桑田佳祐(1):「ロックの子」の記憶へ
最初の記憶は「誕生時の記憶」。父は茅ヶ崎駅前の映画館「大黒館」の支配人だったが、映画の斜陽化でバーを経営し実業家に。スウィング・ジャズとマンボと「歌謡曲」が大好きな父。桑田家は茅ヶ崎では最も早く洋楽LPをステレオで聴ける家。「歌でつながっていた家族」だった。
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今回はサザンオールスターズの桑田佳祐を取りあげます。桑田佳祐の伝記本? そんなのあったっけ? 皆さん想像される通り、桑田佳祐の伝記本はありません。が、サザンオールスターズ・ファン、桑田佳祐ファンにはよく知られている名インタビュー本(遡るざっと25年前、1982年から84年に『宝島』や「ホットドッグプレス』などに掲載されたインタビューを纏めた本)『ロックの子』(講談社 1985年/講談社文庫 1987年初版;インタビュー・構成 萩原健太)と『素敵な夢を叶えましょう』(桑田佳祐著 角川書店 1999年刊)、それに英語通訳者でもありサザンの楽曲の補作詞であり、2008年に再発したガンで亡くなった姉・岩本えり子の著書『エリーー茅ヶ崎の海が好き』(岩本えり子著 講談社 2008年刊)が、貴重な資料と情報を伝えてくれます。
桑田佳祐、と言えば誰しもがサザンビーチのある茅ヶ崎や湘南の真夏の海をイメージするのではないでしょうか。ところが不思議なことに、桑田佳祐本人は「夏」が大嫌いなのです(ちなみに桑田佳祐の誕生日は1956年2月26日の冬の終わり頃)。サーファー族や海水浴客が集い賑わう光景や浜辺は好きではないというのです。少年時代も浜辺で愉しむ人たちをどこか”ひがんで”見ていたと語っています(つい最近の桑田佳祐がパーソナリティをしているラジオ番組「桑田佳祐のやさしい夜遊び」でも少年時代から変わらない相変わらずの”ひがみ根性”や気性についてしばしばもらしている。また秋は鎌倉の極楽寺近くの橋の上にいると落ち着ける場であることや、生地の茅ヶ崎よりも鎌倉や滋賀の郡上八幡など古都の景色や空気がことのほか好きだと告白している)。
桑田佳祐は、なんと自身の誕生する時のことを記憶しているといいます。『華氏451』や『たんぽぽのお酒』で知られる作家レイ・ブラッドベリもまた「生まれる時の闇から光のなかへ出る時のおののき」の記憶を語っていますが、桑田佳祐もまた「母親の胎内から出る時にトンネルの先に光が見えていたのを覚えている、間違いなくその時の記憶である」と語っています。桑田佳祐は、人生最初の記憶が、自身の誕生しようとする時の記憶であり、まさに「誕生時記憶」の持ち主だったのです。最もこの誕生時記憶と中学時代のビートルズの全曲記憶と直接的な因果関係があるわけではありませんが、佳祐少年は不思議な「記憶」能力を発揮していたことが、『ロックの子』であきらかにされています。
さて、桑田佳祐の生家は皆さんの記憶とイメージの通り、湘南の茅ヶ崎です。ところが桑田家はどんな家庭だったのか、父親はどんな職業に就いていたのかは意外と知られていないのではないでしょうか。桑田佳祐本人、ちょくちょく「うちは水商売だったから」と語っているので、あの独特な声音はお酒のせいかとおもわれるかも知れません(10代後半から20代前半、自分の声をつくるために枕に顔をつけ大声を出して何度もつぶしている。酒も決して強くはないが毎日のように飲んでいた)。
実際、父親は佳祐が小学校低学年の頃から茅ヶ崎駅近くでバーを経営しはじめています。しかもなかなかの実業家で、平塚に割烹の店やライブハウス、横浜や小田原にも進出しレストランを興していきます。また海岸沿いに建つかつての茅ヶ崎の名所で、白亜の巨大なパシフィックホテル茅ヶ崎(通称:「パーク」)にビリヤードと麻雀の店までも出していました(父はパシフィックホテル茅ヶ崎の共同経営者のひとり映画スター上原謙と親しかった)。
なぜ父は映画スター上原謙と親しかったのか。それはバーを経営しはじめる前まで、父は茅ヶ崎駅南口(現在のサザン通り方面へ200メートル程行った所)にあった映画館「大黒館」の支配人だったからでした(当映画館の支配人であると同時に日活の社員でもあった。といっても父自身もベニヤ板を用いた看板書きもしていた時代だったが)。
当時の映画スターたちと親しく交わっていたこともあってか、父はおしゃれで新し物好きで、音楽も「イン・ザ・ムード」などで知られ”スウィング・ジャズの王様”グレン・ミラーの楽団や、明るく強烈なリズムで人気を博した”マンボの王様”ペレス・プラード楽団(キューバ生まれ。メキシコや米国で大活躍、1949年発表の「エル・マンボ」や1950年の「マンボNo.5」や「マンボNo.8」は世界的なブームに。佳祐4、5歳の時である)を好んで聴いていました。
