田中一光(1):奈良の生家の周りは、年季のはいった「看板」がずらり
今回は「昭和・日本」を代表するグラフィック・デザイナー田中一光の『自伝ーわれらデザインの時代』(白水社)をとりあげます。
田中一光は、1930年(昭和5年)生まれ、青年時代にはまだ「グラフィック・デザイン」のみならず、「デザイナー」という言葉も職業も日本ではほとんど存在していませんでした(「図案」や「意匠」「工芸」が主流。この状況は、今日でいえばインターネットがまだなかった時代に生まれた者が、「ウェブ・デザイナー」になるようなイメージといっていいかもしれません)。
そんな田中一光がどのように「デザイン」と出会い、世界にも知られる「グラフィック・デザイナー」、そして「アート・ディレクター」となったのか。興味深いことに、田中一光は、青年時に「デザイナー」や「グラフィック・デザイナー」をまったくめざしていたわけでなく、一時期将来の方向性を見失い、実家の家業(蒲鉾製造業)を継いだ方がいいのではないかと多くの若者たちと同様に思い悩んでいます。
ただその時期(京都市立美術専門学校時代)に、課外活動として「演劇」にのめり込んでいたことが、紆余曲折をへながらも田中一光の将来の仕事につながっていくのです。田中一光にとって「グラフィック・デザイン」と「アート・ディレクション」は、まさに”天性”の仕事のようにすらみえます。
それは世界のデザイナーたちをも魅了することになる田中一光の「グラフィック・デザイン」がどのように生み出されるようになったのか、その契機や背景と無関係ではありません。
田中一光のケースからみえてくるのは、優れた「グラフィック・デザイン」や「アート・ディレクション」は、それが少年時代の「夢」である必要性はかならずしもないということです(今日、「夢」でなく「夢の編集」こそが重要である。「グラフィック・デザイン」の領域においても同様であろう)。
なぜならばそうしたクリエィティブな作業は、さまざまな興味や関心事、感動と熱狂がたくさんつまっている記憶と体験と感性から”樹液”が流れでるように生み出され、それが想像力をつうじて「現実空間」と混じり会い創造的に「現実化」されるからです。授業で習っただけで優れた「デザイン」や「グラフィック・デザイン」、ましてや「アート・ディレクション」がたちどころに創作されるわけではないのですから。
それでは『自伝ーわれらデザインの時代』を資料にしながらみてみましょう。念のため田中一光はどんな仕事に携わってきたか主なプロジェクトを記しておきます。
オリンピック東京大会の施設シンボルと参加メダルのデザインの共作(34歳。前年に田中一光デザイン室設立)。大阪万博の政府館1号館の展示設計。札幌オリンピックの招待状デザインとメダルのデザイン、沖縄海洋博「海洋文化館」の展示設計、英国ヴィクトリア&アルバート美術館の「ジャパン・スタイル展」の企画と展示設計。つくば科学万博のシンボルマーク制作(1981年)、なら・シルクロード博のアートディレクション(1988年)、ベニス・ビエンナーレ日本館のグラフィックデザイン(1995年)。西武グループの系列のアートディレクション(1970年代〜80年代:渋谷西武劇場、西武美術館、西武百貨店、西友ストアーから無印良品。『流行通信』のロゴ制作)。モリサワの「文字のカレンダー」、「日本のポスター・ベスト百展」企画、茶美会企画、英文の書籍『KYOTO』や『日本の文様・花鳥風月』全4巻、雑誌『太陽』ロゴ制作、別冊太陽「琳派」共同編集、モリサワ「光朝体」制作、土門拳写真集『文楽』ブックデザイン、『年鑑日本のグラフィック・デザイン』企画・編集。有楽町西武アート・フォーラム「イサム・ノグチ展」ポスター制作。銀座セゾン劇場アートディレクション及び演劇ポスター制作他。西武流通グループ(後のセゾングループ)のクリエイティブ・ディレクター(CD)に。国際デザイン会議「イロハ・オブ・ジャパン」企画・編集ほか。
個展も「田中一光デザインのクロスロード展」(1987年 西武美術館)や「田中一光デザイン展」(1988年 奈良国立美術館)だけでなく、パリやミラノ、ベルリン、サンパウロなど海外の美術館でも個展が開催されてきました。
