伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

お手伝いさんの「のんのんばあ」が、「妖怪」や「お化け」の世界にしげる少年を導き入れた。昆虫や木の根も蒐集するガキ大将だった少年時代


のんのんばあとオレ (講談社漫画文庫)

ゲゲゲの鬼太郎』などの漫画家・水木しげる氏の鳥取・境港での「のんのんばあ」のいた幼少時代から、戦地の南方の島ラバウルで爆撃にあい左腕を切断せざるをえなかったこと、紙芝居作家、貸本漫画家時代のこと、『ガロ』創刊号で漫画家としてデビューをはたしたことなど、TVドラマ「ゲゲゲの女房」などですでにひろく知られているので、今回はある意味、確認作業のようなことになるかとおもいます。
あらためて水木しげる氏の幼少期、青年期を辿ってみると、これがまた不思議な生涯で興味がつきません。ラバウル島のジャングルの深い森の如くぎりぎりの生活を長く強いられていたかとおもえば、別の視点からみれば「のんのん人生」の様にもみえるのです。水木ファンの方もつい見過ごしていたり、あらたに気づくこともあるかとおもいます。
さて、水木しげる氏は生まれは鳥取ではなく大阪の西成郡粉浜村。生まれた1カ月後に、祖父の家(実家)があった鳥取の境港に一家で引っ越しています(父は農機具の輸入販売の仕事で大阪に出ていただけでもともとの故郷は鳥取の境港だった)。また本名も水木しげるではなく「武良(むら)茂」で、隠岐島に武良郷という村がありおそらくはそこが遠い先祖だろうと考えられているようです。幕末期には祖父は武良惣という回船問屋を営んでいて裕福だったようですが明治に鉄道の時代に突入し一気に貧乏暮らしに落ち入ったようです。父はなんとかなるさ的なひとだったといいます。
幼少期、ガキ大将でメンコと水泳が大得意だったしげる少年に、「妖怪」や「お化け」の世界に導き入れた「のんのんばあ」と呼ばれたお手伝いさん(影山ふさ婆さん)がいたことはすでに知ってられる方も多いでしょう。『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する「妖怪」の源流は、しげる少年の幼少期の”根っ子”にいきつくのですから、「マインド・ツリー(心の樹)」にとっては漫画家・水木しげる氏自ら言うように「アホ」でも「お化け」でもなく、まったき正当な模範的存在だといえるのです。「のんのんばあ」とは、地元で神仏に仕える人物を「のんのんさん」と呼ばれていて、その「のんのんさん」の奥さんだったことから、そう呼ばれるようになった婆さんだといいます。
そんな「のんのんばあ」は、しげる少年を近くの正福寺によく連れて行きました。その寺には地獄と極楽を描いた絵が掛けられてあって、ガキ大将だったしげる少年は、その別世界をずっと見ていても飽きることがなかったといいます。とにかく「のんのんばあ」は、山の妖怪、海のお化け、祖先の霊のこと、自然の精霊のことなどいろんな不思議な話を知っていて、しげる少年に語って聞かせました。島根半島の先にある「のんのんばあ」の故郷にもしげる少年を連れて行ったことがあったそうです。それ以降、町のあちこちにある神社や祠がいつも気になる様になって中を覗き込む習性がついたといいます。墓場の下にある別世界があるような気がして墓をまわって見たり墓石に触ったりするのも趣味になったといいます(『ゲゲゲの鬼太郎』の原点の紙芝居作品は「墓場鬼太郎」。鬼のことも「のんのんばあ」からたんまり聞いていた。『ゲゲゲの鬼太郎』TV主題歌に「…夜は墓場で運動会、楽しいな…」とあるが、しげる少年は運動会ではいつも一番だった)
また、その頃には(小学生の頃)昆虫や海草、さらには木の根すら集めるのも趣味になっていて行李に入れては押し入れの中にため、スケッチしたりするようになったといいます。小学校を卒業して中学ではなく無試験で入れる(算数はいつも0点では中学には進めなかった)高等小学校にすすんだしげる少年は、小学生の時にはぐくんだ感性や趣味をさらに押し広げ、父も感心させていた「絵」の世界に入り込んでいくのでした。じつは父の叔父には画家になろうとパリに出て30歳の若さで亡くなったひとがいて、偶然にもそのひとが亡くなった日にしげる少年が生まれたこともあり、父はしげるが絵を描くのがうまいのも、叔父の生まれ変わりではないかと思っていたことがあったといいます。それで高等小学校にすすんだ13歳の時に、父は油絵具をしげる買い与えたのでした。しげる少年は嬉しくて毎日絵を描くようになり、絵描きでもあった学校の教頭先生がしげる少年の絵を見て驚き個展をひらくようにすすめたほどだったといいます。▶(その2)へ-未
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