伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

メッシ(1):「成長ホルモン欠乏症」に罹っていた少年

「成長ホルモン欠乏症」に罹っていた少年時代。4歳の時、サッカーボールを両親からプレゼントされる。4歳からすでにボールを巧みに扱い周囲を驚かす。サッカー狂の一家。幼少期から無口で内気な性格だった

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「身長が低いという相談でした。そういう患者は毎日たくさん診ています。ホルモンの問題なのか、それとも単にいわゆる”晩熟(おくて)”なのかを見極めるにはいろんな検査をしてみる必要がありました。
内分泌腺が成長ホルモンを分泌しないんです。
 ……メッシのようなケースはそう多くはありません。統計によると、生まれてくる子供のうち2万人にひとりです。いいですか、これは遺伝性ではないんです。

わたしが覚えているのは病気にとてもけなげに向き合っていたということです。治療やさまざまな検査、採血のような苦痛をともなう侵襲性検査でさえも、いやがらずに受けていました。この点に関しては、ご家族はたいへん助かったでしょうね」(アルゼンチン・ロサリオ市にある内科内分泌科クリニックのディエゴ・シュワルステイン医師の言葉:『メッシー169センチの、本気!』(リーカ・カイオーリ著 井上知訳 2010年 東邦出版 p.53~54)


なんとメッシは少年時代、「成長ホルモン欠乏症」に罹っていたのです。冒頭の一文は、バビーフットボール(アルゼンチンの子供に普及されておるミニサッカー)をしていたメッシ少年9歳半の時、あまりにも身長が伸びないため、成長の遅れを心配した両親が内科内分泌科クリニックに連れていった時のことを後に医師が回顧して語ったものです。
この事実はアルゼンチンでは広く報道されたことがあったため(後に日本も含め世界中でも今では知られているようです)、「成長ホルモン欠乏症」の子供をもつ親がメッシのことを知って治療に殺到したといわれています。

現在もメッシは身長169cmで、外国のサッカープレイヤーの中でもひときわ背が低いのですが(あの長友佑都は公式身長170cm、実際は167、8くらいだと言われている)、成長ホルモンを促す適切な治療を何年も継続した結果、この身長にまでなったとのこと。

10代前半まではずっと120cm代だったといいます(他の兄妹はまったくふつうだった)。それでもメッシ少年は、小さな頃からサッカーが桁違いに巧かったといいます。
「成長ホルモン欠乏症」に罹っていた一人の少年が、いかに世界のスーパースターになったのか。何が他の少年たちと異なっていたのか。どんなマインドを持ち、どんな生育環境にあったのか、どうサッカーに感化されていたのか、見てみましょう。

「スラムから成り上がった選手にはよくあることさ。サッカーによって貧困から抜け出せても、その後うまくいかないとスラムに逆戻りだ。アルコールやドラッグにおぼれ、自暴自棄になる。結局、違いは教育にあるんだ。レオの場合、彼を見守り、今のレオになるのに力を貸した父親と母親がいた。家庭環境がサッカー選手の成功する要因のひとつだと思うよ」(『メッシー169センチの、本気!』より(10代の時に所属していたニューウェルズの元監督の話。リーカ・カイオーリ著 p.48 東邦出版)

10代前半の所属チームの元監督がこう語るように、まずはメッシの両親のことです。
父のホルヘは、アルゼンチンのロサリオから50キロ離れたビシャ・コンスティトゥシオン市にある製鉄会社に勤務(担当部門の主任)していました。父より2歳年下の母セリアは磁気コイルを製造する工場で働いていました。
メッシはスラム出ではありませんでした。スーパースターになってもまったく以前と変わらずサッカーに集中できています。いろんな少年をみてきた元監督が強調したのはまずはこのことでした。

もっともメッシ家が育ったのは、ロサリオ市内の貧しい労働者階級の街で、実際に、母の父は修理工冷蔵庫などの家電製品を修理し、その母(メッシの母方の祖母)は長年掃除婦をしていました。
一方、ホルヘの父(メッシの祖父)は、建築関係の仕事をし、父方の祖母は通いの家政婦でした。偶然にも両親の家は100メートルしか離れていませんでした。いっけん何気ないメッシ家ですが、あらためてみればこのラテン気質のファミリー全員がきわめて堅実に生きてきたひとたちばかりだということに気づかされます。


メッシ(2)に続く

『あんぽん』に描かれた孫三代のディープすぎる血と骨の物語。九州一のパチンコ屋をつくりあげた父だけではなかった息子正義への大きな影響。家系のプライドから「商い」をやったことがなかった一族

あんぽん 孫正義伝

「だから親父は、僕がちっちゃいときからいつも言っていました。正義、俺の姿は仮りの姿だ、俺は家族を養うために仕方なしに商売の道に入っていったけれど、おまえは天下国家といった次元でものを考えてほしいってね。だから、僕は小さいときから商売人になろうと思ったことは一瞬もないんですよ。商売って要するに、できるだけ安く買って高く売ることですよね。でも事業家は違います。鉄道や道路、電力会社など天下国家の礎を作るのが、事業家です」(『あんぽん』佐野眞一小学館 p.101)


孫正義伝『あんぽん』は、人間というもの、そして人間の成長について、驚くべき”秘密”を書いてしまっています。人間はその幼少期に、どんな生育環境で、どんな気質の人間たちと関係しながら育ち、絶えず何を見、何を言われ、何(誰と)接触し、何を感じていたか。「三つ子の魂、百歳までも」、この言葉は、孫正義の人生にも如実にみられます。そしてここに「三代の魂、百歳までも」とでもいうべき新たな言葉を、つけ加えたくなる衝動に駆られます。
人間は、とりわけその幼少期、周りの人間とのかかわりが人間的栄養源になります。その吸収力は、まさに植物の根の如し。かかわりが密であればある程、根はたちまちに長く深く、密度をまして伸びていきます。そこに生まれでるのが、「根力」「根性」であり、その人間の「粘り(根張り)」です。
一般的に「伝記」本は、そうした状況を客観的に叙述していきます。「個人の生涯にわたる行動や、事績、業績を記録、叙述したもの」というのがおよそ一般的な「伝記」の方法論。ところがノンフィクション作家・佐野眞一はそんなカテゴリー的な叙述方法をとっていません。「内臓から抉るように内側から」(主観的ともまた異なる)、描きだし、次いで本人の背中から描く。そのため孫正義本人すら半分以上も知らない話がくりだされます。しかし取材から得た多くの話しは、孫正義の鼓動を掴みます。なぜならそれらはかつて孫正義の足下にたしかにあった鳥栖の豚の糞尿の匂いがたちこめるバラック小屋の「無番地」の土壌につながるもの、孫正義の”根っこ”となっているものだからです。

孫の二乗の法則 孫正義の成功哲学 (PHP文庫)

「両親にはやっぱり一番感謝しています。僕の原点は何といってもかけがえのない親父であり、おふくろなんです。そしてその両親と一緒に暮らした子ども時代のあの環境そのものが僕をつくってくれたんです」(『あんぽん』佐野眞一小学館 p.391-92)

ところが佐野眞一孫正義の類例のないパーソナリティを、親父とおふくろという孫が語る「僕の原点」だけから生じたものでないことを取材を通して嗅ぎ取っていきます。そこにあったのは玄界灘を渡ってきた孫家と母方の李家それぞれの朝鮮人一族三代の過酷な歴史です。孫一家が、佐賀・鳥栖駅前の朝鮮部落から身を起こし、豚の飼育・売買と密造酒を売って生き抜いていた父の孫三憲が、サラ金業に、九州一のパチンコ店経営、不動産、焼肉店、ゴルフ場経営にまで手を拡げていったこれまた無類の事業家だったことは、『あんぽん』以前に孫正義をテーマにした書籍ですでに語られていた部分もありました。ゆえに無類の事業家の父のもとに生まれた、稀代の異端児・孫正義の誕生と、いっけん合わせ鏡のようにとらえられたこともありました。ところが鏡はさらに重なっていたというわけです。
『あんぽん』が炙り出すのは、父と子の物語でも、孫一家の物語ではありません。もの凄い感化や影響はあったにしろ、稀代の異端児・孫正義はもっとおおきな土壌のなかから生まれてきた。たとえ話しで言ってしまえば、「巨人の星」の星飛雄馬星一徹とのあの異様な親子関係だけから生まれたのではなく、星一徹の父、つまり星飛雄馬の祖父や祖母たちの国境に引き裂かれた過酷な生涯、さらには玄界灘を越えて強制労働でやってきた母方の一族たちの影響が陰に陽にあって、星一徹の異様な気骨が生まれ、「ワシが野球をやっているのは仮の姿なんだ。お前に野球を教えても、お前には天下国家の次元で考えて欲しい」と言って息子に大リーグ養成ギブスをつけさせた(じつは孫正義少年は自分自身で「巨人の星」を真似て、自ら大リーグ養成ギブスをつくって身につけてトレーニングしています)。
まあ大雑把にそんなイメージでしょうか。じつはここで野球を唐突に持ち出したのも、今ではソフトバンクは「ホークス」の親会社。九州唯一の球団をもつ会社です。そして孫正義少年も少年時代、野球少年(サードだった)でならしていたのでした。実際に、好きな野球をもっと大きな視野で見た時、どう考えるかという視点がある意味実現化されたといってもいいかもしれませんダイエーホークスを買収したらどうかというアイデアはじつは父三憲から出たものだったという)

志高く 孫正義正伝 完全版 (実業之日本社文庫)


「うちの一族は商売なんかする家柄じゃない!と親類から凄い嫌がらせを受けた」とは?

この言葉は、祖父の孫鍾慶が日韓併合の時代が終焉し朝鮮半島植民地時代に日本軍が土地の多くを接収。土地を失った貧しい小作農は食べていけず、徴用に応じ日本の地へ、鉱山へ)、韓国へ帰国した時、生地の大邱(テグ:釜山から新幹線で40分のところにある慶尚北道の都)で、田畑がすっかり荒廃してしまっていたため、小さな商いをはじめた孫鍾慶が親類から凄い嫌がらせを受けた時の言葉だといいます。冒頭にあげた父の孫三憲が正義少年に語った「商売をしている姿は、俺の仮りの姿」なんだ、という言葉を裏書きするような言葉です。
孫家はどんな家柄だったのか。先祖は武人か学者の家系だったといいます。孫家の家系は、西暦500年頃の中国の将軍から「孫」の姓を与えられた大臣が孫家の始祖だとされ孫正義は25代目だとされる)、中国の紅巾の乱での貢献で中国の王から褒美をもらっているといいます。ところが日韓併合の時、日本軍に土地を取りあげられ小作農ではもはや食べていけない。結局、祖父の孫鍾慶は、今度は密航で再び日本へ渡らざるをえなかった。
息子の孫三憲孫正義の父)は、鳥栖駅前の、豚の糞尿と密造酒の匂いが立ち籠めた「無番地」のバラック建ての家に住むまでに転落。その「無番地」のバラック建ての家こそ、孫正義が幼年期を過ごした家でもありました。孫の父・三憲は中卒です。祖父・孫鍾慶から高校に行かせられないので働いてくれと言われ、中学を卒業したその日から魚や闇の焼酎の行商をして働いています。
父・三憲のこの厳しく苦しい体験こそ、「商い」への感覚が研ぎすまされていくのですから人生何が起こるかわかったものではありません。母の李家もまた半島から根をもぎ取られ、炭鉱から身を起こした一家でした(坑夫募集の甘言にのせられ九州へ。母方の祖父は筑豊炭鉱で働き戦後は廃品回収業を営む。孫正義は母方の叔父は麻生炭鉱の爆発事故で亡くなったと記憶していたが、実際には三井山野炭鉱だった。通信網や新エネルギー政策など国家的基盤の事業についての関心の源流は幼少期のそうした記憶も決して無縁ではないらしい)。堅気がいなくなった一族に流れる我武者らさー「血と骨」の物語、日本の企業エリートが決して持ち合わせない「反抗の血」はそんな背景から生まれたものでした。

