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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

アンドリュー・カーネギー(2):兎小屋から学んだはじめての「組織学」

「家庭を楽しい場所」にすることが、母の「家庭学」の第一歩だった。兎小屋から学んだはじめての「組織学」。叔父が教えたスコットランドの「歴史」と「詩・文学」。少年にとって「英雄」の存在とは。そして「朗吟」がカーネギー少年の「記憶力」を飛躍的に高めた

「よい先祖をもって私は非常に運がよかったが、私はまた故郷についても同様運がよかった。人間にとって生まれ故郷はたいへん重大で、環境と伝統は、子供に強い影響をあたえ、その子のうちにあるまだ表面にあらわれて来ない傾向を刺激するのである。イギリスの文豪ラスキンは、エジンバラ市の聡明な子はみな、城の勇姿によって感化されるといっている。
ダンファーリンの子は、気高い寺院によって影響されるが、これはスコットランドウェストミンスター寺院と呼ばれ、1070年にマルコム・キャンモアとマーガレット女王によって築かれたものであった。マーガレット女王はスコットランドの守護神なのである……」
(『カーネギー自伝』p.17 坂西志保訳 中公文庫 2002年初版)

The Autobiography of Andrew Carnegie and The Gospel of Wealth (Signet Classics)

アンドリュー・カーネギー(1)から:
ダンファーリンは18世紀以降、麻織物(テーブル・リネン産業)で知られ、アンドリュー・カーネギーの父ウィルソン・カーネギーもまた大規模な製造業者から糸をもらって仕事をする手織工でした(1階が作業場で息子たちは屋根裏で誕生)。父ウィルソンは長老教会の幼児に対する地獄の罰の教義への疑問と怒りから脱退するなど信仰心があつく毎朝祈りをかかさない人でしたが、職人として古いやり方をよしとし、織物産業に迫り来ていた「技術革命」の意味を理解しようとしなかったのです(結局、そのために苦境に陥り織物機械を売り払い、母の姉妹たちがいる新大陸ピッツバーグに行くことになる)

A.カーネギーには、2人の近親者の性格や気質が最も強くあらわれました。一人は父と同様手織工だった父方の祖父で、アンドリュー・カーネギーという名を継いだだけでなく、困った事に出会ってもこだわらず、楽天的でユーモアに満ちた明るい性格で、そして何事にも屈しない魂を受け継いだといいます。
もう一人は、母方の祖父トマス・モリソンで、雄弁な政治家で、革新政党の旗手として活動した人物で、身振りや表情、口の利き方などこの母方の祖父の「生き写し」とすらいわれました。

この祖父トマス・モリソンは、若い頃はなめし革業からはじめ、革商人として成功をおさめた後、大戦後(ウォータールーの大戦)家運が傾いた後に、「技術教育」の重要さに気づき、「頭の教育か手の教育か」と題するパンフレットを出版しています。またスコットランドの有力紙「レジェスター」に進歩的な意見を投稿し、主筆がその重要性を社説で取りあげ本にしています。この祖父トマスは、自身技術者ではなく環境の激変から「技術教育」をこそ重視した点で「技術教育」の先駆者の一人だったようです。

その約半世紀後に、アンドリュー・カーネギーが「カーネギー技術学校 Carnegie Technical Schools」(1900年)を設立することを知れば、A.カーネギーは母方の祖父の”直系”であり、まさに同じ土壌に根を張った人物だということがよく分かるとおもいます(今日のカーネギーメロン大学は、マサチューセツ工科大学やカリフォルニア工科大学と並びアメリカ有数の工科大学となっている)


祖父トマスはその後、政治家として革新政党の旗手として活躍しはじめます。政治的集会に関心を持つようになったA.カーネギー少年は、集会でいつも伯父や父が発言していた記憶があるといいます(その息子ベーリーも父のDNAを継ぐように革新的な政治家となり、条例で禁じられていた集会を開いた科で投獄されている。反君主制と反貴族政治で、進歩的で道義心が強く自由の大地、民主主義の国アメリカの賛美者だった。A.カーネギーの生地ダンファーリンはスコットランドでも最も進歩的な町の一つでありつづけた)

