伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

立川談志(2):物事を裏側から見る性格ができあがった理由

小学校に入ってからすぐ「貸本屋」通い。『少年倶楽部』連載の作家の本を借りまくる。ガキ大将ではなく「空想」に遊ぶ性格。小学5年の時、伯父に連れられ「寄席」を初めて体験、小学生にして新宿・末広亭通い。『評判講談全集』『落語全集』を制覇。皮肉的に物事を裏側から見る性格ができあがった理由とは

談志 最後の落語論


▶(1)からの続き:立川談志(本名:松岡克由)は、昭和10年12月2日(戸籍上は昭和11年1月2日)、東京・小石川原町生まれですが、以降松岡家は引っ越しを繰り返すことになります(白山御殿町、蒲田、浦賀へ、さらに下丸子。6歳の時、東京・蒲田近くの鵜の木にようやく落ちつく)。父が三菱重工の社用車の運転手だったので、会社都合の引っ越しだったようです。三菱重工の社用車の運転手といっても、松岡家は鵜の木周辺の民家と同様、とにかく貧乏所帯で、家には1冊の本もなかったといいます。
幼少期には引っ越しの多さがマイナスに作用したのか記憶らしい記憶はほとんどないらしく、小学校にあがるまでの記憶としては、浦賀で見た駆逐艦や家の隣の蒲田の工場から流れてくる朝のラジオ体操のメロディくらいだといいます。後にもの凄い記憶力を発揮する談志少年ですが、小学校に上がるまでは記憶力は、他の子供と比べ少ないほうだったようです。
談志少年が大きく変わったのは、小学校(当時の国民学校に入学するとほぼ同時期に通いだした「貸本屋」通いをするようになってからでした。目蒲線鵜の木駅前にあった「貸本屋の村上書店」の常連になった談志少年は、当時流行だった『少年倶楽部』を借り出したのを手始めに、『少年倶楽部』連載作家・佐藤紅緑(こうろく)らの単行本へと手をのばしていったのです。紅緑の『ああ玉杯に花うけて』を読み終えた時の強烈な感動こそが、談志少年を「読書」の虫へと豹変させたのでした。
現代落語論 (三一新書 507)
つづいて山中峯太郎の『亜細亜の曙』(主人公・本郷義昭に憧れる)高垣眸の『豹の眼』、南洋一郎の『緑の無人島』に海野十三『大海底魔城』、さらには吉川英治の『ひよどり草紙』に江戸川乱歩の『少年探偵団』。これらの本を談志少年は、小学4年生までに読破していきます。「読書」好きが功を奏し、教科書のなかでも「国語」の教科書だけは熱心に読めたといいます。もっとも本の虫といっても、メンコにベーゴマ遊びは勿論、近くの多摩川でのハゼ釣りシジミ取り、夏にはフルチンで水泳して遊びまくるやんちゃな子供でした。ただガキ大将ではまったくなく、するりと「空想の世界」に入り込んでしまう質(タチ)だったようです(戦争下において、「空想の世界」への逃避は子供ながらの現実逃避でもああった)。実際、B29の爆音で多摩川河原へ逃げた時、手に掴んでいたものは、田河水泡の漫画『凸凹黒兵衛』で、対岸の火災を明かりに読んでいたといいます。昭和20年の激化する空襲で、実家のある埼玉・深谷、次いで父方の仙台・根白石村へと疎開(その時、たまたまあった井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』に熱中)
敗戦の年、鵜の木に戻った談志少年は、ある決定的な体験をします。小学5年の時でした。袋物の職人をしていた伯父(母の兄)の玉井房治が談志少年を初めて「寄席」に連れて行ったのです。浅草の松竹演芸場でした(だし物に小今亭今輔柳家金五語楼の新作落語「綱棚」、談志少年が当時いちばん好きだった三遊亭金馬の「角力風景」、馬風らを見るが、当時は落語の定席ではなく、コントや声帯模写、俗曲、芝居、漫才などと一緒に落語もかかった色物の小屋だったというのです)。「寄席」の虜になった談志少年は、上野の鈴本や新宿の末広亭へと足をのばしはじめます(一緒に連れだった伯父の友人が、馬風の「お旦(だん)」としてお金を貸していたことも知り、遠い憧れの存在が少し身近に感じたりしています)。浅草までは遠く、もっぱら新宿・末広亭通いがはじまります。
談志人生全集〈第1巻〉生意気ざかり

小遣いを貰うことなどなかった談志少年はどうやって「寄席」に通ったのか。遊びに勝って手に入れたベーゴマをオモチャ屋に売ったり、近所で銅や鉛、真鍮(しんちゅう)などを黙ってもってきたのを売り払ってお金をつくったといいます。こうした悪知恵(処世術)は、ある意味、生命欲や意欲のあらわれでもあり決して無視できないものですスティーブ・ジョブズ野口英世にも各々あらわれでている)。そうした行為はどれほど談志少年が「寄席」を見たかったかの裏返しでもあります(土間に置かれた6人掛けの粗末な椅子の最前列か二番目に座り、昼の頭から夜ギリギリ帰宅できる時間まで食い入るように見続けたという。お腹が空いても食べるお金などないので、深呼吸して我慢していた)
ところでなぜ、談志少年は初めて見た「寄席」にそんなに夢中になったのか。それは疎開から戻って後、『少年倶楽部』にくわえ、『評判講談全集』を読み出し、曾呂利新左衛門や蜀山人(後に落語の「蜀山人」は談志得意の演目になる)が繰り出す「頓智(とんち)」やウィット、狂歌を知って惹かれていたことが知らないうちに土壌になっていたためでした。「寄席」を知ってからは、講談全集の読書力が一段とあがります。『評判講談全集』を読み終わると、今度は『落語全集』3巻と『評判落語全集』3巻へとすすみ、中学にあがる頃には、講談社が刊行する『少年講談集』『評判講談全集』『落語全集』『評判落語全集』を制覇する意気込みで読み込んでいきます。しかも講談や落語をほとんど記憶するかのごとくだったようです。寄席に連れて行ってくれた伯父だけでなく、どうやら母も落語好きだったようです。『人生、成り行きー談志一代記』には、この頃、母が落語の「兵隊」金語楼の話をしてくれてたことが記されているからです。
評判落語全集〈上卷〉 (1933年)
評判落語全集〈上卷〉 (1933年)
立川談志 ひとり会 落語ライブ '92~'93 DVD-BOX  第一期

学校の授業中でも『落語全集』などが、”教科書”代わりとなっていった理由として、敗戦で一変した価値観で教師が自信をなくし、そうした教師が教える授業が「ニセモノ」と映り、談志少年にとって「ホンモノ」は『落語全集』だけと感じるようになっていたことがあげられます。「ニセモノ」の教科書ー例えば英語の教科書の上に、剝がしてきた寄席のビラを貼り込んだりしています。ただその理由は、敵国の言語だからというのではなく、じつは談志少年は、小学6年の時に英語塾に通わされ英語を習っていて体得していたため(これからの時代、英語が必要になるということで親にいかされた。おそらく父の判断だろう)、敗戦後急ごしらえで設けられた中学の英語の授業が腑抜けたものに映ったのでした。
同時に、『落語全集』という活字媒体をこえて、ナマの「寄席」をつづけて体験していたことで、『落語全集』をこそ「ホンモノ」と見立てることができたにちがいありません。鵜の木から新宿までそう頻繁に行けなかっただろう分、地元の「多摩川園劇場」が時にその代役となります。この劇場に通っていたことは『人生、成り行きー談志一代記』にはなく、談志29歳(1965年)の時に著した『現代落語論ー笑わないでください』(第二版 2011年刊。三一書房に少しばかり登場します。多摩川園劇場では落語はなかったものの、松旭斎天勝一座の手品などいろんな演芸をナマで見ています。ニセモノでウソっぱちの学校など視野にはいらなくなっていったのは、『少年講談集』『落語全集』などとともに、「寄席」や「多摩川園劇場」などのリアルなホンモノの体験をずっともちえたからだったようです。

「落語全集を片っ端から読み漁り、それに関係している新聞や雑誌の記事は細大もらさずどんなものでも眼を通した。寄席のビラを夜中にはがしてきて、切り取って教科書に貼り、授業中にはほとんど落語全集を読んでいた。みつかっても平気だった。先生の授業よりこっちの方がおもしろいという大義名分をもっているから、割り合い堂々としていた」『現代落語論ー笑わないでください』(第二版 2011年刊。三一書房 p.80)

人生、成り行き—談志一代記 (新潮文庫)
人生、成り行き—談志一代記 (新潮文庫)

どんなに一線で活躍する人であろうと深くお辞儀をして始め終わる噺家たちが集う寄席。真逆に「これは愛情だ」と言い放ち頭を小突き何度も叱る教師。談志少年の腹は決まります。座ぶとんから提灯、噺家の名札が書かれたビラ字、呼び込みのお爺さんにいたるまで隅から隅まで「寄席」好きになっていく談志少年。後に談志自身が語るには、中学時代にもはや「気違い」とでもいう域に達していったといいます。学校の行き帰り、道端ですれ違う人の顔付きが、今輔馬風に似ているなと、周りの風景と「寄席」がエッシャーの絵の如く「相互貫入」してきたようです。
もう一つ談志少年が中学時代に「落語」に集中できた要因をつけ加えれば、スポーツがそれほど得意ではなかったことでした(知力にもスポーツにも秀でた少年は青年期に目標が定められにくい状況に陥る場合も多い。その点、はっきり苦手であれば手を出さないわけだが、少年時代はスポーツ選手は多くの少年の憧れになる)。談志少年の場合、多摩川が遊び場だったこともあり川泳ぎは好きで泳ぎっぷりもよく、中学は水泳部に入部しています。ところが所詮体力もそこそこでスポーツ能力も高くないと自身を見積もった談志少年は次のように感じだします。

「…どうやっても最後には体力のあるヤツには勝てない。自分ではどうしようもない壁がある。このことは考え方、生き方を冷笑的にし、皮肉にし、物事を裏から見るようんしますから、落語家という商売には良かったかもしれナイネ。でも、中学生の本人としては辛かったでしょうな。野球の選手にも憧れたが、これも体力がないからダメ。…ガキ大将には力がないからなれない。知力、といっても進学校とかではないから、皮肉な知力で自分をアピールしてたのかな。教師にとってはイヤな、目ざわりな生徒だったでしょうな」『人生、成り行きー談志一代記』(聞き手:吉川潮 新潮文庫

