ガウディの父・祖父は「銅細工職人」だった。父方、母方とも祖先は「職人」ばかり。少年時代、廃墟、遺跡大好きな子供だった(その1)
バルセロナの天をつく未完の建築物サグラダ・ファミリア、グエル公園、カサ・ミラをはじめ、アントニ・ガウディ作品群はいまや世界文化遺産ともなっていることは広く知られていることですが、その驚異の建築物を生み出したアントニ・ガウディとはどんな人物だったのか。私たちはその異端の建築群に圧倒され、強烈で孤立した個性、異端の天才肌の創造物として判断停止し、一歩踏み込んでアントニ・ガウディなる人物を知ることを頭の中のどこかで退けていないでしょうか。もちろん「城の国」を意味するともいわれるスペイン辺境の地「カタルーニャ」へマインド・トリップしたひとは、ガウディ建築の<根源>にも触れておられることでしょう。
「アントニ・ガウディ」は、幾つもの尖塔が建つサグラダ・ファミリアの様に、1人だけの建築的才、あるいは1世代だけの才能ではありませんでした。現在も、マス・デ・ラ・カルデレラという建物が残っていますが、その意味するところは「銅細工師の家」。フランセスク・ガウディ、つまりアントニ・ガウディの父の職場だったところです。父フランセスクは、たんに職人(気質)というだけでなく野心家だったともいわれ、カタルーニャの当時の第二の工業都市レウス(ガウディ誕生の地ともされる)の度量衡の責任者も務めていました。父だけではありませんでした。ガウディ家には、遡る17世紀初頭から8世代にもわたって、父・母の両家系に「職人」の血がずっと流れていました。鉱夫に商人、織工に農夫、ボイラーを製造する者もいたことが本書『伝記ガウディ』(ヘイス・ファン・ヘンスベルヘン著 文藝春秋社 2003年刊)には記されています。銅細工職人にかぎれば、祖父もまた銅細工職人であり、母方にも金属細工職人もいたそうです(母方には樽造り職人、船乗りもいた)。
少年時代、虚弱体質だったガウディが学校の科目で唯一得意といえるのは「幾何」だったといいます。その他の科目は並かそれ以下。とにかくガウディ少年は暗記物の授業が大嫌い、それよりも父がつくる銅製品や家の周囲から町の郊外にわたって目にすることができた「廃墟」となった遺跡を見に行くことが楽しくてしょうがなかった、そんな少年でした。生地ともいわれるレウスには、オウム貝のような螺旋階段があるカタルーニャ・ゴシック様式の古い修道院もありました。それは後にサグラダ・ファミリアの尖塔のヒントになっています。
11、2歳の頃、ガウディ少年は学校演劇の小道具や背景幕を担当しますが、その頃からセットデザインは相当大胆だったようです。ひとりでいることの多かったガウディ少年は14歳頃には、関心を共にできる2人の仲間ができ、騎士道のことからカタルーニャの歴史や遺跡について語ったり、ローマ時代の神殿や遺跡を3人で探索しはじめています。また3人で同人雑誌もつくっています。古代遺跡群が多くあるタナゴラ行きは、ガウディ少年を「遺跡」から「建築」へと向わせることになります。サンタ・マリア大聖堂と出会い、建築自体に<感情>をゆさぶる効果があること、そして象徴的な教会の建築物が、<コミュニティの精神>を具現化していることを知ったのです。本書でガウディ少年の胸の裡で、「建築」と「アマチュア考古学」が結びついたと描かれていますが、まさにそこが「シンクロニシティ・ポイント」で、2つの大きな「流れ」が合流した地点だったのでしょう。この頃、ガウディ少年は父の工房で、火の使い方から鉄の曲げ方、銅の鋳造など直接的に技術を教え込まれていますが、いつも目にしていた父の仕事や技術すらも、そこに流れこみ、太い幹を準備しはじめるのでした。後の建築物で用いることになる陶片や石など素材に対する感覚もすでにこの頃に磨かれていったようです。
17歳、ガウディ少年は気宇壮大なことを2人の友人たちとともに目論みはじめます。スペインの内戦で破壊されたプブレー修道院を5カ年計画で修復しようというものでした。ガウディたちは修復プランを練って図面を描き、建物の壊れた部分のディーテールをチェック、構造と機能を調べはじめます。これがガウディの「建築的実験」の最初の機会となります。修道院の所有者でもある政府には修復の考えも資金的な余裕もまるでなく、ガウディたちの修復プランに口出しする者もなく地元ではホットスポットになっていくのです。修復費用をまかなうためギフトショップをオープン、手作りの石鹸や蜂蜜、修道院に関する文書の目録をつくり本を制作し販売しただけでなく、地元の労働者を雇い入れ彼等が家族ぐるみでその地で過ごすことができるように、つまり「労働」と「芸術」がひとところで溶け合うような<コミュニティ>づくりすらはじめるのです(事実、修道院は修復されている)。その準備期間にガウディ少年は、バルセロナの古書店から、母方のケラルト家との関連があるともいわれるフランシスコ・デ・ケラルト博士について書かれた「伝記」や宗教関係の本を借りて読んでいます。ガウディに古書店はかかせなくなります。
修道院の修復と併行する様に、ガウディはバルセロナに出て兄の下宿に同居、聴講生となって学院で初等物理や博物学を学び、翌年に大学の科学部(建築学校)に入学。学校を卒業するまでに10年かかっていますが(経済的には両親が支えてくれた)、当初は5年計画で卒業する予定だったようです。当時の建築家をめざす者にとって必須の専門課程の微積分学や力学、代数学に幾何学、三角法、物理学、地理学、博物学などを履修していきますが、解析幾何学の「抽象」を扱う授業には耐えられず、「実技」につながる曲面と透視図法の授業にのめり込んでいきます。それらはサグラダ・ファミリアの建築の基礎になったものでした。ガウディは学生時代、学友たちをびっくりさせるほどの「読書家」だったといいます。暇さえあれば読んでいた本とは何だったのでしょうか。そして読む時の癖がありました。(その2)は、ガウディの学生時代の「読書」からはじめます。
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