森山大道 - 写真と出会う前 「小説」と「絵」
森山家は、江戸の幕府直轄地・石見銀山の領地の村(島根宅野)につながっている。両親とも大学出で、「小説」や「短歌」好き、家の本棚にあった多くの本。大道少年は根っからの「本」好きな少年となっていった。生命保険会社勤めの父と7校にもなった小中学校の転校先。大阪・岩宮武二写真スタジオでなく、すでに13歳の時、玩具のカメラで可愛がっていた「犬」を撮っていた大道少年
「ぼくは子供の頃から学校ぎらいで、とどのつまりは高校中退、系統立った教育は受けずじまいだった。では何をしていたかといえば、終日絵を描いているか本を読んでいるか、あとはひとり町なかをほっつき歩くばかりの子だった。とにかく本が好きで、種類を問わず手当たりしだいに読みふけった。中学の後期あたりには、掘辰雄、三島由紀夫、太宰治、川端康成などなどの、いわばお定まりの正統コースをたどりはじめていたが、一方で、貸本屋全盛の時代でもあり、乏しい小遣いをはたいて連日書店に出入りしては、本棚を片っぱしから読み漁った。……
高校に上がると、といってもお情けで入学した私立校であったが、登校してもほとんど授業には出ず、図書館に入りびたって本ばかり読んでいた。今度は一転外国文学に興味が移り、ドストエフスキー、トーマス・マン、ジュネ、リルケ、カフカ、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、フォークナーと、またも脈絡もない乱読だった。そして、それらの合間にはハヤカワミステリーでクロフツ、クリスティ、ハメットなどを読み、本に飽きれば大阪や京都の盛り場をうろついて、とどのつまりは中退だった」(『もうひとつの国へ』森山大道 p.262-63)
うん? これは開高建なのか、村松友視なのか、それとも奥泉光、立松和平? 吉行淳之介? と言われれば、あ、そうですか、という感じではないだろうか。しかしこの一文は、すっかり世界的写真家となって久しい森山大道の中学から高校にかけての(後)姿である。イカした写真集を何冊も見たり、すっかり虜にさせられる展覧会に足を運ぶまでになった大道ファンも、ひょっとして20年来の大道ファンすらも上の一文にはクエスチョン・マークを感じるかもしれません。なぜなら森山大道青年が大阪で著名な写真家岩宮武二の写真スタジオでアシスタントとしてなんとか採用され写真に出会う前に、フリーのデザイナーだったことは大道ファンの間では広く知られているため、森山大道写真(集)には、GRAPHICALな匂いが立ち籠めている、という一応のもっともらしき理由になっているようだし、森山大道自身、「徹底的に表面でありたい」と語る時、「グラフィック」とい言葉(写真はPhoto-graphicであるわけだが)が周りから投げかけられてきたし、また本人もあらゆるイメージを同一の平面上にイーブンにしてしまう写真を語る時、「写真はグラフィック」だと言い放っていたこともありました。同じ平面表現ならば、おれにだってできると若いデザイナーが写真に向う刺激の一つにすらなっていきます(今日のデジタル環境ではなおさらでしょうが)。
またものを書くことに対して困惑しながらも森山大道はかなりの量のエッセイを書き、『犬の記憶』(1984年)『写真との対話』(1985年)『写真から/写真へ』『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』などの著書になるなど、まだその名が広く轟く前の1980年代から、「アレ・ボレ・ボケ」写真の第一人者として結果的に写真の定式を壊していった凄まじいストリート・スナイパー(狩人)森山大道は、一方で自己と写真に対するその文筆力が噂されていました。また写真家岩宮武二をはじめ、その後の細江英公、東松照明、寺山修司、多木浩二、中平卓馬、荒木経惟、「カメラ毎日」編集長・山岸章二や「カメラアサヒ」編集長・西井一夫らとの出会い、ウィリアム・クラインの写真集『ニューヨーク』にアンディ・ウォーホルのシルクスクリーンに写真の衝撃。あと「路上」をうろつき彷徨い大量のシャッターを押し、時に「演歌」と大道ならではの「暗室」テクニックなどが加われば、写真家「森山大道」ができあがった、とイメージしていると、冒頭の一文に混乱をきたされるにちがいありません。
しかし「終日絵を描いているか本を読んでいるか、あとはひとり町なかをほっつき歩くばかりの子だった」という言葉、「終日写真を撮っているか本を読んでいるか、あとはひとり町なかをほっつき歩くばかり」と、「絵」→「写真」に置き換えただけで、その後の写真家「森山大道」そのものといっても過言ではなことを知った時、少なからぬ大道ファンは驚くはずです。ここに自分の写真を「極私的写真」だという時の背景がいっせいに立ち上がってくるのです(対して荒木経惟は自身の写真を「私写真」という。大道の言う「極私的」とはどういうことなのか。「路上」で撮っていてどうして「極私的」となるのか、「なるものか」と思う人もいるはずです)。
しかし「終日写真を撮っていて」「あとはひとり町なかをほっつき歩くばかり」は分かるにしても、「終日本を読んでいるか」とはちがうのではないかと思われるかもしれません。次の一文を見てください。40代後半の時、オーストリアで森山大道の展覧会が催され渡欧し、パリで憧れのウィリアム・クラインと会うことになった前後のパリでの様子です。
