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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

アンドリュー・カーネギー(1):全米に1689ヶ所もある「カーネギー図書館」とは

アメリカの新興成金や大富豪のなかで、なぜA.カーネギーは特別の存在として子供たちにも語り継がれるのか。全米に1689もある「カーネギー図書館」とは。スコットランドでの幼少期、織物産業に迫り来る「技術革新」を理解しなかった父(急激な没落へ)。祖父は「技術教育」の重要性に気づき進歩的意見を新聞に投稿。

アンドリュー・カーネギーによって(資金援助も含む)全米各地に建てられた「図書館」。「Free to the people」をうたった「カーネギー図書館」の設立は、米国外にも広がり、1883〜1929年の間に2509を数えるまでになった。

アメリカの「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie 1835年11月25日〜1919年8月11日)の自伝は、子供のための「世界の伝記」(子供用には自伝を伝記に仕立て直したものとして)として、長く日本でも広く読み継がれているようです。

トーマス・エジソンキュリー夫人野口英世シュバイツァーガンジーらの名前とともに、アンドリュー・カーネギーの名前もよく取り上げられています。皆さんも子供の頃に読まれた記憶をお持ちかもしれません(大人になってからは読まれた方はむしろかなり少数派にちがいありません)
ところが、「カーネギー」という名は、大人になっても思わぬ時に耳に入ってきたりします。

音楽好きならばニューヨークの「カーネギー・ホール」、地球惑星科学や発生生物学、環境生態学、レーダ技術等などの萌芽的な科学研究を支援している「カーネギー財団(研究所)Carnegie Institution for Science」、そして数学者のジョン・ナッシュら13人ものノーベル賞を輩出している「カーネギー・メロン大学」といった名前などですカーネギー・メロン大学アンドリュー・カーネギーが誕生したピッツバーグに設立されたが、同地の出身者のアンディー・ウォーホルもこの大学の芸術学部の出身、主に広告芸術を学ぶ。

また計算機科学部が全米トップの大学で、Javaを生み出したジェームズ・ゴスリングもここの出身。ロボット工学や情報セキュリティ分野、ビジネススクールとしてもトップレベル。演劇・音楽・映像分野も強く、アカデミー賞トニー賞エミー賞受賞者を多く輩出。
ER緊急救命室」のミン・ナや「HEROES」のザカリー・クリントもこの大学の出身者。ハーバードやプリンストン、MIT、コロンビアといった名門大学とひけをとらないが一般的に日本では比較的馴染みが薄いかもしれない。神戸にカーネギー・メロン大学日本校が2005年設立された)。


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同大学(当時カーネギー工科大学)出身者のアンディ・ウォーホルの厖大なコレクションを収蔵・展示している「アンディ・ウォーホル美術館」や「カーネギー美術館」(1895年設立。アメリカで最初の現代美術をコレクションした美術館とされる)、世界屈指の恐竜の化石のコレクションを所有する「カーネギー自然史博物館」、またピッツバーグで最も来館者を集めているという「カーネギー科学センター」もまたカーネギーの資金によって設立されています。

さらには全米各都市にある「カーネギー図書館」の設立です。このブログ中の「チェールズ・ブコウスキー」や「レイ・ブラッドベリ」でも、ロサンジェスルの「カーネギー図書館」が登場します。2人とも少年・青年期にかけて本を買うお金がなく、カーネギー図書館に日参していたのです。

こうした「カーネギー図書館」は、全米に1689もあるといいます。カーネギーの寄付金で建てられたか、資金援助を受けた図書館は、米国外にも広がり、1883〜1929年の間に米国内の図書館も含め2509にものぼりました(米国以外にも660が英国とアイルランド、他にニュージーランドやオーストラリア、カナダ、セルビア、フィジーカリブ海域にある西インド諸島にも設立された。当時、婦人会Women's Clubsの活動と期を一にし、婦人会が本の蒐集と運営をおこなう。
米国の自治体のなんと75〜80%の図書館にカーネギーの資金が使われたという。人種隔離政策下の黒人用の図書館設立にも資金援助をしている)


アンドリュー・カーネギーの厖大な寄付活動は、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ」という信念からなされたものですが、よくよくみればじつはそのすべての施設は、単に貧しい者たちへの施しではないということがわかります。
大学や図書館や美術館、博物館、科学センターは、どんな人たちに利用されるのか。それは「努力をする者」を支援するための施設だということです。
「図書館」や「博物館」は利用しない者にとっては単なる大きな箱ものにしか過ぎません。しかし好奇心をもち「何か」を探求しはじめた瞬間から、それら建物は単なる建物ではなくなります。A.カーネギーは、なぜそうした寄付活動をするようになったのか。


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それは彼自身の生い立ちと半生からたちあらわれてくる活動だったのです。その生い立ちと半生から、19世紀半ばから20世紀初頭の歴史の大転換期、動乱期にあらゆる手練手管をもちいてアメリカ産業・金融界のドンとなり大富豪となった金融王のジョン・ピアモント・モルガンや石油王のジョン・D・ロックフェラー、鉄道王コーネリアス・ヴァンダービルトら「強盗貴族(ロバー・バロン)」とも呼ばれた他の新興成金とは立ち位置がまったく異なる存在となってのでした。

それではあらためてアンドリュー・カーネギーの半生を、とくにカーネギーの大樹を支える”根っ子”ー幼少期を中心にみてみましょう。
アメリカの「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギーは、アメリカではなく英国スコットランドに生まれ幼少期を過ごしています(13歳まで)。そしてこのスコットランド時代にA.カーネギーの”根本”と”根底”が形づくられるのです。