スポーツが得意でなければ、お笑いで人気取り。今日ならばそうでしょうが、敗戦直後など笑いでモテるなんてことはまずありえない。

「もうひとつ言えば、モテなかったネ。今は冗談かなんかを言うと『面白いワネ』とモテるでしょう。当時は『ふざけてる』というので、冗談を言うヤツ、面白いことを言おうとするヤツはモテませんでした。むしろ蔑まされました。また自分でそう思い込んでもいましたから、みんなの前で落語を一席語るなんてことは考えもしなかった。むしろ落語というマイナーな芸に入れ込んでいることを、どこかで恥ずかしく思っていたのかもしれません」(『人生、成り行きー談志一代記』(立川談志 聞き手:吉川潮 新潮文庫 平成22年 p.25~26))

落語決定盤 立川談志 ベスト

そんな談志少年がその後どのように落語家になっていったのか。それからも、否それからこそ、さらにまた興味深い。落語家を夢見つづけた一人の少年が、罵倒にタブー、差別用語を連発する過激な毒舌家、落語会の「異端児」「革命児」になっていったのか。そして政治家に立候補(三木内閣の沖縄開発政務次官になったのち一悶着、自民党離党)。真打昇進試験制度をめぐる破門、落語協会脱退(46歳の時。1982年)。家元立川流を創設し、落語会に初めての上納金制度の導入など。爆笑問題太田光の才能をデビュー後すぐに見抜き、ダウンタウン松本人志を「見損なっていた!」と評価を一転した談志。ともかくその破天荒ぶりは落語会を超えて広く知られていったことは皆さんご承知の通り。しかし次の様に語る談志師匠は、やはり『人生、成り行きー談志一代記』を読まないかぎりなかなか気づくことはできません。

「人間にはどこにも帰属できない、ワケのわからない部分があって、そこを描くのが本当の芸術じゃないですか。……もっと言うと、あたしは<立川談志>に帰属してるんじゃないですか。落語を変えようと続ける<談志>というものに帰属している。いま、あたしが安定できないのは、帰属先の<談志>がバテてきて、なかなか落語を変えること、深めることができていないってことじゃないですかネ…。だから、いまのあたしの落語は、イリュージョン的な感情注入をするパワーが失われて、芯の部分、つまり本来の落語の部分だけが残る形になりつつある」『人生、成り行きー談志一代記』(新潮文庫 p.232〜233)

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笑う超人 立川談志×太田光 [DVD]
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GOTO DVD BOOK 談志が帰ってきた夜(DVD付) (GOTO DVD BOOK)
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ユリイカ2012年2月号 特集=立川談志
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談志絶倒 昭和落語家伝

談志絶唱 昭和の歌謡曲

立川談志プレミアム・ベスト 落語CD集「芝浜」
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眠れなくなるお伽咄
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アインシュタイン(1)一人遊びする時のねばり強さ

5、6歳になっても「言葉」をちゃんと離せなかったアインシュタイン。「言葉」を話せるようになった「時」のことを覚えていた少年。「暗記」ものの勉強が苦手だったが、一人遊びする時のねばり強さは凄かったという。父がもってきた「羅針盤ーコンパス」に抱いた「驚き」にはじまる。


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「…彼の家は平凡な中流ユダヤ家庭であった。1879ドイツのウルムに生まれるが、父はミュンヘンの電機事業の経営者、母は音楽をよくし、長男のアルバートや長女のマヤの教育には熱心であった。叔父が数学好きで、アインシュタインが子供のころユークリッド幾何学の本を与えたりしている。大学は名門校スイスのチューリッヒ工科大学だが、一度、受験に失敗している。優秀な青年の一人にすぎなかったのである。


 …学生時代の成績は、ずばぬけて優秀というほどではなかった。指導教官の覚えも決してよくはなかった。…数学のミンコフスキー教授も彼をよくは覚えていない。…要するに、あまり目立たない学生で、当時の大学的規範の周縁にいたのである。卒業後は物理学を専攻した友人たちはみな助手に採用されたのだが、アインシュタインにはその口もなかった。そこで家庭教師や中学校の非常勤の先生をしたりしていたが、友人のグロスマンの父の紹介でスイスのベルンの特許局に1902年に入ることができた。やっと定職につけたのである。以降7年間、ここに勤めながら数々の革命的な論文を発表する」(『アインシュタインは、なぜアインシュタインになったのか』(金子務著 平凡社 1990刊 p.11~12)

20世紀最も著名な物理学者で、「天才」の代名詞でありつづけたアルベルト・アインシュタイン。多くのひとは小学生時代に、「天才アインシュタイン」の子供用の伝記を、「野口英世」や「キュリー夫人」「ヘレン・ケラー」のそれと同じく、読んだ記憶があるでしょう。

同時に、ほとんどの人は中学生以降、いくつになっても「アインシュタイン」に対する感覚や理解は、それ以上になっていないのではないでしょうか。漫画に描かれる特異な風貌をした科学者のキャラクターとしてのアインシュタイン像として(大きな鼻とぼざぼさ髪のいでたちのお茶の水博士など)。それとも原子爆弾の開発につながる研究をしてしまった現代物理学の父として。
少年アインシュタインがどのように「世紀の天才アインシュタイン」になったのか、じつはわたしたちはほとんど知らないといってもいいかもしれません。

アインシュタインは自身が「世紀の天才」と呼ばれていることに対して、「私は天才ではない。ただ、ほかの人より一つの事と長く付き合ってきただけだ」とアインシュタインは応えています。長く付き合うことになった最初の契機については覚えておられる方もいるかもしれませんが、なぜ「長く付き合えた」のかはまた別の問題といえます。


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「本やノートに書いてあることを、どうして覚えておかなくてはならないのか」と言い放ったのもアインシュタインでした(「相対性理論」や「光量子仮説」など、つねに「光」について思考しつづけていたアインシュタインでしたが、光速度の数値、299.792.458m/secondー毎秒約30万キロメートル、については覚えていなかったといわれる。

新聞社のインタビュアーにきって返した言葉だった)。インターネット時代が到来する半世紀以上も前の言葉ですが、それにはアインシュタインならではの「思考方法」(思考の癖)が深く根ざしていました。どちらの言葉にしろ、「世紀の天才アインシュタイン」と成った”根源”が、「少年時代」にあったことを告げてくれます。

まずは、「本やノートに書いてあることを……」と言い放ったアインシュタインから入っていってみましょう。私も含め皆さんの多くも「記憶」や「暗記」は苦手の人は多いのではないでしょうか。じつは”天才”アインシュタインが最も苦手だったのが、「単語」や「文章」などを”機械的”に覚える、頭に詰め込むことでした。そのためとくに「ラテン語」や「ギリシア語」「歴史」といった教科が苦手でした(小学校時代からギムナジウム時代にわたって。「歴史」は克服していく)
ギムナジウム時代にギリシア語の先生に、「君は一生まともな仕事はできないだろう」と言われているほどです(その先生にはさらに「態度が悪く、愛国心に欠けている生徒はミュンヘンを出て行った方がいい」とも言われている。『天才!? 科学者シリーズ アインシュタイン』より)


じつは少年アインシュタインはそもそも「言葉」の言語能力が、かなりの程度低かったといわれています。アインシュタインの数ある伝記で、幼少期に取りあげられる筆頭のエピソードは、つねに生後話せるようになるのが遅かったと記されていることを皆さんも朧に覚えてられるかもしれません。

アルバートは、いつも一人で遊ぶ、内気な子供でした。しゃべるのも苦手で、ちゃんと話せるようになったのは、5歳になってからでした」(『10分で読める伝記:小学5年生』Gakken 2011刊;監修=関西大学初等部・中高等部 学校図書館教育主任 塩谷京子)、「少し発達が遅れているのではないかと心配されていたんだ。

4歳になってもおしゃべりができないし、9歳になっても、適切な言葉を使って文章をつくることができなかったからね」(『天才!? 科学者シリーズ アインシュタイン』(イタリア・アンデルセン賞受賞者ルカ・ノヴェッリ著 岩崎書店 2009年)、あるいは「この子は、5歳になるのに、口のきき方が変だわ。そういえばしゃべり始めたのも、他の子より遅かったかな。…6歳になって、小学校に入ったアルベルトですが、言葉がなめらかにしゃべれないためか、友だちもあまりできません。学校はアルベルトにとってはつらい場所でした」(『講談社学習コミック アトムポケット人物館 アインシュタイン 2002年)といった様に。実際アインシュタインの両親もこのことで医者に相談しているほどです。


アインシュタイン:その生涯と宇宙』ランダムハウス・ジャパン 2011年。著者ウォルター・アイザックソンは、アップル・コンピュータの設立者の一人、スティーブン・ジョブズの世界的ベストセラーの伝記本『スティーブン・ジョブズ: The Exclusive Biography』-講談社 2011年-の著者でもある)は、アインシュタイン少年の奇妙な癖について次の様に描いています。

「両親は心配して医者に相談した。…家族からは『発達遅れのよう』に扱われることとなったある奇妙な癖が現れた。なにかを言おうとすると必ず、まず自分でその言葉を囁いてから人に聞こえるような声で繰り返しそっと話すのだった。…そのような言語障害があったので、兄が言葉を身に付けられないのではないかと、周りの人たちはとても心配した。
 生涯、中程度の反響言語症状があり、特に人を笑わせるような言葉のときには、その言葉を独りこ言のように、2、3回、機械的に繰り返す癖があった」。(『アインシュタイン:その生涯と宇宙』p.26〜27)

アインシュタイン その生涯と宇宙 上

ところがさすがはアインシュタインなのでしょう。なんと「自分がどうやって言葉を話せるようになったのかを覚えている」というのです。

「幼いアルベルトが言葉を話しはじめるまでにたいへん時間がかかったことは一般に認められている。アインシュタインは晩年にこのことを回想し、助手のひとりに語った。それによれば二歳か三歳のときに、センテンスをまるまる話そうという野心をいだき、声を出さずに練習し、きちんと言えるようになったという自身がつくと声に出して言ったというのだ。

言葉を話すことを自分がどうやって覚えたかを思い出せるおとなは少ないにちがいない。だがアインシュタインは、おとなになり、ニュートン以来最高の天才科学者と認められるまでに、思考プロセスが普通の人とどう違うのかを何度もたずねられ、自分の思考プロセスがどう発達したのかについてたっぷり考えていた」(『アインシュタインー時間と空間の新しい扉へ』ジェレミーバーンスタイン著 大月書店 2007年刊 p.17)


本当にそうなのか怪しむ人は、一つ前の引用文のなかにある一文に注目してみてください。次の文です。「『発達遅れのよう』に扱われることとなったある奇妙な癖が現れた。なにかを言おうとすると必ず、まず自分でその言葉を囁いてから人に聞こえるような声で繰り返しそっと話すのだった」。まさにこの行為こそ、幼いアインシュタインが、言葉を話すことをどうやって覚えたかそのプロセスだったのです。

こうした「発語」の遅れや言語に対する「不安」だけでなく、少年アインシュタインは他にも周りの他の子供たちと異なっていることがありました。それはアインシュタイン少年(4歳の時)の「兵隊」に対する「恐怖感」です。


他の子供たちは町中を行進する兵隊を、興奮と憧れの目で見ていたのですが、アインシュタイン少年だけは怖くて泣きだしてしまったというものです。
「全員がロボットのような同じ動き」とか「みんな同じ服を着て、機械みたいに動く」からだったともいわれています。アインシュタイン少年が日本の小学校にいたら、朝礼や一斉のラジオ体操にかなり困惑したかもしれません(「回れ右!」「休め!」などは軍隊訓練からきていますから)


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さて、そんなアインシュタイン少年は何をして遊んでいたのか。叔父さんからもらった蒸気機関車の玩具で遊ぶ以外、トランプを粘り強く立てて高い建物になるよう組み上げたり、「積み木セット」の玩具でいろんな形のものを組み立ててひとり執拗に遊んでいたといいます。後に妹のマリア(通称マヤ)アインシュタインは、ひとり遊びをする時の「執拗さと粘り強さは兄の個性の一部」だったと語っています。
癇癪を起こしものを投げつける癖があったアインシュタインが病気で寝ていた時のことです。父が持ってきた「羅針盤;コンパス、方位磁石」が、どこに向けても針が震えながらつねに一定の向きに定まる。このことが少年アインシュタインを驚嘆させたのでした。4、5歳の時のことでした。

「私は今でも思い出すことができる、あるいは少なくとも自分ではそう信じているのだが、その時の経験は、『物事の背後には深く隠された何かが存在しなければならない』という、強く、かつ長く残る感銘を私に与えてくれた」(『アインシュタイン:その生涯と宇宙』p.32〜33)

この時に感じた「驚き」が、その経験が、アインシュタイン少年に深い<持続的な印象>を与えたのでした。『自伝ノート』アインシュタイン著 東京図書 1978刊)では、「驚き」の効用、大切さを次の様に語っています。

「この『驚き』というのはある経験がわれわれの内面にすでにしっかりと固定されている概念の世界と矛盾ときに起こるように思われる。このような矛盾がはっきり強烈に経験されたときはいつでも、それはわれわれの思考の世界に決定的な方法で反応をおよぼす。この思考世界の展開はある意味では、”驚き”からのつづけさまの飛翔である」(『自伝ノート』(アインシュタイン著 東京図書 p.8)

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アインシュタイン—相対性理論を生みだした天才科学者 学習漫画 世界の伝記
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アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)
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アインシュタイン伝 (新潮文庫)

アインシュタイン150の言葉

アインシュタインは語る
アインシュタインは語る

立川談志(1):「人生成り行き」とは何なのか

亡くなる1年前に緊急出版されていた『人生、成り行きー談志一代記』で談志が語っていたこと。落語会の「異端児」「革命児」、談志師匠の「成り行き」とは何なのか。29歳の時に書き、若手落語家の”バイブル”となった『現代落語論ー笑わないでください』にすでに書いていた「自伝」。「笑点」や「11p.m.」のアイデア出し。

人生、成り行き—談志一代記 (新潮文庫)
人生、成り行き—談志一代記 (新潮文庫)

平成23年暮れ、談志師匠が鬼籍にはいった1年前に緊急出版されていた『人生、成り行きー談志一代記』立川談志 聞き手:吉川潮 新潮文庫。これは立川談志の”本体(本質)”を知る上で何をもってしても読んでおくべき1冊でしょう。

聞き手の吉川潮は、演芸評論家にして立川流顧問。最も近い場所にいた吉川潮がその立場を遺憾なく利用したインタビュー記事(『小説新潮』に連載)を1冊にまとめたものとなっています。
「第一回 落語少年、柳家小さんに入門する」から理不尽な前座修業時代、二つ目小ゑんとしてキャバレーを席巻したこと、結婚、政治家、離党。「第七回 この時、芸に<開眼>した」から落語協会分裂、立川流創設にいたって、自身談志落語を自己分析し、最後にゲストに文句なしの弟子代表・立川志の輔を呼んでの「第十回 落語家という人生ーお前も、おれみたいに、狂わずにはいられなくなる」、といったまさに<談志、一代記>です。

「人生、成り行き」という本のタイトルですが、「物事がある方向に自然に進んで行く状態」という意味の「成り行き」を、少年時代に熱中したことが人生すべてにわたって、そのまま”その方向に自然に進んで行った”と読むことができます。
しかし、およそ「煙草を辞めたヤツは意志が弱い」(吸い続けているヤツは早く死ぬ確率が高くなる、そのことを承知で知っているので意志が強いとなる)と言ったり、「ホームレスがいなくなったら、本当の大不況だ」と言ったり、つねに逆説的、皮肉的に語る談志師匠のこと、「人生、成り行き」という意味がどういう意味を孕んだものなのか、『人生、成り行きー談志一代記』をきっちり読めば、その真意、本意がたちどころに見えてくるようになっています。

しかし本書を読み終え、少し時間がたつと、やはり「物事がある方向に自然に進んで行く状態」という意味の「成り行き」がすんなりしてくるのです。談志少年の裡に芽生えたもの。それが風雪に耐えながら、ある方向へと”自然”に成っていく。「成り上がり」をも含み込む、<人間の業>を肯んじた「成り行き」と読めるのです。

しかし、落語会の「異端児」「革命児」、TVの演芸番組「笑点」(談志が初代司会者)や夜の番組に視聴者を引き込んだ「11p.m.」のアイデアを繰り出すそのセンスと頭脳。政治家に立候補し自民党に入党し、三木内閣の沖縄開発政務次官になって一悶着で離党、真打昇進試験制度をめぐって破門、落語協会脱退(46歳の時。1982年)、家元立川流創設、落語会はじまって以来の上納金制度の導入。

罵倒、タブー、差別用語の連発、過激な毒舌家、その破天荒ぶりは、ビートたけしを唸らせ談志一門となり(高座名「立川錦之助」)爆笑問題太田光の才能をデビュー後たちどころに見抜く。

そうしたセンスと頭脳は何処からやってきたのか。談志少年の裡にそれがどのように”芽生えた”か。その秘密が『人生、成り行きー談志一代記』につまりにつまっているのです。

これにもう1冊加えなくてはならないのは、談志29歳(1965年)の時に著した『現代落語論ー笑わないでください』(第二版 2011年刊。三一書房 第二版の帯には「これが落語家の初めて書いた本である 立川談志 家元の原点!)。落語家をめざす者の「バイブル」ともいわれている本です。

じつはこのなかにすでに談志の「自伝」が、「第二章ーその2ー真打ちになること」であらわされていたのです。
若くして「自伝」を書く者は、自身の生き方に対して極めて意識的であり客観的でもあることが談志師匠からもうかがえます。

落語はそんなにファンでないし、どうしようかなと徒に迷うだけ徒労です。『人生、成り行きー談志一代記』と『現代落語論ー笑わないでください』、読んじゃった方がいいです。
じつは私も落語は完全に奥手で、大学
時代の落語研究会に所属していた同じクラスの者が発表するのを聴いたくらいで(ということは「芝浜」も「らくだ」もとんと知らないできた)、はらはらと寄席にも行ったこともありませんでした。

もう何年も前からの落語ブームもおよそ知らんぷりでした。ただここ1、2年深夜ラジオで落語に耳を傾ける機会があり、人間のどうしようもない「業」のあらゆる領域をあつかう落語の世界にじょじょに触れて……やややっ、そんなものなので、ここに落語の、故立川談志師匠の何を書こうが、そんな資格も何もあったもんではないのです。


2011年暮れに生前に録音されたブルース歌手「ディック・ミネでも語ろうか」を聴きましたが、すごいもんでした。もっとも落語異端児・立川談志のいろんな機会での喋りは、日本で生きているかぎりテレビや雑誌などあちこちで見聞きすることはあり、その異能さは自分なりにわずかながらも知ってはいましたが、今にして思えば何も知らなかった。それしか言えません。


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そんな自分が「伝記ステーション」で立川談志を紹介するにあたり、『人生、成り行きー談志一代記』と『現代落語論ー笑わないでください』を手にとる。じつはこうした本読みへのステップというか、(読書の)タップが「伝記ステーション」の自分なりの楽しみ方にもなっているのです。日本では中学生にのぼる頃にはほとんどのひとが、暇があろうがなかろうが、誰それの伝記を読むことなどなくなっているのではないでしょうか。

小さな頃には、親たちや学校は「野口英世」や「織田信長」、「リンカーン」「ファーブル」「ヘレン・ケラー」などの伝記本を子供たちにさしむけ誘うように読ませますが、少し大きくなってくると日本ではすっかり伝記を読む機会はなくなります。

親たちも同じ様な体験しかないため自分たちもそれ以上に読ませることはありません。経験則がないのですから。よって中学生以降ほ伝記読みの体験はゼロ冊のひとがかなり多いのではないでしょうか(30人前後のひとに直接聞いてみましたが、事実そうでした)

スポーツなどクラブ活動への熱中、受験勉強、子供自身の読書時間の減少、子供用伝記本は親や学校がかつて薦めていたため子供側のそれへの反感、反抗期などなど。もう一つ裏に隠された理由は、将来良き会社に就職しなくてはならないため(つまり集団行動)、あまりに個人的な才能で人生を切り拓いていった人物の生涯など、むしろ障害になったり子供をひどく迷わせるだけになるというものです。

そうしておきながら「夢」を持てというのですから、子供にとってどれほど無理難題のことやら。別の角度から言えばこれはどういうことかというと、日本が高度成長期の時は、かなりエレベーター式に大学入学、モラトリアム、続いて就職という道筋が描こうとしなくてもオートマティックに描けたため、自ら道を切り拓いた人物を描く「伝記」などは、まず不必要だった。

読む理由など、少し大きくなった少年少女にも、青年にも、大人にも、誰にもなかったのです。ところが海外(とりあえず欧米)ではかなり以前から、どんな年代層にも伝記・自伝本にはつねにかなりの読者がいて、書き手もまた広く評価されますピュリッツァー賞伝記部門など)。歴史的背景も異なり、伝記・自伝本は「歴史」や「心理学」のいちジャンルとしても扱われるようです。


脱線してしまいました。もう少し脱線します。木を見て森を見ない、花を見て樹を見ないの譬えがありますが、見た「花」がポツンと空中に浮かんでいるなんてことはありません。必ず茎があり枝があり幹があり、根があります。そして土壌があります。

立川談志師匠も、その語りも同じです。「花」となった部分を愛でた時、その背景は視界に入ることはありません。しかも人の場合は「時間経年」ですから、顔の皺や老い以外ますます見えない。「花」をつけている「樹体」を「根っこ」をまずは見てみようではないか、というのが「伝記ステーション」です。「樹体」や「根っこ」を知った時、「花」がどのように見えてくるか。もはや同じ様には見えなくなってくるはずです。

相手(この場合は談志師匠)が勿論変じたからでなく、自分の裡で何かが僅かにでも変じたからなのです。

それは立川談志に対してなのか、落語に対してなのか。おそらく両方なのにちがいありません。異端児・立川談志師匠も「落語」に「帰属」しているからです。そして立川談志の言葉、「落語家とは人間の業を肯定することである」という言葉、「業の肯定」が、談志的逆説をもって「イリュージョン」(談志師匠の言葉)となってせりあがってくるのです。

「人間という不完全な生物が生まれて、知恵を持っていたから、火をおこし、雨風を防いで、絶滅せずにきた。そのうちに好奇心がめばえ、いい好奇心を文明と呼び、悪い好奇心を犯罪と呼んだ。いいも悪いもそれが人間の業じゃないか、しょうがねえじゃないか、と肯定してくれる非常識な空間が、悪所と言われる寄席であった」(『人生、成り行きー談志一代記』新潮文庫 p.230)

悪所と言われる寄席に、ひとりの少年はどのように近づいていったのか。夢中になっていったのか。どんな「成り行き」があったのか。『人生、成り行きー談志一代記』の冒頭、聞き手・吉川潮氏による「前口上」があります。吉川潮氏は以前に何度も談志師匠を相手にインタビューすることがあったものの、インタビューはいつもテーマが決められているものばかり。ただその都度、談志師匠の正確にして驚くべき記憶力に感心していたといいます。

ならば遠い昔のこと、つまり子供の頃のことも覚えているはずだと吉川氏は考え、じっくりと談志師匠にうかがいはじめるのです。

「…ならば遠い昔のことも覚えているはずなので、少年の頃の話から年代順にじっくりうかがいたいと思った。松岡克由(かつよし)少年はどんな子供だっのか。どんな物に興味を示し、何が好きで何が嫌いだったか。テーマもたくさんある。学校、スポーツ、食べ物、歌、映画、演芸、恋愛…」(『人生、成り行きー談志一代記』新潮文庫 p.10)

立川談志(2)へ続く:

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「野口英世」の伝記を大人読みすると何がみえてくるのか。野口家は現在で言う「生活保護家庭」で、家出の多い「崩壊家庭」だった。母の犠牲愛と、男が家に寄り付かない家庭のわけ。「魚釣り名人」と酒飲みの父とは? 隣家に寺子屋、真向かいに小学校が立った。「登校拒否」になった英世 


正伝 野口英世

子供向けの「偉人伝」の代表格の一人、「野口英世」を取りあげてみます。野口英世といえば、世界的な偉大なる細菌学者であり、日本銀行券「千円札」の肖像として、日本人の誰もが知る人物ですが、わたしたちのなかではその実像ではなく、子供時代に読んだ「偉人伝」の中のイメージのままありつづけているのではないでしょうか。

「てんぼう、てんぼう。てんぼうの清作やあい。
 清作はみにくい左手を見られるのがはずかしくて、たもとやかばんのうしろにかくしておりました。だが、あまりからかわれると、がまんできなくなって、とびかかっていくことがありました。しかし清作はからだが小さいし、力もあまりありませんから、いつもまけてしまいます。そして、ひとりぼっちになって、みんながはやしたてる声を、くやしそうにきいているのでした。……『ああ、この手さえじゆうになったらなあ…』とつぶやきながら、人のいないとことに行って、わっとなきだすのでした」(『野口英世 子どもの伝記全集』ポプラ社 1968年 第1刷/ 1993年 第122刷 p.22〜24)

このポプラ社の『野口英世 子どもの伝記全集』は、私が小学校の2年生の時に初版が出版されています。何冊もの伝記本を読んだのを幾らか記憶している中でも、「てんぼう、てんぼう」といったフレーズや他の挿絵など見ても記憶がかなりはっきりあるので、ちょうどこの本の1刷あたりを読んでいたのだろうとおもいます。そしておそらく皆さんも、10代であろうが30代であろうが、40代、50代のひとも、きっと同じ様な記憶があるのではないかとおもいます。
大学や研究所で細菌学を学ぶ場所にいて、野口英世にさらに触れる機会のあたったひとは例外として、おそらくはこの果てしなく古い記憶だけが私たちの「野口英世」像になっているのでしょう。それ以外は日本銀行券「千円札」の肖像として。
野口英世 (朝日選書)
野口英世 (朝日選書)

ここでは中山茂著『野口英世(朝日選書 朝日新聞社1989年刊)北篤著『正伝 野口英世毎日新聞社 2003年刊)を参照しつつ、「野口英世」を少し大人読みしてみます。もっとも知人・友人につねに借金を申し込んだり、とんでもない無駄使いの癖があったことなどは、じつは『野口英世 子どもの伝記全集』にも、「…旅費はもらいましたが、いままでのかりたお金をかえすと、ぜんぶなくなってしまいました。英世は金のつかい方がへたで、こまるたびにいろいろな人からかりていたのです」(p.90)とか「しかし、むだづかいのくせがぬけないので、月づきたくさんのお金をもらっていましたが、さっぱりしょ金はできませんでした」(p.93)書かれていますが、本も半ば過ぎてからのこと、大半の子供はこの辺りまで読む前にほっぽりだしてしまったのであまり覚えていないのではないでしょうか。極貧に育ったのに、なぜ無駄使いばかりしていたのか。そうした気性と仕事・研究面での博打的行為はどこかでつながっている。こうしたことも「野口英世」伝を大人読みしていくとわかってくるのです。
では、野口英世(本名:野口清作)が生まれ育った野口家のことからはじめてみます。『野口英世 子どもの伝記全集』ポプラ社には次の様に記されています。
野口英世—子どもの伝記〈1〉 (ポプラポケット文庫)
野口英世—子どもの伝記〈1〉 (ポプラポケット文庫)

「清作の家には、わずかしか田や畑がありません。ですから、自分の家の仕事だけではくらしていけません。おとうさんもおかあさんも、よその家の仕事のてつだいにでかけなければなりません。そして、わずかばかりのお金をもらってきては、くらしのたしにしておりました。ところが、おとうさんはおさけがすきで、はたらいたお金をもってきてくれません。そして、あまり家のことをかまいつけなかったのです。ですから、おかあさんはひとりで、なにもかもやっていたのです」(p.14)

野口家は母シカが、その忍耐、献身的で犠牲的母性愛でつとに知られているのと真逆に、父や祖父ら代々男性の存在はかぎりなく薄い家でした。『野口英世(中山茂著)によれば、庄屋による野口家の暮らし向きは「下々」よりも下の「無位」。「無位」とは今日でいえば救済を必要とする家庭、つまり「生活保護家庭」であったといいます。しかし今日の様に、地方自治体から個人が最低限の生活をおこなえる様に生活保護費が支給されることなどない時代、赤貧は赤貧を極めたようです。また野口家は今日でいえばかなりの「崩壊家庭」だったようで、たとえば祖母の2度目の夫善之助(養子)は行方不明になり、英世の母となるシカが小さい頃に祖母(シカの母)も相次いで家出(後に戻る)。曾祖母が茶店の使い走りをしながらシカを育てます。養子として入ってきた英世の父も、年貢をおさめる義務の「相続」、つまり貧窮状態を相続をされただけで、結局、発展性の見込めなかった農業労働を嫌うばかりだったのです。また一般的に父・佐代助は大酒飲みの風来坊だったといわれていますが、初期の郵便事業の「逓送人(飛脚)」となって明治の世を25年もの間ずっと走りつづけています(父は根っからの酒飲み、風来坊などでなかったことがわかる。会津藩は土地の農民からは支持されず、戊辰戦争会津藩が籠城の末崩壊した後、大きな農民一揆が幾つもおこっている。佐代助はこのとき会津藩側でなく官軍側の輸送隊に徴用されている。大酒飲みになったのはこの時の悲惨な光景の影響だとも)
わかりやすい会津の歴史 幕末・現代編
わかりやすい会津の歴史 幕末・現代編

存在感のまったくない父・佐代助ですが、英世や他の子供たちの間では「魚釣り名人」として人気があり、英世は父に対して憎悪なく、いとおしみすらもっていたといいます。家の事情を悟ってのこととおもわれます。結局は、母シカの奉公や行商、便利屋(29歳の時から40歳まで、峠のある20キロの道のりを荷物を背負っての重労働の運搬をしている)など献身的労働で支えられ、また感謝の念をもってはいましたが、英世の姉も英世自身もこんな家に生涯縛られるのはいやだと反発したのでした(姉は18歳のとき女中奉公になろうと家を飛び出す)

「あんな家を継ぐのなら、死ぬ方がましだ、と少年に思いこませるほどの家、姉も弟もひたすらに家からの脱出を願っていた野口家。母シカがいなかったら、とっくに崩壊していたはずの家である。こんな所でそのまま朽ちてはたまらぬ。家からの、故郷からの脱出、これは野口家に生まれた人間の悲劇であった。この悲劇が父祖には城下町への仲間奉公、野口の場合は後に若松へ、東京へ、そしてアメリカへと脱出する駆動力となってあらわれたのである」(『野口英世』(中山茂著 朝日新聞社 1989年刊 p.13)

そして運命の左手の火傷は、英世が1年五ヶ月の時のことでした。母は大火傷をした英世を隣家で寺子屋をひらく法印様の所に連れて行きます修験道をおさめた陰陽師で加持祈祷をしてもらうがそのかいもなし。明治初期のこと、会津若松に西洋医学の支病院ができるのは英世の火傷の半年後のこと)。隣の家が寺子屋だったことは、野口家の前の通りをはさんだ真向かいに小学校ができたことと合わせ、母シカや英世少年にとって大きな意味をもつことになります(その小学校は、母シカが奉公し、周りから「親方様」と呼ばれていた家の一部を借り受けて開校した学校だった)
明治16年(1883年)、小学校にあがった英世少年は「手ん棒、テンボー」と言ってからかわれ、くやしい思いをしたとたいわれていますが、最初は「清ボッコ」と呼ばれていたようです(「清ボッコ」と呼ばれる方が多かったとも。「ボッコ」とは下駄の溝に固まって盛り上がった雪のかたまりのこと。その塊が英世少年の左手に似ていた雪国の子供らしいあだ名。5、6歳になると左手は必ず隠すようになり誰にも見せなかった)。英世少年は、その火傷が禍いし無口でおとなしく、いつも口をポカンとあけているよう子供だったと言われていますが、(幼少は小柄だった体つきも)次第に体つきがガッシリとなり、からかわれると激しく怒り飛びかかっていったといいます。しかし、心に受けつづけた傷から小学3年の時「登校拒否」に(当時はまだ欠席に対して学校側も神経質でない。農家の子供は手伝いの時には休むことがふつうで学校と家庭との連絡もほとんどなかった時代。「義務教育」という言葉も観念もまだない)。子供向けの野口英世の伝記でよく知られるのが次のシーンです。

「つらいだろうね。ゆるしておくれ。でも、ここで勉強をよしてしまったらどうなることだろう。せっかくのくろうも、なんにもならないよ。わたしにとっては、おまえの勉強のすすむことだけが、たのしみなんだからね。つらいだろうけれど、ひとつがまんしておくれ。
「おかあさん、ゆるしてください。わたしがわるかったのです。もう、ずるやすみなんか、けっしてしませんから」ふたりはだきあってなきました。清作もそれからは、いっそう勉強にはげみました。一年から三年までは、一番になれませんでしたが、四年のときには、みごとに一番になりました」(『野口英世 子どもの伝記全集』ポプラ社 1968年 第1刷/ 1993年 第122刷 p.26〜27)

野口英世 (コミック版世界の伝記)
野口英世 (コミック版世界の伝記)
優れた成績の中でも算数がとびきり優れていました英世少年。ところが「修身」だけはどうしても良くなかったのです(体操は不具ということで免除)。「修身」は半分が筆記で、半分は担当先生の判断でつけられるのです。この「修身」の悪さこそが、「野口英世」をふつうにはありえないであろう、センセーショナルな人生へと向かわせるのです。大人の教育者からすれば、「野口英世」の本当の姿や気性は、あまり知られたくないほどなのです。それはアップルの創業者スティーブン・ジョブズアインシュタインジェームズ・ダイソン立川談志らの少年期とどこか通底しているところがあるのです。
そこが興味深い部分なのですが、当然というか子供用偉人伝では、たとえ書かれてあってもきわめてあっさりとしか表現されません。そして、中学に入学する頃には、少年少女たちと「伝記」が接点をもつ機会も場もほぼなくなります。部活動や遊びに忙しくなり、また将来の「進学」と「就職」にむけ、誰かの「伝記」どころではなくなっていきます。おそらくは99パーセント近くのひとが、中学入学以降、20歳を過ぎて以降も、よほどの偶然がないかぎり「伝記」に接することはなくなります。せっかくの貴重な「人間の体験」は、小学生用の用途に換骨奪胎され、(古)書店や図書館の奥にひっそりと積まれ、並べられるだけになるのです。
大人が読んだことのないものは、ほとんどの場合、その子供たちが読むなんてことはありません。大人が「伝記・自伝」を知らなければ、子供もそれらを知りません。だからまずは大人たちから読んでみる。すると他人の生涯をつづった「伝記」にもかかわらず、自らの体験や人生が<鏡>の様に映し出されます、向ってくるのです。「人生」とは、「未来に点を結ぶのではなく(それは不可能)、過去の点(体験や知識、人間関係など)を結びながら前にすすんでいくことでしか生きられない」(スティーブ・ジョブズ)ということが分かって驚嘆するしかなくなります。<未来の種>は、そのほとんどが「過去」にある、その<結び方>にある。「伝記」はそのことを如実に伝えてくれるのです。
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野口英世
野口英世の生きかた (ちくま新書)
野口英世の生きかた (ちくま新書)
野口英世 (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記 (1))
野口英世 (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記 (1))
野口英世 波乱の生涯
野口英世 波乱の生涯
遠き落日(上) (集英社文庫)
幕末の会津藩—運命を決めた上洛 (中公新書)
幕末の会津藩—運命を決めた上洛 (中公新書)

世界の伝記の発行部数を塗り替えた『Steve Jobs : The Exclusive Biography』で初めて公にされたこと。自分は文系だと思っていた少年が、エレクトロニクスに目覚める。ジョブズの”現実歪曲フィールド”出現の背景。「access to tools」をうたった『Whole Earth Catalog』やインドへの旅、禅の大きな影響。”ギーク(技術オタク)”と”ヒッピー”の交叉点


*映像に出て来る極めて重要なSteve Jobsの言葉。「先を見て『点を繋げる』」ことはできない。できるのは過去を振り返って『点を繋げる』ことだけである」 ー 先が見えないのはS.ジョブズも同じだった。ではジョブズはどうしたのか? 過去を振り返って「体験という点を繋げた」のだ。自分自身に”根ざした”ものしか、人は充実と満足を得られない生き物。つまりは「体験」やかつて獲た「智慧」や「知識」の点を繋げる、これこそS.ジョブズの秘中の策であり、同時に自己探求の道。自身の「未来」は、じつは「過去」にあった、のです! これこそ「伝記ステーション」を発進、発信した理由でもあります。
スティーブ・ジョブズ I



世界に駆け巡った、2011年10月5日のスティーブ・ジョブズの訃報。偶然にも、必然的にも、その直後に出版され、これまでの世界の伝記本の売上げ記録を塗り替えることになった『Steve Jobs : The Exclusive Biography』ウォルター・アイザックソン著 井口耕二訳 講談社を手にとられ、また購入された方も多くおられるでしょう。
本書は第二世代i-Phone(3G)が発売され、ジョブズ氏が痩せ細った姿でプレゼンテーションをおこない、健康問題が完全に公になる前後から、2年間にわたり40回以上にもわたるインタビューをもとになされたものです(インタビュアーは、世界的ベストセラーとなった『アインシュタインーHis Life and Universe』(2007)や『ベンジャミン・フランクリンーAn American Life』(2003)、『キッシンジャーーA Biography』(1992)の伝記作家であり、ジャーナリストであるウォルター・アイザックソン(2001年、米国「TIME」誌編集長、CNNのCEOを経て、2003年からアスペン研究所理事長)。『アインシュタイン』や『キッシンジャー』を読んでもわかるように、ウォルター・アイザックソンは、「幼少時」「少年期」のこと、またその環境(家庭環境だけでなく、生まれ育った土地の環境ー文化的、人種的、経済的、そして歴史的環境)を極めて重要視する伝記作家です。それは彼が大学時代ハーバード大歴史と文学を専攻し、ロンドンの「The Sunday Times」のジャーナリストだったことが、対象の人物が直面した困難や変転し結実していく人生のみならず、その人物の「創造性」と「パーソナリティー」の源泉、人物の”根っ子”にくい込んでいかせる一因になったにちがいありません。

Steve Jobs : The Exclusive Biography』はすべての年代のひと、またコンピュータやエレクトロニクス関係の学校や職業に就いていようが関係なく、刺激的で興味つきない一人の最重要人物の「体験のカタログ」にもなっています。ジョブズは2005年スタンフォード大卒業式に招かれた際に、「access to tools」というコンセプトで編集された『Whole Earth Catalog』最終号から、「Stay hungry, stay foolish」という言葉を引用しスピーチを締めくくったことはよく知られています。その意味からも本伝記は、”生の声と体験が満載された”「Whole Jobs Catalogーaccess to Job's experiences」といえるかもしれません。
Millennium Whole Earth Catalog: Access to Tools and Ideas for the Twenty-First Century
Millennium Whole Earth Catalog: Access to Tools and Ideas for the Twenty-First Century

span class="deco" style="font-weight:bold;font-size:medium;">通常、自伝(自叙伝)の場合、当の本人が隠しておきたい触れられたくないものはあえて記さないことも多々ありますが、本書はディープなインタビュー(パロアルトのジョブズの家の居間だけでなく、一緒に散歩しながら、電話で、車中でも)をベースに、100人以上もの友人、仲間、親族、競争相手からその話の裏を取ったり、「同じ事実が見る人によって違って見える『羅生門効果』」を取り入れて、ジョブズの”現実歪曲フィールド”(アップルの仲間がジョブズの強烈なパーソナリティを表現した言葉)にトラップされないようにしています(著者アイザックソンは、自著の伝記『キッシンジャー』が、同じく強烈なパーソナリティをもつジョブズの伝記を著すにあたっての”準備体操”的効果をもたらしたと語っている)。たとえば次のジョブズの考えは、これまでの伝記本にはでてきません。

「僕は子どものころ、自分は文系だと思っていたのに、エレクトロニクスが好きになってしまった。その後、『文系と理系の交差点に立てる人にこそ大きな価値がある』と、僕のヒーローのひとり、ポラロイド社のエドウィン・ランドが語ったのを読んで、そういう人間になろうと思ったんだ」(『スティーブ・ジョブズ: The Exclusive Biography』講談社 p.4)

これはまだ本文がはじまらない冒頭の「はじめにー本書が生まれた経緯」に記されたジョブズの言葉です。本書のためになされるインタビューが正式に始まる前にジョブズが語った言葉が、『アインシュタイン』や『ベンジャミン・フランクリン』などの優れた伝記を著した伝記作家アイザックソンを駆り立てていきます。人文科学と自然科学の両方の感覚、それはアインシュタインベンジャミン・フランクリンが兼ね備えていたもので、超一級の「創造性」は、それらが強烈なパーソナリティによって導かれるものではないかと。『スティーブ・ジョブズ: The Exclusive Biography』は、ジョブズから伝記作家アイザックソンへのアプローチにはじまったものでした。しかし当初ジョブズの効果的な”プレゼンテーション”は、空振りに終わっています(2人の関係は、アイザックソンが就いていたタイム誌やCNNに、ジョブズがアップルの新製品の情報を売り込んでいた頃からはじまっていた。ジョブズからの最初の伝記執筆の依頼は、後にインタビューがはじまる5年前、アイザックソンが『アインシュタインの伝記』を書きはじめる頃にきていて、10年後か20年後ならば書いてもいいがと、あっさりと断っている。2009年、ジョブズの2回目の病気療養中、ジョブズの妻ローリーン・パウエルから「いつか書くなら、いまやるべきよ」と連絡があったことも明かされている)
スティーブ・ジョブズ 神の遺言 (経済界新書)

「21世紀という時代に価値を生み出す最良の方法は、『創造性』と『技術』をつなぐことであり、想像力の飛躍にすばらしいエンジニアリングを結びつけるカンパニーがアップルだ」。そうアイザックソンは受け取り、「21世紀の革新的経済を生み出す鍵の在処へのヒントがあるのではないか」とアイザックソンの理解は深まると同時に、スティーブ・ジョブズという人間の複雑さもまた見えてきます。
反物質主義のヒッピーでありながら、友人が無償で配布しようとした発明で金儲けをする。インドまで行くほど禅に傾倒していながら、事業家を天職だとする。一見矛盾しているようだが、不思議なことに、それらは複雑に絡みあって一体となっている。物質的なものも大好きである。とくに、ポルシェやメルセデスの車、ヘンケルのナイフ、ブラウンの家電、BMWのバイク、アンセル・アダムスの写真、ベーゼンドルファーのピアノ、バング&オルセンのオーディオ機器など、緻密にデザインされ、構築された製品が大好きである。しかし同時に、自宅は、いくら大金持ちになっても派手に走ることがなく、室内もごく簡素で、質素を旨とするシェーカー教徒さえ驚くのではないかと思われるほどだ」(『スティーブ・ジョブズ: The Exclusive Biography』講談社 p.175〜176)

スティーブ・ジョブズ II

アイザックソンは、そんなジョブズがどのように、”シンク・ディファレント”を連打し、ハイレベルなクリエイティビティのなか<持続的イノベーション>を可能にしたのか、ジョブズという人間のなかに潜り込んでいきます。パーソナル・コンピュータとアニメーション映画、音楽、電話、タブレットコンピュータ、デジタル・パブリッシングの6つの業界での「革命」をなした、完璧を求める情熱と猛烈な実行力、その”根城”、根源はどこにあるのかと。
なぜ、アップル製品は「個性と情熱と製品の全体がひとつのシステムであるかのように絡み合っている」ように感じるのか、またなぜ「ハードウェアとソフトウェアも切り離しがたく絡み合っている」のか。その理由は、すべてがスティーブ・ジョブズからやってきます。アイザックソンはデジタルエイジの偶像(アイコン)ジョブズの人生のすべてを聴きとるべく臨戦態勢にはいっていきます。

アップルプロダクツは、「ギークの世界(技術オタク)」と「ヒッピーの世界カウンターカルチャー」が、分ち難く織り重なった時にはじめて誕生した。”両界曼荼羅”の如く、これこそがジョブズの裡なる世界に”発現”していたものでした(このことは単なる「アイデア」とか「コンセプト」「テーマ」といったものが、その人間に”根ざして”いないものならば、その時その場その目的だけにちゃっかり有用なものものであるだけのものであることを告げる)
そして1960年代末から1970年代初頭のシリコンバレーとサンフランシスコ。この場所でなくしては、その”両界”は融合されることなく、ジョブズという人間もアップル・コンピュータも誕生しなかった、というのは間違いないようです。

パソコン創世「第3の神話」—カウンターカルチャーが育んだ夢
パソコン創世「第3の神話」—カウンターカルチャーが育んだ夢

「当初、技術系の人間とヒッピーは仲が良くなかった。カウンターカルチャー側はコンピュータをオーウェル的で不吉である、ペンタゴンや体制側に属するものだととらえた。『機械の神話ー技術と人類の発達』で歴史家のルイス・マンフォードは、コンピュータは我々から自由を吸い取り、人生を豊かにする価値を破壊していると警鐘を鳴らした。……しかし1970年代に入るころには意識が大きく変化する。カウンターカルチャーとコンピュータ業界の融合を研究した書『パソコン創世「第3の神話」ーカウンターカルチャーが育んだ夢(ジョン・マルコフ著)にも、コンピュータは官僚的管理のツールとみなされていたが、それが個人の表現や解放のシンボルと見られるようになった」(『スティーブ・ジョブズ: The Exclusive Biography』講談社 p.105〜106)

ジョブズもまた、1968年に発行された『Whole Earth Catalog』(スチュアート・ブラントは、それまでトラックでクールなツールや教材を移動販売していた)の熱心な読者となります。この時です。これまでまったく折り合うところがなかった技術系人間と、ヒッピーのスピリットが交叉するのです。『Whole Earth Catalog』にはバックミンスター・フラーの言葉「確実に動作する計器や機構に私は神を見る…」が印刷され、発行人スチュアート・ブランドの極めて重要な言葉がつづくのです。
クリティカル・パス—宇宙船地球号のデザインサイエンス革命
クリティカル・パス—宇宙船地球号のデザインサイエンス革命

*S.ジョブズに大きな影響を与えた『ホールアースカタログ』の発行人・編集者のスチュアート・ブラント。『ホールアース・ディシプリン』を語る

「自分だけの個人的な力の世界が生まれようとしているー個人が自らを教育する力、自らのインスピレーションを発見する力、自らの環境を形成する力、そして、興味を示してくれる人、誰とでも自らの冒険的体験を共有する力の世界だ。このプロセスに資するツールを探し、世の中に普及させるーそれがホールアースカタログである」(『スティーブ・ジョブズ: The Exclusive Biography』講談社 p.107)

ジョブズも60年代のヒッピームーブメントの真っただ中に過ごし、19歳の時、インドで導師に会うために旅に出、7カ月をインド各地で生活します。そして「インドへ行ったときより米国に戻ったときのほうが文化的ショックが大きかった」と語るほどに、西洋世界のおかしなところが見えるようになっていきます。インドへの旅の深い影響、東洋の宗教を支える教えへの希求。ドラッグに瞑想、ヒンズー教、悟り、禅の体験。乙川弘文老師のもとでの日々の修養。出家への意欲(老師に諭され、事業の世界へ)。L.A.のサイコセラピストのもとでの「原初絶叫療法」(幼少期の抑圧された痛みを再体験させ取り除かせるフロイト理論に基づくもの。父を知らないジョン・レノンもまたこの療法を受けている)ジョブズのインドへの旅は、ヒッピームーブメントの流れにあるものの、その奥底にあったのは「養子=放棄された事実」に対する苦悩からの解放でした。そうした体験は、結果的にジョブズの「直感力」を研ぎすませるものになっていきます。
あるヨギの自叙伝
あるヨギの自叙伝

ちなみにこの頃、ジョブズが読んでいた本は、『禅マインドービギナーズ・マインド』(鈴木俊隆著)や『あるヨギの自叙伝』(パラマハンサ・ヨガナダ著)、『タントラへの道ー精神の物質主義を断ち切って』(チョギャム・トウルンパ・リンポチェ著)、『宇宙意識』(リチャード・モーリス・バック著)などでした。しかし突然にこうした東洋思想や智慧といった難解な本読みがはじまったわけではありません。その直前のハイスクール時代の半ば頃から、技術オタクのギークという自覚のなか、ハシシやLSDを試しながら、科学やテクノロジー以外の本を多読するようになっていたのです。それらはプラトンシェイクスピア(とくに『リア王』)、メルビルの『白鯨』にディラン・トマスの詩集であり、ボブ・ディランの詩や音楽でした。
タントラへの道—精神の物質主義を断ち切って (1981年)
タントラへの道—精神の物質主義を断ち切って (1981年)

次回はジョブズの「技術オタク」と「デザインセンス」がどこからやってきたのか、『スティーブ・ジョブズ: The Exclusive Biography』のなかに探ってみようとおもいます。アップル製品に欠かせない「デザインセンス」もまた、ジョブズの”根っ子”にあったことがみえてきます。「個性と情熱と製品の全体がひとつのシステムであるかのように絡み合い、ハードウェアとソフトウェアもまた絡み合っている」ーその秘密と謎がいよいよあかされます。さらには「交渉」が得意だったわけが。
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禅マインドビギナーズ・マインド
禅マインドビギナーズ・マインド
宇宙意識
宇宙意識

Steve Jobs
スティーブ・ジョブズ-偶像復活

スティーブ・ジョブズ全発言 (PHPビジネス新書)

アインシュタイン その生涯と宇宙 上
*1327345914*『S.ジョブズ』の伝記作家ウォルター・アイザックソンの、これまた世界的ベストセラーになったアインシュタインの伝記。最高レベルの伝記です

Essential Whole Earth Catalog
Essential Whole Earth Catalog

白鯨 上 (岩波文庫)

仏教と瞑想

山口百恵:『蒼い時』に描き込まれた「光」と「影」

1980年引退の年、21歳の時に著された自叙伝『蒼い時』、自らを抉り出し書いていたことの凄さ。喜ぶことの下手な子で「はりあいのない子」と言われる劣等感。「こわいおばさん」のこと。幼少から高校まで殺される夢を頻繁に見続けた「恐怖」。驚くべき「予知能力」。「喝采」が不安になっていったその心性

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山口百恵は菩薩である」。こう平岡正明が書いた時から山口百恵は、日本人の曖昧なるイメージの中、生きた「菩薩(ボーディ・サットバ)」の如き存在と化していきました(「サットバ」とは「生きている者」の意味。それは母性的なイメージが投影される観音菩薩か、女人成仏を説き女性に篤く信仰されてきた普賢菩薩のイメージでしょうか)。授賞式などで涙を見せることもなく、何処か超越的な眼差しと不思議な色気、それに21歳の絶頂にして引退宣言し、永遠の歌声と若さのままきっぱりと身を引き、「さよならの向こう側」へ行ってしまったことの重なり合いが、そうしたイメージを成すのに影響したにちがいありません。

現在50歳以上の方の多くが、引退した年に出版され当時空前の大ベストセラーになった自叙伝『蒼い時』をきっと何処かで目にしたり一度は手にとられているはずです。
「横須賀ー 誰かがこの名前をつぶやいただけで胸をしめつけられるような懐かしさを覚える。横須賀を離れて8年。私はあの街で生まれたわけではない。小学校2年の終わりから中学2年の終わりまで、6年間を過ごしただけなのに、この想いは一体、何なのだろう。恋いこがれる人を想う気持ちとは違う。かといって、人が故郷を想う気持ちとも違う」(「序章」)で始まる、私たちにとっても何処か懐かしいあの本です。

