岡本太郎(1):「異形の家」に生まれ落ちる
「漫画」に革命をもたらした人気漫画家の父・一平と、子供をまったくかまわない母かの子。弟と妹は2歳で死去。「天才教育」もなにもなく、「世間的愛情」が欠けた岡本家には子供の居場所はなかった。「不登校児」となって小学校を何度も変わり、「太陽」だけが唯一の話し相手、「太陽は身内だ」と言う孤独な少年だった。
「漫画」に革命をもたらした人気漫画家の父・一平と、子供をまったくかまわない母かの子。弟と妹は2歳で死去。「天才教育」もなにもなく、「世間的愛情」が欠けた岡本家には子供の居場所はなかった。「不登校児」となって小学校を何度も変わり、「太陽」だけが唯一の話し相手、「太陽は身内だ」と言う孤独な少年だった。
「『自分探し』なんて言葉が流行っているけれど、おかしな言葉ね。今ある自分以外の自分なんて、どこにもないのに。自分が生きづらいことを、親がこうだったから、ああだったからと、親のせいにする人も多いでしょう。子どもの時に受けたトラウマがどうだ、とか言って。なんて甘ったれているんだろう、と言いたい。太郎さんが聞いたら、きっと怒り出すでしょうね」(『岡本太郎ー岡本敏子が語るはじめての太郎伝記』岡本敏子/聞き手・篠藤ゆり アートン)
大阪万博の「テーマ館」シンボル「太陽の塔」や、縄文土器や沖縄・東北のプリミティブな美術に光をあて、「芸術は爆発だ!」「なんだ、これは!」「芸術は呪術だ!」などの熱いメッセージでも記憶される芸術家・岡本太郎については、1996年(84歳)没後10年前後からの再評価も相俟ってさまざまに再露出しましたが、岡本太郎という人間に迫りうる最も理にかなったベストな方法は、岡本太郎の「幼少期」、つまり岡本太郎という人間の”根っこ”をまず知ること、と感じた方もおられることとおもいます。
岡本太郎は、シンボル「太陽の塔」の内部に、全長45メートルもの高さの「生命の樹」をつくりだしています。これは生命を奏でるエネルギーの象徴でもありましたが、それはまさに”根源の世界”から発したものであり、岡本太郎が自らの裡に強烈に感じとっていた「生命の樹」だったにちがいありません。
またそれだけでなく、岡本太郎にとって「太陽」は、小学校1年生の時にはすでに、最も「身内」な話し相手のような存在になっていたのです(石原慎太郎の『太陽の季節』に描かれた障子を破る場面から、岡本太郎が「太陽」をイメージにもってきたという話しがあるが、どうやら岡本太郎は「太陽」に関して、かなり根源的なイメージをずっと抱いていたようだ。後述するように、それは小学校1年生の時にまで遡る。太郎少年はその1年「不登校児」になっていた)。
岡本太郎の強靭な生命力、表現欲から産み落とされたものはあまりにも大きく、人間力もパワフルだっただけに、そうした少年時代のことはとかく見過ごされがちといってもいいでしょう。また流行漫画家の父一平と、女流作家岡本かの子に関する話だけでも興味尽きないものがあります。素の、裸の岡本太郎、太郎少年とはどんな人間だったのか。「生命の樹」ならぬ「心の樹(マインド・ツリー)」のアプローチで、迫ってみようとおもいます。
岡本太郎は、1911年(明治44年)2月26日、流行漫画家の父・一平と、後に女流作家で歌人の母・かの子(本名:大貫カノ;新体詩や和歌を「明星」や「スバル」に「大貫可能子」の名前で発表)。生誕の地は、川崎市高津の本宅ではなく大地主・大貫家の寮(別宅)があった南青山でした(現・岡本太郎記念館がある場所)。
岡本太郎ファンの方には、漫画家の父一平と作家の母かの子のこと、かなり風変わりな一家に生まれ育ったことはよく知られていることとおもいますが(後述するように意外と知られていない面もかなりあるが)、とくに父方の祖父(一平の父)の岡本竹次郎の存在あらずして一平も太郎もなかったといえます。
一平が北海道函館で生まれたのも、雑書編集や原稿書きをしていた岡本竹次郎が函館師範学校に採用され教鞭をとりだし(竹次郎の夢は、儒者として仕えていた藩の再興だった)、書家・岡本可亭としても知られる存在でした(「山本山」など日本橋の大店の看板の多くは祖父の字だった。あの北大路魯山人が岡本竹次郎に師事し書を学んでいるほどです。
じつは一平は当初、漫画家になろうとしていたわけでなく画家や小説家をめざしていました。7歳の時、狩野派の絵を学んでいる)。実際に日本画家武内桂舟に師事し藤島武二の絵画研究所で学び、東京美術学校に入学しています。ゴッホに影響を受けた絵画も描いているほどです。しかし由緒ある家の再興にはおぼつかず帝国劇場で舞台芸術の仕事に就いていても、漫画その頃に朝日新聞社に紹介されます。漫画家ではなく、漫画記者としてでした。紹介者はあの夏目漱石でした(漱石は一平の漫画の技量を評価していた)。
一平はクローズアップや鳥瞰法といった当時最新の映画の手法を漫画表現に導入、絵巻物の様にまだ横へ時間軸が動いていた漫画を、初めて上から下へと移動して見るようにしたのは一平だったといいます。一平は漫画に「革命」をもたらしていたのです。また「肖像漫画」は、一平の絵の才能と漫画が結びついたものでした。
かつては幕府御用商で大和屋と号する大地主で、「家霊」が濃密に漂うような空気に包まれ、大貫家には不幸が何度も訪れます。不慮の死や自殺者も出、谷崎潤一郎と学友で、文学を教えられた一番仲がよかった次兄も急逝。かの子も内気な性格で、あだ名は「蛙(かわず)」。
跡見女学院で進歩的な教育を学んで<近代的自我>を備えた女だといわれても、魔性を帯び、童女にもみえたというかの子(それが一平を虜にした。かの子は後に「家霊」という短篇を書いている)。
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最も実際には、恵まれた環境の中、かの子は小さな頃から週に一度は芝居に連れて行かれ、琴を習い、短歌を詠んでいます。かの子が一平と知り合ったのは19歳の時、東京美術学校(現・東京藝大)での信州への避暑の際でした。
そんな両親が暮らす家庭環境ゆえ、岡本太郎が一流の画家になったのはさもありなんと思われるかもしれませんが、それは一面の話しにしかすぎないようです。太郎に言わせれば、「生まれついての生命力で勝手に育ってきた感じがする」というのです。太郎が生まれ落ちたのは「異形の家」とも言われる家でした。「
異形の家」のはじまりはだったかといえば、父はとにかく子供には無関心、母も育児や家事にはまったく疎く苦手で、だから太郎は幼い頃から放りっぱなしの状態、「母親としては稀代の不器用で母らしからぬ母だった」といいます(太郎の言葉)。
ただし母かの子のイメージは後の芸術にも恋にも激しく一途な女性のイメージとはずいぶん異なるものがあります。父が仕事でいない時は(朝日新聞社に勤務の頃)、近所付き合いもなく訪れる人も稀なため、太郎は母と2人きり世間と隔絶されたような淋しい毎日だったというのです。
黒髪を束ねていず、幻影のように青白く、時々号泣する痩せていた母を見て、近所の悪ガキが太郎に「お前んチのかあさんはユーレイだ」と言い、そのことが酷く辛かったという太郎。
そんな母が情熱を向けていた短歌・文学に、太郎が小学校にあがる前に打ち込みだすのです。机を前にはりついて何か書きものをしつづける母に、かまってくれないと太郎が騒ぐと、母は帯で太郎を柱にしばりつけ、いくら泣きわめこうがほおっておいたのでした。
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