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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

白戸三平(2):真田村での農業と自然に依拠した生き方


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白戸三平(1)より:息子・登(三平)が誕生した年、特高に検挙・投獄されています。特高警察の拷問から脊椎カリエスを発症(力仕事ができなくなる)。その翌年に、小林多喜二の死顔を描いています。現実会の結成、日本美術会の結成に参加。1943年に共産党入党(1958年離党)。

そしてキリコらイタリアの形而上派やキュビズムの影響を受け、絵画の形式の否定への関心。ダダイズムに接近。後の作家、劇作家で演出家の村山知義と論争し友好を築きます。アナキズムダダイズムブルジョワ芸術の限界とみた岡本唐貴は、「人間集団主義による健康性に根差した絵画の復活」を求め、モニュメンタリズムの運動を提唱。東京都美術館で見ることができる「丘の上の2人の女」はその時のものです(日本という出自と西欧的近代の前衛精神の間に引き裂かれた画家の自我がみられるといわれている)。

岡本唐貴は次第に左傾化。1928年に「ソシアル・リアリズム」という論文を発表。新しいリアリズムには社会主義が導入されなければならないと主張。1929年、ナップの下部組織として、「日本プロレタリア美術家同盟」が結成され、岡本唐貴は委員として活躍。この頃、19歳の黒澤明が、岡本唐貴のもとで絵画の手ほどきを受けたといわれています。

 

 

唐貴は画家を志していた相馬きみと結婚。岡本一家は、特攻警察の監視を逃れ、三平が2歳(1934年)から5歳まで、大阪と神戸を流転しています。闘病生活にあえぎながらも唐貴は関西のプロレタリア美術運動を再編成しようと企てていますので筋金入りです。しかし警察から目をつけられた一家が借りられる借家は限られ、被差別部落在日朝鮮人集落周辺へ。差別や貧富について闘っていた唐貴からすれば願うところ。三平は昭和10年頃<span class="deco" style="font-size:small;">(4歳)</span>には大阪・生野で在日朝鮮人集落の風景を見、長屋で暮らした大阪・小曽根村長島(現・豊中市)でも強烈な記憶を刻んでいるようです。

その地で父の友人で在日朝鮮人の鏡職人の男性が、拷問で身体を痛めた父の代わりに亀をとったりして遊んでくれた記憶を三平は深く刻んでいます。三平の心の裡で、被差別部落在日朝鮮人集落の人々は仲間として隣人となったのでした。三平は少年時代、「動物学者」に憧れたのもまだ自然が残っていた小曽根村長島での体験からでしたし、後に『シートン動物記』をマンガ化したり、『カムイ伝』での自然な動物描写の原体験もここにあるようです。</span>

 

以降、東京と関西を行ったり来たりしていた岡本一家は、12歳の時(当時中学1年。戦中の1944年)、長野・別所温泉近くの八木沢に縁故疎開。その年暮れに山に囲まれた一軒屋の借家を見つけ引っ越した先が長村(現・上田市真田町)でした。三平はこの真田村で農業と自然に依拠した古い生き方を体感しています。三平は学校の友人と一緒に、父が手に入れてきた『キノコ図鑑』を持って、村人にならって山にわけ入りキノコを識別、採集、保存方法を学んだのでした(『甲賀武芸帳』に始まる三平の後にまでつづくキノコへの愛着はこの時から)。

野山を飛び交う小動物たちもまた、白土漫画に常々描かれます。それは自然の過酷さと人間社会のメタファーでもあったようです。学校では軍事訓練に報国隊の勤労動員(食料増産や軍需工場)、家では山仕事に力仕事。掘り起こした松の根は、厳冬を乗り切る燃料に。山菜採りにイワナの手づかみ漁は、人間の「狩猟採集本能」を甦えらせるほどです。

 

 

 

「自然のなかで飢えを切り抜けながら大人になるという通過儀礼」、これこそ三平少年が自然に溢れた真田村で体験でした。ただ東京からのただ一人の転校生であったここと、父親が政治的「アカ」であることを教師や軍事教練を教える軍人にさとられては危険だということで、かなり孤立感があったようです。ところが学校にいた軍人の一人が、威張り散らすばかりの教師と異なり、運命に対する清冽な覚悟をもったその姿が、三平少年を魅了するのです。白土三平ペンネームの「白土」とは、なんとその軍人の名前「白土牛之助」に因んだのでした。


そしてこの真田村(長村)とは、戦国武将の「真田幸村」とその側近の忍者たちをめぐる歴史的物語に満ちた土地。一家の家からそれほど遠くない山の中腹に真田信綱を祀る信綱神社があっただけでなく、三平が通学していた中学校(現・松代高校/移転前の場所。明治維新の先駆者佐久間象山や日本初の新劇女優松井須磨子富岡製糸場での日々を綴った『富岡日記』の著者和田英は、松代高校出身者。松代町松代藩真田十万石の城下町)は、いにしえには真田幸村城址でした。豊臣方につき逆境の運命を生きることになった真田一族の記憶は村のいたるところにあったそうです。

三平は友だちの雑貨屋にあった「赤本」や「立川文庫」を読んで、真田一族や忍者の物語に親しんでいます。後に白土三平が、『真田剣流』や猿飛佐助ら真田十勇士の物語を描く原体験が、この地にありました。当時、真田村から千曲川を越え、塩田あたりの農村には、おそらく『カムイ伝』に描き込まれることになった、江戸時代からほとんど姿を変えていない集落がまだ多く残っていたのでした。