ロバート・メイプルソープ(1):アクセサリー好きだった男の子
エンジニアだった父の趣味は「写真」と「射的」。カトリック教会で培われた世界観と「ものの配置」。アクセサリー好きだった男の子
はじめに:メイプルソープ理解の鍵は、間違いなく幼少期にある
ブラック・アンド・ホワイトの気韻漂うポートレイト写真、彫刻的な花の写真、セルフ・ポートレイト、そしてメールヌード、ハードゲイのSM写真で知られるロバート・メイプルソープ。エイズが世界を席巻していた1989年に42歳で(エイズを発症した3年後)に死去しています。
メイプルソープは「物事をできるかぎり真実に近い状態で、美しくみせようとした」ために、従来の芸術観の保存者や税金で運営されている美術館と真正面からぶつかることになっていったことはよく知られるところです。そのはじまりは、レンブラントやモネ、ルノアールを収蔵する歴史ある米国のコーコラン・ギャラリーでの展覧会開催にまつわるものでした。
メイプルソープは、「現代の人間存在がはらむ”狂気”を表現するには、<写真>は完璧な手段とおもえた」と語り、また「悪魔のために成せ」とも語っています。そして「僕の人生は1969年に始まった。それ以前は存在すらしていない」(1969年はメイプルソープ23歳の時)という言葉をそのまま受け取るように、ほとんどのメイプルソープに関する記述や関心事は、その前後、つまりせいぜいがパティ・スミスと出会った1967年あたりからはじまっています。
実際アートスクール時代(プラット・インスティテュート)、パティ・スミスとの同棲、チェルシー・ホテルでの出来事やセクシャリティのこと、メトロポリタン美術館のキュレーターやパトロン達、アート・ディーラーのサム・ワグスタッフとの公私にわたる二人三脚やメールヌード、ハードゲイの世界とそれだけでも興味にことかきません。
しかし、メイプルソープの「心の樹」は、1969年を遡って、確実に幼少期へと繋がっていきます。初期作品の混乱した聖母像ですら、キュビズム時代のピカソに影響されつつも、すでに中学生の頃から描いていました。そして「写真/カメラ」すらも、プラット・スクール時代に試行錯誤している中、ポラロイドカメラで自身や性の探求をドキュメントしはじめる遥か前のこと、少年期に「ブローニー」カメラをクリスマス・プレゼントに買ってもらって友人と暗室にこもって現像していた体験の記憶がまったく消えてしまっていたとはおもえません。つまりそうした体験や記憶は、1969年という「鏡」の向こう側に行ってしまっただけで、それ以降は「鏡(あるいはカメラレンズ)」に映しだされる「自己のイメージ」や「自己のセクシャリティ」の探求に向った、ということなのです。”樹根”の様に、地面の下の世界は見えないだけなのです。
それではメイプルソープが言うところの”存在すらしていない”時期の少年メイプルソープを一緒にみてみましょう。「メイプルソープ家」の人たち、エンジニアだった父、神経質だったけれども子だくさんだった母の姿がそこにはありました。
エンジニアだった父の趣味は、「写真」と「射的」だった
ロバート・メイプルソープ(Robert Mapplethorpe)は、1946年11月4日にニューヨーク州クイーンズに生まれています。メイプルソープが少年時代の大半を過ごしたクイーンズのフローラル・パークは、メイプルソープ家に4人目の子供が生まれ(ロバートは次男)た時に、手狭になったため引っ越した場所で、誕生したのはマンハッタン島から東へ約20キロ、ジャマイカ・アヴェニューの沿いの、元はアフリカ系アメリカ人のコミュニティがあったことで知られるホリス(Hollis)という地区でした。フローラル・パークはジャマイカ・アヴェニューを東へ3キロ程のところにある新興住宅地で、大戦後すぐに戦争の復員兵がすぐに住めるように急ごしらえされ外観がそっくりに建てられていました。同じフローラル・パークでも近くにあるロング・アイランドにあるそれとは雲泥の差で、公衆衛生面や治安面、排水溝の不備などで住民から不満続出する地区でした。それでも父ハリー・メイプルソープは、どんな苦情があろうといったん家を購入したかぎり生活環境を維持するため、その支払いに追われるように、毎日往復3時間弱かけてマンハッタンにある会社に勤務するのでした。
もともとメイプルソープ一家はイングランドからの移民で、ロバートの祖父は、エンジニアのハリーと異なり、中堅銀行ナショナル・シティ・バンクに生涯勤め上げた人物でした(重役になった)。移民だったがゆえに地に足をつけた仕事観がなにより優先され、コインと切手蒐集が週末の小さな趣味でした。
