伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ハワード・シュルツ(2):スターバックスにある2つの「原点」

大学卒業後、目標がまったくみつからなかったハワード。スキーロッジで働く。ゼロックス社の営業マンになり飛び込み専門のワープロ販売の訓練を受ける。スウェーデンの家庭雑貨の子会社で有能な営業マンに。「成長する会社の発足に参加することはチャンスだ」ととらえるスピリット

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ハワードはブルックリンから遥か遠いノーザンミシガン大学に入学しますが、勉強ができたからではなくフットボール奨学生としての入学でした。ハワードにはフットボールしかありませんでした。が、大学では得意のプレイでブレイクすることもできず行き詰まってしまいます。

大学での専攻はコミュニケーション学で、弁論術を学び、4年生時には幾度かはビジネスの講義にも出席していましたが、自分が学んでいることにどんな「価値」があるのか分からないままだったといいます。
その状況は卒業するまでつづき、結局卒業後も何をするか決められない状況でした(1975年、22歳)

(1)で記したように、卒業後ハワードはミシガン州のスキーロッジで働きだします。経緯は詳しく著されていませんが、その1年後にニューヨークに戻ったハワードは、なんとかゼロックス社の営業マンとして職に就きます。
とにかく幸運だったとだけハワードは語っています。大学でコミュニケーション学を専攻していたことと弁論術を学んでいたことを功を奏したのでしょうか。


バージニア州にあるゼロックス社センターにある営業専門学校で営業のノウハウ、マーケティング、そしてプレゼテーション技術を学びますが、そこには大学での授業よりも多くの学びがあったようです(社内訓練後にワープロを販売するため、マンハッタンの事務所を毎日、50社の飛び込み訪問を半年続ける。販売する方法を工夫することがビジネスの貴重な訓練に)。ハワードは3年間飛び込み訪問をし続け、自身が開拓した区域の販売を一手に任されるようになります。
仕事ができるようになると自分自身にも自信がつき(正のスパイラルだ)、大学院でインテリア・デザインを研究するかなりインテリな女性シェリーと出会っても堂々と語りあうことができたのです。


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仕事も恋も順調でしたがハワードはもっとやりがいのある仕事を望むようになっていきました。友人から家庭雑貨を扱うスウェーデンの会社の子会社(ハマープラスト社)アメリカ支店を開設する情報をえた時、ハワードは「成長する会社の発足に参加することはチャンスだ」と考えたのです。

ハマープラスト社に採用が決まり研修を受けにスウェーデンへ。ところが台所用品や家具のプラスチック部品をもちいた商品がどうにも好きになれず、なぜか演劇学校に入ろうかと考えるようになり実際に退職を申し出るのです。
すると会社サイドはハワードをニューヨークの子会社の副社長兼総支配人(20人の販売責任者の監督)に任命しただけでなく、給料も大幅アップをオファー。
「仕事ができる男」ハワードは結婚し、家を購入するまでになり両親を驚かせるまでに出世したのでした。
貧困地帯から這い上がり順風満帆の人生へ(この頃、妻はイタリアの家具メーカーでデザイナー兼マーケティング担当者に)。満ち足りた生活を送るハワード。

ところがどこか「何か大事なものが欠けている」ように感じはじめたハワードもいました。
ハワードは豊かな生活をつづけていてもこれで十分と思ったことは一度もないと語っています。もはや成功した仕事は、ハワードにとって「夢中」できるものではなくなっていたようです。
少年の頃もそうでした。「夢中」になれなくなった時、いつも次に何をやるべきかを考えずにいられない性格の少年だったのです。

1981年、ワハード28歳の時。米国北西部の遠いシアトルの小さな小売店が、あのメーシーズよりも数多くの特定のドリップ式コーヒーメーカーを注文しつづけていたことがワハードの関心を引きます。
確認すると小さな5つの店舗を持つ「スターバックス・コーヒー・ティー・スパイス」という会社でした。この頃は電動式やドリップ式コーヒーマシンを注文するのがふつうになっていたのに、なぜこの店だけはコーヒーメーカーだったのか不思議におもい、ハワードは現地調査に赴きます。

