伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

松田優作は、小学校6年生の時、主演から監督、演出、舞台セット係、小道具・衣装係まですべてをこなして遊んでいた驚くべき芝居小僧だった


松田優作全集



1970年代から80年代にかけ独特の存在感を発揮しつづけた稀代の映画俳優・松田優作。今日では、山口県下関の遊郭街の裏路地(母の姉は遊郭を経営し、後に母も2階を街娼に貸出し部屋代をとった)の質店を営んでいた母と、大柄な保護司の間に非嫡出子として生まれたことや、幼い頃母から一家心中をせまられたこと、母は在日韓国人3世で、「太陽にほえろ!」にジーパン刑事として登場し大活躍していた頃、優作も日本国籍を取得していなかったこと(「太陽に吠えろ!」出演を機に帰化申請)などなど、あらゆることが取材され、親友や後輩たちに語られ広く知られるようになっています。
芝居とのかかわりでいえば、松田優作は、関東学院大学文学部に入学した翌年、文学座の筆記試験で不合格となり、劇団「新演劇人クラブ・マールイ」金子信雄主宰)に入団(ここで最初の妻・熊本美智子と出会う。優作死後、作家・大下英治が『蘇える松田優作』を著すために取材したのがこの美智子で後に大下英治のすすめで作家に転身。代表作となった『女子高校生誘拐飼育事件』は『完全なる飼育』と改題され映画化、シリーズ化)。翌年に文学座に合格。大学を中退し役者に専念するため新宿東口のトリスバーでバーテンダーとして働いていた時に、客としてきていた「飛び出せ青春」の教師役をしていた村野武範と出会い、それが契機となって「太陽にほえろ!」の出演へとつながっていきます。優作ファンならばこうしたことはすでに承知のことでしょう。では、どうして松田優作は、文学座に入ろうとしたり芝居に強い関心を抱くようになっていたのでしょうか。東京にすでに出ていた異父兄の元に身を寄せ極真会館の池袋道場で稽古をしていたのは、大学に入学する2年前からで(その当時、豊島区にある私立豊南高等学校の夜間部に途中編入していた。じつはさらにその1年前は、カリフォルニア州モントレーに住む叔母夫妻の許、1年間アメリカの高校に通っていた。言語ギャップなどで苦しみ米国で弁護士になって出世しろと送り出した母に無断で帰国し池袋の兄の許へしけこんでいた)、東京・池袋界隈に来て急に芝居づいたようにイメージされる人もいるかもしれません。しかも池袋には新宿同様、優れた映画館があり下関とちがって映画は見放題でした。

ところが、『蘇える松田優作大下英治著)の第一章をよ〜く読むと次の言葉に出会います。拓殖大学に入学していた異父兄(14歳年上。長兄と次兄の実父は太平洋戦争でニューギニアで戦死)が東京から帰郷した折りの言葉です。
「優作、元気にしとったか」
「ああ、元気よォ、ぼく恵比寿座の旅役者さんばっかり見とるんよ。その役者さんより、大きい兄ちゃんのほうが、一等、スターじゃ」と。


その時、優作は小学校に入学したばかりの一年生の夏のことだったといいます。家から100メートル程いったところに「恵比寿座」という芝居小屋がありました。その芝居小屋はまだ優作が物心つかない2歳の時、戦前からある立派な芝居小屋「新富座(映画も上映していた)が火事で焼け落ちた跡に、旅芸人一座だけの興行にと規模が縮小されてつづけられていたものでした。優作は真っ白なお白粉をぬった旅芸人たちを見るのが大好きで、とくに喉仏のある女形が不思議でたまらず、風呂嫌いだった優作は芝居小屋の隣にある銭湯の新富湯に女形たちが入っていった後について行って入浴し女形たちが素顔になるのをじっと興味深くみていたというのです。
小学校6年生の頃には、大の日活アクション映画ファンになっていて友達と映画館に繰り出すようになっています。石原裕次郎小林旭に憧れ、金属で本物のようにつくられた玩具のピストルを使ってよく遊んでいます。そして映画を見終わった後、優作少年は友達を集めると(小学生は映画鑑賞は禁じられていた)、映画のイカしたシーンを何度も演じてみせたといいます。その時、主演は優作自身、友達に悪役をやらせ、優作は監督も兼ねていました。とくにアル・カポネといったギャングものが好きで、カポネごっこを皆でする時にも、優作がストーリーをつくりだして遊んだといいます。なんと後の優作を予告するかの様に(映画『ア・ホーマンス』で初監督)ダンボールをまるめてメガホンをつくり板でカチンコをこしらえ、木を削ってナイフやライフル銃を制作し、衣装やマントもつくるなど小学校6年生の時に、主演から監督、演出、舞台セット係、小道具・衣装係まですべてをこなしていました。友達たちはあっけにとられながら参加させられていたといいます。
ロバート・デ・ニーロも、ジェームズ・ディーンも、デニス・ホッパーも同じ年頃、思いっきり羽根をのばした空想のなか演技をしこたまやっていましたが、時代がかなり異なり単純比較はできないのですが、小学校6年にして主演から監督、演出、舞台セット係、小道具・衣装係まですべてをこなした少年は、米国の天才的役者にもいなかったほどなのです。このことを知った時、松田優作という映画俳優人生がいかに自身の「心の樹」と直結していたものか、そのものであったのかがわかるとおもいます。そして死を賭してまで…。
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