ビートたけし(1):祖母は、たけしの芸能のルーツ
母は義太夫語りのアイドル、芸名「竹本八重子」の祖母・北野うしは、たけしの芸能のルーツ。長兄は戦後GHQの通訳、ペーパーバックが積まれていた家。当時足立区の北野家の近所は、下町の職人街。たけし映画に登場する「ヤクザ」は、近所にあった「ヤクザの事務所」の影響があった
http://youtu.be/vW7XssMTNy8:フランス人作家による伝記『北野武による「たけし」』インタビュー
「オフクロは教育に対して、信仰にも似た独特な考えを持っていました。貧乏の悪循環を断ち切るには教育しかない、というんです。
「貧乏は輪廻する」、つまり循環するというのがお袋の説です。
…それはお袋自身の体験から生まれた教訓なんです。…(お袋の)さきは、子供たちが小学5年生になるまでは、どの子にも鉛筆を削ってやり、前夜のうちに教科書やノートの点検をしてやった。
そして朝十時になると、子供たちがちゃんと授業を受けているか確かめに学校へ行った。教室には入れないので運動場の窓から様子を観察した。
上の三人はとくに問題はなかったが、たけしの場合はときに不真面目な態度が目につき、思わず窓をガラッとあけて『何してる、このバカたけが!』と怒鳴ったこともあったという」(『北野家の謎』ビートたけしを勝手に研究する会』 スコラ p.55-56 /ほぼ同様の内容は、兄の北野大著『なぜか、たけしの兄です』にもあり)
映画監督として「世界のキタノ」となった元漫才師・ビートたけし(北野武)を取りあげます。
お笑いはもちろん司会業、作家にアートに高等数学もこなすマルチタレントは、いったいどのようにして今日の<ビートたけし>、そして<北野武>になったのか。
ビートたけしについて知っていることを幾らかあげてみれば、浅草生まれで足立区の下町育ち、父は飲んべえのペンキ(塗装)屋の菊次郎に母さきは猛烈な教育信者。
兄の大は温厚な研究者で大学教授。そして本人は明治大学工学部中退、新宿ジャズ喫茶などでバイトを重ね、浅草へ。ツービートとして毒舌ギャグを連発。苦節十年で芽が出て、ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」、テレビのバラエティ番組「オレたちひょうきん族」へ、そして世界で人気者の映画監督へ。ざっくりつかめばこんなところでしょうか。
無論、たけしファンならば、さらにストリップ劇場の浅草フランス座時代のエレベーターボーイ、前座時代、掟破りの残酷ギャグ・毒ガス標語(赤信号みんなで渡れば怖くない等)、コマネチ・ギャグ、B&Bやザ・ぼんちらとともに「マンザイブーム」が巻き起こり一気に知名度があがり バラエティ番組「オレたちひょうきん族」「スーパージョッキー」「風雲たけし城」「天才・たけしの元気がでるテレビ」「平成教育委員会」など、その間のたけし軍団の結成や、深作欣二監督の映画を受け継ぐかたちで映画を監督するようになった経緯、数学を解く「マス北野」等々、つっこむ場面は無数あることでしょう。
ここでは「伝記ステーション」ならではのアプローチ(「Mind Tree」の方法)をかけてみることにします。まずは北野たけし少年が漫才師「ビートたけし」になったその背景ですが、北野家ならではのとびっきりの事情や家庭環境(土壌)、東京の田舎・足立の下町ならではの人間関係、それらが何重ものぎらついた分厚い塗装の如くそのメンタリティに塗り込められていることがみえてきます。
しかし教育第一の母さきの敷いたレールからは飛び出していきます。それができたのは、兄の大(まさる)によれば、たけしが末っ子だったことと、「ちゃっかり者で調子のいい子」という持って生まれた気質、そして18歳も離れていた一番上の兄や姉が働き出していて家計も少し楽になりだしたことも大きかったようです(北野家は貧乏だったが、末っ子の武だけは少年時代、兄姉たちと比較しそれほどの貧乏は経験しないですんでいた。
