「旅」「海」「旅館」「宿」を好んだ理由は少年期の記憶のなかにあった。父は大島の旅館の板前さんだった。つげ漫画の根っ子にあるもの。自閉症、赤面病、対人恐怖症が進行した10代
世捨て人的な孤独感漂うシュールな作風と、その底にこびりつくようなユーモア感で、日本漫画界に独自の表現と陰影を生み出したつげ義春。その作風にはつげ義春の自画像が喰い込むように映し込まれていました。”根強い”ファンがをもつ一方、つげ義春自身はまるで”根無し草”のように放浪し、転居を繰り返していた時期がありました。誕生した時が、引っ越し(福島から伊豆の大島。父は大島で一番大きな旅館の板前職人)の”途中”(東京葛飾)だったという事実が直接的に影響してはいないでしょうが、「旅」は漫画家になってからもずっとつげ義春の心から離れることはなかったようです。
「旅」や転居続きといえば写真家・森山大道の少年期もまさにそうで、後の森山写真は「移動」と「旅」が刻みつけたザラついた記憶が印画紙の上に定着されたのですが、つげ義春がもし森山大道のようにモダンなグラフィック・デザインに10代の頃に接していたなら「写真」の方に向っていた可能性も少なからずあります(実際に、東北の湯治場や旅館の素晴らしい写真を多く撮っている。44歳の時には、なんと「ピント商会」という中古カメラ屋をはじめている。中古カメラ屋は質屋で安いカメラを仕入れ自分で修理してマニア相手に販売していたというのですから、漫然とそこにあるものをそのまま売ってというのではなく、子供の頃から闇市で持ち主の分からないようなセルロイド製玩具を盗んできて兄と一緒に売ったり、アイスキャンディ売りに精を出した過去もあり子供ながら「商い」の感覚は鋭い部分もあった。おそらく母の影響である)。
ちなみに森山大道の写真集に『遠野物語』がありますが、岩手・遠野の古い物語や言い伝えを纏めた柳田国男や宮本常一の本をつげ義春も30歳頃に熱中し、後に『遠野物語』を劇画化しています。森山大道よりも過剰に内気なつげ義春は、10代半ばすぎ部屋から一歩も外に出られない事態に陥り、部屋からでれなくても仕事ができる「漫画」へと向ったのです。しかし、部屋から出られなくなって弱りはてていた者が後に「旅」(紀行)名人と言われるようになるのだから、なんとも人生とは不思議なものです。でもそれにはそうなるだけの理由と契機があったのです。
以下につげ義春氏の幼少、少年時代のおおざっぱな年表を記しておきます。
4歳 母の郷里・千葉県大原町へ転居。幼稚園ではすでに自閉症気味の臆病な性格があらわれだし、幼稚園の集団活動に馴染めずなんと3日で退園。父は東京の旅館へ板前として出稼ぎ。母は夏は氷屋を、冬はおでん屋を営む。幼稚園ですでに自閉症気味の臆病な性格があらわれだし、幼稚園の集団活動に馴染めずなんと3日で退園。
5歳 出稼ぎ先で父は錯乱状態に陥り布団部屋に隔離され、母と義春はその布団部屋で震えている父の姿を目撃。父はその布団部屋の中で布団に挟まったまま亡くなる(つげ義春自身、あるエッセイの中で自分は狭い空間が好きだと告白している。それが何故なのかは不明)。母が開業した居酒屋も半年で廃業。海産物の行商をしはじめるが妹も生まれ一家は貧困のどん底へ。
6歳 葛飾区に転居。戦時中で母は軍需工場に就職、後に行商と仕立物の仕事。元漁師だった母の養父だった祖父が泥棒となり盗んだ金で家計を助け、その祖父に溺愛される。
7歳 小学校に入学したこの年から「絵」ばかり描いて遊ぶようになる。集団生活に馴染めず。
9歳 母が再婚、義父は冷酷な人間で乱暴者で義春はいつも怯える 日々。「マンガ」や読み物、雑誌の『譚海』に興味を覚え出す。
10歳 手塚治虫や横井福次郎、沢井一三郎らのマンガと南洋一郎の冒険小説を読む。
11歳 兄と持ち主の分からないセルロイド製玩具を勝手に持ってきて闇市で売る。アイスキャンディ売り、芝居小屋の雑用係。学校は一年休学。
12歳 近所の中華ソバ屋の友達と親しくなりそこに泊まり込んでワンタンづくりを手伝う。船員が夢に。自閉症、赤面病、対人恐怖症が進行し運動会に出ることすら苦痛に。
13歳 小学校卒業。兄の勤めるメッキ工場に見習工として就職。新聞店員などへ職場を変えるが再びメッキ工場へ。友達の家の中華ソバ屋に就職し、また再びメッキ工場へ。
14歳 海への思いつのる。海員養成講座で通信教育を受ける
15歳 横浜で船を見学。密航を企てるが失敗。
16歳 兄と共にメッキ工場を経営する夢を抱くが、対人恐怖が強くなり、一人で部屋で空想しながら好きな絵を描くことができる仕事として漫画家を志しはじめる。トキワ荘住まいの手塚治虫に会いに行く(10歳の時から手塚漫画は読んでいた。『ガロ』に掲載されるようになった28歳の時の人物の筆致には手塚治虫調が宿っている。「長八の宿」「オンドル小屋」)。半年後の「ゲンセンカン主人」でそれが消えていく)。メッキ工場で働きながら漫画を描く。
17歳 雑誌『痛快ブック』で漫画家デビュー。一コマや四コマを出版社に送りつづける。少年誌に採用される。
18歳(1955年)10軒目に回った若木書房に持参した漫画が採用さ れ、『白面夜叉』でプロデビュー。しかし相変わらず対人恐怖、赤面恐怖症は解消されることなく通信講座で治療を受ける。(『苦節十年記/旅籠の思い出』ちくま文庫等より)
プロデビューしたもののあっという間に創作にいきづまり、一方でエドガー・アラン・ポーや、江戸川乱歩、谷崎潤一郎の初期作品群にふれ、性格異常者や犯罪者の心理に関心をもちだししています。翌年には友人に教えられた太宰治に熱をあげ、山梨の昇仙峡に友人とでかけています(同年初同棲も体験)。その時の旅行が、生まれてはじめての「旅行」だったと語っていますが、記憶の”底”というか記憶の”縁(ふち)”にふれるものがあったにちがいありません。プロデビューしてから10年後の28歳の時、創刊されたばかりの『ガロ』(1965年)に白土三平や水木しげるの呼びかけに応じて作品を発表する(再デビュー)まで、貸本業界の凋落とともに飢餓状態に陥っていくのです(家賃も2年滞納。睡眠薬自殺を図る)。
さらに再デビュー後、今度は”自ら”の表現を志向し深めていったため(作品「沼」など)経済状況はさらに泥沼へ。つげ義春が調布暮らしに突入したのは、水木しげるの助手になったためだったことは知られていますが、やむなくだった助手の仕事。けれどもそれが功を奏して、その翌年の30歳から、唯一の友人と伊豆や秩父、飛騨に能登へ、そしてひとりで東北の地へと、「旅」にしきりとでることができたのです。「旅」は井伏鱒二文学の影響でした(前年に白土三平のマネージャーから教えられた)。それにくわえて幼少期にあちこち転居した朧な記憶が重なっていたにちがいありません。
「海」「移動」「旅館」「宿」「冒険小説」「馴染めない集団生活」「船員への夢」「密航」、これらの言葉すべてが「旅」にまつわります。同時につげ義春少年の日々とつながる言葉です。とりわけ「旅館」「宿」「移動」は、30歳過ぎのつげ義春氏の活動と深くつながっていきます。最初に記しましたが、つげ義春少年の父はどんな職業だったか覚えておいででしょうか。そう、大島の「旅館」の板前さんでした。「旅館」とは、当然のことながら「旅」や「移動」につきものです(つげ義春氏は、ホテルやホテル街ではなく、古い旅館や宿場町、古い湯治場を好むことは周知の事実)。。
最後に、つげ義春氏の奥さんは、唐十郎率いていた状況劇場(赤テント)の女優・藤原マキさんです(「腰巻お仙」のお仙や「由井正雪」の夜桜姐さんを演じていた)。11歳の時、学校を1年休学していますが、その間にアイスキャンディー売りをしたり、「芝居小屋」の雑用係をしています。芝居小屋の雑用係といっても、一般的にいっても中学に上がる前になかなかできないものです。「劇的」なる状況劇場は、自閉していたつげ義春の背中を叩いたはずです。少年時代に芝居小屋の雑用係をしていなければ、閉じてばかりいたつげ義春氏は、テントまで辿りつけなかったかもしれません。そこから2人の「旅」もはじまったわけです。
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