そして現地でハワードは人生がまるで変わってしまう「体験」をするのです。


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スターバックスの2人の創業者は他の店とは異なる考えをもっていました。そのためスターバックスのお店が、顧客自らが自宅で本格的な深煎りのコーヒーを飲めるよう、高品質なアラビカ種のコーヒー豆を販売すると同時に知識を伝えていた結果、ドリップ式コーヒーメーカーが沢山売れることがわかったのです。

ハワードはそれまで飲んでいたコーヒーがいかに味気ないものかを知ると、たちまち彼等の生み出すコーヒーの世界の虜になってしまったのです。それはコーヒーの味だけにとどまらず、店内は中世の船の船内のような設えとデザインは、ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』の航海士の名前スターバック(それに地元の名峰レーニア山の麓にあった歴史的採掘場の名前スターボーStarboがかけ合わされている)のイメージ世界をふくらませたものだということも、ハワードのイマジネーションを刺激せずにおられませんでした。

またジェリーとゴードンの創業者2人サンフランシスコ大学でルームメイトだった)の知性も、ハワードを惹き付けました。(店で働く3人目の共同経営者のゼブも含め3人とも執筆活動や映画製作、クラシック音楽やグルメ料理、ワインなどを共通の趣味にしていた)
店の経営に専念していたジェリーはかつて大学で文学を専攻し英語の教師をしていたことがありました。
ゴードンは、それ以外に広告・デザイン会社と週間新聞社の経営もし、さらにはマイクロ醸造によるビール会社の設立も企てている人物でした。3人目の共同経営者ゼブはシアトル交響楽団コンサートマスターの息子で歴史を教えていました。

ちなみに深煎りコーヒーをアメリカに紹介したのはオランダ人のアルフレッド・ピートで、サンフランシスコのバークレー大学近くでピーツコーヒー&ティー店を経営していた人物です。
スターバックスの創業者たちは学生時代にこの店のコーヒーの味に惚れ込んでいたのですアムステルダムの貿易商人の家に生まれたアルフレッド・ピートは、コーヒー貿易商になってジャワやスマトラのコーヒー園で味覚を磨いていた時、当時世界一の富裕国アメリカが安物のロブスタ種コーヒーしか飲んでいないことを知り、1955年、良質のアラビカ種のコーヒー豆をヨーロッパ風に深煎りして飲むことをアメリカ人に啓蒙した。アラビカ種のコーヒー豆を販売すると同時に、コーヒーの微妙な風味の違いを楽しみながら家庭で挽いて入れる方法の伝授はまさにスターバックス・スタイルの原形だった)

スターバックスの創業者たちは、開業前にコーヒーや紅茶に関する知識や焙煎、接客の仕方まで学ぶためにピートの店で働き直接手ほどきを受けています。
またそのためスターバックス創業時、コーヒー豆はこのアルフレッド・ピートの店から仕入れています(創業時3人は一人1350ドルずつ資金を出し合ったが足りず、銀行から5000ドルの融資を取り付けた。スターバックス1号店がオープンした1971年は、シアトルは大不況に突入していて小売店を開くには最悪の時期で、シアトル最大の企業ボーイング社が大リストラをスタート。周囲は空き家が多くなっていたという)

シアトルに5店舗をもつまでになっていたスターバックスにハワードが巡り会ったのは、創業からちょうど10年目のことだったのです。スターバックスの深煎りコーヒーの味と世界観に魅了されたハワードは、ジェリーに掛け合います。その時の状況は次の様でした。

「脳裏からスターバックスのことが離れなかった。当時、私が働いていたニューヨークの多国籍企業とは比べものにならない小さな企業なのに、まるで頭の中で鳴り響く快いジャズのリズムのような魅力を感じたのである。やってみたいことが次々と頭に浮かんだ。