孫正義を「商い」に感化させた父・三憲については、サラ金で一儲けしパチンコ業をおこし九州一のパチンコチェーンをつくりあげ、不動産やゴルフ場経営まで手をのばし億万長者になった凄まじい「やり手」であり、その「商い」の強面の筋から孫正義が誕生したとみられがちですが、『あんぽん』では孫家の別の相が描かれ多くの読者を驚かせます。じつは父・三憲にとって、金貸し商売ははなっから気性に合わず、長くやる商売ではないというのが口癖で(焦げ付きの取り立てを厳しくやれない性格だった)、その性格はまったくの「商売下手」だったといわれている祖父の孫鍾慶そっくりだったというのです。祖父の孫鍾慶は廃品回収の仕事をしていた時、扱ったブツが盗品だと知ると慌てて返しにいくような正直者で、根が本当に真面目な人だったと。そういえば孫正義の名の「正義」がつけられたあたりにも、そんな孫家の気質があらわれでているようです(その一方で、父の実の姉弟同士たちは情念と怨嗟にまみれ顔を合わせればいつも殴りあいの喧嘩に。三憲が本当に「血はうらめしか」という血の濃さ)。
では情念にまみれながらも根が正直者で「商売下手」の孫家は、なぜ化けたのか。困窮さがそうさせたのだろうか。『あんぽん』はその謎を、孫家の家風の核にあった両班の末裔だという強烈なプライド、父・三憲の誰も手におえない強情さや息子正義に対するかなりかわった「天才教育」(自分の子ではなく「社会の子」として扱い、正義にお前は「天才」だといつも言っていた)孫正義が小学校にあがった時にはすでに貧困から脱し、正義少年が経験した貧困の期間が短期だったこと(小学校高学年には、パチンコ業が当りに当り祖母が居つくバラック小屋の前にはベンツが5台も10台も並んだという)、小学生の時にすでに父と商いの方法について話しあったりしたこと、さらには父方の祖母の存在や、孫正義の母方の李家(日本姓・国本)の”濃い”性格孫正義にとっての母親譲りのもの)と、李家の兄弟姉妹のアクの強い者たちが周りにいたことなどに言及しています。
▶(2)に続く-未

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孫正義 働く君たちへ: 「腹の底からの思い」を語ろう
孫正義 働く君たちへ: 「腹の底からの思い」を語ろう

野田秀樹(1):芝居の”根っこ”にあるもの

野田秀樹坂口安吾の生まれかわりであった?!(野田秀樹本人談) 野田秀樹の芝居の”根っこ”にあるものとは。幼稚園の頃からずっと感じつづけていた「よそ者意識」と違和感。小学校時代、笑顔だが悪童、頭の回転がよく、この頃から「身体」がきびきびと動く少年だった


野田秀樹 (日本の演劇人)

「1955年(昭和30年)2月17日、坂口安吾、桐生の町で永眠する。2月18日、坂口安吾の魂は、日本列島を東海道沿いに、西方浄土を目指す。 

2月25日、さらに坂口安吾の魂は、交通機関の発達していなかった当時としては、格安の料金と時間とを浪費して、やっとの思いで、日本列島から海外への唯一の窓口、長崎へ到着。


2月26日、そこで坂口安吾の魂は、お釈迦様に、次は一体何に生まれ変わるのかを、聞いてみたところが、「イモリかタモリか、そんなものでしょう」と言われて、生きる意欲と西方浄土への意欲を失くし、雪の降る長崎の町で、青年将校の魂を引き連れて、私の母親の胎内にたてこもる。

お釈迦様でも気がつくめえ。12月20日、たてこもること10カ月、ついに坂口安吾の禁欲的な魂は、野田秀樹の魂として生まれ変る。……


 1958年 2歳 人格の寸法が、はっきりしてくる。タテヨコ2センチ5ミリ。拡大してみるとー人見知りだが、社交性だけはあり、気は利くわりに、すぐぼけっとする、神経質そうに見えても、ちゃらんぽらん、根は不真面目だが、その実ひたむき、心優しくて、底意地まで悪い、臆病でなおかつ、大胆不敵、あきっぽいくせに、どこか粘り強い、明るく爽やかなうえに、芯まで暗い。

考えれば考えるほど分裂気質。人間性格なんてわかんねえもんだ。……」(『野田秀樹』責任編集・内田洋一 白水社 p63~64 戯曲『怪盗乱魔』巻末掲載の「たかが人生」より)

劇団夢の遊眠社を立ち上げた小劇場の旗手、NODA・MAPの主宰者、また中村勘三郎(当時の中村勘九郎)との交流から生まれた野田版歌舞伎(『野田版研辰の討たれ』『野田版鼠小僧』『野田版愛陀姫』)。


日本の現代演劇の舞台だけでなく、夢の遊眠社解散後に演劇留学したロンドンや、最重要作品の一つ『赤鬼』でのロンドンやタイ、韓国公演で、まさに”東西ートーザイ”に疾走してきた(2012年春国内数カ所で公演される『The Bee』もニューヨーク、ロンドン、香港と公演されてきた)野田秀樹の芝居は、つねにサプライズな”更新”があり、「芝居」でしか味わえない”もの凄さ”があります(私も1983年に上演された駒場小劇場での『野獣降臨』を観て以来のいちファン)

ひつまぶし

21歳の時、東京大学演劇研究会を母体として「劇団夢の遊眠社」を結成したことは野田ファンにはよく知られていますが、なぜ野田秀樹が究極的な芝居小僧になったのかは、かつての夢の遊眠社ファンであっても野田ファンであっても、それほど知られていないでしょう。

せいぜいが長崎生まれで、父の転勤で東京・代々木近くに引っ越し、どこか都会の空気に馴染めず疎外感を感じつつも、一方でめきめきと知力をあげていき、東大(法学部)に入学。そこで演劇研究会に所属し、脚本を書き出しその才能が開花、演技にも凝り出し、大学を中退して以降そのまま一気に劇団のリーダーになっていって一躍大ブレイク。おおまかにはそんなところではないでしょうか。

ところがそこでは演劇に関しては、東大演劇研究会に所属して以降のことしか触れていないことに気づかないでしょうか。


東大演劇研究会に所属し、突然変異的に演劇の才能が開花した、やはり東大に入る者の頭の構造は人とは異なると。でもこれではなぜ野田秀樹が、芝居小僧になったのか説明もひったくれもありません。


頭がいいから東大に入り、頭がきれるから演劇の才能が開花した? 


でも東大生の99.999%は、決して食えない演劇の道に好んですすんでいくことなどありません。ではなぜ野田秀樹は、芝居の道に向っていったのか。

そこにはじつに興味深い背景(場的環境)と出会い(人的環境)が関係していたのです。

まずは冒頭で紹介した様に、坂口安吾の魂が西方浄土を目指し「お釈迦様でも気がつくめえ」と生まれた長崎ですが、同じ長崎でも三輪明宏や福山雅治が生まれ育った異国情緒漂う長崎の街並のなかではなく、その長崎市と平戸の中間辺りの半島の出っ張りの佐世保から50キロ程)、さらに五島列島へ向いた細長い半島の先にある、今では道路一本でつながった小さな島々の一番先にある小さな島に生まれたのでした。


「30歳のころ崎戸を訪ねたら、炭鉱の跡はまさに廃墟でした。…父親にどのあたりに住んでいたか聞いて行ってみると、そこは4階建ての共同アパートで、自分たちの住居だったと思われるところには人がまだ住んでいた。
島のてっぺんでしたから、海の絶景が見える。こんな景色を見ていたんだなあ。『赤鬼』という芝居に崖の上から海を見る場面がありますが、あの絶景の記憶がどこかで影響しているかもしれません」
(『野田秀樹』責任編集・内田洋一 白水社 p56)

野田秀樹(2)へ続く:

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「モッタイナイ」という言葉を世界に広げたケニア出身のワンガリ・マータイ女史は、なぜ「ノーベル平和賞」を獲得したのか。1977年から30年以上にわたって取り組んでいた草の根的「グリーンベルト運動」。文字がなく「口承文化」しかなかったキクユ族と「イチジクの木」のこと


UNBOWEDへこたれない ~ワンガリ・マータイ自伝

ワンガリ・マータイ(1940年〜2011年)は、日本では「モッタイナイ」という言葉を、国連の「女性の地位委員会」の講演で連呼し、「モッタイナイーMOTTAINAI」という言葉とその心を世界に広めたアフリカの伝道師として知られています。もっともワンガリ・マータイは、京都議定書関連のイベントに招待された折りに、「モッタイナイーMOTTAINAI」という言葉を知り、その意味するところに感銘を受け知る1年前の2004年にノーベル平和賞を受賞している世界的な人物でした。
マータイ女史は「モッタイナイーMOTTAINAI」精神を世界に広めた人物ではありますが、なぜ彼女がノーベル平和賞を受賞したのかを知ることは、大きな曲がり角に突入しているこの時代に大いに意義と価値があるとおもわれます。ケニアの地から、そしてアフリカから地球を”看護”する現代のマザー・テレサの様な存在なのです。それは彼女がなぜノーベル平和賞を受賞したのかその理由にあらわれています。マータイ女史のノーベル平和賞を受賞は、「環境分野」を通じた世界初のノーベル平和賞でした。「環境」と「平和」が切り離せないものであること、「環境」への疑問を深めていけば、必ずそこに政治や政策、人種、部族の問題にぶつかり、ひいてはその土地や地域の「平和」が希求されるのです。マータイ女史は30年以上にわたりその困難と壁の突破に生涯をかけてきたといっても過言ではありません。
その「環境分野」とは何だったのか。ケニア人「一人一本」の木(1500万本)を植え、アフリカに3000万本の樹木を植える「グリーンベルト運動」がそれでした。マータイ女史はこの運動を1977年から取り組んでいたのです。今日でこそ、様々なレベルで植樹は盛んですが、日本がまだ昭和の時代、バブル時代になるはるか以前から草の根による「グリーンベルト運動」を提唱し、実現に向けて困難に立ち向かっていたことになります。

ワンガリ・マータイさんとケニアの木々
ワンガリ・マータイさんとケニアの木々

「……この草の根運動の仲間と私は、木を植えることによって、理念を植えた。そしてその理念は、木と同じように育った。グリーンベルト運動は、教育と水へのアクセス、公正さを与えることによって、人々ーその多くが貧しい女性たちであるーを力づけて行動を促し、人々と家族の生活を直接向上させるのだ。
 私たちは30年におよぶ経験によって、「木を植える」という小さな行動が、やがて大きな変化をもたらすことを知った。そしてそれは、環境や優れた統治、平和という文化に対する敬意にもつながっている。このような変化が起きるのはケニアやアフリカだけではない。アフリカが直面する困難、とくに環境悪化は、全世界に共通する問題である。……」(『へこたれないーUNBOWED:ワンガリ・マータイ自伝』小池百合子小学館 2007年刊 巻末の「green belt movement international」を紹介する頁より)

「木を植える」運動を起こすようになったマータイ女史がどんな家族と環境(土壌)に生まれ育ったのか、『へこたれない:ワンガリ・マータイ自伝』を参照しつつみてみましょう。ワンガリ・マータイは、聖なる山ケニア山が眺望できる南西50キロ程にある州都ニエリ(首都ナイロビの北方約100キロ)近くの小さな村イヒデに生まれています。両親はケニアにある42の部族の一つで最大の部族キクユ族(現在人口の約22%。バラク・オバマ米大統領は13%と3番目に多いルオ族につながっている)で、家は土壁でつくられた小さな自作農家でした。6人兄弟姉妹の3番目で、初めての女の子。キクユ族では長女は「ふたり目のお母さん」のような役割を果たすといわれ、ワンガリも母といつも一緒にいて、いつも母のすることを真似ていたといいます(母はワンガリの人生において心の拠り所となる)。読み書きを教わったことは一度もなかった母は、穏やかで優しくも逞しく、強い義務感と責任感をもった働き者でした。ワンガリは母が叱る姿を一度も見たことがないと語っています。ワンガリという名前は、勤勉で几帳面な性格だった父方の祖母の名前から付けられたものでした。キクユ族の子供の名付け方は、「自分は名前をもらった親戚の生まれ変わり」と感じるようにできているといわれ、ワンガリ自身も、癖や話し方、歩き方、ものの整理の仕方まで祖母にそっくりだといわれてきたといいます。キクユ族が抱く「命は永遠に続いている」という感覚はそうしたところからもきているといいます。

ケニアの女の物語
ケニアの女の物語
他の部族と同様、キクユ族には文字がなく、文化はずっと「口承」で受け継がれてきていました。「口承文化」のうち、もっとも重要なことは何世代にもわたって語り継がれてきた「物語」(神話の様に複雑だった)で、一日の畑仕事が終え夕飯ができるまでの間に、子供たちは年配の女性たちの話しに耳を傾けるのでした。
ワンガリ・マータイが、樹木を植える「グリーンベルト運動」と心根深くでつながっているものは、家の周囲に当時は無数にあった巨大な野生のイチジクの木(直径20メートルほどにもなる)の存在といってもいいでしょう。イチジクは「神様の木」といわれ、キクユ族はイチジクの木に畏敬の念をつねにもっていました。マータイの家近くのイチジクの木から200メートルほどの所に小川の源泉が涌き出していて、子供たちはその水をいつもそのまま飲むことができたのです。またその小川に沿ってバナナやサトウキビ、クズウコンが植えられ食べ物も供給してくれたのです。

マータイ女史は後にイチジクの根系と地下水の帯水層との間につながりがあることを知ったという。イチジクの根は地中深く突き進み、岩をも突き抜け、地下水面に達することができ、一方地面の凹地で、水を湧き出させることができるため、イチジクの木がある周囲には、自然とせせらぎが生まれことが多いといわれている。さらには地中深く根をはることができるらめ周囲の土壌をしっかり固めることもできる。イチジクの木はマータイが幼少期の時には、さまざまに恵みをもたらしてくれる木だったのです。(『へこたれないーUNBOWED:ワンガリ・マータイ自伝』)


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もったいない

モッタイナイで地球は緑になる
モッタイナイで地球は緑になる
アフリカの女性史—ケニア独立闘争とキクユ社会
アフリカの女性史—ケニア独立闘争とキクユ社会

ハワード・シュルツ(1):スターバックスにある2つの「原点」

スターバックスにある2つの「原点」。ブルックリンの貧しい労働者階級に生まれ、スポーツが得意だった少年。意志が強いアクティブな女性だった母は、成功した人物の例を子供たちに教えつづけた。
12歳から新聞配達をし軽食堂で働きだす。大学卒業後も将来のイメージがわかずアルバイト人生をおくっていた


スターバックス成功物語

スターバックス・ブランドの発展とともに、<サードプレイス>の概念はいっそう定着していった。店内に流れる音楽や座席、周囲のざわめきで、顧客は自分一人でいるときでさえ、社交の場所にいるような気分を味わうことができる。1990年代の始めにスターバックスのビジネスを支援していた広告代理店は、人々は『社交的な雰囲気』を求めてスターバックスに行くのだと結論つけている。
しかも、スターバックスにいる顧客の大半が、実際に店内で他の人と会話をしたり、また周りの人との交流を持つようなことがないにもかかわらずだ。


 また、店内に入って注文し、テイクアウトする、あるいは席に座るという行為には、社交的でなければならないというプレッシャーがない。実際、このプレッシャーのなさが<サードプレイス>の特徴であり、だからこそ、人々にとって心安らぐ憩いの場になるのだ」(『スターバックス・コーヒーー豆と、人と、心と』ジョン・シモンズ著 SOFT BANK Publishing 2004年 p.117)<<

伝記を読むとなると小説やビジネス書と違って多少とも身構えてしまうこともあるかも知れませんが、実際には必ずしも「伝記バイオグラフィー」とタイトルに記されない書籍も次々に出版されています。


上掲した『スターバックス・コーヒーー豆と、人と、心と』はその典型で、ソフトバンク・パブリッシングから「The Branding」シリーズの第一号として刊行されたものです。オリジナルも「Great Brand Stories Series」と銘打たれ「My Sister's a Barista」というタイトル。表紙には「Biography」や対象の人物の名前も印刷されていません。


「The Branding」というシリーズ名から分かるように、本書は従来のような伝記本ではありませんが、スターバックス・コーヒーを世界的に「ブランディング」させたハワード・シュルツという人物をなかなかに深堀りしています。
その理由は、スターバックスの「The Branding」と不即不離、表裏一体の人物であり、ハワード・シュルツ人間性やアイデア、挑戦や行動力こそがスターバックスの今日を生み出したからであります。

冒頭に<サードプレイス>の概念を紹介しましたが、本書などはある意味「ビジネス書」と「伝記」の間の第三の地点にあるような書籍かもしれません。
そして直感的にも、マーケット的にもこうした場所を占める書籍が今後多くなってくるのではないかと思います(また「伝記」や「自伝」のみならず、「人物評伝」というネーミングもすでにどこか重過ぎる)

すでに本ブログでも取りあげたファースト・リテイリングの柳井正について著した『柳井正 未来の歩き方』(大塚秀樹著 講談社やほぼ日ブックスの『個人的なユニクロ主義』柳井正×糸井重里インタビュー)などはすでにそうした領域にある本といってもいいでしょう。



スターバックスには他に『スターバックス 成功物語』ハワード・シュルツ+ドリー・ヤング著 日経BP社)がありますが、これも原題は「Pour Your Heart into It」で、ハワード・シュルツ自身について伝記本並に幼少期のことから詳細に著されていながらバイオグラフィーの文字は何処にも見当たりません。
タイトルに見事にあらわされているように、まさに<サードプレイス>的な本になっています。


そしてなんとも興味深いことに、スターバックス・コーヒーそのものも、今や創成期の場を超え、ハワード・シュルツが参加し、そして別れ彼自身の方向へ出発した地点をも超え、再びスターバックスを含み込んで第三の<サードプレイス>の場所へと出たときに、スターバックス・コーヒーは未来を孕むようになるのですスターバックスには2つの「原点」があるといわれる。


それは「原点(創始者)」と「発展期(中興の祖)」でなく、「原点(創始者)」と、もう一つ別の「原点」がそれに誘発され、どちらかの「原点」をも消滅させることなく新たな化学反応をおこしたといった感じだ)。

それではそのもう一つの「原点」となったハワード・シュルツについて前出の2冊の本を参照しつつみていきます(最初の「原点」にあたる3人の創始者たちについては後に触れます)


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まず活動的な彼にしても、大学卒業後、将来のイメージがわかず、やりたいことも見つけられずに当初はアルバイトをしはじめています(大学はシカゴ近郊にあるノーザンミシガン大学フットボール奨学生として入学していた)


ニューヨークや実家のあるブルックリンに戻る気はなかったスポーツ青年だったハワードが卒業後にやっていたのは、大学のあるミシガン州でスキーロッジでのアルバイトでした。職業選択を指導する教授もいなければ相談相手もいず、自身もやりたいことが何も思い浮かばなかった、というのです。その姿は日本の若者とそれ違うわけではありません。