田中一光のコンテンポラリーなヴジュアル表現は、「西欧の先端的なモダニズム・デザインと<日本の伝統にルーツをもった意匠>を巧みにブレンドして生みだされたもの」と認識され評価されたのです。
この<日本の伝統にルーツをもった意匠>とは、じつは田中一光の”根っ子”にー感性の源に、あるものでした。
田中一光が生まれたのは、奈良駅から猿沢池に向う西方、開花天皇御陵近くの東町。生家は母方の祖母の代から「魚万」という蒲鉾の製造業を営んでいました。
生家の隣近所には奈良で最も大きな和菓子店の弁天餅や奈良最大の布団店、造り酒屋や味噌・醤油の製造販売店もあり、通りには年季の入った「看板」があちこちにあり、幼い頃から母にその「看板」を指差して読み方や意味をたずねていたといいます。
また近所のお寺は一光少年たちの格好の遊び場で、近くの興福寺の三重の塔や北円堂には当時まだ囲いもなく雑草が生い茂り自由に入って遊びまわれました(早春の東大寺二月堂のお水取りや春日大社の御祭、薪能などは日常的に接触していた)。
知恵の仏である文殊菩薩座像が安置されている興福寺には、習字を習っていた一光少年たちが書いた「字」も毎春「もんじゅさん(東金堂)」に奉納されるのでした。最も幼い頃の記憶の一つが、「文字」に関することだったことはとても重要だといえます。
さて小学校に入ると、一光少年は周りの男の子とかなり変わっていることが誰の目にもあきらかになりだします。
それは一光少年の「少女趣味」でした。近所の少年たちが軍艦陸奥やゼロ戦を描いているなか、一光少年だけは少女雑誌に出ていた「すみれの花咲くころ」や「花詩集」(中原淳一)の挿絵ばかり描き、小説も佐藤紅緑や吉屋信子の少女小説が好みでした。
歌手の「物真似」も一光少年の得意とするところでした。家にはまだ珍しい電蓄があり職人たちが歌謡曲や民謡を聞いていたのです。上手く真似ると向かいの弁天餅の職人さんから褒美に饅頭をもらえたといいます。
また小学3年生以降、一光少年は「映画狂」になりますが、映画でも他の少年たちとちがい軍国映画より松竹の恋愛・失恋映画が大好きだったのです(「愛染かつら」や小津安二郎の映画、高峰美枝子や田中絹代、水戸光子らの演技に魅了される。奈良にあった二軒の映画館が小学校のすぐ近くにあり、両親とも家業で忙しく小遣いを渡し子供は外で遊ばせていた)。
映画を観ないときは「似顔絵」を描くだけでなく、新作の映画をひとり思いえがき、監督を誰にしてどの役者とどの女優を組み合わせようと考え、キャッチフレーズをひねりだし新聞広告をつくってひとり遊びしたというのです。
「ともなく私の映画狂は尋常ではなかったが、映画を見ないときは似顔絵を描いてひとり遊びをした。例えば「父ありき」という映画があると、「妻ありき」という題を考え、新作の企画をする。今度はあの役者とこの役者との初の組み合わせでやったらと、監督を選び、俳優を並べ、新聞や雑誌の切り抜きをコラージュしたり似顔絵をつけ、キャッチフレーズを添え、新聞広告を作ってひとりで楽しんでいた」『自伝ーわれらデザインの時代』(p.13)
こんなひとり遊びをする少年はそうはいないのではないでしょうか。しかも後の「グラフィック・デザイナー」「アート・ディレクター」の田中一光を予感させるようなひとり遊びです。
けれども皆さんにも心当りがあるように、子供は皆それぞれ大人は決してやらない、また予想つかない意外で複雑なひとり遊びをしているはずです。
自身の子供時代を思い出してみて下さい(かなりの確率で今の自分を彷彿とさせることに夢中になっているはず)。
「伝記ステーション」で多くの偉人たちの「マインド・ツリー(「心の樹」)」を制作していると、どんな「一人遊び」をしていた子供だったのかが、予想以上に重要なことに気づかされるのです(後にクリエイティブな仕事に携わる者は、必ず少年・少女時代の体験や記憶、感性が無意識の土壌のなかに無尽の<球根>となって蓄積されている)。
一光少年の場合、さらに(幼少期から青年期にいたるまで永続的に)魅了されつづけたものがあったのです。「グラフィック・デザイン」とそれは、太い”根”でつながっていくのでした。
似顔絵や映画以上に一光少年を虜にしたものとは何だったのでしょう。
田中一光(2)に続く