そして「出生」「性」「裁判」「結婚」「引退」と読みすすんだ方は、21歳にして自らの手ですべてを抉り出すように露わにしたその内容の真摯さと激しさに驚き、「劣等感」からはじまる全体の半分に及ぶ「随想」の内容にまた驚くことになります。自叙伝『蒼い時』の原稿は、引退する前の慌ただしい撮影所や楽屋、ホテルの一室で4カ月かけて自分自身の言葉と手で、不安と戦いながら自らの手で自らを暴きながら執筆したものですが、いまあらためて読み返してみてようやくにして引退の裏にあった「不安」や折り重なった感情がこれほど正直に吐き出されていたのかと驚かされるのです(私自身、20年以上前に古本で購入し、冒頭の横須賀に関することなどを拾い読みしていた記憶があるが、本の半ばに書かれていた「不安」の”根っ子”まで気づくことはなかった)

たとえば「序章」には、写真家・石内都撮影による写真集『絶唱横須賀ストーリー』が手紙とともに送られてきて、自分の中にある横須賀とはまったく別の陰のある、血を吐き出しそうな凄まじい横須賀に恐怖を感じ取ったことなどが書かれている。最も私自身、その当時写真集『絶唱横須賀ストーリー(1978年刊 群馬生まれで横須賀育ち、後に写真集『マザーズ』『キズアト』『ひろしま』などで世界的に知られる写真家・石内都の処女作)を目にしていなかったこともありほとんど実感が湧かなかった記憶がある。なるほどと思ったのが、「自分の意識の中での私自身は、あの街にいる。あの坂道を駆け、海を見つめ、あの街角を歩いている。私の原点は、あの街ー横須賀」だという山口百恵の言葉くらいだったでしょうか。

最終章に「今、蒼い時…」では、姓が「三浦」に変わる前に「自分が最も知りたくなかった自分の醜さをも、自らの手で暴き」、また自分の中の記憶を確認し「山口」姓の自分を切り捨て、過去を切り捨て、「山口」姓の自分を「三浦」姓のなかに持ち込まないよう、「山口」姓の自分を”終結”させよう(どれも本人の言葉)という強烈な意識を露にしています。まさに自分自身を切り刻む、”根幹”をも断ち切るような厳しい執筆だったと(「正直のところ、苦痛を伴う作業だった」と自身語っている)」。


百恵ファンの多くの人はそれぞれに、自叙伝『蒼い時』に描き込まれた「光」と「影」に触れえたこととおもいますが、スターになって以降の様々な芸能ゴシップ(スター山口百恵を利用しようとしてメディアの前に出て来た実父のことや週刊誌記事に対する裁判など)やあまりにもセンセーショナルだった突然の引退劇などで、ベストセラーになったことでかえって、自叙伝『蒼い時』はセンセーショナルな部分だけ取りあげられ言挙げされてしまったような気がします。たとえば「出生」の章の次の一文の様に。

「父と母は、いわゆる法律的に認められた夫婦関係ではなかった。父には、すでに家庭があり、子供もいた。母を愛しはじめた時、父は母の父に『責任を持ってきちんとします』と言明したという。だが、戸籍に書かれた娘たちの名前の上には『認知』という二文字が置かれている。母はそんな経緯を娘たちにはことさら報せようとはしなかった。 
 私がそのことを知ったのは、高校へ入学してすぐだった。すでにその頃、芸能界で仕事をしていた私の、ゴシップのひとつとして週刊誌が戸籍謄本を『出生の秘密』と題して掲載したのである』(『蒼い時』山口百恵集英社文庫 昭和56年 p.15〜16)

自叙伝『蒼い時』は、故郷ではなく(ちなみに生まれは東京・恵比寿)「原点」の「横須賀」の化粧されていない記憶と思い出に満ち満ちています山口百恵の作詞時のペンネームは「横須賀恵(けい)」だった)。飾る必要もなく、さりげなく自由であった少女時代が描かれると同時に、自身の”根っ子”を切り刻むように記憶と体験をさらけだしていきます。
「序章」では、「何より、あの街で暮らしていた6年間の私が一番好きだった。自由だった」と記す山口百恵ですが、「出生」の章になると一気に陰がさし、恐ろしい記憶が引っぱりだされます。その場所は横須賀ではなく、5歳の頃、生地恵比寿から引っ越した先の横浜市瀬谷横浜市の最も西端に位置する)で、記憶がまだ幻や闇とともにあるような場所でした。「こわいおばさん」が何度も登場します。「帰って来るというよりは、やって来るといった方がふさわしい父」に連れられて散歩に出た時に、歩み寄って来た視線の鋭い「こわいおばさん」。木造アパートの外につくられた共同風呂に母と一緒に入っていた時に襲撃され、一緒に撃退した「こわいおばさん」。この「こわいおばさん」こそ、父がもっていたもう一つの家庭の女であり、法律的に認められていた妻だったのです。
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最も小さな頃は、そんなことは何も分かる訳もなく、父もやって来れば異様なまでに可愛がってくれ、何かが欲しいと言えば買ってくれ、やって来るのをどこかで心待ちにするほどに好きだったといいます。ところが引っ越し先の横須賀で中学に入学した頃から百恵は父を嫌悪しはじめるのです。父からボーイフレンドがもしできて腕でも組んで歩いたらぶっ殺す、と激しい口調で迫る父の視線が不潔なものに変じてしまい、この頃から百恵の心の裡で実父とはもはや隔絶した関係にむかっていきます。<空想好き>なのは「やって来るのを待っていた」頃の実父との関係に原因があったのかもしれません。

「もともと、私は空想好きである。全人類のうち、三人にひとりが宇宙人だと聞くと、もしかしたら、自分がその三人にひとりの宇宙人かもしれないと思いこんでしまう。だから、直感が当たったり、予知能力めいたものを感じたりするにではないだろうか」(『蒼い時』 p.140)

宇宙人ではなくとも、とにかく山口百恵は、その少女時代かなりの「第六感」や「予知能力」の持ち主だったというのです。初めて来たはずの街でも「路のどこに何があって何軒目に何の店がある」というこということが分かったり、頭の中で会話の台本をつくり、その台本通りに友達に話しかけると、台本通りの言葉が返ってくることを何度も経験してきたといいます。横須賀時代にサンダルが川に流された時、通りすがりの中年男性が川の中に入ってサンダルを拾いあげてくれた時も、数分前にはその通りの「画像」がすでに見えていたと。スカウト番組『スター誕生』の時もその「予知能力」が発揮されるのです。

「何故、あの時、合格できると思えたのか、今もって不思議でならない。目に見えない天啓だったのか、単純な自己暗示だったのか、とにかく発表を聞く前に、私は歌手になれることをはっきり確信していたのである」(『蒼い時』 p.118)

このミステリアスな直感力とどれほど直接的な関係があるのか分かりませんが、百恵はUFOや夢についても横尾忠則的な体験談を持っています。幼い頃から高校生の頃まで継続的に「怖い夢」をかなりの頻度で見ていて、夜眠ることと「恐怖」はつながっていました(例えば、部屋のベランダにはりつく巨大な目が、夢の中で外出しても上空を移動しついてくる夢や、銃で撃たれ殺されそうになる夢など。自身が死ぬ夢も)。怖い夢の最後のシーンは、いつも「ひとり」きりとなって残され、こうした夢を続けて見た時には、自分は狂ってしまうのではないかと深刻に悩んでいるのです(高校時代に見た怖い夢は、仕事と学業の両立で自由がない状況が影響したためだろうと自己分析しているが、実際に怖い夢は幼少期からずっと継続的に見ているのだから自己分析はそれ以前の夢には当てはまらない)。例えば強烈な劣等感が作用している可能性もある(最も劣等感は誰にもあるのでこれもまた十全には当てはまらないだろうが)山口百恵の「劣等感」とはどの様だったのか、自身書いているのでみてみましょう。
プレイバック 制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡

「私は、喜ぶことの下手な子供だった。誰かに何かをプレゼントされても、あまり嬉しそうな顔をしないし、何処かへ連れて行ってもらっても、あまり楽しそうにしない子供だった。小さい頃、周りの大人たちは、私に対してこう言った。『はりあいのない子』。
 みにくいあひるの子ではないが、それを言われる度に心が痛んだ。いつの間にか私の中で、それは大きな劣等感に変わっていった。しかし、言われたからといって、それを自分で直せるほどの器量は、私にはなかった。
 『口の足りない子』だともよく言われた。人に何かを伝える時に、重要なことを言いそびれてしまったり、チャンスがなくて伝えられなかったり、そんな時にいつも言われた言葉だった。それはやはり、大きな劣等感だった。そんな時、自分ではどうしたらいいのか皆目見当もつかなかった。
 …この仕事を始めてから、私は様々な賞をもらっている。授賞式で涙を見せない私は、それだけで他の女性歌手と比較され、度胸がいいとか、ふてぶてしいとか言われたものである。これもやはり劣等感を刺激するひとつの出来事であった。…全ての思いが、幼い頃からの劣等感につながっていく」(『蒼い時』山口百恵集英社文庫 昭和56年 p.120〜121)

そんな劣等感に心が押しつぶされそうになっていた小学校高学年の頃、百恵は「歌手」に憧れるのです。その頃には歌が好きで、周りの何人かからも「歌が上手ね」と言われ、子供ながらの素直な感覚のまま「歌手」というお伽噺のヒロインを夢見、歌手になるんだと思い込んだといいます。その思いが中学校に入学した後、毎日曜日に見ていたスカウト番組『スター誕生』に登場した13歳の同い年の少女の歌う姿を見て一気に刺激され、自分にもできるかもしれないという気持ちが芽生えてきたといいます(中学2年の夏休みに友達何人かで応募葉書を出したこと、予選当日、友達が行けなくなって結局ひとりで予選会場の有楽町のそごうデパートの8階に向ったこと、1次、二次予選の合格、後楽園ホールでのさらなる予選、そして決戦大会。この辺りに関心のある方は同書をぜひお読み下さい)
スターになり大きなステージで「喝采」を浴び、華やかなスポットライトに包まれた姿を夢見ていました。ところが実際にステージに立ち、当初は全身をふるわす感覚があったものの、回を重ねるうちに、あれほど憧れたものがある日なんとも頼りないものになりだし、儚(はかな)さや寂しさ、怖さ、不安が勝っていくようになったといいます。忍び寄る「影」の正体は、「不安」だったと語り、その負の感覚を拭い切れなくなっていった様子が描き出されます。
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「私は、大きすぎる喝采とその向こう側にいる人々の存在を愛したつもりだった。愛そうとした。しかし、いくら大きな喝采でも、私はそれをそのまま鵜呑みにはできなかった。その全てを許容するには、喝采のもつ意味はあまりに大きすぎた」(『蒼い時』山口百恵著 p.150〜151)

喝采」の裏にある心理を必要以上に詮索してしまう山口百恵の心性には、ひょっとして「やって来ては思い切りかわいがってくれたにもかかわらず必ず去って行った父」の姿が奥底に張りついてしまっていたかもしれません。ゆえにその抗えない幼少期からの心の動きを断ち切るためにも自叙伝『蒼い時』は書かれなくてはならなかったにちがいありません。

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桑田佳祐(2):”天然のソウウツ一家”だった

桑田家に共通する「奇妙な気質」。”天然のソウウツ一家”。風呂で「歌謡曲」替え歌をつくって歌う父にいつも歌わされ。小学生の頃は皆で海で遊ぶこともなく、「透明人間」と遊ぶ”暗い子”だったが、ひょうきんで目立ちたがりな面もあった。音楽の成績はほとんど「1」だった。祖母の言葉、「佳祐の芸能の血は、私譲りなんよ」。


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*小学生時代、姉からシャワーのように浴びたビートルズサウンドの後、中学1、2年時には、少年桑田は一転「歌謡曲少年」になる。とくに「内山田洋とクールファイブ」のレコードはすべて蒐集。その後に友人からの刺激で再びビートルズに向っていく。映像は「桑田佳祐ひとり紅白歌合戦(1983年の紅白歌合戦を一人で再現)」から。

▶(1)からの続き:そして「ある独特の『状態』、『環境』」は、じつは姉からだけではなかったのです。父も風呂に入っている時は、スウィング・ジャズやマンボでなく和風に戻り、いつも「歌謡曲いしだあゆみ美空ひばりを歌い、幼い佳祐を一緒に風呂に入れれば、必ずといっていい程「歌え」と言い出すのでした!(しかも父は「歌謡曲」の「替え歌」をつくるのが大好きだった!)

桑田自身、小学生の頃の父との思い出といえば、一緒に風呂に入っている時の親父だと語っているので、余程強烈な体験が風呂場で起こっていたのだと想像できます。要するに、幼い佳祐に、「歌え」と迫ってきたのは姉だけでなく父もまた同じだったのです(姉の歌好きと、歌えという強引な誘いは父からの影響だとおもわれる)。姉からは「唱歌」に「ビートルズ」、父からは「歌謡曲リヴィングではリズム感のあるスウィング・ジャズにマンボも)桑田佳祐の”根っ子”があきらかに姿をあらわしてきました。しかし唯一無二の「ミュージック・マン」桑田佳祐を生み出すには、桑田家に潜在する奇妙な「共通の気質」と(月の裏側のような)祖母の存在がどうやら必要不可欠な条件だったようなのです。
桑田家に潜在する「ある共通の気質」とは何だったのか。桑田は『ロックの子』のなかで次の様に語っています。

「…結局、ソウウツだと思うんだよね、意外と。おふくろは親父が酒を飲むとソウウツになるとか言うけど、実はおふくろも含めて天性のソウウツだと思うの。俺もそうだし。だから、ウツの状態でないと自分が見えなかったりとか、ソウじゃないと他のものが見えないとか」(『ロックの子』講談社文庫 p.26)

桑田佳祐は、桑田家の家族を「天性のソウウツ一家」だとみているのです。ただ何とも面白いのは、この「天性のソウウツ一家」の話は、これまた桑田ファミリーに共通する別の気質「ヤマっ気」や「直感」の話と相前後していることで、どうもアゲアゲの「ヤマっ気」などは「ソウ」の状態から励起するようなのです。

「あのね、これはうちの親父もそうなんだけど、わりとさ、やってみなきゃわかんないじゃないってとこがあるわけ。あまり理屈言わないで直感でいっちゃうようなとこがあると思うんだよね。……そのヤマっ気とか直感とかが大いに命中するとこあるし、命中しないとみんなイライラしちゃったりするときがあるし」(『ロックの子』講談社文庫 p.26)


では、「ウツ」の状態はどうなのか。桑田佳祐は自身の子供時代を振り返り、「小学生の頃はわりと『暗い子』だった」と語っていることからみて、青年期以降の「ウツ」の状態の前段階の状態が子供時代に発していることがわかります。学校から帰宅後、ひとしきり姉から唱歌ビートルズの洗礼を浴びた後は、どちらかといえばひとり遊びばかりしていたといいます(親に遊んでもらった記憶はなく、海辺で皆で一緒にワイワイ楽しんだこともほとんどなかったという。親もほとんどほったらかしの状態にしていた)。そんな時に佳祐少年の傍らにいたのが「透明人間(「イマジナリー・フレンド」のこと)でした。

本人以外の人は見えない「透明人間」は、<自分の殻>や自分を守る保護膜として作用する小さな頃にしばしば生じる「想像上の友達」のことです桑田佳祐が後に多大な影響を受けるエリック・クラプトンにも腕白な「イマジナリー・フレンド」がいた)。佳祐少年は大人にバカにされると、ひとり「透明人間」に語りかけたりしていたといいます。中・高校の頃には、さすがに「透明人間」の友達も傍らにいず、気持ち的にはどこか”自閉症気味”の時がずいぶんとあったようです。そういう心理状態の時は、「引っ込み思案」になったようですが、その一方で、「ひょうきん者で目立ちたがり屋」な一面があり、おそらく「ソウ」状態に近い時はその気性はマックスにいたったにちがいありません。

じつは大人になってもこの「ソウ」と「ウツ」の二面性はずっと続いているそうで、そうした気質の面からみても、少年と青年、大人の境目が無いまま成長したと感じているといいます。ある意味、アーティストにとって内向性があることは、自身の内面の「根拠」を探索するうえで決してマイナスになることはなく、むしろプラスといえます。桑田佳祐自身も、「もし自身が恋愛上手だったら、その後の歌詞は書けていなかったし歌っていなかったにちがいない」と語っています(中学の時、どんどん大人になっていく仲の良い女の子に、ガキの自分が追いつけないと感じた時、つまり恥ずかしさを知ってしまって以降、女の子とうまく関係が築けなくなってしまったという。桑田佳祐の恋の歌詞の多くはその裏返しなのだ)

さて、祖母の存在ですが、実際に、祖母(父方)は「佳祐の芸能の血は、私譲りなんよ」とよく孫自慢をしていたといいいます。祖母は新内を歌い三味線を弾き踊りも上手い、まさに「芸達者」(芸事には厳しかった)。姉の様に茅ヶ崎駅北口にあった祖父母の家で育てられていない佳祐でしたが、幼少時に桑田一家と祖父母は同居しています(桑田自身、ばあちゃんちは「昔風の家」で、両親が住む家は「モダンな家」だったと語っている)。「モダン」な茅ヶ崎で生まれ育った桑田佳祐に、かなり「古風」な一面が”同居”しているのは、祖母の影響の何ものでもありません。高校が鎌倉五山第一位・建長寺に隣接する鎌倉学園(前身は日本で最初の禅寺として知られる建長寺の修行僧学校。男子校である。学園の重要ポストは建長寺の僧侶)だったこと以上に、佳祐少年の”根城”を形づくったにちがいありません。


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ここで今少し姉に話は戻ります。「芸達者」な祖母に薫陶を受けた佳祐少年にとって姉の存在がなければ、おそらく今日のミュージックマン桑田佳祐は存在しないか、まったく別の方向に漂っていった可能性があるからです。姉えり子は、「現状にまったく満足できないタイプの人で、ものすごく社交的でアグレッシブな人」だったといわれています。そんな姉の「ビートルズ体験」は狂信的でした。スクラップブックに大量に切り抜いた写真や記事を貼り込み、弟・佳祐に「感動を分かち合う相手」として”一方的”にビートルズを聴かせ、曲の歌詞を訳しはじめたのです(曲を訳しだした頃には鉄人28号好きだった佳祐は一人遊びができるようになり隣の部屋でひとり遊び過ごし出していた。以降、佳祐少年の一人遊びがはじまる)

ビートルズ映画に首ったけになった姉は(武道館公演に行くことだけは親に強く禁じられた)、映画「ヘルプ」を136回(トイレに隠れ1日繰り返し観る程)、「ビートルズがやって来る ヤァー!ヤァー!ヤァー!」を97回観たといいます。後に厖大なビートルズ・コレクションはビートルズ・ファンクラブに預けられることになります。ちなみに姉えり子が一番好きだったのはジョン・レノン。佳祐が最も影響を受けたのがジョン・レノンだったのも頷けるのではないでしょうか(2011年公開のジョージ・ハリスンの自伝映画を観た時は、桑田自身、G.ハリスンに一番惹かれるかなあ、とつぶやいたりもする。G.ハリスンの名曲「サムシング」を聴かなかったら自分はミュージシャンになっていないだろうとも)


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こんな姉や父に「歌」をしこまれ、「芸達者」な祖母に影響を受けてきた佳祐少年ですが、小学生の時の音楽の成績はなんと「1」がほとんどで、たまに「2」をもらえるくらいでした。その大きな理由は、音楽の先生が大嫌いでしょうがなかったことと(縦笛の上手さを7段階で階級的に位をつけることを嫌った)、父の影響から歌を歌っても必ず余計な「脚色」し(これは現在まで至る、が自曲の替え歌は諌めている)、原曲に悪戯したため先生に目をつけられていたためでした。くわえれば恥ずかし気もなくピアノやら音楽好きだというタイプを当時はなぜか軽蔑していたのです(ピアノだけでなく習字やソロバンなどの塾すらも、”冗談じゃない”と敬遠していた)


無意識のうちに「ビートルズサウンドを浴びせられていたを佳祐少年でしたが、中学に入学した頃からなぜか「内山田洋とクールファイブ」にぞっこんになってしまうのです(レコードも蒐集し、前川清風に髪にポマードをつけ歌い方もそっくりマネして歌っていた)。中学1年から2年までの2年間、佳祐少年は相当に入れ込んだ「歌謡曲少年」美空ひばりから辺見マリ石原裕次郎らの曲)だったのです。前川清だけでなく「内山田洋とクールファイブ」全員に化けて歌った姿などがバカ受けだった「桑田佳祐ひとり紅白歌合戦(1983年の紅白歌合戦を一人で再現)」は、「歌謡曲少年」桑田佳祐の”根っ子”をあますところなく明らかにしているといえます。
▶(3)に続く-未
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