伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

里親から離れパリの盲目の音楽家の許へ。シャンソンを書きボードレール、ドストエフスキーを読む。14歳半で回顧録を記しはじめ無賃乗車で感化院送りに。30歳頃、獄中でプルーストを「再発見」。長年の「観察者」が作品を書きだす


ジュネ伝〈下〉

「私はとても早くから、14、15歳の年からすぐに、自分は浮浪者か泥棒にしかなれないだろう、と分かった。もちろん、無能な泥棒に、だが結局、泥棒にだ。社会における私の唯一の成功は、バスの車掌とか肉屋の見習いとかの領域だったのかもしれない…。このような成功は自分に嫌悪を催させたので、私はとても若くして、ただ書くことエクリチュールの方へのみ自分を導きうるような感動をもてるように、自己鍛錬したのだ」(『ジャン・ジュネ伝』J=B.モラリー著 Libroport p.31)

ジュネが公に発表された最初の小説『花のノートルダム』の抜粋が文芸誌に載ったのは1944年(34歳)の時でした(その2年前にモリイェンという名で自費出版の詩集『死刑囚』がつくられていた。その年、ジュネは中央刑務所に投獄されている)。前年に友人に紹介してもらったジャン・コクトーに詩集『死刑囚』をみせ『花のノートルダム』について語りましたコクトーは初読は嫌悪を催し失望、再読して驚嘆、傑作とふんだ)。同1944年には『薔薇の奇蹟』が、1947年には『ブレストの乱暴者』『女中たち』、その翌年にはコクトーサルトルらの請願で大統領恩赦を得、1949年には『泥棒日記』と相次いで発表していきます。
ジャン・ジュネ詩集
ジャン・ジュネ詩集

「…私は刑務所を出た後、『泥棒日記』を除いては、もう本を書かなかった。物を書き始めたとき、私は30歳だった。そして書くことを止めたとき、34か35歳であった…私は監獄で書いたのだ。ひとたび自由になると、私は途方に暮れていた」ジャン・ジュネ

ジュネがはっきり文学的といえる作品に着手したのは監獄に入れられていた30歳頃のことです。ジュネもあるインタビューで、友達に送る手紙以外それまで何も書いたことがなく友達のドイツ人に送ったクリスマスカードに雪について書いたことが後にものを書くきっかけー<始動音>になったと語っています。文学に初(うぶ)なひとりの囚人が、パリの美術と文学の社交界に君臨していたジャン・コクトーをうならせる作品を次々に生み出したのですから伝説化されないわけがありません。ところがジュネが監獄にいた間にマルセル・プルーストを「再発見」していてじっくりと読み込んでいたことがあきらかにされるのです(ジュネ自身かなり晩年になってその獄中時代のプルーストからの影響を語っている)

「…私は獄中で、『花咲く乙女たちのかげに』第一巻を読んだ。私たちは監獄の中庭で、何冊かの本をそっと交換していた。…冒頭の文章が非常に緻密で、とても美しかったので、この出来事は猛火を予告する最初の大きな火災であった。…私は晩にようやく本をまた開いたが、実際、私はまさに驚異の連続に向ったのだ」(『ジャン・ジュネ伝』J=B.モラリー著 Libroport p.96)

