伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

「わたしの人生はずっと幼年時代の続きだった」と語ったシャネル。カフェ・キャバレーで歌手をめざしていたシャネル。出生や生い立ちを秘匿し虚構の物語(伝説)を生み出した公式の伝記本。その回顧録で自身の気質や本心までも消すことはなかった。そしてシャネルの過去が暴かれる非公式の伝記本が出版された。


ココ・アヴァン・シャネル 上—愛とファッションの革命児 (ハヤカワ文庫 NF 350) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ココ・アヴァン・シャネル 上—愛とファッションの革命児 (ハヤカワ文庫 NF 350) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

「わたしの人生はずっと幼年時代の続きだった。人間の運命が決まるのはまさにこの時期よ。その頃の夢が一生を左右する。何から何まで全部覚えているわ…」(『シャネル 人生を語るーL'Allure de Chanel』ポール・モラン著 1996年版 山田登世子訳 中公文庫 2007年刊)

孤児院に育ったシャネルが、その忌まわしい記憶をふり払うようにして爽やかで華やかな帽子づくりをはじめ、女性の自立の道を切り開き、ついにパリで帽子専門店を開き才能が開花し、サクセス・ロードへ。シャネルがお店をもつに至るまで、こんなイメージしかもっていないひともまだ多くいるんじゃないでしょうか(私も含め)。そんな人にとって上記の「わたしの人生はずっと幼年時代の続きだった…何から何まで全部覚えているわ…」という一文は、どう捉えたらよいか理解に苦しむのではないでしょうか。実際、シャネルは出生や生い立ちのことを生涯にわたって謎のヴェールで隠したままでした。シャネル公式の伝記本回顧録『L'Allure de Chanelーラリュール・ド・シャネル』(ポール・モーラン著:日本語版『獅子座の女シャネル』ー新訳『シャネル 人生を語る』2007年刊)が出版されたのは、1971年に87歳でこの世を去った5年後のことでした。
最もこの唯一の回顧録においても、孤児で修道院に入れられたこと、母は死に父は帰って来なかったこと、いつもひとりだったこと(姉はいつも一緒にいた)などが語れていますが、出生や少女時代のこと、修道院を出てからのお針子時代のこと(姉とともにムーランの宗教施設に入れられる。18歳になると孤児院を出るか修道女になるか選択を迫られる)、ムーランの町で最も繁盛していたカフェで歌手をめざし、「ポーズ嬢」としてカフェ・キャバレーの流行り歌「トロカデロでココを見たのは誰?」という持ち歌を歌い、「ココ」という愛称がつけられたことなどは、うまくかわされています。また実際に1976年度初版『L'Allure de Chanel(日本語版『獅子座の女シャネル』)では、孤児になって2人の叔母の家で養育されたとなっているが、孤児院のことは書かれていませんでした。

「わたしは頭を下げるのが嫌い。ひとにペコペコしたり、卑屈になったり、自分の考えを曲げたり、ひとの言うことに従ったり、自分の思いどおりにしないのは嫌いだった。小さい時から今にいたるまで、わたしのやることなすことすべて、わたしのしぐさ、きつい声、鋭い目つき、皺の入った筋張った顔、有無を言わせない性格のすみずみにいたるまで、傲慢さが表れているわ。わたしは、消えることのないあのオーヴェルニュの噴火口になのよ」(『L'Allure de Chanelーラリュール・ド・シャネル』より)

唯一の回顧録『L'Allure de Chanel』は、潤色や虚偽の過去が記されているものの、上記の様に自ずと自身の生き様に対する本心(心根)が”噴火口”のごとくあらわれでて、今日にいたるまで依然興味つきない回顧録となっています(このシャネル唯一の回想録は「ひとり」の章からはじまり、半生を語るシャネルの肉声の価値は高く今もなお多く引用される。1996年、カール・ラガーフェルドが描いたイラストで装幀を施された新版が出版され、日本語版が新訳『シャネル 人生を語る』となって2007年に刊行された)
このシャネル公式の同著の影響から、フランスでもシャネルの出生地は、ペイ・ド・ラ・ロワール地方(港町ナントやル・マンがある)を東西に流れるロワール川流域の古城のある町ソーミュールと、フランス中南部に位置する中央山塊に広がる高地オーヴェルニュ地方の両者がずっと併存してきたようです。公式本の邦訳『シャネル 人生を語る』ではそのあまりの影響力の大きさのためか奇妙な記述がなされています。本文には相変わらず孤児院があったオーヴェルニュの地名しか出てきません。ところが本文末に掲載されたシャネル略年表には、「1883年8月19日、オーベルニュ地方ソーミュールに生まれた」と記されているのです。ソーミュールはオーベルニュ地方ではなくペイ・ド・ラ・ロワール地方にあるので、本文とのつじつま合わせで「オーベルニュ地方ソーミュール」という存在しない場所(あるいはシャネルのなかでのみ存在する場所として)が記載された可能性がありますケアレスミスでは断じてない)

著名なフランス文学者でもある訳者・山田登世子は後書きで、母が亡くなって父は2人の子供を修道院(付属の孤児院)にあずけ2度と戻ってこなかったこと、つくり話だった「少女時代」のことについて記しています。つじつま合わせを補うかのように後書きは本書成立の当時の背景が描かれ、63歳になったシャネルが、小説『夜ひらく』で作家としても名声を得ていた外交官でコスモポリタンのポール・モランに声をかけ、スイスの地で半生を語った経緯が綴られています。またシャネルがポール・モランに人生を語ったのは大戦直後の1946年のことで、シャネルが亡くなった1971年にポール・モランが偶然当時の聞き書き草稿を見つけたこと、飛びついた編集者に刊行をしぶり様々な経緯をへて1976年に刊行されたこともあわせて詳らかにしています(ポール・モランの死の数ヶ月前に刊行され氏の最後の本となる)。精緻に取材され定評のある『シャネルの真実』(山口昌子著 新潮社)では1974年に刊行されたとなっている。
シャネルの真実 (新潮文庫)

さて、シャネル公式の伝記本についてつらねてしまいましたが、真に重要な伝記本は、外交官の娘で、『エル』や『ヴォーグ』の編集長を経験し、作家のエドモンド・シャルル=ルーが著した『シャネル・ザ・ファッション(原題:リレギュリエール)』です。刊行されたのはシャネルが死去した3年後の1974年で、エドモンド・シャルル=ルーはその直後、「シャネル神話」を壊したとされモード記者としてもシャネルから「追放」されてしまいます。シャネル公式伝記本『L'Allure de Chanel』が、同年(あるいはその2年後)に後を追うように出版されたのにはやはり訳がありそうにおもえます。
ならばシャネルの伝記本は、『シャネル・ザ・ファッション』(またその新訳版『ココ・アヴァン・シャネルー愛とファッションの革命児』ハヤカワ・ノンフィクション。またはその意図を継いだ『シャネルの真実』山口昌子著 人文書院新潮文庫。そして極めてしっかりした内容の『ココ・シャネルー時代に挑戦した炎の女』エリザベート・ヴァイスマン著 Figaro Books 阪急コミュニケーションズ 2009刊)以外、価値がないのかといえば決してそうではありません。
じつはよく読むとシャネル公式の伝記『ラリュール・ド・シャネル』にはびっくりするようなことが記されています。たとえば次の一文です。
「いったいわたしはなぜこの職業に自分を賭けたのだろうか。わたしはなぜモードの革命家になったのだろうかと考えることがある。自分の好きなものをつくるためではなかった。何よりもまず、自分が嫌いなものを流行遅れにするためだった。わたしは自分の才能を爆弾に使ったのだ。わたしには本質的な批評精神があり、批評眼がある。『わたしには確かな嫌悪感がある』とジュール・ルナールが言っていたあれね。目にするものすべてにうんざりさせられた。記憶を一新して、思い出すものをみな精神から一掃する必要があった…わたしは必要不可欠なこの仕事に使われた運命の道具だったのだ」(『シャネル 人生を語るーラリュール・ド・シャネル』ポール・モラン著 中公文庫 p204)
過去を消し虚偽報告しつづけたシャネルでしたが、自身の気質や本心までを消せるわけではありませんでした(たとえば差別や恨みに対して)回顧録で語られたシャネルの赤裸々なこうした心根こそが、エドモンド・シャルル=ルーが暴くことになったシャネル(シャネル・モード)の秘密の裏書きとなっていったのです。▶(2)へつづく
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シャネル—人生を語る (中公文庫)
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ココ・アヴァン・シャネル 下—愛とファッションの革命児 (ハヤカワ文庫 NF 351) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
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シャネル—ザ・ファッション (1980年)
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ココ・シャネルという生き方 (新人物文庫)
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