祖父の真面目さと几帳面さは、息子のハリーに受け継がれていきます。ただ趣味は多趣味だったようで、わけても「写真」と「射的」が一番の趣味だったといいます。父メイプルソープの趣味など、パトリシア・モリズローの著した有名な伝記本『メイプルソープ : MAPPLETHORPE A BIOGRAPHY』(田中樹里訳/新潮社 2001刊)を読まれた方でも覚えてはいらっしゃらないかもしれません。「写真」と言っても、ハリー・メイプルソープの場合、暗室に入ってデータをチェックしてどんな仕上がりになるか、ひとりで現像することを楽しむタイプで(写真好きでも実際様々なタイプの人たちがいる。ストリート・フォトグラファーのゲイリー・ウィノグランドのようにストリートでシャッターを押す瞬間にすべてをかけ、現像印刷は他人任せという人もいる)、つまり技術的アプローチによる「写真」の楽しみ方をしていたようです。技術者(エンジニア)として化学、光学、工学が集積された「カメラ」や「現像」は、試してみる価値のあるものだったのです。
「カメラ」はその初期において、「写真銃」(エティエンヌ=ジュール・マレーの発明)と呼称されることすらあったり、被写体を「shoot(撃つ)」「take(獲得する)」するという言葉をもちいるように、またそのメカニズムにおいて「写真」と「射的」は”類縁”のものがありました。時代背景もさることながら、エンジニアだったがゆえの関心から趣味に通じていったのかもしれません。
ハリー・メイプルソープは、16歳の時、あるパーティーでジョーン・マキシーと懇意になります。ジョーンは同じ地区に住んでいて、メイプルソープ家と同様、少し前の移民者でした。両親はアイルランド系とイングランド系で、カトリック教徒でした。2人ともほっそりした体つきやウェーブがかった茶色の髪がそっくりで兄妹のようだったといいます。
またジョーン・マキシーの父はベル電話ラボラトリーズのエンジニアだったことが、若いハリー・メイプルソープの将来にいくらか影響を与えたかもしれません。ハリーは、ブルックリンにあるプラット・インスティテュート(Pratt Institute スクールのモットーは、「Be True To Your Work, And Your Work Will Be True To You」)のエンジニア・スクールに入学し、エンジニアの道にすすんでいます。
このプラット・インスティテュートは、後にハリーの息子ロバートも入学するスクールになります。無論、同じコースではありませんでしたが(現在は、アート、デザインから作家養成、建築、サイエンスなどアカデミックでクリエイティブなプログラムで知られる)。
当時プラット・インスティテュートは、経済構造が大転換した19世紀後半、大学に行かない若者の手に職と技術をつける職能学校でした(創立者のチャールズ・プラットは大工の息子で、後に鯨油ークジラから摂れる油ー製品を扱う会社に入り、灯油精製会社を設立。ロックフェラーのスタンダード・オイルに取り込まれる)。
カトリックの教会で培われた世界観と「ものの配置」
ロバートは幼少時、すぐに大声で泣きだす子だったため、母ジョーンは長男の時より手をかけ愛情を注ぎこんでいたようです。ロバートはその愛情に悪戯で返すのでした。厳格なカトリック教徒だった母は、ロバートが地元の小学校に通うようになると、キリスト教教育を受けさせようと、毎週水曜日に小学校の図工の授業の時間を割いて、特別に教会でキリスト教の教義(教理教育)を受けさせています。
その教会内に披瀝された「摩訶不思議」な宗教的世界は、ロバートの「心の樹」にまるで「魔法」を吹きかけることになります。少年ロバートは教会で、「バルチモア・カテキズム[教理問答]」の教えを受け、天国・辺土・煉獄・地獄の死後世界の序列をインプットされています(暗記させられている)。神の前で許される罪と許されない罪のこと、告解による魂の救済を学ぶかたわら、少年ロバートは教会内陣の祭壇飾りや宗教画(祭壇画)、宗教彫刻、そしてそれらの「配置」に興味が惹かれ、自然と意識が向うのに気づいたといいます。
「バルチモア・カテキズム[教理問答](Baltimore Catechism)とは;
名前こそおどろおどろしいが、19世紀後半から1960年代における米国のカトリック・スクールで用いられたスタンダードなテキスト。カトリックを基盤にした教育システム時代のもの。Baltimoreとは、メリーランド州にあるボルチモア市のこと。ボルチモア市で19世紀前半に、カトリック司教たちが集まり、Baltimore Catechismとして教理が纏められ記された。映画監督ジョン・ウォーターズ出身の町で、映画『ピンク・フラミンゴ』や『I Love Pecker』などでボルチモア市民を皮肉っている。
