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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

土門拳(2):仏像との出会い

鬼瓦に顔が似ているとからかわれる。関東大震災直後、横浜市図書館の蔵書を片っ端から読み、奈良・京都の仏像と出会う。首席だったが学校に行かず「写生」に向う。17歳、「考古学」への関心 


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(1)からの続き:土門拳、14歳の時(当時中学1年)、関東大震災を体験する。横浜に住んでいたが横浜市も壊滅(横浜だけでも3万人余の人が亡くなった)。

この頃、拳は美術への思いをつのらせていて、戒厳令が解除された1カ月後に、瓦礫の中を二科展が催されていた上野まで歩いて見に行っている(臨時の開催日はその1日だけだった)。

 

繰り替えされる引っ越し。「横浜の天神様」岡村天満宮のこと


拳、小学2年生の秋、再び引っ越します。父の勤めの事情でした。移り住んだ先は、横浜市磯子区根岸の下町でした(現在の根岸駅近くではなく滝頭近くだったようだ。磯子区滝頭といえば美空ひばり誕生の地。拳少年がこの地に来てから26年後のことだった。

拳少年の家からも、ひばりの家の近くからも巨大な横浜刑務所の建物が見えている。土門家は磯子区根岸監獄の赤レンガの塀に沿って歩き、共同便所を通り過ぎたところにある原っぱ脇、その原っぱの向かいに刑務所の官舎が見えたとある)。

拳は家から程近くにあったc(京都の北野天満宮の分霊を祀る。「横浜の天神様」として知られる)によく出向いていたようです。

祭礼には多くの露天が所狭しと立ち並び、境内には芝居小屋もかかり、社務所には子供たちの習字や絵が掛けられていました(ちなみにこの岡村天満宮には、現在、伊勢佐木町横浜松坂屋の屋上にあったバンド「ゆず」の壁画が掛けられファンの聖地。岡村天満宮のある岡村の地は「ゆず」の2人の出身地)。   


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拳少年はこの地で、何度も「狐の嫁入り」(無数の狐火が連なり提灯行列のように見える怪異現象)を見ています。この場所はいろいろ因縁深い土地柄のようです。


入学した磯子小学校では、勉強でも得意の習字でも拳よりもできる子が必ずいました。ならば大好きな「絵」で勝負だと画家を夢見はじめます(岡村天満宮社務所には、拳少年の習字も絵も掛けられたはずです)。拳が一途になるときかない気質だと父はわかっていたので、絵に向いだした息子に内心困っていたようです。

この頃、父は警察から追われていた社会主義者をかくまったりしています。貧乏所帯にもかかわらず居候させたりし、朝から政治論を闘わせたりしています。

社会主義者で思想家、アナキスト大杉栄を尊敬していた父は、羽織をはおい白鞘(さや)の日本刀を背負って選挙の大会に出掛けていました(後に土門拳大杉栄を尊敬するようになり、社会主義に共感していく)。


鬼瓦に顔が似ているとからかわれ顔に自信がもてなくなる。

立川文庫」を読みながら帰宅する日々

 

磯子の地はたった1年半余り、父・熊造はまたも引っ越します(父は気質的に激情家。上司と衝突し退職)。今度は東神奈川方面の神奈川区幸ケ谷で、拳は二ツ谷小学校の四年生に編入します。

ここでも成績はつねにトップクラスで、級長か副級長をつねにつとめていますが、憂鬱になる事件が起こります。鶴見の総持寺への遠足の折り、本堂の屋根の鬼瓦が土門の顔に似ていると皆が騒ぎだしたのです。

拳は少し前に、お前の容貌は魁偉なのでよほど勉強して偉くならないと嫁のきてがないぞ、と脅かされていました。すでにこの頃、声にドスが利いて負けん気が強い拳でしたが、自分の顔にすっかり自信がもてなくなり、くさってしまうのです。

小学生時代であっても、容貌の善し悪しは女の子だけでなく、男の子にも少なからず影響を与えはじめるものなのです(時代を担った人々の顔つきをとらえた写真集『風貌』は、土門の初期作品の内の重要な1冊)。そんな拳は、小学校3年までは帰宅して母がいないとワアワア泣く子供だったといいます。

 

またこの頃、両親に連れられ帝劇で歌舞伎を観ています。『忠臣蔵』の通しでした(松本幸四郎が大星由良助役)。その後、昭和になっておなじく『忠臣蔵』を観ていますが(土門は『忠臣蔵』が大好きになる)、生活が貧しくなる一方の土門家は、歌舞伎に行く機会はほとんどなくなります。

小学校3年から卒業するまでは、「東山36峰静かに眠る丑三つ時…」と無声映画で弁士が発する言葉にのって、チャンバラごっこに明け暮れています(この時代、ほとんどの子供がそうだが)。

土門拳の有名な江東区の下町の腕白小僧を撮った「近藤勇鞍馬天狗」(昭和30年)と題された写真のごとくだったにちがいありません。


ちなみに拳が子供たちを腰を入れて本格的に撮り出したのは、『カメラ』月例で、「モチーフとカメラの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」を方法論としてぶちあげた昭和28年か、その前年頃からだった(土門拳、43、44歳)。

筑豊のこともだち』は昭和35年に刊行されています。ただ子供への視線は、報道写真家として活動しだした昭和10年まで遡り、土門が伊豆や東京・小河内村で撮った子供たちのスナップ写真は、戦前の土門の代表作となっています。


5年生にもなると、拳は上野の絵の展覧会が気になって仕方なくなります。ところが神奈川からでは上野は遠く、両親も生活に追われそれどころではありません。芝の三田通りまでなんとか繰り出し、数件あった絵葉書屋で絵を見るのが楽しみになります。

福田平八郎の帝展の特選絵「鯉」が絵葉書として売っていましたが、絵葉書一枚買う小遣いもありませんでした。小学生高学年になると拳の本好きは誰がみても尋常ではなくなります。学校帰りは、「立川文庫」を読みながら帰るのがふつうで、何度も家を通り越してしまったり、本を読みながら七輪の火を焚けば気づけば七輪が白い灰になってしまったことも度々だったといいます。

小学校5年生の時、「貧乏に負けてたまるもんか」と決意(靴は荒縄で縛ったボロの靴を履いていた)。小学校の卒業式では代表して答辞を読んでいます。

関東大震災直後、横浜市図書館の蔵書を片っ端から読む。

奈良・京都の仏像と出会う


神奈川県立第二横浜中学校(現・横浜翠嵐高等学校)の受験の口頭試問で、将来の希望を聞かれた拳は、「画家」になることと答えています。その思いがどれほどのものだったか、中学1年の夏休み明けの1923年9月1日に起きた関東大震災(横浜の被害も甚大で7万2000戸が焼失、3万人余が命を落としている)直後の拳少年の行動にあらわれているようです。

東京・神奈川・千葉・埼玉に発令されていた戒厳令が解かれてすぐ(大震災から1カ月後)、拳は上野に二科展を見に行っています。震災後、品川までの汽車賃はタダで(品川より東は汽車はまだ不通)、焼け野原の中(神田橋の下には死体が浮いていた)、中学1年の拳は避難民で溢れかえる上野までひとり歩いていっているのです(二科展はその日限りで中止され作品は全部京都に送られた)。

反体制的志向がすでに身についていた拳にとって、絵を見るならば官展の文展ではなく、二科展でした。二科展は在野の芸術家のためのものでした。この年、大杉栄が妻・伊藤野枝と共に憲兵に絞殺され井戸に投げ込まれる事件が起こっています。拳は中学1年にして(14歳)、大杉栄の『自叙伝』をむさぼるように読んでいます。


横浜市では、震災後バラック建てながら横浜市図書館が復興しています。まだ蔵書は不揃いで貧弱でしたが、拳は図書館の蔵書をすべて読み尽くそうと心に誓います。最初は土曜の午後と日曜・祭日に必ず通いました。

美術書から文化・歴史本をかたっぱしから読みはじめます。次第に平日でも学校をさぼって弁当持ちで図書館に通いだし、1年程であらかた読み切ってしまったのです。土門拳はその時の「読書体験」が後年の教養の基礎になっていると後に語っています。


その継続的読書が、拳の教養の基礎になっただけではありませんでした。

この時の読書のなかで、後に写真家「土門拳」の代表作となる『室生寺』や『法隆寺』『古寺巡礼』シリーズで撮影することになる奈良や京都の寺々の仏像や建築を、書籍の挿絵の「写真」のなかに見ていたのです。


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写真という「方法」とアプローチは、拳少年の意識や認識がとらえることはまったくありませんでしたが、そこに写されていたものは拳少年の夢のような憧れとなっていきました。同時に、拳は他の書籍を読んでいる時、必ず『ニール(ナイル)河の草』(木村荘八著)を手許に置いていたといいます。エジプト美術への憧れも、古(いにしえ)の時、古代への憧れを強めたようです。

 

首席となったが、学校に行かず「写生」に行く。

ゴッホに入れあげる


図書館通いが続いたその年の3学期、拳は135名中、首席となっています。従兄に伝えると鼻の先で笑われ(従兄は秀才で一番以外なったことがなった)、それ以降、一番など取らないと決意しています。2年の時も級長を務めていますが、もはや学校ではまともに勉強しなくなっています。

その年の秋、父が失業し病気がちになり、看護婦の母の収入だけでは一家の生計はたたなくなってしまいます(退学して家具屋の小僧になる話がでていた。拳の絵を高く評価していた教師の計らいで月謝が免除され退学だけは回避された)。

 

16歳の時、拳の絵に対する情熱はさらにたかまります。学校の校門まで来ても、校舎に入る気にならず野に山にと「写生」に行ってしまうのです(雨の日は図書館通い)。そのため出席日数が足らず落第寸前に。家に居づらくなり、同じく画家を夢見ていた同級生(出田孝一)の家を居心地のよい自分の家の様におもってしまいます。

