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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ジャック・ケルアック(2):慕っていた4歳年上の兄の死と家族の困難


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町のコミュニティーも、ケルアック家の日常語はフランス語だった


ローウェルの町では、フレンチ・カナディアン(フランス系カナダ人)は、植民した18世紀からこのかたニューイングランドの支配者たちから疎まれていたといいます。その結果、フレンチ・カナディアンは、自分たちをあたかも”ゲットー”のように内に組織化し(カトリック教徒だった)、先祖伝来の言語や文化、宗教を死守しようと、英語を日常言語とする町の隣人たちとは深く交わらないできました。

 

 

実際、ケルアック家の日常言語も「フランス語」で(実際には父レオはある程度、英語を話すことができたが、母は一切喋れなかった)、ケルアックが英語を難なく使いこなせるようになったのは、ハイスクールの最終学年から大学初年度の頃でした。


当時フランス人コミュニティーで成り立っていたローウェルの町では、ジュアール(joual)と呼ばれるカナダ系フランス語が日常語とされ、英語はほとんど日常会話にもちいられることはありませんでした(ジュアールは相当の方言化しはじめていたようで、後にケルアックがカナダのケベック州モントリオールやパリに旅した折り、ジュアールの話し言葉ではしっかり通じなかったといいます)。

こうした言語環境も、「Love, Work, and Suffer」をモットーとするケルアック家の人々が(ジャック自身も含め)先祖たちの「物語」を強く”意識”しないではいられなかった要因の一つだったはずです。


ケルアックの母ガブリエルの祖母(Gabrielle L'Evesque)もまた半分インディアンの血が入っていました。L'Evesqueというフランス系の男と結婚し、インディアンのように(そしてジャックのように)頬骨が少し高い黒髪の子供をもうけています。

ガブリエルもまたカトリック教徒のフレンチ・カナディアンでフランス語が日常語で、ローウェルの少し北に位置するニューハンプシャー州ナシュア(Nashua)の町で育っています(生まれはカナダのケベック)。

 

 

ナシュアはジャックの祖父で大工だったジャン・バティスト・ケルアック(Jean-Baptiste Kerouac)が辿りつき、自らの腕ひとつで家を建て暮らした町でした。

ナシュアの製粉工場で働いたのち酒場のオーナーとなっていた父が38歳で亡くなったため<(母は早くに亡くなっていた)、ガブリエルは14歳の時から孤児になっていました。レオ・ケルアックと出会った時は、靴屋で働いていたといいます。靴工場で皮はぎ女工だった時もあったようです。


父レオは、ライター兼活字打ちとして地元のフランス語新聞社で働いていた


ジャック・ケルアックの父レオ・ケルアックは、保守的な労働者で、短気で、喧嘩早く、大酒飲みで(ジャック・ケルアックも後にアルコール依存症になる)、印刷所を家業にしていて、川の氾濫で印刷所を亡くしてから(1936年)、社会への不満を増大させ、社会の枠から飛び出すことを夢見るようになり、競馬場のパドックの常連だった、と紹介されています(イヴ・ビュアン著『ケルアック』ガリマール新評伝シリーズ 祥伝社)。

 

 

ところがレオ・ケルアックの青年時代をみると、ずいぶんイメージが変わってくるのです。伝記『Jack Kerouac - a Biography』の著者マイケル・ディットマンによれば、父レオ・ケルアックは学生時代、レオの父ジャン・バティスト(ジャックの父方の祖父)の勧めで、ニューヨークのロードアイランドにある私立学校に通い、ライター(物書き)とプリンター(印刷工)の腕と技術を磨いています。ハンサムだったので女性にすごくもてた(a ladies' man)ようです。

卒業するとレオは、ローウェルに戻りフランス語新聞社「L'Etoile」で、レポーター兼活字打ち(typesetter)として働きだしています(「マインド・ツリー」的に興味深いことに、ジャック・ケルアックも若い時期、ほんの数ヶ月だけでしたが、地元のローカル紙「the Lowell Sun」でスポーツ記者として働いている)。