後に写真家になってから、撮影時にものを配置する時に思い出してはヒントにしていたのが、教会内陣の光景であり、「ものの配置」だったといいます。たとえば必ず左右対称に物を置くのは、間違いなく教会内陣の祭壇飾りや宗教画などの「ものの配置」からの影響だと自ら語っています。
「左右対称性」が、少年ロバートの感性に、カオスに陥らないための秩序と調和をもたらしたのです。他の生徒たちが学校で図工の授業を受けている間、少年ロバートはひとりだけ祭壇から「ものの配置」の妙と不思議を学んでいたのでした。
コニー・アイランドの「見世物小屋」への強烈な興味
少年時代、ロバートの全世界は、家と学校と教会のあるフローラル・パークと、年に一度のコニー・アイランドの遊園地だけでした。遊園地には祖母(父の母)が連れて行ってくれました。遊園地でロバートが一番気になったのは、遥か彼方につづく青い海原でも波打ち際の砂浜でもなく、また子供たちなら誰でもが乗ってみたくなる観覧車やジェットコースターではなく、なぜか「見世物小屋」でした。薄暗い小屋の中には猿少女や刺青男、蛇使い、小人たちがいて、ロバートはいつも中に入りたがったのですが、祖母は許してくれません。
少年ロバートの、その<隠され>、<秘められ>たもの(その象徴として)に対する強烈な反応は、すでにこの頃からその芽があったようです。「見世物小屋」という<ブラックボックス>の中に存在するフリークスたちを覗き込むことは、ロバートの「心の樹」の根元の奥にひろがる、湿った薄暗い世界に通じるものがあったかもしれません。
ダイアン・アーバス(1923年生まれ。メイプルソープよりも23歳年上にあたる)も同じくコニー・アイランドで「見世物小屋」でフリークスたちを見て、自己投影していますが、それは大人になって写真をやりだして以降のことで、メイプルソープ家と違って五番街のブルジョア家庭に育ったダイアンが、幼少期にコニー・アイランドの「見世物小屋」に連れて行かれることはありませんでした(ただ、7、8歳のころ路上にいた浮浪者のことが気にかかりしばしば自ら声をかけとがめられている。その頃、家族とも心理的に離反しはじめ心の中の沈黙と闇が大きくなっていた)。
「見世物小屋」のフリークスたちは、教会とは別種のもの一つの「聖」なる存在として、「教会」とともに、幼少期のロバートの最も鮮明な「記憶の場所」だったのです(伝記『メイプルソープ』)。
「アクセサリー・キット」で母にイヤリングをプレゼント。鉛筆画を描きだす
ロバートは幼少期、女の子のような遊び方を好んだといいます。クリスマスにアクセサリーをつくるキットをねだったことがあり、イヤリングをつくって母にプレゼントしています。後に、ロバートはこの「アクセサリー・キット」で遊んでるうちに、自分の手で何かをつくりだす「魔法」のような感覚に気づいたと回想しています。
その「魔法」のような感覚は、今度は紙の上に鉛筆をはしらせることでも味わうことになります。それは小学校6年生の頃のことでした。ロバートは紙に花の香りをかいでいる天使のような女の子の絵を描いてクラスメイトの女の子にプレゼントしています。周りはスポーツに明け暮れている男の子ばかりだったので、繊細な鉛筆画を描くロバートは、クラスメイトや近所の子供たちからもどんどん孤立していきました。皆は運動ができハンサムで女の子に人気のある兄リチャードと比べ、ロバートは全然男らしくないと感じるようになったのです。
運動が大の苦手だったロバートでしたが、スポーツ好きの父を喜ばせようと地域の野球チームに入ります。が、案の定、投げるのも打つのもからっきしできなかっただけでなく、チームにうまくとけ込むこともできませんでした。父はそんなロバートと一度もキャッチボールをすることはありませんでした。
それでもロバートは父の関心をつなぎとめようと、得意だった竹馬のように1本棒に乗って遊ぶポーゴーをして地域で優勝していますが、ポーゴーをどれだけ飛ぼうが父の関心を引くことはできませんでした。またロバートと同年代の近所の男の子も、同年のロバートではなくスポーツが得意な兄リチャードと遊ぶようになります。ロバートの居所、遊び場所はどんどんせばめられていったのです。メイプルソープはこの頃は、人生最悪時期の一つだったと後に語っています。
(2)に続く