これはソフトバンクの孫正義にもいえるが孫家の場合は正義が小学生にあがる頃にはパチンコ業が繁盛し相当の金持ちにのしあがっていた)。
くわえて日本の高度成長がはじまり、家のために働かなくては生きていけないという状況も脱していて、エネルギーをもてあました遊び盛りのたけしが皆と遊びまわらない理由などもはやありえませんでした。
母さきや、やりたくもないペンキ塗りを手伝わせる父菊次郎から逃げて(兄の大とちがって嘘を言って手伝わない)遊びまわった場所のはじまりは、近くを流れる荒川にかかる千住新橋の土手でした。
一般的に、たけしの兄弟といえばすぐ上の北野大がよく知られていますが、18歳年上の長兄と他に姉がいます。長兄の北野重一(後に宇野製作所取締役、技術者)は戦後にGHQの通訳をやれるほど、とにかく英語がよくでき、次男の大や三男のたけしに「英語」の面で影響を与えることになります。
長兄重一は英語のペーパーバックを外人から沢山もらってきたため、狭い北野家の部屋の一角は1000冊余のペーパーバックで埋もれていたといいます(当時としては相当の冊数のなかに『チャタレー夫人の恋人』等もあった)。
この長兄重一は父と違い気も強く、父の酒癖の悪さをなじったり父も長兄に怖れをなしていたほどで、母さきのほかに北野家のもう一つの重心をなしていました。
たけしといえば母さきの存在がよく語られますが、実際にも圧倒的な存在で、あらゆる面で北野家とたけしに強烈な影響を与えていきます。そのことはよく知られていますが、母さきのことをたけしは次の様に語っています。
「…ある環境のなかでこそ、ある生物が生まれるみたいなもんで。俺を作ったのは俺の周りの環境なんだと思うよね。もうそれは自然なもんだよ。
…だから、おふくろにほんと溺愛されたのが大きいと思うなあ。でもまあ、そのぶん、愛情はすごいんだけど、方っぽで妙な倫理観も徹底的にやられた感じするんだ、躾っていうかね。…食事の仕方とかさ。だから俺、しばらくは人と一緒に食事できなかったもん。躾にうるさくて箸の使い方やなんだで怒られたから、子供のときに食事が儀式になっちゃってね。
買い食いですぐに食べるスタイルを知ったときなんて、これほどいいもんないと思ったもんね。だから、俺ってなんか変なところあってね。ネタでもそうだけど、俺のしゃべってることとかやることって、そういう儀式みないなものをブッ壊すというか。
食べ物、手で掴んで食っちゃったりするような感じだと思うんだ。
それぐらい逆に溺愛されたし、徹底的に躾をやられたんだよね。そういう意味じゃ、やっぱり今、たけしというのがあるのは、おふくろとかカミさんが大きかったんだろうね」(『孤独』北野武著 ロッキング・オン p.63-68)
たけしは、さきが43歳の時の子でした。未熟児で生まれ体も弱く小児喘息も患っていたたけしは、5歳頃まで母に半纏(はんてん)でおぶわれて通院しつづけています。
上の兄たちと同様、躾や教育面に関しては貧乏が輪廻しない様に徹底して支配していました。
その背景には、母さきの自身の置かれた状況における「違和感」があったといわれています(母自身、自分は旧男爵か何かの家系に縁のある特別な存在だと思っていたふしがあるという)。
それは飲んだくれの菊次郎との生活の「違和感」で、「ここは本来自分のいるべき場所ではないのではないか」というつのる思い。自分をどこかへと<救い出そう>とした結果が、「教育」への過度ともいえるほどの熱心さが生まれたようです。
しかも子供だけやらせて自分は勉強など知らん顔のよくいるタイプの教育ママではなく、母さきは近所の人たちから「女博士」と呼ばれるほど物知りで、頭の回転がたけしそこのけにもの凄く早かったといいます(しかもかなりのお転婆だった;少年たけしを彷彿とさせる)。その「教育」への熱意は、近所の一家をも教育一家に変えてしまうほど感化力がありました。
▶(2)に続く-未
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