ハワードは「生まれながらのスポーツマン」だったというほどスポーツが得意だったといいます。子供の頃には、フットボールだけでなく野球にバスケにとたちまち夢中になり、近所に住むいろんな人種の子供たちを呼び集めてはチームを編成していました(地元のドジャースロサンジェルスに拠点を移したためヤンキースの熱狂的ファンに。ミッキー・マントルの大ファン)。


とにかく興味をそそられるとすぐに「夢中」になる性質でした。もっともこの頃にコーヒーに「夢中」になることなどまずありませんでした(母が飲んでいたコーヒーは缶入り挽き売りコーヒーでそれを古いパーコレーターで沸かしていたが、当時のアメリカではどの家庭も似たりよったり。市場には大手食品メーカーが利益率を上げるための薄い「アメリカン・コーヒー」しかなかった)。


中学生になったハワードは、ある事に気づかされます。それは自分の家の貧しさでした。夏休みに催された宿泊キャンプは、貧しい家庭の子供たちを対象とする企画だったのです。それまでハワードは自分の家の貧しさをほとんど自覚していなかったのです(家の周りは皆同じ様な暮らしだった)。その時ハワードはキャンプには今後絶対参加しないと誓っています。


ハワード・シュルツ(1953年生まれ)が生まれ育ったのは、ニューヨーク東部のブルックリン・ジャマイカです。貧しい労働者階級用に建設された共同住宅「ベイビュー・プロジェクト」(8階建てレンガ造りの共同住宅が12棟)がそれでした。

シュルツ家は2世代にわたってブルックリンの労働者階級で、祖父が早く亡くなったため父は学校を辞め働きだしています第二次世界大戦時、陸軍衛生兵となった父はサイパン島など南太平洋へ行きマラリアに罹る。


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帰還後は職を転々とし自身にふさわしい職場をみつけられなかった。週末暇さえあれば子供たちの仲間にも加わって楽しむ父だったという)。
どちらかといえばハワードの強い意志と活動的な性質は母イレインから受け継いだようです。会社の受け付けで働いていた母は3人の子供が生まれてからは育児に専念しますが、意志が強いアクティブな女性だったといいます。

高校を卒業できなかった母の夢は、子供たちに大学教育を受けさせることでしたが、子供たちに伝えつづけたある重要なことがありました。


母は子供たちを前に、何かに成功した人物の例を幾つもあげ、どんな目標でも思いつづければ達成できると、伝えつづけたといいます。それは「自ら求めて困難に挑戦すること」でもありました。「そのおかげで苦境を克服する術を学ぶことができた」と後にハワードは語っています。


12歳になるとハワードは新聞配達をし軽食堂で働き、16歳からは授業を終えるとマンハッタンの毛皮加工工場で働いています。長男だったこともあり家計を助けるためでした。
この頃には、ブルックリン・ジャマイカの「ベイビュー・プロジェクト」に住んでいることに恥ずかしさを覚えるようになっていました(高校のフットボールチームのクオーターバックになったが選手としてのジャケットを購入するお金がなく友人から借金している)。付き合いだした女性の父の一言や空気から分かったのです。


そんなハワードは得意だったスポーツに熱中していきます。スポーツはある意味逃げ場でもありました。将来のことがまったくみえず、見当もつかなかったのです。高校生の頃でも、「自分が事業家になるなどとは夢にもおもわなかった」と語っています。


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ちなみにユニクロの柳井氏やソフトバンクの孫氏の場合、将来の自分自身はまだまったくみえなかった状況はまったく同じでしたが、両氏とも父の事業を少なからず肌で感じとっています。

が、ハワードが知っている事業家といえば、ブロンクスで小さな製紙工場を経営する叔父だけでした(父はそこで工場長をしていたこともある)

そんなハワードがいったいどのように、どんなきっかけでスターバックス・コーヒーを率いるようになっていったのでしょう。ハワードがスターバックスと出会ったのは28歳の時ですので、まだ10年余り先のことです。
ハワード・シュルツ(2)に続く 

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M.C.エッシャー(1):少年はどのように「版画」と出会ったのか

エッシャー少年はどのように「版画」と出会っていったのか。「木工工学」を専攻した父は、明治時代に土木技師として来日していた。父は庭で子供たちが「木工作業」に親しめるように作業台をつくった。幼い頃に父が読んで聴かせていたグリムやアンデルセン童話。家族が夢中になった「天体望遠鏡

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鳥と魚の絵のパターンが交錯していく不思議絵「空と水」。建築不可能なループ状階段をのぼり続ける人と下り続ける人を描いた 作品「上昇と下降」や「相対的」(2次元の歪みを利用した数学者ペンローズの階段)。反射する鏡面を通して異なる世界が一つになる「反射する球を持つ手」。繰り返し増殖するかたちや不可能な図形(平面の正則分割、相互貫入する世界。メタモルフォーシスする異常空間(空間のイリュージョン)
絵画の専門家であろうとなかろうと、エッシャー作品をひと目見れば、わたしたちの「想像力」は羽搏かずにおられません。不可能建築などは、世界屈指の数学者も想像を逞しくしたものでした(2次元の歪みを利用した数学者ペンローズの階段)


平面を正則分割していくものや後年の無限を追求するかたちは、きわめて「数学」的な構図と言われています。では、M.C.エッシャーは、数学が得意だったのでしょうか。レオナルド・ダ・ヴィンチのように稀に見る数学が得意な画家(版画家)、デザイナーだったのでしょうか。ところが実際には、エッシャーは子供の頃から数学は嫌いで、記号や抽象を扱うことに相当苦手意識があったといいます。ところが数学のうち「立体幾何」だけは想像力に訴えかけるものがあったというのです。

20代後半でのスペインへの旅で、アルハンブラ宮殿で深く感銘を受けた「モザイク文様」。30代半ば頃、結晶学者になった兄B.G.エッシャーから薦められた『結晶学時報』に掲載されていた「繰り返し模様」。こうした体験や知識が、少年時代の「立体幾何」への奇妙な関心に結びついきます。しかし少年時代の「立体幾何」への関心はどこからやってきたのでしょう。兄の一人B.G.エッシャーが後に結晶学者になったこととも少なからず関係しているにちがいありません。


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そんな兄弟が育ったエッシャー家はどんな家、どんな家庭環境だったのかみてみる価値はおおいにありそうです。そのためには大判の美術書のような『M.C.エッシャー その生涯と全作品集』(J.L.ロッヘル編著 坂根巌夫訳 メルヘン社 1995年刊)にはまずもってあたらなくてはなりません。

