伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

アンジェリーナ・ジョリー、12歳の時の夢は「葬儀屋」で通信講座まで受けていた。「死」への強い関心。その(1)


アンジェリーナ・ジョリー 彼女のカルテ (P-Vine Books)

ジョニー・デップと共演した映画『ツーリスト』、クリント・イーストウッドの『チェンジリング』、『Mr. and Mrs. スミス』『トーム・レイダー』などで飛ぶ鳥を落とす勢いのアンジェリーナ・ジョリーの伝記本が、2006年にロバート・デ・ニーロ監督の『グッド・シェパード』が公開された年に刊行されています。原題は『Angelina Jolie - The Biography』Brandon Hurst著で、翻訳本は『アンジェリーナ・ジョリー:彼女のカルテ』と、24歳でアカデミー賞助演女優賞を受賞した『17歳のカルテ:Girl, interrupted』からタイトル・イメージをつけられている。
ファンの方は、性癖や性歴、身体に入れた数多くのタトゥー、夫のブラッド・ピットとのことなどプライヴェートな事柄もふくめ、あけっぴろげにしてしまう性格、そしてその彼女の半生のことをよくご存知かとおもいます。そうじゃない方にとっては、相当に彼女のバイオグラフィーは驚かされることがあるとおもいます。
私も知らなかったのですが、彼女の父は、ダスティン・ホフマンと共演して大ブレイクした映画『真夜中のカウボーイ』、そして『オデッサ・ファイル』『帰郷』『チャンプ』『ミッション・インポシブル』などに主演・出演したジョン・ボイトスロバキア、ドイツ系アメリカ人)だったのです(顔立ちから想像できないがアンジェリーナはほぼ母似。なんだ、だから娘アンジェリーナは、女優の道へ向ったのね、というのはいささか間違いで、直接的に影響されたのはフランス系カンダ人でイロコイ族とオランダ人の血を引いている映画好きの母マルシェリーニからでした(いつも一緒に映画を観ていた)。母マルシェリーニも女優で、若い頃からテレビや映画に出演していました(映画出演でヴォイトと出会う)。ウィキペディアでは女優になるにあたってアンジェリーナは父からの影響は受けていないと記されています。確かにアンジェリーナまだ6カ月の赤ん坊だった頃に、浮気症の(当時西海岸はフリーラブ時代)ジョン・ヴォイトと別れ、ロスからニューヨークへ行ってしまいます。そしてアンジェリーナ3歳の時に離婚成立。ところがなんとその年、ジョン・ボイトが『帰郷』でアカデミー賞主演男優賞を受賞。その勢いで映画製作に乗り出し、3年後にコメディ映画『大乱狂』を製作(セリフはほとんどアドリブ。脚本はヴォイト)。離婚成立から3年後のこの映画『大乱狂』に当時6歳だったアンジェリーナ・ジョリーと母マルシェリーニも出演しているのです。伝記『アンジェリーナ・ジョリー:彼女のカルテ』には、父ヴォイトからその時に受けた演技指導のことが今でも記憶に残っているといいます。「さあ、これをどう感じる。どんな気持ちかな?」と、家族が分裂してしまったわだかまりがあったけれども、父ヴォイトのそうした指導には感謝の気持ちがあったようです。
アンジェリーナ・ジョリー 暴かれた秘密

しかしその後の少女期で、アンジェリーナはどんどん変わった女の子になっていきます。また本人が「人と違っていたい」と強く思うようになっていたといいます。ヘビやトカゲを集め(伝記本を開くと最初の写真は大蛇を体に這わせるアンジェリーナの写真!)、グラムロック・ファッション、ゴシック・ファッション、レザー・ファッションへ。「他の女の子がバレリーナに憧れてる時期に、私は<ヴァンパイア>をめざしていたんだもの」と語っているほどです。それが肝煎りなのは、12歳だった時の彼女の夢は、「葬儀屋」になることだったというのです(無論、人生の最後にお世話になるわけで重要な仕事です)。世界広しといえども、モデルや女優が少女の時の夢は、「葬儀屋」だというのは、アンジェリーナ・ジョリー以外いないんじゃないでしょうか。それがこけ脅しではない証拠に、実際にアンジェリーナは『葬儀協会ハンドブック 1987年版』を購入し、「葬儀屋」になるために通信講座をとって勉強にいそしんでいます。「死」に対する関心が人一倍強かったようで、周囲から「ろくな子じゃない」といわれたといいます。「私がみんなよりも死のことを考えているとしたら、それはきっと、私が誰よりも生きることを愛しているからよ」と語っています。が、いろんなことに傷つきすっかり自身を失い、不眠症摂食障害に苦しみだしていたのもこの頃だったようです。(2)へつづく
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