伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

イビチャ・オシム(2):オシムの「反権力」「反権威」を貫く姿勢、挑発的、反骨精神は、なんと母からきたものだった。旧ユーゴで母はスターリン批判し密告され、2日間牢獄に留め置かれた。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で生地ボスニアのサッカー場は死体置場に


日本人よ!

「無数にあるシステムそれ自体を語ることに、いったいどんな意味があるのか? 大切なことはまずどういう選手がいるか把握すること。個性を活かすシステムでなければ意味がない。システムが人間の上に君臨することは許されないのだ。日本人は平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。これは危険なメンタリティだ。受け身すぎる。フットボールの世界ではもっと批判に強くならなければ…」(2003年8月「Number」誌)

前回のつづきです▶イビチャ・オシムが母から受け継いだ気質。それはあえて「挑発的」な言葉を投げかけ、「反権力」「反権威」を貫く姿勢でした。その気質は、父から受け継いだ強靭な身体とロマンチストさと勝るとも劣らないイビチャ・オシムという人間をつくりだしています。
権力におもねない姿勢、つまり相手の身分や地位によって自らの態度を変えない姿勢は、オシム氏がかつてユーゴスラビア監督に就任した時にはっきりあらわれでます。当時ユーゴスラビア・チームは、国内のどこでAマッチ・ゲームが開催されるかによって出場メンバーがすっかり変わるのがふつうでした。たとえばザグレブ開催だとクロアチア人選手中心のメンバー構成、首都ベオグラード開催だとセルビア人選手中心という具合です。それをオシム氏がはじめて多民族国家ユーゴスラビア的悪しき慣行をストップさせたのです。つまりどの民族にも肩入れしないということです。オシム氏自身は、ボスニア出身のクロアチア人ですが、肩入れしないため出身地ボスニアからもクロアチアからも圧力をかけられるハメになったといい、そうした圧力を公にし批判してもいるのです。
このイビチャ・オシムの決断と行為の源泉こそが、じつは母の反骨精神にあると言われています(母は主婦をしながら裁縫の内職をして子供たちの教育費にあてていた)。母は2日間、牢獄にぶちこまれたことがありました。オシム氏の妹の出産を終えた母を、ユーゴの国家警察は手ぐすねを引いてまっていました。その理由は、母が高位の将軍の母に「スターリンの御母様、ご機嫌はいかが?」と挨拶したためでした。当時、社会主義国ユーゴスラビア国内で、ソビエトを侮辱、揶揄することは国家反逆罪で密告されてしまったというわけです。
ゆえにボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992〜96)の激戦サラエヴォ包囲ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍とセルビア人を支援するユーゴスラビア人民軍+スルプスカ共和国軍間の戦闘。1万2000人が亡くなった)時、オシム氏はユーゴスラビア代表監督を辞任し偶然国外にいて難をまぬがれました。が、家族も友人も、サッカーファン、子供たちも脱出できず故郷が封鎖されたまま戦渦に巻き込まれていた間、故郷に戻ってともに居ることができなかったことにずっと責任を感じつづけていたといいますサッカー場が死体置場ー墓場として使われた。オシム氏の帰国は人々に歓迎され胸のつかえがとれたといいます)

死体置場となったスタジアムは、明確な記述はみえませんがおそらく実家のすぐ近くにあったサッカースタジアムも似たりよったりの状況だったにちがいありません。オシム氏が少年時代サッカーをやるようになった契機は、サッカースタジアムのすぐ近くに家があったということと、スキーやテニスをするにはお金がかかりすぎてできなかったためだったといいます。最初のサッカーボールは古い靴下をぐるぐる巻きにしたもので、ブラジルの子供たちのように路上で裸足で蹴って遊んでいました。その頃テレビも無く見ることもなかったオシム少年は、世界中の子供たちが自分たちと同じような生活をしているとおもっていたといいます。物質的にはなにもないから想像力を働かせ工夫して遊ぶしかなかったと。そんな子供の頃のオシム少年ならではのエピソードとして、周囲も同じような生活レベルで何でも分け与えるのがふつうだったため、母が誕生日に焼いてくれたケーキを皆のところにもっていって結局自分は一切れも食べれなかったことが書かれています。ある日、叔母が革製のサッカーボールをプレゼントしてくれ歓喜に湧いたこと。オシム少年はますますサッカーにのめりこみ、レッドスター・ベオグラードディナモ・ザグレブといったクラブのスター選手がサラエボに来てプレーするのを心待ちにしていました。
それから10数年後、イビチャ・オシムは、東京オリンピックのピッチに立っていました。ユーゴスラビア代表選手として出場し、日本とも対戦、2ゴールをあげています。オリンピックで日本を体験していたことが後にジェフ市原の監督(2003年)、そして日本代表監督につながっていったようです。オリンピック期間中、オシム氏は日本とその国に住む人々に深い感銘を受けていたこと、「監督として日本に来ることになったのは、全くの偶然ではなかった」ことを吐露しています(『イビチャ・オシムの真実』エンターブレイン社/本書は2002年にオーストリアで出版されたイビチャ・オシム氏の独白半生記です)欧州のビッグクラブからのオファーを幾つも受けていながら、Jリーグでもっとも小さなホームスタジアムしかもたなかったアウトサイダー的クラブになぜオシムは行ったのか、ぜひ本書を読んでみて下さいジェフ市原サイドからのオシム氏への監督オファーの経緯、日本代表監督になった経緯なども書かれてあります)。
オシム@愛と勇気

そんなオシム氏はある国でサッカーチームの監督を引き受けるにあたり、その国が社会がどのように機能しているか、人間関係はどのように形成されているのか、そうした理解もおこたることはありません。ピッチにはその国の日常が反映されるものだからだと言います。それは祖国での体験からつむぎだされたものでした。祖国ユーゴスラビアの社会が5つの民族、6つの共和国から成り、そのことがつねにベストメンバーすらつくりあげる障害になっていたとすれば、日本の場合はオシム氏にとってはありえない国家的社会状況、つまり(ほぼ)ひとつの民族、ひとつのまとまりのある国家という、ユーゴとはまさに真逆の社会環境だったのです。ひとつの民族をスムーズに機能させるための”上下関係”というシステムをオシムは学んでいきます(男女関係なく会社でもわずか1年、バイトだと1週間でもちがえば完全に上下関係ができあがる。オシムにとってはまるで異空間だった)。 それをオシム氏は自分の言葉で次のように語っています。

「…ピッチ上の行動形式はこの国での日常を反映するものだ。このように機能しているのが日本社会である(つまり上下関係のことをオシムは言っている。が、社会文化的に1億3000万もの国民が日常生活をスムーズに機能させるためにその状況は理解し得るものだと語るが、サッカーにおいてはそれはバリケードになると示唆する)。誰もがつねに口を挟もうとすれば共同生活は難しいというわけだが、サッカーにとっては非常に残念と言うしかない。なぜなら、サッカーは『インプロヴィゼーション<(即興性)』が命だからだ」(『イビチャ・オシムの真実』エンターブレイン社 2006年刊 p.160

イビチャ・オシムのサッカー世界を読み解く (サッカー批評叢書)