第一章は「エッシャーの父」からはじまっているように、父ジョージ・アーノルド・エッシャーの存在と感化、影響なくしてはM.C.エッシャーはありえませんでした(父エッシャーは「日記」をよくしていたため、息子エッシャーの幼少から青年にかけては、この父の日記を通してM.C.エッシャーの幼少期がみえてくる)

M.C.エッシャー(本名:モーリッツ・コルネリス・エッシャーは、エッシャー家の6人目の子供として(全員が男児だった)、1898年に生まれていますが、それより遡る30年余前のこと、父エッシャーは自身どんな仕事に向いているのか自問自答したあげく、デルフト大学で「木工工学」を専攻したのでした(卒業後、国有鉄道に入りアムステルダムなどで働いた後、運輸省の採用試験を受けパスしています)。以下は父エッシャーの自分自身を語った部分です。

「私は自分の大きな欠点、つまり記憶力のよくない点や、総じて頭の回転のよくないことなどを選択の基準にした。…そこで私は、物事について知識がそう重要ではなく、演説などしなくてもいい職業を探した。こうして、弁護士、判事、市長、牧師、教師、俳優などの職業は、即刻私には不向きなものとして除外してしまった。…しかしその一方で、私は、自然現象と、その現象に基づいて人間が構築する最ものとの間の関係を研究することでは、いくらか才能があるような気がしていた。だが自然科学関係の仕事でも、人に教える義務のない職業を探すのは難しく、せいぜいものを造る仕事、つまり工学関係の仕事くらいしか残っていなかったのだ」(『M.C.エッシャー その生涯と全作品集』(J.L.ロッヘル編著 坂根巌夫訳 メルヘン社 1995年刊 p.9)


▶(2)に続く

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アインシュタイン(2):4、5歳の時の「驚き」。「羅針盤」と「電気」

アインシュタインの生涯は、4、5歳の時の「驚き」の延長にあった。父が持ってきた「羅針盤(コンパス)」にはじまる。父は当時の新興産業分野だった「電気」を、数学好きの叔父とともにはじめていた。10歳の時に毎週家を訪れていた医学生青年から教わった数学と「科学実験」を紹介した科学書

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アインシュタイン(1)からの続き:磁石の針を動かす<隠れた、見えない力の場>、<自然現象の不思議な力>。それはまさに電磁場であり重力場であり、そこから飛び出してくる光子など、後のアインシュタインが生涯をかけて探求することになったものだったことをおもえば、すべては4、5歳の時の「驚き」の延長にあったといえます特殊相対性理論の有名な論文は電磁場の効果の考察に始まり、一般相対性理論重力場の記述が基礎となっている。死の直前に走り書きしていたのは「場の方程式」だった)

先の「私は天才ではない。ただ、ほかの人より一つの事と長く付き合ってきただけだ」とアインシュタインが応えた、<長く付き合った一つの事>との遭遇が、4、5歳の時の時の「驚き」だったのです。
ほとんどの場合、小さな時のこうした素直な「驚き」は、その場限りものとなる運命にあるでしょう。アインシュタイン少年の場合、なぜその「驚き」がその後もずっと「延長」していったのでしょう。
「”驚き”からのつづけさまの飛翔」アインシュタイン自身の言葉)がなぜ可能となったのでしょう。このことこそ「伝記ステーション」ならではの肝要の部分となってくるものなのです。


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それは「資質」とか「(家庭・学校の教育)環境」、強烈な「意欲」とか、「遺伝」とかだけに収斂させることができようもないことが、アインシュタインのケースでもおこっていたということです。

「資質」や「(家庭・学校の教育)環境」に単純明快に振り分けられるようなものでなく、それらが織り重なり精神的土壌(根っこ、地下茎)となり、さらにそこにそれを強化、深化させる刺激や人間関係、体験が積み重なった時に、内部から沸き起こってくるもの、なのにちがいありません。

たとえば父から与えられた「羅針盤;コンパス、方位磁石」だが、父は単なる遊び土産として病気で寝ていた息子アインシュタインのために買ってきたわけではないということです。
どういうことかというと、父ヘルマン・アインシュタインの職業が何だったか覚えておいででしょうか。電気関係では? 当り、ですアインシュタインが生まれた時は、ドイツ・ウルムの町で羽毛ベッドのセールスマンをしていたが、もともとは「電気工事店」を営み、その経営に失敗し英国風酒場に一時期商売変えもしている)

なんといっても興味深いのは、当時の最先端の新興産業分野だった「電気」にまつわること、「電気」に関する様々な話し合いが、アインシュタイン家の「家庭環境」にかなり頻繁にみられたということです。
父ヘルマンにとって「羅針盤;コンパス、方位磁石」は、極めて身近なものでした。電気関係とはどれほどのものだったかといえば、アインシュタイン誕生後の1年後に叔父(父の弟)ヤコブとともにガス水道工事店を開き、その5年後に「発電機」「測定器」「アーク灯」を製作する小さな工場を立ち上げ、ミュンヘン市郊外や南ドイツの地方自治体に電線を付設し電気を供給しはじめていました(叔父ヤコブは優れたエンジニアで、アーク灯、自動ブレーカー、電気使用量メーターの改良で特許を獲得。父ヘルマンは商売には不向きな性格で、ミュンヘンにいた弟ヤコブから事業への誘いがあった。

技術面は叔父ヤコブで、父ヘルマは資本を出し営業を担当し事業を支えた)。事業はある時期まで順調に推移し、北イタリアの町パヴィアの「発電所」の建設工事やイタリア各地で電機事業を立ち上げていきます(ちなみにアインシュタインチューリッヒ工科大学に通う頃には、ミラノへと事業を移したアインシュタイン家はスカラ座近くの古い屋敷に住みだしている)
今日で言えば、原子力エネルギーに代わる「新エネルギー技術」のことや、「インターネットTV」といった様なことが家庭内で日常的に話されていた家庭に生まれたといえるでしょうか。

しかも面白いことに、聡明だった父ヘルマンは、温和で優しい性格が事業に禍いし、酒場も羽毛ベッド販売も失敗、商売には不向きな性格だったといわれていますが、じつは少年の頃から「数学」に関心を示していたといわれています。当時の家の経済事情で高校や大学に行くことができませんでした。元来そんな父が商売上手とはいきません。

そして父の元来の「数学」好きに加え、大の「数学」好きの叔父ヤコブアインシュタインもまた電機事業を父と共同でおこなうようになって以降、アインシュタイン家と同じ建物に住んでいたのです!(このことはアインシュタインの多くの伝記本ではほとんど触れられていません。知りうる限りで唯一触れているのは、『アインシュタイン 上巻』B.G.クズネツォフ著 合同出版 1970刊 p.34)

なぜ父も叔父も「数学」好きだったのか。それはアインシュタイン が1歳の時にミュンヘンに引っ越したため、あまり重要な生地とは一般に考えられていないウルムの町にその要因があるようです。
「ウルムの人は数学者」「ウルム市民は数学が得意」というのが古くからの町のモットーだったのですアインシュタインが誕生し『アインシュタインの生涯』ゼーリッヒ著 湯川秀樹序文 東京図書 1974年刊)
フランスの数学者でもあるルネ・デカルトが「解析幾何学」の着想を得たのが、軍隊の野営での夢の中だったという逸話もウルムの町にはあります。
また後に触れることになりますが、アインシュタインにある常識にくってかかる「反権力」意識には、ウルムの町の反カトリック教会や反帝王権力の歴史的スピリットの水脈の一部が流れ込んでいるようです。

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こうしたことからも「天才アインシュタイン」は、個人としてのアルバート・アインシュタインの資質と努力だけからなったとは到底考えられない、というわけです

アインシュタイン少年が、10歳の時、一人の貧しい医学生が週に一度、アインシュタイン家を訪れ一緒に食事をとるようになっていました安息日に生活の苦しい宗教学者を家に迎えて食事をするのが古いユダヤのしきたりだった。
その変型としての貧しい医学生の接待)
。当時21歳のタルムート青年は、『国民自然科学読本 - People's Books on Natural Science』といったドイツでおこなわれた科学実験について詳しく紹介した大衆向けの科学書を持参し、アインシュタイン少年に教えたのです。なんとその21巻にものぼるそのシリーズの第一巻の冒頭が「光の速さ」を扱ったものでした。


『国民自然科学読本(みんなの自然科学)』の著者アーロン・ベルンシュタインはそのシリーズのなかで次の様に記しています。「光は種類によらず速度が正確に同じであることが立証されているので、光速の法則はあらゆる自然法則のなかで最も包括的なものということができよう」

「ベルンシュタインは全ての自然界の力を統一したいと思った。たとえば、光のような電磁現象は全て波として考えられることを議論した後に、重力についても同じ事が成り立つのではないかと推測した。そしてベルンシュタインは本の中で、われわれの認識が適用する全ての概念は、その下に単一性と単純性が基本として横たわっていると述べている。科学における真実は、この横たわる事実を記述する理論を発見することにある」(『アインシュタイン:その生涯と宇宙』p.41)

医学生タルムートとの出会いは、アインシュタイン少年に決定的な影響をもたらします。もしこれが何十人もの子供たちを一斉に教える今日の様な学習塾であったならばこうした「セレンディピティ(幸運な偶然、偶然力)」がもたらされる可能性はかなり低くなるでしょう。

青年タルムートは自然科学に関心を深めていったアインシュタイン少年に、「数学」の世界を教えはじめます。学校で数学を習うよりも2年前のことでした。アインシュタインは、「ユークリッド幾何学」の世界にある明快さに夢中になります(この頃アインシュタインは友だちと一緒に遊んだり、娯楽小説を読むことはなかったといわれている)アインシュタインは毎週一度タルムートがやってくるのを楽しみにするようになり、問題を解いてそれを見せるのを心待ちにするようになります。

少年アインシュタインはわずか2、3カ月で「幾何学」の本を勉強し終え、医学生タルムートを驚嘆させ、高度な数学へと熱中しだします。結果、数学はもはや青年タルムートの教えられる能力を超えてしまったため、その代わりに哲学者カントの著作を読ませ、教え出します。

カントの『純粋理性批判』を皮切りにアインシュタインの関心は、デビッド・ヒュームやエルンスト・マッハへと向かっていきますアインシュタイン、当時12、13歳。とにかく機械的な反復練習や、じれったい質問に始終する授業のやり方への嫌悪はつのるばかりだった)

こうした読書を通じて、アインシュタインの裡で「形式の教義」と「権威」に対し、強いアレルギー反応が育まれたといわれています。

『聖書』の中で語られる真実さへの疑問、宗教的儀式への意識的な距離感など、反権威の姿勢は、政治的なものから科学的なものまですべてにわたっていきます。

「この経験から、あらゆる類の権威をうさん臭く思う気持ちが生まれ、そうした態度が再び失われることはなかった」と。また「権威を思慮無く信じることは、真実にとって最悪の敵である」と公言する非順応主義者となったのです。
こうした懐疑主義と「定説」に対する「抵抗感」こそが、既成の科学的考えに挑戦する勇気、強靭な独立心となって、アインシュタインの研究を方向付けていったのです。もしこの精神的バックボーンがなければ、物理学における「アインシュタイン革命」は絶対におこらなかったのです。

ところがその2、3年後の15歳になった時のことです。成功していたはずの電気会社の経営が突然傾きはじめます。シーメンスなど他の電力会社との競争が激化したのです。ついに借金が重荷になり倒産(資金調達で家を抵当に入れていたため、アインシュタイン一家は叔父ヤコブとともにイタリア・ミラノへと移住。アインシュタイン少年だけはミュンヘンの親戚の家に残る)アインシュタイン家が経済的に問題なかったのは、アインシュタインが6歳から15歳までのわずか9年の間だけでした。


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よく知られているように、アインシュタインは後の23歳の時、友人の口利きでスイス・ベルン市にある特許庁に3級技術専門職(審査官)に就くわけですが、その2年前の21歳頃から、保険外交員や家庭教師のアルバイトや臨時の代理教員をして収入をえていたのは、人種的背景や学校や受験勉強に対する懐疑だけでなく、こうした家の経済状況があったのです。
そうした面ではこの厳しい時代に生きる私たちと、時代が違えどもどこか似たところもあったのです。
アインシュタインもまた、険しい時代を生き抜いた家族のなかに生まれた人間だったのです。

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