アンドリュー・カーネギーが、アメリカの他の新興成金や大富豪たちと決定的に異なるのは、幼少期の育ちと影響のせいだといわれています。A.カーネギー自身、次のように語っています。

「…(伯父の投獄の話の後)…君主制と貴族政治、あらゆる形の特権組織に対する非難、それと対照して共和制の偉大さ、アメリカの優越性……私はこのような刺激的な話題が戦わされているそのなかで育ってきたのであった。少年として私は、王侯貴族を暗殺するのは自分の義務で、そうすることこそ国家にとっての奉仕であり、したがって、英雄的な行為である、と考えるようになったのであった。

 このような幼時の最初の環境と生活に影響された結果として、私は長い間、どの種の特権階級にも、またなにか自分のしたことにより名声を獲得し、公共の尊敬を勝ちとった人でないなら、だれであっても、礼をつくし、丁寧に話すことができなかった。いまでもまだ単に毛並みがいいというだけであったら、私は侮蔑をもっている—『この人物はなにも内容がない。なにもせず、ただ偶然の機会によって、借り物の羽根を頭に飾って、威張って闊歩しているにせ物なのだ。
彼が自分のものといえるものはみな、たまたまよい境遇に生まれたということである。彼の家族の最も良い部分は、馬鈴薯と同じように、地下に眠っているのである』と、私は自分にいってきかせたのである……。このような考えは、私が他の人々から受け継いだもので、私は家庭で聞いたことを反映していたにすぎなかった」
(『カーネギー自伝』p.20)

手織物から蒸気織機の「技術革命」は、製品の値段を一気に下げ、織物業の町ダンファーリンの経済に大打撃を与えます。父ウィルソン・カーネギーは強固な職人魂を曲げず、一家は「貧乏」へと転げ落ちていきます(A.カーネギーは、この時「貧乏」というものがどんなものか肌で知ったという)
家計を切り詰めながら母は町の通りに小さな店を開き、なんとか一枚でも多く父の織物を売ろうとつとめます。家の状況を感じとっていたA.カーネギー少年は自ら学校を休学。自分から頼むまで学校に行かせないで欲しいと両親に告げます。母は校長に息子を説得してくれるように申し出ています(校長は他の子供たちと一緒にアンドリューを遠足に連れ出し、学校に行きたくなるような状況をつくりだした)

A.カーネギー、7歳の時のことでした。
カーネギー少年が学校へ行くようになっても別の問題がありました。登校する前に井戸から水運びをしていたので、順番待ちする口煩い主婦たちと悶着があったのです(前の晩から空カンなどを並べて順番を確保しなくてはならなかった)。しかしこうしたことも、A.カーネギー少年に「議論好きの傾向」を芽生えさせ、「闘争意識」そらも引き出す結果になったといいます。
また帰宅後は母の店の使い走りや勘定書も任されたので、小さな頃から小さな規模ながらも、A.カーネギーにとって「商業」は身近にあるものだったと語ります。

さらに重要なことをA.カーネギー少年は、「家庭」のなかで学んでいます。祖母から教養と威厳、優雅さを受け継いだ母マーガレットは、「家庭」こそ息子たちを正しい人生に向わせる最上の場であると考え、その影響を重視していました。実践の場所として、父に協力してもらい、隣近所の子供たちが集ってくるように鳩や兎小屋をこしらえたのです。「家庭を楽しい場所にする」、これこそ母なりの「家庭学」の第一歩だったのです。兎小屋といって馬鹿にしてはいけません。カーネギー少年は、実業界に必要な「組織力」を、この兎小屋から学んだといっています。あちこち探しまわってタンポポなど兎のエサを集めてくれた友達への「報酬」を、生まれた子兎に雇っていた者の名前をつけることとしたのです。後に考えれば良心が傷んだといいますが、それこそが後のA.カーネギーの「組織学」(あるいは組織力の最初の発芽となったわけです。こうした友達との遊びから蒸気機関よりも複雑な存在である「人間」について知ることにつながってのでした。

アンドリュー・カーネギー(3)に続く: