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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

スタンリー・キューブリック(1):父が教えた「写真」と「読書」と「チェス」

映画『2001年宇宙の旅』や『時計仕掛けのオレンジ』『博士の異常な愛情』など、映画の境界線を押し広げた名作をうみだした映画監督スタンリー・キューブリック。作家J.D.サリンジャートマス・ピンチョンのように、社交を拒否し、映画の表舞台にけっして姿をあらわさなかった映画的天才。

映画への”異常な愛情”、”時計仕掛け”のような完璧主義、そして映画という”宇宙の旅”。キューブリックにおいては、人生と映画と魂が、まさに<三位一体>と化したかのようです。

 


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映画とともに生きたキューブリックは、多くの映画青年のように当初から映画監督をめざしていたわけではありませんでした。キューブリック少年は、小学生の頃から「写真」にのめり込んでいて、ニュース・カメラマンのウィジーに触発され、高校時代にはすでに『ルック』誌のプロ・カメラマンとして活動しはじめていました。

一方で、小学校時代には学校をさぼってばかりで、友達と交流をもつことが苦手で、孤立するタイプでした。

そんなキューブリック少年が、どのように鋭い感性をたたえたフォトグラファーになったのか、そして世界をあっといわせる映画をつくりだすようになっていったのでしょう。


では、孤立したキューブリック少年の魂がどのように「発現」していったのか、一緒にみてみましょう。

 

小学校入学当時から学校をさぼりだす


スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)は、1928年7月26日にマンハッタンの最高の医療設備のあるライイングイン病院で生まれています。父ジェイコブ(通称ジャック)・キューブリックニューヨーク大学に通い、後にニューヨーク毒医療法医科大学を卒業した医者でした(ニューヨーク毒医療法医科大学は現在のニューヨーク病院の産科)。

息子スタンリーが誕生した時、父ジャックはまだ25歳の時でした(母ガートルート・パーベラーは主婦だったようです)。父は映画のアイドル並みのハンサムボーイだったといいます。

その後、父はマンハッタンのメルローズで開業。その病院は以降30年余にわたって労働者階級や低所得者の人々のために医療を施しました。


キューブリック少年は、ブロンクスの公立第三小学校に入学。しかしはなっから学校はさぼりがちで、入学当時は半分しか登校していません。その登校拒否癖は結局、小学校の最終学年まで続いています。病気がちというのではなく、学校生活に適応できなかったためでした。8歳の時、家庭教師がつき自宅で教科を勉強するようになります。

 

 

その年の秋から再び学校に通いはじめ、出席率はぐんと上がりはじめ10歳の頃には毎日登校するようになりました。ただ社会性がまるで無いのは相変わらずで、「性格、協調性、勤勉さ、注意力、他人の尊重、会話の明瞭さ」のすべてにおいて改善の余地ありという評価でした。


生活環境を変えるためカリフォルニアに一年送られる


12歳になろうという時、キューブリックは入学したばかりの中学校(公立第90中学校)から、退学を突きつけられます。医師だった父は、生活環境を変えると良い影響がでるかもしれないと判断し、息子を叔父と叔母のいるカリフォルニアのパサディナに送り預けます。パサディナは映画の都ハリウッドに比較的近くに位置しています。

 

キューブリックは少年期に、約1年間を空気が踊るようなカリフォルニアで過ごすことになります。10余年後にキューブリックは再び、この地に向うことになります。

キューブリックの「心の樹」はカリフォルニアの空気を吸い込み、新たな「芽」(それは「眼」でもあった)を準備させたようです。キューブリック少年は、ブロンクスに戻り元の中学校に復学します。


父が教えた「写真」と「読書」と「チェス」

 

 

父ジャックは、何かが変わろうとしている息子に、3つのことを教えました。「写真」と「読書」と「チェス」でした。

 

一つ目は「写真」です。写真撮影が趣味だった父は息子に自分のグラフレックス・カメラを渡し、使ってみるようすすめました。外に出て周りの世界に興味をもって欲しいという願いからでした。

 

二つ目は「読書」でした。

父ジャックは自分と同じように息子キューブリックが読書好きになるようにと蔵書をいつでも読めるようにしておきました。

 

三つ目は、「チェス」でした。

 

父は息子とチェスをうつことで時を共有しました。父から教えられた「写真」(のちに「映画」に代わります。

表現としては異なりますが原理的には同じです)と「読書」と「チェス」の三つとも、キューブリックの生涯にわたる趣味となり仕事となったのです。

キューブリックの「マインド・ツリー(心の樹)」は、3つの大きな幹に別れつつ、それらが緊密に影響し合いながら力強く成長していきます。

 


写真が趣味の友達ができる。「暗室」に入り浸る


父ジャックはよい環境を求めしばしば転居します。キューブリックが14歳の時の転居は、キューブリック少年に決定的な影響を与えることになります。キューブリック家は、ブロンクスのグランドコンコースにある6階建ての「マジェスティック・コート」最上階に移り住みました。この界隈はユダヤ人(キューブリック家はユダヤ人です)やアイルランド人、イタリア人が住んでいました。


マジェスティック・コート」の1階下にマーヴィン・トローブという同年の少年(同じくユダヤ人)が住んでいて、キューブリックは彼といつも一緒に過ごすようになります。

マーヴィンも「写真好き」だったのです。マーヴィンは前年の13歳のユダヤ教式成人式の日に、祖父から二眼レフレックス・カメラを贈られていました(キューブリックの父しかり、ユダヤ人は写真・カメラを仕事や趣味にする者が多く、2人の様に一族や家族内での影響がおおきい)。

マーヴィンはすでに小学6年生の頃には専用の暗室をもっていて、白黒写真の撮影・現像もはじめていました。「写真」を通じて2人はすっかり仲良くなります。

そしてキューブリックは「暗室」にすっかり魅了され、時間があれば階下に降りていってマーヴィンの暗室に入り浸っていました。

 

 

運動クラブはパス。明けても暮れても写真撮影


暗室にいない時は、キューブリックはまるでフォトジャーナリストになった気分で、ストリートに出ては撮影していました。この時期、ブロンクスの少年たちのほとんどはもっぱら野球好きで、地域の運動クラブに所属し、毎週金曜日に野球をするのが恒例でした。

小学校高学年になると、もう誰もキューブリックをスポーツに誘おうとせず、背が低くずんぐり体型で、運動神経が鈍そうなキューブリックをチームに入れようと考える者もいませんでした。おかげでキューブリックとマーヴィンの2人は地域の運動クラブと接触することなく(6つの運動クラブがあるほど盛んだった)、明けても暮れても写真撮影ばかりすることができました。


この頃も、キューブリック少年は大勢の人と一緒にいることを好まず、基本的に一人でいることを好み、学校の友達のグループには絶対に加わろうとしませでした。

といっていじめられ役ではなく、逆に、いつも何かを詮索するような目つきをして、すきがない印象で、攻撃的な印象を与えるワシ顔で、それでいて喧嘩をするタイプではなく、少年にしていつもどこか謎めいていたといいます。自分の殻に閉じこもってばかりいるというタイプでもなかったようです。

スタンリー・キューブリック(2)に続く: