伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

「人生は即興だ!」に秘められた少年期の引っ越し人生。無口でクラスのはみだし者、「想像の世界」に楽しみを見いだすように


クリント・イーストウッド—ハリウッド最後の伝説



80歳を超えても、毎年のように心に響く映画を撮りつづける映画人イーストウッドは、ベースボールでいえば3000本安打以上(1930年生まれの81歳ということで8000本!)、浮き沈みはありつつもまるでイチローの領域に長い間いつづけているような存在です。毎日のランニングとジャズや、自宅のジムでのバッハを聴きながらワークアウト(エクササイズマシン)にフルーツ・スムージーがその驚異的体力を生成しているようですです(父は体格がよくアメフトとトラック競技、水泳が得意で、狩りや釣りも好むアウトドア派だったといい、頑丈な身体の基礎は父から受け継いでいるようだ)
イーストウッドは、人生はジャズの様に「即興」だという。また「適応しろ! 臨機応変に行け!」という自身が製作した映画のなかにあるセリフも好んでいます。10カ月で1本ペースで映画を監督しつづけていたことがあるといえ、それは長年の気心の知れたスタッフがいるからのようで、基本は人生は「即興」だといいます(自身、生前のチャーリー・パーカーの演奏に出会い打ちのめされている。後にチャーリー・パーカーの伝記映画『バード』を監督し高い評価を得た)

『人生は「即興」だ! 適応しろ! 臨機応変に行け!』というこの言葉。「即興」だ、はある程度分かるにしても「適応しろ、臨機応変に行け」はどこからイーストウッドの人生に入り込んできたかというと、イーストウッドの伝記本からみえてきます。
イーストウッドが誕生した1930年といえば、世界大恐慌のまだ最中。株や債権を売る仕事ではもはや食べていけず、父はなんとか空いていたガソリンスタンドの仕事についても、少しでも給料がいい証券会社があれば仕事に就いていたので、イーストウッド家の4人(姉がいた)は、サンフランシスコからオークランド、ロス、サクラメント(時には車の中)とカリフォルニア中を風の様に移り住んでいたといいます。そのため学校や移り住んだ場所に、始終、自分を周りに合わせていかなくてはならなかった、とイーストウッドは語っています。学校では左利きを無理矢理直されたり、友達ともすぐ別れがきてどんどん内向的になり、図体だけは大きく無口でクラスでははみだし者でしかなく、じょじょに「想像の世界」の方が楽しくなります(後の映画へのトレーニングになっていた)。おかげでパイロットやプロサーファーや外科医などあらゆる仕事に就いた空想をしたといいます。基本的にはひとりでいるのが好きなのも、その頃のことが影響しているだろう、とイーストウッド。また学校の授業のすすみ具合や校則も異なっていたため、イーストウッド少年はつねに「なにかに追いつこうとしている」感じがあり、その後もずっとその感じは自身の一部になったといいます。
14歳の時、父に中古のピックアップ・シボレーを買ってもらい、女の子への興味から車第一になります。緊急時用の仮免許でしたが伸張がすでに190センチもあったおかげで一度もポリスのやっかいになったことはなかったといいます。家はその頃もずっと苦しい経済状況で、イーストウッド少年は車に乗って親友と遊ぶ以外、その車で新聞配達や食品雑貨を配達してまわったといいます。他人を頼りにするなという父の教えが木霊していたにちがいありません。
バスケとジャズに夢中になり学校の成績もみるみる下降、工業高校に転校。その後、溶鉱炉の夜勤とボーイング社で仕事、朝鮮戦争で心ならず徴兵され思わぬ仕事をまかされそれが映画への導き手に。若者向けのPR目的で入隊していた映画スターたち相手の水泳指導員と兵士に見せる訓練映画の映写係の任務をあてがわれています。 『人生は「即興」だ! 適応しろ! 臨機応変に行け!』が、ここでもまた発揮されたのです。このプールの現場が映画人と映画との出会いになるのです。引っ越しばかりのイーストウッドにとって、すでに心の奥深くで身についていた「即興」が遺憾なく発揮される場となるのです。
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クリント・イーストウッド伝説
クリント・イーストウッド—アメリカ映画史を再生する男