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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

白土三平(1):『カムイ伝』の原点の自然

美術家だった父・岡本唐貴は、「日本プロレタリア美術家同盟」に参加、三平が誕生した時、特高警察に検挙、投獄中。若き黒澤明に絵を教える。警察の監視から逃れ被差別部落在日朝鮮人集落周辺に住む。長野・真田村への疎開。そこで村の記憶である真田一族の歴史を知る。「赤本」や「立川文庫」を読む。『カムイ伝』の原点の自然を知る

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「優れた芸術家の生涯を眺めていくと、その人物を形成してきたものが本人の一代だけの努力と習練だけではなく、先行する世代から長い時間を通して蓄積されてきた知的・芸術的体験であることが、しばしば理解されてくるときがある。芸術家を父親とした息子や娘が、幼少期より薫陶を受け、長じて芸術家として大成するといった事例は、古今東西枚挙に暇がない。能楽観阿弥の後を継いだ世阿弥から、画家オーギュスト・ルノワールを父とした映画監督ジャン・ルノワール岡本かの子を母とした岡本太郎まで、われわれはいくらでもその例をあげることができる」(『白土三平論』四方田犬彦著 作品社 2004年 p.17)


白土三平といえば、『カムイ伝』『サスケ』『忍者武芸帳影丸伝』がすぐに思い出される。月刊漫画『ガロ』もまたそうだろう。私自身も少年時代、マンガやテレビアニメでずいぶんとお世話になった。今でも「サスケ」のTV主題歌は記憶に残り、時折、口に出てくる。が、原作者の白土三平はどんな人間で、白土漫画がどのように生み出されたか、といったことはほとんど知る機会がなかった。戦後10代で紙芝居作家となり、『忍者武芸帳影丸伝』が「貸本マンガの金字塔」だったこと、『カムイ伝』と『カムイ外伝』を含め、なんと37年がかりで描き継がれ、しかも依然未完であることなども知らなかった。つく加えれば、月刊漫画『ガロ』青林堂もまた事実上、白土三平が自己資金で創刊(1964年)したものだった(編集長・長井勝一ではなかったのか? 


『ガロ』刊行以前、足立文庫という貸本屋向けの卸を営みつつ、神保町に貸本マンガを出版する日本漫画社を立ち上げたばかりの長井勝一に、白土三平が作品を持ち込み買い取られている。長井勝一は貸本で仕入れていた白土マンガ『こがらし剣士』を読んで興味を持っていた。それが接点となり長井勝一白土三平初の長編マンガ『甲賀武芸帳』を出版。2人は月刊漫画『ガロ』刊行になだれ込んでいく)。

「ガロを創刊するあたりの経緯は、今でも謎だね。よく、できたなぁと思う。大手出版社の雑誌で仕事を始めたけど、やってるうちに話が壊れていく。それなら雑誌を作ってしまおうか、と自然発生的に思いついた。損だの得だのは関係ないんですよ。自分と同じような気持ちの仲間がいるだろう、そういう若い人たちの発表の場ができたらいいなぁ。そういう話を長井勝一さんとしていた。それにしても、いざ雑誌創刊の話を持ってこられて、それに乗った長井さんも不思議な人ですよ。普通ならビビる。俺も長井さんも暢気というか楽天的だったんだね」(『白土三平カムイ伝の真実』毛利甚八小学館 2011年 p.110 : 白土三平へのインタビュー)<<

白土三平伝-カムイ伝の真実

実際、雑誌名「ガロ」も、白土三平の「忍法秘話」の忍者名であり(我々の道を行くという「我道」という意味合いと、アメリカのマフィアの名前のイメージも込められたという)青林堂から出版されたものの制作は白土三平の制作会社・赤目プロダクションだった(『カムイ伝』の掲載は創刊号に間に合わず、旧短篇が採録されている)。これに刺激を受けた手塚治虫は、雑誌『COM』を自ら創刊、ライフワーク『火の鳥』もまた、白土三平のライフワーク『カムイ伝』への対抗心からだったといいます。
手塚治虫にとって白土三平は最大のライバルだった」といいます夏目房之介の言葉/『白土三平カムイ伝の真実』毛利甚八著p.10) 。もっとも白土三平の方は、戦後の闇市時代の昭和22年頃、手塚治虫の「赤本」マンガを貪り読んでいます(獲ったカブトムシと手塚マンガを交換した。『甲賀武芸帳』や『サスケ』『ワタリ』など白土初期マンガには手塚治虫の影響が濃いといわれる。『白土三平伝ーカムイ伝の真実』)



ともあれ戦後日本マンガの始祖とも呼ばれる天才・手塚治虫がライバル視した白土三平にはどんなライフ・ヒストリーがあるのか。そして1960年代後半の学生運動とシンクロしていった『カムイ伝』は一体どのように生み出されていったのでしょう。ライフワーク『カムイ伝』は白土三平の”魂の土壌”から生み出されていたものだったことがみえてきますが、冒頭に上げた一文のように、それは白土三平一代の”魂の土壌”ではありませんでした。そこは日本左翼美術史のなかの重要人物・岡本唐貴の”魂の土壌”でもあったのです。「岡本唐貴」とは、白土三平の父でした。


白土三平は昭和6年(1932年)、2月15日に、東京杉並で長男として生まれています。本名は、「岡本登」です。南画や西洋画の研究から独自の画報を生み出し蘭学のリーダー的存在だった渡辺(華山)登に因んでつけられたもの。まずは父・岡本唐貴について少したずねてみます。岡本唐貴(本名・岡本登喜男)は岡山県浅口郡連島町(現・倉敷市に生まれています。

生家は地主でしたが、岡本唐貴の父白土三平の祖父)には放浪癖があり、家の相続も嫌い転居を繰り返した挙げ句、商売にも失敗。古本屋をはじめたものの脳卒中で急死しています。その時、岡本唐貴16歳。残された古本を読み漁った唐貴は、ボードレールの『悪の華』など文学と芸術に強い関心を抱き、同時に当時の米騒動労働争議から社会的不正義への怒りを覚えていきます。

岡本唐貴は80歳の時に「自伝的回想画集」を刊行しています。そのなかの「自伝走り書き」によれば、17歳の時1920年、画家を目指し東京へ。翌年、中央美術展に入選。同年に東京美術学校(現・東京芸大の彫塑科入学。2年後に二科展入選。文学者からアナキスト、社会労働家たちと交際。二科会内の急進グループ「アクション」に参加。三科造形美術協会の結成に、つづいてグループ造型の結成に参加。
全日本無産者芸術連盟(ナップ)を改組した日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)の結成に参加。その年に後に映画監督になる黒澤明に絵を教えています。日本プロレタリア文化連盟(コップ)が成立。「第2回プロレタリア美術大展覧会」ポスターを、雑誌「戦旗」「東京パック」に挿絵を描いています。

日本プロレタリア美術史 (1967年)
日本プロレタリア美術史 (1967年)

(2)に続く