「…そんな状態で、街頭の散策とキャフェのはじご以外にいったいどうしてたのかといえば、カルチェ・ラタンの路地裏の、なぜか<リスボン>という名の安ホテルの、これまたなぜか三角形の小さな部屋でベッドに寝転んで本ばかり読んでいたのである。日本書専門店の<ジュンク>で、永井荷風、太宰治、谷崎潤一郎などの文庫本をまとめ買いし、毎晩明け近くまで読みふけった。一カ月以上にもなるヨーロッパ旅行で、少々日本の風土が恋しくなっていたのだろう。しかし、パリの裏町の安ホテルで読むそれら作家たちの文章は、なかなかのリアリティを持って旅の長い夜を忘れさせてくれた」(『写真から/写真へ』青弓社 森山大道著 p.218)
森山大道(本名:もりやま・ひろみち)が生まれたのは、1938年(昭和13年)、10月10日、大阪府池田町(現在の池田市)ですが、2歳の時、山陰・島根県宅野村(1954年から仁摩町に、現・大田市/出雲市に隣接、石見地方の一行政地域)へ。母子は祖父らと共に、父は単身赴任で大阪勤務。それがその後の「移動人生」のほんのとば口となります。一方、双子で生まれていた兄森山一道は数え2歳で夭折していて、その突然の不幸が「2歳の時の島根県宅野村の祖父のもとに預けられた」背景にあるのではとおもわれます。弟大道も病弱だったようです。
祖父は世界遺産の石見銀山の北方10キロ程にある宅野村の助役をしていました(写真といえば「銀塩」。「銀」については偶然とはいえ、宅野村は古代の石見国邇摩郡の地の内。つまり日本一の銀の産出地、江戸時代は幕府直轄地だった)。父は明治大学を卒業し住友生命保険(本店大阪)に入社。「路上」のスナイパー森山大道は、学のある村の重鎮の、しっかりした一族の男児でした。宅野村へ預けられたその年の冬、父の転勤があり今度は広島へ。広島の後は、千葉、浦和、福井、東京、豊中、京都と転々としたと記載されますが、実際には広島からすぐに再び宅野村へ預けられます。父は単身先からよく宅野村の方へ「本」を送ってくれ、大道少年は送られてくる「本」をいつもすごく楽しみにしていたといいます。宅野村には大道少年は文字が読めるまで暮らしていたことになります。
父は「本」を送り、大道少年も送られてくる「本」をいつもすごく楽しみにしていた。「本」は森山家になくてはならないものでした。両親とも「本」を読むのが大好きで、「新潮」「美術手帖」「暮らしの手帖」といった雑誌を定期購読し、短歌や俳句誌もかなり定期的に購入していたといいます。美しい母は大阪の人でなく、東京・日本橋の呉服屋の娘さんでした(父が東京で学生だった頃に知り合ったのだろう)。母もまた大学出(共立女子大)で、戦前に北海道・小樽や浦和の女学院で先生をしていた才女。優しい反面、叱る時は叱り飛ばすという激しさもあり、愚図だったという大道少年は幾度となく蹴りを入れられたというのです。一方で短歌を詠み小説をこよなく愛する情感に満ちた女性でした。とにかく「本」好きの両親の許で、育った大道少年。父の本棚にはいろんな文芸書がずらっと並んでいて、本を読めるようになると大道少年は本棚から適当なものを抜き出しては読んでいたといいます。手当たり次第に読んでみる、それが小さな頃からの森山大道の最初の習癖だったようです。
さらに森山ファンにとって幾らかビックリすることは、大阪生まれの森山大道にとって東京は、そして関東は、岩宮武二写真スタジオを辞め、紹介状を書いてもらってVIVOの仕事にありつこうと東京に出て来た(伝説の上京)のが最初だったわけではないことです。小学校を大道少年は4度転校し都合5校に通うことになるわけですが(中学は2校)、島根、千葉、浦和、福井、東京と小学校〜中学校を転校していっていますので、高校で関西に戻るまでの少年時代から中学にかけてなんと森山大道は、千葉、浦和、東京とかなりの間、関東に住んでいたことになるのです。森山大道のエッセイ集を少しつっこんで読めばそれは分かることですが(ただ氏も関東時代の少年の頃のことはほとんど語ることはない)。
しかも東京の中心地・日本橋は母の生まれた土地。浦和は母が女学院で先生をしていた土地です(記述はないがおそらくここでも母が先生をしていたのでは)。転校生ということもあり、学校では親しい友だちもできずひとりぼっちだった大道少年で、よくケンカをし泣かされて帰ることが多かったようです。時に町をほっつき歩いては東京や関東の苦い空気をたんまり吸っていたのでした。
この頃には、母譲りだと思われますが、自分の思ったことは絶対ゆずらない気質があらわれでます。外では捨て犬を拾ってきては可愛がったり、靴みがきのおじさんに話しかけて仲良くなることがあったといいます。そしてなんと意外に驚かされることは、大道少年が最初に「カメラ」を手にし(「スタート」なる玩具のカメラを買った)、初めて写真を撮ったのは、大阪ではなく、「東京」(異なる可能性もなくはないが、それが13歳の時だったことからやはり関東だった可能性は高い)だったのです。
その頃に、可愛いがっていた「犬」を撮ったり、なぜだか水道管を撮ったりしていたといいます。森山大道の写真を代表する1枚となる「三沢の野良犬」の遥か前に、大道少年は可愛いがっていた「犬」を撮っていたのです。写真集『犬の時間』やエッセイ集『犬の記憶』などがある程、森山大道と犬は切っても切り離せないものですが、その嚆矢は少年時代にあったといっても過言ではないかもしれません。
さて中学生になった大道少年、カメラにちょっとばかり興味を持ったものの、相変わらずどっぷり浸かっていたのは「読書」でした。戦後も数年たつと町中に貸本屋がぽつぽつできはじめ、大道少年は毎日のように入り浸っていたといいます。貸本屋には家の書棚にはなく、少しマセていた大道少年を惹き付けてやまない本が並んでいたのです。
▶(2)に続く-未
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