佳祐が誕生する頃には、桑田家には沢山の洋楽のLPだけでなく、ステレオやオープンリール・デッキも揃っていて、洋楽LPをステレオで聴ける家としては、茅ヶ崎でも相当早い方だったといいます(父によればクルマも茅ヶ崎では最も早く手に入れたという)。母の胎内にいた佳祐も、きっと陽気なスウィングに体をくねらせ、誕生後、物心つく頃にも、飛び跳ねたくなるようなマンボのサウンドにかこまれていたのです。
映画館「大黒館」は佳祐少年にどれほどの影響を与えたのでしょう。桑田佳祐は、36歳の時、映画「稲村ジェーン」(1990年公開)で初監督をしていますが、どうやら映画は「音楽」ほどには佳祐少年に決定的な影響は与えなかったようです。なぜなのか。小さな頃には佳祐は、映画館入口のモギリのお姉さんに挨拶すれば支配人の息子ということで入れてくれたので、小学校から帰宅すると友達とよく映画館にもぐり込んだりしてはいました(怪獣映画から洋画、ピンク映画なんでもありの映画館だった)。ところが当時映画はすでにTVにおされ斜陽化しはじめていて、「大黒館」の椅子もかなり傷みがすすみ、便所も臭く、床は冷たく薄ら寒く、佳祐少年は10分もいれば我慢できなくなって外に出てしまったようです。
家に帰れば、父はパーコレーターでコーヒーを煎れ、洒落たリヴィングに置かれたテレビで「アイ・ラブ・ルーシー」を見ていましたし、周りから「ミス茅ヶ崎」と言われるほどモダンでワンピースが似合う美人だった母が洋食を食べていました。桑田家は茅ヶ崎のモダンな洋風化の波の先頭をきっている様な存在だったのです。後に米国人と結婚しカリフォルニア州(しかも海の美しいカーメル)に住むようになる姉えり子は、ビートルズの絶対的影響があるものの、洋風化した桑田家の生育環境の影響がかなりはたらいていたにちがいありません。
桑田家が中海岸に移り住んだとき隣家に越してきた米軍基地勤務のアメリカ人弁護士一家と、姉はフレンドリーな交流を持つようになります(姉はテレビで見ていたアメリカ人の家庭への憧れが強かった)。一方、弟の佳祐は、逆に和風の芸風がある祖母の影響や、「シャボン玉ホリデー」など日本の芸能・音楽テレビ番組などの影響が思いのほか色濃くでるようになり、姉の様には洋風一辺倒でなくなっていくのです(また後に姉が茅ヶ崎の海を守る市民活動のリーダー役になる一方、佳祐は茅ヶ崎よりむしろ鎌倉に傾倒していく。アルバム「KAMAKURA」はその結実の一つ。映画「稲村ジェーン」も茅ヶ崎でなく鎌倉市の稲村ケ崎が舞台。
ちなみに北野武の3作目の映画「あの夏、一番静かな海」は、映画「稲村ジェーン」の翌年に公開されたが、その製作は桑田佳祐の「稲村ジェーン」に対する北野武のコメントから端を発したものだったといわれている。武のコメントに桑田も敏感に反論した結果、北野武が返歌として「稲村ジェーン」とは真逆に、あえてほとんどサイレントな映画を生みだす。北野武は主人公とその彼女に耳の聞こえない聾唖者をたて「稲村ジェーン」から音抜きし、宙返りさせてみせた)。
*上掲のYoutube-映画「稲村ジェーン」の冒頭、部屋の一隅にモノクロームのビートルズの写真が映し出される。最初の曲は「マンボ」。スウィング・ジャズとともに父が大好きだった音楽だった。米国製のサーフボードをいつも”コンプレックスをかかえたまま”、高額な値段で買わされるばかりなら、いっそサーフボードを切断し内部を知ってしまえば、後は自分たちで(日本製)のサーフボードを安くつくりだしてしまおう、というのが冒頭の導入部だった。海外の「音楽」を解体し「ディテール」を知り尽くし、自分なりのストーリーとロマンとサウンドで、自分たちに響く「音楽」をつくりだしていった桑田。それはその時代に生まれ、洋楽の影響を決定的に受けた自分の「宿命」だった、と『ロックの子』のなかで語っていた。こうした自分の立ち位置、そして「宿命」という<言葉>を、まだ一般的にコミックバンドと言われていた20代半ばの頃にすでに持っていた桑田。
それからおよそ10年後に監督した映画「稲村ジェーン」に、その認識は継がれているだけでなく、アルバム「ミュージック・マン」のグラフィックや、ビートルズの曲のタイトルが反映されている名曲「ミスター・ムーンライト-月光の聖者たち」にすらその意識は深化し、桑田佳祐自身の存在そのものへと化している。それが「ミュージック・マン」というアルバムタイトルとなった認識的背景の一つであり、三島由紀夫の様に切腹することなど思いつくことすらなくなった/しかし何処かに言霊の様に面影だけはある今日に生きる日本人になってしまったことをシンボリックにあらわしているといえはしまいか。
その意味で、北野武の「あの夏、一番静かな海」ではサーフボードが切断されることは絶対にないことになる。その代わりに「自死」したかのように存在を消していったが(武はバイクでほとんど「自死」しようとした)。北野武が黒澤明をこの上なくリスペクトし黒澤も武を可愛がった理由がここにある。真逆に桑田佳祐は、サーフボードを切断し、技術と方法を盗んだ。それはまさに戦後日本が戦勝国米国を脅かすがごとき模倣力と緻密な技術力で復活したことと同相である。その現実を、そして自身の育った環境を、音楽家として立とうと決意した20代の桑田佳祐は「宿命」と悟り、自身の生み出した「音楽」に注ぎ込んだといえよう。
茅ヶ崎には桑田佳祐が幼少時から青年期にかけて住んだ家は3カ所あります(茅ヶ崎の北口にあった父の祖父母が暮らす家があり、姉えり子が幼い頃に預けられ住んでいた)。生家は現在の雄三通り(加山雄三にちなむ)を南方に500メートル程の所でしたが、佳祐が2歳の頃、一家は祖父母と共に暮らすため、現在のサザン通り沿い中海岸近くに借家します(現在のサザンビーチまでわずか300メートル程。波打ち際まで歩いてほんの数分、かつては広い砂丘が広がっていた。大家さんは網元や海の家を営んでいた)。
その2年後、嫁姑問題から祖父母は平塚へ引っ越し。父が斜陽化しつづける映画館の仕事を辞めバーを経営しだしたのはこの頃のこと(生活費や事業費で生活はかつかつで、母はバーで「ママ」として働いた。当初はお手伝いさんがいたが、えり子が小学校高学年になると、御飯の支度や掃除や洗濯、夜寝るまでの佳祐の世話はすべて姉えり子がするようになる)。そして小学高学年の時、現在のサザンビーチから西方に500メートル程にいったとこと、南湖通りを越え現在の国道134線のすぐ北側のなだらかな砂の丘に桑田家は洒落たリヴィングとダイニングキッチンがある「和洋折衷の家」を購入するのです(以前は誰かの別荘だった物件。当時は海岸近くは別荘はかなりあったが民家は数える程)。
さて、佳祐少年への「音楽」への影響ですが、よく知られているように「ビートルズ」(メンバーのなかではとくにジョン・レノン)がまず筆頭にきます。小学校2年生の時のことでした。えっ? 小学校2年の時? そんなに早くに、さすが桑田佳祐、天才か、と思われるかもしれませんが、じつは「ビートルズ」の虜になって聴いていたのは姉えり子で、まだ小さく音楽の何も分からない佳祐に、ビートルズのサウンドの「感動を分かち合う相手」として”一方的”に聴かせていたのでした。名曲「いとしのエリー」で歌われたその人とも言われている「姉・えり子」さんの存在が、どれほど桑田佳祐の成長にとって意味深いものだったのか、さらに姉弟の関係に分け入ってみましょう。
桑田自身、「ビートルズを通して姉を知った」といっています。よくあるように家族の中の誰かが聴いていた音楽を聴いて影響を受けることは、どの家庭でも起こりうることでしょう(1960年代当時ならビートルズやボブ・ディランなどの洋楽好みの家庭なら、桑田家の姉と弟の影響関係は日本国中いっけんどこの家庭でもおこりうることのようにおもえる)。ところが現実的には桑田家の姉・弟の様な音楽的影響関係には独特なものがありました。それは「影響」というより、ある独特の「状態」というか「環境」となって生み出されるものだったのです。
姉と弟の「ある独特の『状態』、『環境』」とは何だったのか。それは歌が大好きだった姉が小学生の低中学年の頃、学校から帰宅するとまだ幼い佳祐に学校で習った唱歌を教えたり一緒に歌わせたりしていた「歌でつながっていた関係」ともいえるものです。この「歌でつながっていた関係」が、姉の衝撃的「ビートルズ体験」の前にすでにあったことが弟・佳祐に圧倒的な影響を与えることになるのです。くわえれば、LPやSPを集めだしビートルズのすべてを知りたくなったえり子が、父のステレオでLPやSPをかけっぱなしにできた「環境」が日常(家の中)にあったことでした。
▶(2)に続く
参考書籍:『ロックの子』(講談社 1985年/講談社文庫 1987年初版;インタビュー・構成 萩原健太)/『素敵な夢を叶えましょう』(桑田佳祐著 角川書店 1999年刊)/『エリーー茅ヶ崎の海が好き』(岩本えり子著 講談社 2008年刊)
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