ところが「L'Etoile」から冷たく扱われるようになり同社を去り、ダウンタウンの運河沿いにあるコロニアル調の旧いビルの空き部屋を借り、自ら小さな印刷会社「Spotlight Print」を立ち上げるのです。「Spotlight Print」という社名にも、つねにスポットライトがあたっていないと気がすまない性格の一端があらわれているようです。

 

 

この「Spotlight Print」で、レオ・ケルアックがはじめたのは、地元の劇場とバーレクス・ハウスの演目のプログラムやポスターや貼り紙の製作と印刷だけでなく、「Spotlight」というエンターテインメント紙の企画・編集・製作でした。ジャック・ケルアックの父レオ・ケルアックは、単なる小さな町の印刷工でもなければ、喧嘩早く大酒飲みで、競馬好きの根っからのギャンブラー体質だけで片付けられる人物ではなかったようです。


しかしかなり変わり者だったことだけは確かなようで、本業以外にも、ソーシャルクラブを主宰したり、スポーツクラブをつくる計画も立てたり、運転もできないのに新車のビュイックを購入したりしています(元レスラーで従業員だった者に家族で旅行する際にドライバーに用立てていた。ジャック・ケルアック自身も小説には描くものの30代半ばまで車の運転方法は、父と同様に学んだことがなく、亡くなるまで運転免許証は持っていなかった)。

 

しかし、そうした企てはことごとくうまくいかなかったようです。さらには市議会選挙に出ようとしたり(悪評が不利と諭され断念)、競馬場のパドックで顔を見せない日はなかったようです(アメリカ中の競馬場を渡り歩き、勝ち馬を当てて生計を立てるぞ、と言い張った。後に、ジャックも盟友ニール・キャサディともに競馬熱に取り憑かれることに)。

 

 

慕っていた4歳年上の兄の死と家族の困難


ケルアック家の長男ジェラール(ジャックより4歳年上。他に姉キャロリーヌがいる)は、赤ん坊の頃に連鎖球菌に感染し、ブイヨー病(激しい痛みを伴うリウマチの一種、心不全や呼吸不全をもたらす)に罹っていました。

この時期、まだ「Spotlight Print」を経営していた父レオは、家族の困難をうまく乗り越えることができず、浮気に走ったりしたため(ガブリエルは夫レオは同性愛者じゃないかと疑っていた)、ケルアック夫妻はつねにひと突きあれば崩壊するような関係がつづいていたといいます。

聡明だった長男ジェラールは元気な時は小学校にも通学でき、絵も得意で弟ジャックに絵を教え(ジャック・ケラワックは生涯、絵を描きつづけている)、そんな兄をジャックは幼い頃から偶像視していたといいます(後に作品『ジェラールの幻想』となる。またケルアックがつねに尊敬できる男性を無意識の内にも求めていたのは、憧れだった亡くなった兄の存在を無視することはできない)。


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ジャック4歳の時、兄ジェラール(小学校2年生の時)、亡くなります。4歳の時のことでしたが、兄の死はジャックの生涯に大きな影響を与えることになります(夜になると恐怖に襲われ、暗闇を恐れるようになったジャックは兄の写真の前で祈り助けを求めた)。

また愛情を注いでいた母への衝撃も大きく、ジェラールの死後、母は再び靴屋で働くようになっています。その一方、父レオの方はボクシング・ジムを開いています。面倒をみていたボクサーがダメとなると、その男を今度はプロレスラーに仕立てあげてるのでした。結局ボクシング・ジムは破産、レオは再び印刷工の職を探したりしています。

父レオの絶えざる変わった行動は、ある種ゲットーのようなローウェルのコミュニティーを超え出るものを探す”旅”でもあったようです。

ジャック・ケルアック(3)に続く: