパーの祖母が持っていた農場の12エーカーがどれほどのものかがわかろうというものです。

 

 

いっけん大草原にある大農場で生まれた悠々しい気質、始原の生命力に溢れるデニス・ホッパーとなりがちですが、地平線に広がるのは当然どこかの身も知らずの大農場主の土地で、D.ホッパーの祖母の土地はすぐ目のとどく所までしかなかったのです。そのため祖母の夫(祖父)は、100キロ離れた小麦の大農園に働きにでることが多かったのです。


が、このグレートプレーンズの壮大さは、幼いデニスに空想に耽る必要を与えたようです。あまりの広大な土地柄ゆえ、周囲には家もほとんどなくデニスには友達といえる存在は、祖母だけだったのです。

そのためかちょっとした出来事や情報が、デニスの「マインド・ツリー(心の樹)」のなかで無限に大きくなっていき、自由奔放なイマジネーションを生み出すようになるのです。地平線の彼方から「想像上の」軍勢が攻めてきたら闘うしかない、と干し草の上で格闘の真似事をしてみたり、といった具合でした。


デニス・ホッパー(2)へ続く: