立川談志(2):物事を裏側から見る性格ができあがった理由
小学校に入ってからすぐ「貸本屋」通い。『少年倶楽部』連載の作家の本を借りまくる。ガキ大将ではなく「空想」に遊ぶ性格。小学5年の時、伯父に連れられ「寄席」を初めて体験、小学生にして新宿・末広亭通い。『評判講談全集』『落語全集』を制覇。皮肉的に物事を裏側から見る性格ができあがった理由とは
▶(1)からの続き:立川談志(本名:松岡克由)は、昭和10年12月2日(戸籍上は昭和11年1月2日)、東京・小石川原町生まれですが、以降松岡家は引っ越しを繰り返すことになります(白山御殿町、蒲田、浦賀へ、さらに下丸子。6歳の時、東京・蒲田近くの鵜の木にようやく落ちつく)。父が三菱重工の社用車の運転手だったので、会社都合の引っ越しだったようです。三菱重工の社用車の運転手といっても、松岡家は鵜の木周辺の民家と同様、とにかく貧乏所帯で、家には1冊の本もなかったといいます。
幼少期には引っ越しの多さがマイナスに作用したのか記憶らしい記憶はほとんどないらしく、小学校にあがるまでの記憶としては、浦賀で見た駆逐艦や家の隣の蒲田の工場から流れてくる朝のラジオ体操のメロディくらいだといいます。後にもの凄い記憶力を発揮する談志少年ですが、小学校に上がるまでは記憶力は、他の子供と比べ少ないほうだったようです。
談志少年が大きく変わったのは、小学校(当時の国民学校)に入学するとほぼ同時期に通いだした「貸本屋」通いをするようになってからでした。目蒲線・鵜の木駅前にあった「貸本屋の村上書店」の常連になった談志少年は、当時流行だった『少年倶楽部』を借り出したのを手始めに、『少年倶楽部』連載作家・佐藤紅緑(こうろく)らの単行本へと手をのばしていったのです。紅緑の『ああ玉杯に花うけて』を読み終えた時の強烈な感動こそが、談志少年を「読書」の虫へと豹変させたのでした。
つづいて山中峯太郎の『亜細亜の曙』(主人公・本郷義昭に憧れる)や高垣眸の『豹の眼』、南洋一郎の『緑の無人島』に海野十三『大海底魔城』、さらには吉川英治の『ひよどり草紙』に江戸川乱歩の『少年探偵団』。これらの本を談志少年は、小学4年生までに読破していきます。「読書」好きが功を奏し、教科書のなかでも「国語」の教科書だけは熱心に読めたといいます。もっとも本の虫といっても、メンコにベーゴマ遊びは勿論、近くの多摩川でのハゼ釣りシジミ取り、夏にはフルチンで水泳して遊びまくるやんちゃな子供でした。ただガキ大将ではまったくなく、するりと「空想の世界」に入り込んでしまう質(タチ)だったようです(戦争下において、「空想の世界」への逃避は子供ながらの現実逃避でもああった)。実際、B29の爆音で多摩川河原へ逃げた時、手に掴んでいたものは、田河水泡の漫画『凸凹黒兵衛』で、対岸の火災を明かりに読んでいたといいます。昭和20年の激化する空襲で、実家のある埼玉・深谷、次いで父方の仙台・根白石村へと疎開(その時、たまたまあった井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』に熱中)。
敗戦の年、鵜の木に戻った談志少年は、ある決定的な体験をします。小学5年の時でした。袋物の職人をしていた伯父(母の兄)の玉井房治が談志少年を初めて「寄席」に連れて行ったのです。浅草の松竹演芸場でした(だし物に小今亭今輔の柳家金五語楼の新作落語「綱棚」、談志少年が当時いちばん好きだった三遊亭金馬の「角力風景」、馬風らを見るが、当時は落語の定席ではなく、コントや声帯模写、俗曲、芝居、漫才などと一緒に落語もかかった色物の小屋だったというのです)。「寄席」の虜になった談志少年は、上野の鈴本や新宿の末広亭へと足をのばしはじめます(一緒に連れだった伯父の友人が、馬風の「お旦(だん)」としてお金を貸していたことも知り、遠い憧れの存在が少し身近に感じたりしています)。浅草までは遠く、もっぱら新宿・末広亭通いがはじまります。
