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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ジェームズ・ダイソン(2):「ランニング」「絵画」と「木工」が得意に


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周りには「歯が立たないことにあえて挑む頑固で意地っ張りな子供」と映っていたダイソン少年は、一方でかなりの無精で(後に好奇心の塊になるダイソンであっても小さな頃はかなり無精な性格だった)、友達もうまくつくれず陰気になるばかりで、成績はずっと低空飛行でした。

そんなダイソン少年のエピソードといえば、音楽好きではなかったにもかかわらず学校の朝礼で学校のオーケストラに欠員があることを聴き、演奏の難しさも知らないまま全く知らない楽器バスーンに挑戦しようと行動したことでした(ロイヤル・フェスティバル・ホールで演奏する夢が一時ふくらむ)。

 

小学校時代のもう一つのエピソードは、長距離レースでのまさかの優勝でした(成長が遅かったがこの頃、体格が一気によくなった)。優勝が契機になり、ノーフォーク砂丘を走り込みはじめます(有名な陸上選手ハーブ・エリオットに関する本を数冊読み、鍛錬に最もよいのが砂丘を走ることと知ったため。なんと日々朝食前9キロ、午後は学校のラグビー、夜10時からも9キロ走っていた程。そのため授業中いつも居眠り)。

 

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「ランニングって素晴らしいものだ。互いに依存しあうチームスポーツじゃないから、自分にとって結果は一つしかない。他人より速く走るか走らないか、それだけ。勝負では、結果がすべてだ。僕はいかに何かを行ない、目に見える結果を出すかをレースから学んだ。

その意味では、後日、自分の絵が誤った主観的基準で曖昧にしか評価されない美術の世界から、良し悪しが単純に決まる技術の世界に移ったとき、とてもよく似た経験をしたと思う。…

ランニングはいろんな形で、青春時代を通じて最も重要な教訓を僕にあたえてくれた。競争力を維持する身体的、心理的な強さにはじまり、粘り強さ、不安の克服法も学んだ。いつか後ろから追いつかれるんじゃないかという不安を募らせ、先頭に立つためになおさら厳しい鍛錬に励んだ(『逆風野郎! ダイソン成功物語』ジェイムズ・ダイソン著 日経BP社 2004年刊 p.37)
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また9歳の時、人生で初めての賞を「絵画」でもらいます(いつも走っていた砂丘を油絵で描いたもの)。その時の副賞がトランジスタラジオだったこともあり「成功」の旨味を初めて知ったといいます。

ところが、その成功がもたらしたものは義務感(以降4年間、学校の美術教師が率先して指導)で絵を描きくことが嫌に。この躓(つまず)きが少年時代の反抗期と重なり、それが他の面にまで影響し、再び13歳まで無精で不活発になり成績も悪いままに(議論や質問することもなく何事も興味をもてなかった)。

15歳の時、気持ちが上向きになり再度「美術」に向かいます。キャンバスに茶系の絵の具を塗りたくり引っ掻き、意識的に独自のスタイルを生みだす意欲があらわれた絵で、再び賞を獲得しはじめるのです。

 

この頃、後に学校で教わって唯一役に立ったことと語る「木工」に出会っています。この「木工」は、ダイソン少年の重要な”根幹”となっていきますが、古典の風土をもつダイソン家では、当時「木工」は教育のない人が粗末な小屋でするものという認識しかなく、自分もそう思い込まされていたようです(ギリシアのポリスの頃から西欧の底流を流れる意識として、自分の手でモノをつくれないことを自慢する一般的風潮があった)</span>。「木工」だけでなく自動車やテレビの「仕組み」にも興味をもってはいけない空気があったといいます。

 

 

そんな家庭環境のなか、ダイソン少年が「モノづくり」の世界の面白さを決定的に開眼させられることになったのは友達の家でした。友達の家はケント州にあり、毎年二週間ほどその友達の家に滞在していたといいます。

「友達の家」で何が行なわれていたのか。そこは印刷工房でもあったのですが、手先が器用な友達の父が自宅裏の作業場でガソリンエンジンや小型の蒸気エンジンをつくり、ボートから小型エンジン付きの飛行機、列車までもつくっていました。

 

その光景は後にダイソンがデュアルサイクロンを開発をした時の自宅の仕事場そのものだったようです。ダイソン少年は見よう見まねで試行錯誤して旋盤の使い方を覚えはじめ、不器用だと思っていた自分自身の新たな可能性を感じ取りだし、家で投光照明システムなどを製作。

が、ことごとく失敗に終わったといいます(自分や友達を感電させるだけだった)。結局熱意が半月続いた後、機械部品が散乱するだけでした(しかし重要な体験の積み重ねだった)。

 

 

とにかく人文系の家に生まれ落ちた少年が、世界を驚かす「エンジニア」で「発明家」になるにはさらに複合的な”根っ子”、思わぬ体験が幾つも積み重ねらなくてはなりませんでした(最も父が9歳で亡くなったため人文の引力は一気に小さくなったが、ある意味方向舵を失ったことにもなる)。

人生とはこれほどまでに迷宮であり、闇であり、「光」はあまりにも遠くにしかないことがダイソンの例からもよくわかります。そして恐らく多くの方にとってもそれは真実ではないでしょうか。ダイソン少年は”根っ子”がもがれた様に彷徨いだすのです。


<span class="deco" style="font-weight:bold;font-size:medium;">十代半ば、体力がついたダイソン少年は一時期水泳選手を夢見ますが、学校競技で大失敗。行き先を失ったエネルギーは今度は「演劇」へ。シェイクスピアモリエールシェリダンなどで役を演じだすのです<span class="deco" style="font-size:small;">(前述した様に父も熱心なアマチュア俳優で演劇好きだったことを思い出されたい)</span>。</span>

 

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「…いまの僕があるのは、結局は演劇があったからだ。…演劇は僕の意固地な性格にまさにぴったりだったね。…演技に決まりはない。誰かに教えを乞うこともできない。自分なりの演じ方を見つけなきゃならないんだ。

…やがて、その後のすべてにおけるように、演劇が思ったより手ごわいことに気づいた。でも、僕の創造に対する幼い衝動が最も強烈に刺激されたのは、舞台美術だった」(『逆風野郎! ダイソン成功物語』 p.44〜45)。
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