今度はジェリーが夫人と共にニューヨークを訪れた。シェリーと私は二人を夕食と映画に招待した。私たちは意気投合した。冗談まじりにジェリーに聞いてみた。『私をスターバックスで使ってみる気はありませんか』。ジェリーはちょうど実力のある専門家を雇う必要性を感じていたので、考えてみましょう、と言った。そこで販売や広告宣伝、商品化計画などで、私にどんな貢献ができるかを話し合った。

ジェリーを説得して決断させるのに、それから一年かかった。ジェリーは乗り気だったが、スターバックスのほかの経営者たちは、血気盛んなニューヨーク市民を雇うことに不安を感じていたのである。
自分たちの会社の価値観になじみのない人物を経営陣に迎えるには、リスクを覚悟しなければならない」(『スターバックス成功物語』ハワード・シュルツ日経BP社 p48)

そしてハワードはスターバックスに対する熱意を伝えつづけましたが、ハワードの構想と革新的なアイデアはリスクが大きいことと、事業の拡大は、本来のスターバックスの目標(=コーヒーの品質を高めること)と相容れないということで最初は参加を断られてしまいます。

しかしその24時間後、ハワードの決死の決意が通じ、スターバックスに参加することになります(このあたりの経緯はぜひ『スターバックス成功物語』にあたってみてください。興味深い経緯です)

そしてコーヒー・スタンド「イル・ジョルナーレ」をスタートさせるためのスターバックスからの離脱スターバックスの創業者の一人が資金の一部をスポート)。そしてスターバックス創業者のスターバックスの売却とハワードのスターバックス買収。

その間に発生した幾多の問題。スターバックスは第2の原点から一気に拡大路線にいったわけでもなく、第1の原点がしっかり残されたまま、第2の原点となったハワードはじつはいったん離れているのです(第1の原点から離れることによって「テイクアウト・コーヒー」のコンセプトが実行されたり、店内の新設計や新たなセイレーンのロゴマーク、今日につながるカラーコーディネイトがなされていった)。

こうしたあれこれの難事とそのブレイクスルー、そしてチェレンジ精神がスターバックス成功物語を構成していきます。白鯨 上 (岩波文庫)

最期に、スターバックス・コーヒーが北米(米国とカナダ)以外に、最初に進出したのが日本だったことについて少し。『白鯨』のエイハブ船長と航海士スターバックが大きな白鯨モービー・ディックを追跡し発見したのが日本近海の太平洋だったことを知れば、幾分ロマンチックな気分にさせはしないでしょうか。実際には以下の様に、日本進出に際しての否定的な意見がなされていたようです。それが今や島根と鳥取県を除くすべての都道府県に進出(日本国内だけで700店舗を超える)、世界43カ国以上に店舗展開するまでになっていくのです。

スターバックスが海外進出が可能なのか)最初で最大のテストを日本で行なうことになった。……スターバックスは日本進出をきわめて慎重に受け止め、日本に進出するのは妥当かどうか一流のコンサルタント会社に調査を依頼した。人の手を借りないで、何でも自らの手で行なう傾向が強いスターバックスにとって、ほとんど革命的な行為だ。重役用会議室のテーブルの上に置かれた調査結果書には、日本進出への参入を警告するきわめて否定的な結果が記されていた。中でも次の三つは重要な警告だった。
(1)事業の90パーセントまでをテイクアウトが占めているが、日本の消費者はけっして街中ではコーヒーを飲みたがらないだろう。……(続く)
 スターバックス経営資源はかなり厳しい状況にあった。そのため安全を期して日本と英国の両方に資金を投入する余裕などなかった。今日本に進出するか、それとも日本市場そのものを完全にあきらめてしまうか、選択肢はどちらかだった」(『スターバックス・コーヒーー豆と、人と、心と』(ジョン・シモンズ著 SOFT BANK Publishing 2004年刊)

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