スケッチに出る時など、出田少年の母は、夕食だけでなく弁当ももたせてくれたのです。学校の10周年記念祭では、拳のクラスは震災で崩れ落ちた教室の壁に岩絵具で大きな壁画を描きます。拳が陣頭指揮をとって徹夜しながら描いたのはアンリ・ルソーの「原始の森」でした(後に国語の教師が授業の邪魔になるとして撤去された)。

 

この頃、拳の得意な科目は漢文が一番でした。教師が読む前に名調子で素読し、学校中にその噂は知れ渡ります。音楽も秀でていて、ベートーベン好きだった拳はクラスでただ一人満点をとっています。

この頃、夢中になっていたのは、小説では志賀直哉、詩では高村光太郎千家元麿、絵画ではセザンヌゴッホルノアール岡本潤ダダイズム横山大観梅原龍三郎でした。ゴッホにはとくに入れあげ、美術雑誌の原色版の口絵を集めてスクラップしたり、自分の部屋にも作品を掛けていました(ある時飽き足らなくなりゴッホを捨ててしまう)。

 

17歳の時、「考古学」へ関心が向う。両親が破局

ぎりぎりの生活に陥る


横浜貿易新報社主催の横浜美術展で、拳の油絵が入選したのは16歳の時でした(薔薇の花を10程描いた15号の作品。安井曾太郎らが審査)。中学生としては当時破格の30円で売れたといいますが、結局、ほとんどがキャンバスやら絵具代に費やされました(器用な父が額縁をつくっている)。この頃、拳は自分の作画に向う精神は神奈川駅で見た赤い痰壷の”悟り”であると感じています。古書店で雑誌『中央美術』を僅かな小遣いから買い東洋美術関係の論考を合本にしたり、横山大観の「生々流転」の図版を切り抜いて画帳をつくったりしています。興味深いのは、油絵を志しながらも関心は東洋美術だったことです。また、「小さき星の群れ」と題する同人雑誌を刊行したり、浅草のルンペンと一夜を共にして級友の尊敬を集めたのもこの頃でした。

 

 

 


父の困惑をよそに順調に伸びていったかにみえた拳の絵画への取り組みは、17歳の時、突如いったん収束します。拳の関心が、「考古学」へ向ったのです(チェ・ゲバラも深い考古学への関心をもっていたように、現実空間が混迷した時、その土地の古の姿や古人の生き様への関心が、”根っ子”から何かを照らし出してくれる)。

古代や「考古学」への興味は、国漢担当の谷川先生の影響でした(ほどなく退職し国学院大学の教授になっている。最も谷川先生は拳のことをつねに気にかけ絵描きになれば必ず一人前になると励ましていた)</span>。拳は埋め立て様の土の採掘現場になっていた横浜の高島山の山頂近くの崖から、胴に鋸歯文が施された弥生中期の甕(かめ)を掘り出したり、矢じりの研究に没頭します。中学校の周りにも10カ所程の古墳があり、縄文・弥生文化時代の遺物が多く発見されていた頃でした。拳は学校を休んではあちこちの古墳に行って掘っては調査にいそしみます。

後に土門拳が全力で取り組む『古寺巡礼』などに繋がる「二の矢」が、この「考古学」への興味と古代への夢だったといえるかもしれません。遡る「一の矢」は、横浜図書館で「写真」を通して見ていた奈良や京都の寺々の仏像や建築にあり。

 

 


この頃、父の女性問題から、母は拳を連れて家を出、横浜造船所内の医務室の看護婦として働きながら、拳の面倒をみています(横浜市西戸部町へ引っ越している)。両親が別れてからは、経済的には赤貧洗うが如き状態が続きます。母が仕事から帰ってくるまで、七輪で火を熾すのが拳の役割でした(手にはいつも本があった)。
歴史の試験では、出題とはまったく関係のない考古学(矢じりの研究)について書いて提出したり、アインシュタインの『相対性原理』に険しい顔をして取り組んでいます。あれこれ考えあぐねると、鶴見の総持寺へ行って座禅を組むのでした。


中学校の修学旅行は、拳少年にとって後の『古寺巡礼』に向けての「三の矢」となります。修学旅行先は、京都・奈良でした。法隆寺では皆がワイワイ騒ぐのをよそに、拳は一心不乱に画帳に写生しメモを走らせていたといいます。これら「三本の矢」以外にも、生地・山形の日枝神社や持地院の大仏にはじまり、桐(きり)の老樹への愛着、引っ越し先の谷中や芝公園界隈、岡村天満宮などが、それぞれに「三本の矢」を形づくる成分になり土壌になっていたにちがいありません。

修学旅行後の印象記は先生に激賞されていますが、いつも首席だった拳の心はもはや学校の成績にはありませんでした。中学校の卒業時の成績は、119人名、後ろから数えて2番か3番でした(拳はビリで卒業するぞと決めていたが)。それよりも世話になった同級生(出口君)のために合本をつくっていたのです。「落葉集」と題された手づくりの合本には、ギリシャの壷から唐代の五彩壷、南画に「栄華物語」、写楽漱石安井曾太郎などについての口絵や論文、翻訳で埋まっていました。
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