小遣いを貰うことなどなかった談志少年はどうやって「寄席」に通ったのか。遊びに勝って手に入れたベーゴマをオモチャ屋に売ったり、近所で銅や鉛、真鍮(しんちゅう)などを黙ってもってきたのを売り払ってお金をつくったといいます。こうした悪知恵(処世術)は、ある意味、生命欲や意欲のあらわれでもあり決して無視できないものです(スティーブ・ジョブズや野口英世にも各々あらわれでている)。そうした行為はどれほど談志少年が「寄席」を見たかったかの裏返しでもあります(土間に置かれた6人掛けの粗末な椅子の最前列か二番目に座り、昼の頭から夜ギリギリ帰宅できる時間まで食い入るように見続けたという。お腹が空いても食べるお金などないので、深呼吸して我慢していた)。
ところでなぜ、談志少年は初めて見た「寄席」にそんなに夢中になったのか。それは疎開から戻って後、『少年倶楽部』にくわえ、『評判講談全集』を読み出し、曾呂利新左衛門や蜀山人(後に落語の「蜀山人」は談志得意の演目になる)が繰り出す「頓智(とんち)」やウィット、狂歌を知って惹かれていたことが知らないうちに土壌になっていたためでした。「寄席」を知ってからは、講談全集の読書力が一段とあがります。『評判講談全集』を読み終わると、今度は『落語全集』3巻と『評判落語全集』3巻へとすすみ、中学にあがる頃には、講談社が刊行する『少年講談集』『評判講談全集』『落語全集』『評判落語全集』を制覇する意気込みで読み込んでいきます。しかも講談や落語をほとんど記憶するかのごとくだったようです。寄席に連れて行ってくれた伯父だけでなく、どうやら母も落語好きだったようです。『人生、成り行きー談志一代記』には、この頃、母が落語の「兵隊」(金語楼)の話をしてくれてたことが記されているからです。
評判落語全集〈上卷〉 (1933年)
学校の授業中でも『落語全集』などが、”教科書”代わりとなっていった理由として、敗戦で一変した価値観で教師が自信をなくし、そうした教師が教える授業が「ニセモノ」と映り、談志少年にとって「ホンモノ」は『落語全集』だけと感じるようになっていたことがあげられます。「ニセモノ」の教科書ー例えば英語の教科書の上に、剝がしてきた寄席のビラを貼り込んだりしています。ただその理由は、敵国の言語だからというのではなく、じつは談志少年は、小学6年の時に英語塾に通わされ英語を習っていて体得していたため(これからの時代、英語が必要になるということで親にいかされた。おそらく父の判断だろう)、敗戦後急ごしらえで設けられた中学の英語の授業が腑抜けたものに映ったのでした。
同時に、『落語全集』という活字媒体をこえて、ナマの「寄席」をつづけて体験していたことで、『落語全集』をこそ「ホンモノ」と見立てることができたにちがいありません。鵜の木から新宿までそう頻繁に行けなかっただろう分、地元の「多摩川園劇場」が時にその代役となります。この劇場に通っていたことは『人生、成り行きー談志一代記』にはなく、談志29歳(1965年)の時に著した『現代落語論ー笑わないでください』(第二版 2011年刊。三一書房)に少しばかり登場します。多摩川園劇場では落語はなかったものの、松旭斎天勝一座の手品などいろんな演芸をナマで見ています。ニセモノでウソっぱちの学校など視野にはいらなくなっていったのは、『少年講談集』『落語全集』などとともに、「寄席」や「多摩川園劇場」などのリアルなホンモノの体験をずっともちえたからだったようです。
「落語全集を片っ端から読み漁り、それに関係している新聞や雑誌の記事は細大もらさずどんなものでも眼を通した。寄席のビラを夜中にはがしてきて、切り取って教科書に貼り、授業中にはほとんど落語全集を読んでいた。みつかっても平気だった。先生の授業よりこっちの方がおもしろいという大義名分をもっているから、割り合い堂々としていた」『現代落語論ー笑わないでください』(第二版 2011年刊。三一書房 p.80)
どんなに一線で活躍する人であろうと深くお辞儀をして始め終わる噺家たちが集う寄席。真逆に「これは愛情だ」と言い放ち頭を小突き何度も叱る教師。談志少年の腹は決まります。座ぶとんから提灯、噺家の名札が書かれたビラ字、呼び込みのお爺さんにいたるまで隅から隅まで「寄席」好きになっていく談志少年。後に談志自身が語るには、中学時代にもはや「気違い」とでもいう域に達していったといいます。学校の行き帰り、道端ですれ違う人の顔付きが、今輔や馬風に似ているなと、周りの風景と「寄席」がエッシャーの絵の如く「相互貫入」してきたようです。
もう一つ談志少年が中学時代に「落語」に集中できた要因をつけ加えれば、スポーツがそれほど得意ではなかったことでした(知力にもスポーツにも秀でた少年は青年期に目標が定められにくい状況に陥る場合も多い。その点、はっきり苦手であれば手を出さないわけだが、少年時代はスポーツ選手は多くの少年の憧れになる)。談志少年の場合、多摩川が遊び場だったこともあり川泳ぎは好きで泳ぎっぷりもよく、中学は水泳部に入部しています。ところが所詮体力もそこそこでスポーツ能力も高くないと自身を見積もった談志少年は次のように感じだします。
「…どうやっても最後には体力のあるヤツには勝てない。自分ではどうしようもない壁がある。このことは考え方、生き方を冷笑的にし、皮肉にし、物事を裏から見るようんしますから、落語家という商売には良かったかもしれナイネ。でも、中学生の本人としては辛かったでしょうな。野球の選手にも憧れたが、これも体力がないからダメ。…ガキ大将には力がないからなれない。知力、といっても進学校とかではないから、皮肉な知力で自分をアピールしてたのかな。教師にとってはイヤな、目ざわりな生徒だったでしょうな」『人生、成り行きー談志一代記』(聞き手:吉川潮 新潮文庫)
スポーツが得意でなければ、お笑いで人気取り。今日ならばそうでしょうが、敗戦直後など笑いでモテるなんてことはまずありえない。
「もうひとつ言えば、モテなかったネ。今は冗談かなんかを言うと『面白いワネ』とモテるでしょう。当時は『ふざけてる』というので、冗談を言うヤツ、面白いことを言おうとするヤツはモテませんでした。むしろ蔑まされました。また自分でそう思い込んでもいましたから、みんなの前で落語を一席語るなんてことは考えもしなかった。むしろ落語というマイナーな芸に入れ込んでいることを、どこかで恥ずかしく思っていたのかもしれません」(『人生、成り行きー談志一代記』(立川談志 聞き手:吉川潮 新潮文庫 平成22年 p.25~26))
そんな談志少年がその後どのように落語家になっていったのか。それからも、否それからこそ、さらにまた興味深い。落語家を夢見つづけた一人の少年が、罵倒にタブー、差別用語を連発する過激な毒舌家、落語会の「異端児」「革命児」になっていったのか。そして政治家に立候補(三木内閣の沖縄開発政務次官になったのち一悶着、自民党離党)。真打昇進試験制度をめぐる破門、落語協会脱退(46歳の時。1982年)。家元立川流を創設し、落語会に初めての上納金制度の導入など。爆笑問題の太田光の才能をデビュー後すぐに見抜き、ダウンタウンの松本人志を「見損なっていた!」と評価を一転した談志。ともかくその破天荒ぶりは落語会を超えて広く知られていったことは皆さんご承知の通り。しかし次の様に語る談志師匠は、やはり『人生、成り行きー談志一代記』を読まないかぎりなかなか気づくことはできません。
「人間にはどこにも帰属できない、ワケのわからない部分があって、そこを描くのが本当の芸術じゃないですか。……もっと言うと、あたしは<立川談志>に帰属してるんじゃないですか。落語を変えようと続ける<談志>というものに帰属している。いま、あたしが安定できないのは、帰属先の<談志>がバテてきて、なかなか落語を変えること、深めることができていないってことじゃないですかネ…。だから、いまのあたしの落語は、イリュージョン的な感情注入をするパワーが失われて、芯の部分、つまり本来の落語の部分だけが残る形になりつつある」『人生、成り行きー談志一代記』(新潮文庫 p.232〜233)
▶(2)に続く-未
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