生まれた町は、「シャーロック・ホームズ」の生みの親コナン・ドイルや、『ジキル氏とハイド氏』『宝島』の著者R.スティーブンソン、経済学者アダム・スミスや発明家のグラハム・ベルを生んだスコットランドの首都エディンバラの対岸を超え25キロ程の所に位置する古都ダンファーリン(Dunfermline)に生まれています(後に、A.カーネギーはこの生地の町に第一号の図書館を寄贈している。現在、町にはセント・マーガレッツ・ミュージック・アンド・カーネギー・ホールやカーネギー公衆浴場もある)。

よい先祖をもって私は非常に運がよかったが、私はまた故郷についても同様運がよかった。人間にとって生まれ故郷はたいへん重大で、環境と伝統は、子供に強い影響をあたえ、その子のうちにあるまだ表面にあらわれて来ない傾向を刺激するのである。イギリスの文豪ラスキンは、エジンバラ市の聡明な子はみな、城の勇姿によって感化されるといっている。ダンファーリンの子は、気高い寺院によって影響されるが、これはスコットランドウェストミンスター寺院と呼ばれ、1070年にマルコム・キャンモアとマーガレット女王によって築かれたものであった。マーガレット女王はスコットランドの守護神なのである……」(『カーネギー自伝』p.17 坂西志保訳 中公文庫 2002年初版)


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ダンファーリンは18世紀以降、麻織物(テーブル・リネン産業)で知られ、アンドリュー・カーネギーの父ウィルソン・カーネギーもまた大規模な製造業者から糸をもらって仕事をする手織工でした(1階が作業場で息子たちは屋根裏で誕生)。父ウィルソンは長老教会の幼児に対する地獄の罰の教義への疑問と怒りから脱退するなど信仰心があつく毎朝祈りをかかさない人でしたが、職人として古いやり方をよしとし、織物産業に迫り来ていた「技術革命」の意味を理解しようとしなかったのです(結局、そのために苦境に陥り織物機械を売り払い、母の姉妹たちがいる新大陸ピッツバーグに行くことになる)

A.カーネギーには、2人の近親者の性格や気質が最も強くあらわれました。一人は父と同様手織工だった父方の祖父で、アンドリュー・カーネギーという名を継いだだけでなく、困った事に出会ってもこだわらず、楽天的でユーモアに満ちた明るい性格で、そして何事にも屈しない魂を受け継いだといいます。
もう一人は、母方の祖父トマス・モリソンで、雄弁な政治家で、革新政党の旗手として活動した人物で、身振りや表情、口の利き方などこの母方の祖父の「生き写し」とすらいわれました。

この祖父トマス・モリソンは、若い頃はなめし革業からはじめ、革商人として成功をおさめた後、大戦後(ウォータールーの大戦)家運が傾いた後に、「技術教育」の重要さに気づき、「頭の教育か手の教育か」と題するパンフレットを出版しています。

またスコットランドの有力紙「レジェスター」に進歩的な意見を投稿し、主筆がその重要性を社説で取りあげ本にしています。この祖父トマスは、自身技術者ではなく環境の激変から「技術教育」をこそ重視した点で「技術教育」の先駆者の一人だったようです。その約半世紀後に、アンドリュー・カーネギーが「カーネギー技術学校 Carnegie Technical Schools」(1900年)を設立することを知れば、A.カーネギーは母方の祖父の”直系”であり、まさに同じ土壌に根を張った人物だということがよく分かるとおもいます(今日のカーネギーメロン大学は、マサチューセツ工科大学やカリフォルニア工科大学と並びアメリカ有数の工科大学となっている)

祖父トマスはその後、政治家として革新政党の旗手として活躍しはじめます。政治的集会に関心を持つようになったA.カーネギー少年は、集会でいつも伯父や父が発言していた記憶があるといいます(その息子ベーリーも父のDNAを継ぐように革新的な政治家となり、条例で禁じられていた集会を開いた科で投獄されている。反君主制と反貴族政治で、進歩的で道義心が強く自由の大地、民主主義の国アメリカの賛美者だった。A.カーネギーの生地ダンファーリンはスコットランドでも最も進歩的な町の一つでありつづけた)


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アンドリュー・カーネギーが、アメリカの他の新興成金や大富豪たちと決定的に異なるのは、幼少期の育ちと影響のせいだといわれています。A.カーネギー自身、次のように語っています。

「…(伯父の投獄の話の後)…君主制と貴族政治、あらゆる形の特権組織に対する非難、それと対照して共和制の偉大さ、アメリカの優越性……私はこのような刺激的な話題が戦わされているそのなかで育ってきたのであった。少年として私は、王侯貴族を暗殺するのは自分の義務で、そうすることこそ国家にとっての奉仕であり、したがって、英雄的な行為である、と考えるようになったのであった。

 このような幼時の最初の環境と生活に影響された結果として、私は長い間、どの種の特権階級にも、またなにか自分のしたことにより名声を獲得し、公共の尊敬を勝ちとった人でないなら、だれであっても、礼をつくし、丁寧に話すことができなかった。いまでもまだ単に毛並みがいいというだけであったら、私は侮蔑をもっている—『この人物はなにも内容がない。
なにもせず、ただ偶然の機会によって、借り物の羽根を頭に飾って、威張って闊歩しているにせ物なのだ。彼が自分のものといえるものはみな、たまたまよい境遇に生まれたということである。彼の家族の最も良い部分は、馬鈴薯と同じように、地下に眠っているのである』と、私は自分にいってきかせたのである……。
このような考えは、私が他の人々から受け継いだもので、私は家庭で聞いたことを反映していたにすぎなかった」
(『カーネギー自伝』p.20)

アンドリュー・カーネギー2)に続く: