伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ポール・ボウルズ(1):最も影響を受けた「読書」をする祖父

ポール・ボウルズが作曲家であり、作家となった根っこにあるもの。幼年期に「地名」づくり「時刻表」づくりをはじめ、小学生の時には鉛筆とクレヨンで4ページの『新聞』を毎日発行。最も影響を受けたのは祖父は一日中「読書」をしていた。8歳の時にピアノをならわされ、レコード・音楽好きに

坂本龍一が映画音楽を担当した映画『シェリタリング・スカイ』(監督ベルナルド・ベルトリッチ)の原作となった小説(『極地の空』1949年)の作者として知られるポール・ボウルズ。1947年からモロッコのタンジールを永住の地(生涯88年のうち52年間居住)としたポール・ボウルズのもとには、ビート詩人のアレン・ギンズバーグウィリアム・バロウズ、グレゴリー・コルソ、それにトルーマン・カポーティゴア・ヴィダルテネシー・ウィリアムズらが会いに来たのだった。
ポール・ボウルズは、American expatriate(米国人の国外居住者/追放者)のシンボルと化し、同時にポール・ボウルズの居住した地タンジールは、国外居住者/追放者が住むシンボリックな地となります。

一方、ポール・ボウルズといえば、『エル・サロン・メヒコ』(1936年)や『ビリー・ザ・キッド(1938年)、『アパラチアの春』(1944年)などで知られ、アメリカ古謡を取り入れ親しみやすいメロディーで「アメリカ音楽」を生み出したといわれるアメリカの代表的作曲家のひとり、アーロン・コープランド(ジャズや12音技法を用いた曲調もある)に師事し音楽を学び、パリに渡り、ガードルード・スタインの文芸サークルに属しながら、コープランドと一緒に初めてモロッコのタンジールを訪れていますポール・ボウルズ21歳の時)

その後、ポール・ボウルズはそのままタンジールに留まったのではなく、ベルリンへ、そして再び北アフリカのチェニジアやアルジェリアを訪れ、27歳の時に、ニューヨークへ戻り、オーソン・ウェルズテネシー・ウィリアムズの舞台の舞台音楽を作曲。作曲家として広く知られるようになり、翌年に作家で劇作家でもあるジェーン・アウアーと結婚。33歳の時にはマース・カニングハムの振付けで、レオナード・バーンスタイン指揮によるオペラ「風は帰る」が上演されています。その4年後(1947年、37歳)にモロッコ・タンジールに永住しようと決意し、妻ジェーンとともに再訪。

後に「シェルタリング・スカイ」として映画化される最初の長編小説『極地の空』を書き出版したのは、タンジールに永住しはじめた2年後のことでした。最も作家となって以降も、作曲や音楽から完全に身を引いてしまったわけでなく、45歳の時に再びオペラを手掛け、その後、ロックフェラー財団連邦議会図書館の援助で、モロッコの伝統音楽の録音を行い、舞踊音楽、世俗音楽、ラマダーンなど祭りの音楽、儀礼音楽など収集して各地をまわっています(現在も連邦議会図書館に保存されている)。また伝統音楽のだけでなく、モロッコの語り手から聞いた伝承や当時のモロッコの作家たちの作品を多数英訳し、欧米世界に紹介しています。

www.youtube.com

となれば、ポール・ボウルズがモロッコ・タンジールに永住しようと決意したのは、決して地位を築いた作曲家や音楽界から完全に身を引き剥がし、作家になろうという動機だけからだけではなかったことがわかります。ポール・ボウルズの内面は、モロッコのバザールの迷路のように相当に複雑だということは、自己を映し出してもいる映画『シェリタリング・スカイ』からも予感されることです。


なんとも興味深いことに、そのポール・ボウルズの行為と思考は、彼の幼少期にあることが、彼の自伝『止まることなく』からいえてくるのです。そこには一体何が記されてあったのか。ポール・ボウルズはどんな少年期を送っていたのか。一緒にみてみましょう。

「…私はひとりでその家の一室にいた。突然、金時計が4回鳴った。4つ目の音が鳴り止んだ瞬間、重大なことが起こっているのを悟った。私は4歳で、時計が4回鳴り、そして『マグ』という単語が実際のマグ(マグカップのこと)を意味した。したがって、私は私となり、私がそこにいて、そしてその瞬間がほかならぬまさにその瞬間となった。満足のゆくあらたな経験で、すべてを確信をもって声に出すことができた」ポール・ボウルズ自伝『止まることなく』白水社 山西治男訳 p.3)

これはポール・ボウルズ自伝『止まることなく』の冒頭部分に記された一文です。この一文の直前に、ミルクを飲む「マグ」と何度も繰り返し口に出したが、その意味するところを忘れてしまい不安感を覚えていた、という記述があります。その不安が4歳の時、忽然と消え、私が私となり、「マグ」とすべてを確信をもって声に出すことができるようになったと。幼少期から言語的感覚に鋭いある種の子供は、どうも最初に言葉を感得した時の様子を覚えているようなのです。
いったいそんなことがあるのかと思われるかも知れませんが、レイ・ブラッドベリ桑田佳祐の様に誕生した時のことを明確に覚えている「誕生時記憶」の持ち主もいるように、「言語獲得記憶」の持ち主もいるようなのです。後に作曲家となり、また作家にもなるポール・ボウルズは、どうして「言語獲得記憶」の持ち主であったのか、まずはボウルズ家のことからあたってみます。

父は歯科の開業医で、4階建ての2階に受付けと診療室があり(1階は父の実験室)、3階と4階が居住スペースになっていました。父の兄も歯科医で、本当はコンサート・ヴァイオリニストを夢見ていた父でしたが両親から大反対され、兄に続いて実業の世界に入ったのでした。父方の祖父はかつてヴァーモント州に「デパート」を持っていたことから、物価やさまざまな商品の卸し値や小売り価格を知悉し、店を売って以降も興味の関心は「物価」だったというほどでした。

とにかく突発的に感情を爆発させる不機嫌きわまりない人物で、宗教や社会、政府など「組織」というものにつねに反感をもっていて(祖父は南北戦争経験者だった)、癇癪をおこすとドイツ語と英語で怒鳴りまくったといいます。とにかく祖父は恐ろしいところがあり、息子たちの鼻柱をハンマーで砕いたのですが、自分の鼻もまた父によって砕かれていました。なんとも恐ろしいことですが。しかしそんな祖父は晩年は一人本に埋もれた書斎で読書に明け暮れ、少年ポールは祖父に惹かれていくのです。逆に祖母は温和で快活で、農場で働き「自然」を熟知し、一族のなかでも母の鑑といえるほど素晴らしい人でした。

鼻のみならず夢を砕かれた父は、家では度し難い権威主義者となり、とくに食事の席は、少年ポールにとって苦痛であり、耐え難い試練だったといいます。どんな食べ物でも40回噛んでから呑み込む食事健康法の実践者で、全員も倣わないと逆上し怒鳴りちらすのです。料理も材料や調理も監視し、パンも自家製以外はすべ合成された危険なパンだと受け付けなかった。病気になりさえずれば、ベッドに寝て一人で食事をとることができたので、幼い頃の病気の半分は仮病だったといいます。


www.youtube.com


母との仲は良好で、2歳頃から7歳まで、いつも寝る前に30分間、母は本を読んでくれたのです。それ以降になっても、ポールと母とはナサニエルホーソンの『タングルウッド物語』やアラン・ポーの物語などを交替で互いに読んで聞かせています。母は読み聞かせるのが巧く、恐ろしい場面になるとまるで人格が変わったかのようになるのでした。

まだ小学校に上がる前のこと。祖母が一人の女性を連れてきて、まだ小さなポールと2時間一緒に話したことがあったといいます。「この子はすごく年寄りじみている。しばらく様子を見るしかありません」とその女性が語っているのが聴こえたたことが、いつも家族たちから「自然じゃないね」と言われていたことや、何かと欠点を見つけて話しあっていたことが重なってきたのです。実際、ポールは5歳になるまで他の子供たちと話したこともなければ一緒に遊んだこともなかったのです。
「自然じゃないね」ということは、年がら年中、一人でいようとし、そしてつねに「本」を読んでいることを上の兄や父から言われたのでしょう。母からは、父も祖母も疑り深い人たちで、あんな人たちのようにならないようにとポールに言い聞かせたりするのでした(この頃、時折、両目を見開き意識は覚醒しないまま叫び声をあげることがあったという)

■参照書籍『止まることなく―ポール・ボウルズ自伝 』白水社 1995/『ポール・ボウルズ伝』ロベール ブリアット著 白水社 1994


◉Art Bird Books Website「伝記ステーション」へ
http://artbirdbook.com
▶「人はどのように成長するのかーMind Treeブログ」へ
  http://d.hatena.ne.jp/syncrokun2/