「再発見」というのも、ジュネがプルーストを最初に読んだのはもっと若い頃だったにちがいないとされているためです。ジャン・ジュネ(1)でもみたように、少年ジュネは学校の図書館の本のあらかたを読破するほどの読書家でした。里親に預けられていた時、読書好きでつくり話をするのが大好きな少年のことを村の人々は覚えていました(作品といえるものに着手したのは30歳だったといえども読書体験は少年時代から継続されていた。ジュネが生涯にわたって関心を示した作家は、他にドストエフスキーラシーヌシャトーブリアンらだったが、高尚な小説以外にも、少年時代から大衆小説や冒険小説も大好きで、犯罪実話が載っている「探偵」という雑誌の熱心な読者でもあった)。初小説のタイトル『花のノートルダム』は、プルーストの長編小説『失われた時を求めて』中の『花咲く乙女たちのかげに』を映し出したものだったのです(文中の「私」の使い方もそっくりそのまま。また「花」とは想像し空しさのなか魔術的にものを書きつくりだすことの謂いである)
ジュネは「花」を生み出すこと、つまり「書くこと」は、自分にとって一つの気質であり、強烈な心の動きを整理するための手段だったと語っています。「自分にとって一つの気質」だったとはどういうことなのでしょう。獄中からすべてが始まったのではなかったのでしょうか。じつはジュネの「書くこと」は、感化院に入れられていた15歳の頃にすでにはじまっていたのです。名誉と裏切り、支配と服従、本物と偽物、忠誠と戯れといった対比をつくりだし、書くことで自分の感情を整理し組織化しはじめたのでした。そのすぐ前にはまだ書いていなかったにしても、「12歳か14歳の頃には、すでに自分の中に将来の<観察者>、つまり自分が将来なる作家を作り上げていた…」と語っています。
里親の養家から離され、パリに出た少年ジュネは(13歳.1923年)、盲目の音楽家ルネ・ド・ビュクスーユ(ピアニストで作曲家。有名な歌謡作家だったとも)の許に預けられます。ジュネは盲目の作曲家の杖となり秘書役となって働いたのでした。じつはこの時期に、少年ジュネは音楽家ルネの許たっぷり「シャンソン」を書いていました。それは慰みであると同時に、作詩術や脚韻の法則に親しむ機会となったようです。またジュネはルネの蔵書に興味津々となり、ボードレールの『悪の華』を見つけると好きな「詩篇」の頁を破り取っては諳んじていたようです。14歳半の時、「ナノ・フロラーヌ」(ナノは自身の愛称、フロラーヌはエニシダのこと。フランス語でジュネとはエニシダを意味する)という筆名で『薔薇の名前』を書き上げています。その頃、少年ジュネは「ぼくはこれから自分の手記(回想録)を書くんです」と言ってすでにノートに文をつけていたといいます。日本で言えば中学2、3年生頃に、すでに自身の回想録を書きとめだしていたわけですから、そうした子供はそうざらにはいないでしょう。
感化院(少年院)に送られたのは、15歳の時のことでした。列車に無賃乗車し逮捕されたのです。(その時の事は後に『薔薇の奇跡』『花のノートルダム』で呼び起こされる。メトレ感化院ー現在の名称は「若者たちの村」だというーは畑や森、墓地、伝説、歴史があちこちにあり、ジュネは地獄にあって幸福でもあったと語っている)。19歳の時、感化院暮らしから抜け出したい一心で兵役志願、モンペリエの工兵連隊へ、次いでアヴィニョンの工兵連隊へと送られています。
後に作家ジャン・ジュネは、コクトーサルトルの他、フーコーモラヴィアデリダ、ストラビンスキー、クリスチャン・ベラール、ジャコメッティ、ポンピドゥやミッテラン大統領らとも交わる人物になっていきます。祖国フランスとは疎遠になると米国へ至り、アレン・ギンズバーグたW.バロウズ、ブラック・パンサーらと付き合っています。また自分の恋人(男性)だった者たちを女性と結婚させ、費用を自ら負担し彼等の住居をもうけたこともあるようです。その家の隅に自分の居場所を確保したことはありましたが、ジュネが自身の家をもつことはありませんでした。荷物はほとんど小さなスーツケース一つに納まるものだけ。ほとんどは鉄道の駅近くのホテルが宿だったといいます。
参考書籍:『ジュネ伝』エドマンド・ホワイト河出書房新社 2003刊/『ジャン・ジュネ伝』J=B.モラリー著 Libroport 1994刊
▶Art Bird Books : Websiteへ「伝記station」 http://artbirdbook.com

▶「人はどのように成長するのかーMind Treeブログ」へ
  http://d.hatena.ne.jp/syncrokun2/

ジャン・ジュネ伝
ジャン・ジュネ伝J=B.モラリー著 Libroport 1994刊
公然たる敵
公然たる敵
アルベルト・ジャコメッティのアトリエ
アルベルト・ジャコメッティのアトリエ
薔薇の奇蹟 (1956年)
薔薇の奇蹟 (1956年)
ジャン・ジュネ—身振りと内在平面 (以文叢書)
ジャン・ジュネ—身振りと内在平面 (以文叢書)