パウル・クレー(2): パウルから流れ出てくる「異常な力」
音楽への深まる愛と不安。母が全身不随の病に。疲れ知らずの「読書家」。父の反対を押しのけ、母はパウルをミュンヘンの画塾に送り出した。パウルから流れ出てくる「異常な力」とは
物事に没頭しだすと異常なほどに熱心に
3歳頃までの幼い頃、パウルは姉と同じようにスカートを履いていて、それがとてもお気に入りだったのに、ある時、自分が女の子ではなく、可愛らしい衣装を身につけることができないことを知って悲しんだといいます。パウルはかなり早いうちから美しい小さな少女たちの印象が強烈で、同じようにフリルのついた可愛らしい衣装を着れなくなっても、5歳までは女の子のように人形と遊ぶのが大好きでした。
3歳から5歳まで、パウルは女の子でないこの頃の記憶としては、自分が女の子ではないので、スカートの下に素敵な白いレースのついたズボンを履けないのを悲しみます。そのためなのか、大好きだった人形や物を窓から外に投げだすのが癖になってしまいます。
絵や人形遊びだけでなく、空想の羽根をのばしながらあれこれ「演技」するのも大好きだったのですが、演技中に時々、「ぷぅー!」という嘲笑するような声が聞こえてきて心をかき乱され我慢できなかったといいます。その声の主は父でした。
幼い頃からずっと、父を絶対的な存在で、「パパは何でもできるんだぞ」という父の言葉はそのまま真実として受け入れていたので、その思い込みは少しゆらいだりしたようです。
こうした繊細にして抵抗力のある気質は、父ではなく母から受け継いだもののようです。またこの年頃から物事に没頭しだすとその熱心さはふつうでなく、几帳面な程にずっと取り組んでいたといいます。たとえば部屋の隅にあったカルタ遊び用の小さな机に向って絵を描きだと、うずくまるようにしてずっと描いているように。母はパウルを少しでも庭に出して外気を吸うようにと考えよく部屋から追い立てたりしたといいます。
「童話」がよく読まれたクレー家。
叔父さんの所でユーモア雑誌をよく見る
クレー家では音楽だけでなく、「童話」もよく読まれたようです。パウルはそうした物語を暗記していて成長してからも物語ることができました。小学校にあがる前から、パウルは人形芝居が好きになっていて、とりわけ道化役がお気に入りでした。これもどうやら母方の人物からの影響だったようです。
母方の叔父エルンスト・フリック(フリック叔父さん。レストランを経営していて。パウルはスイスで一番のデブだと日記に記している)がパウルのためにと新聞のなかから劇場のチラシを切り取ってくれていて、パウルはそのチラシを集めていたという記述があるからです(『パウル・クレー』フェリックス・クレー著 みすず書房)。
人形芝居の観客は、姉とクレー家の女中と近所の子供たちでした。パウルはこのフリック叔父さんのレストランによく連れていかれたようで、そこで絵を描いたり、絵入りの週間ユーモア雑誌(ミュンヘンで発行されていたもの)をよくみていました。
また食卓のテーブルが「化石」の断面でできていて、そのグロテスクな迷宮のようなかたちを鉛筆でなぞっては紙に書きとっていました。それがパウル・クレーの「奇怪なもの好き」のきっかけで、9歳の時のことだったといいます。
フリック叔父さんは動物の鳴き真似が得意で小さな子供を騙したりしていますが、後にパウルも7歳の時、2、3歳年下の男の子たちに、お前たちは罪深い人生を送っていると責めて泣かせ、泣き出すと手の平を返して嘘だからといって慰めたといいます。
少年パウルは決して心穏やかで優しいばかりの少年ではありませんでした(『クレーの日記』は、後に他人に読まれることを意識し改竄されている部分があるという。
この日記は19歳の時から約20年間つけられ、40歳過ぎてから清書された時に「子供時代の思い出」という一文が添えられた)。9歳の時には初恋の美少女(クレーはとにかく美少女好きだった)に機会を狙いすまして強引にキスしようとしますが、激しく抵抗され失敗に終わっています。
父の繊細な職人気質。
夏には一家で森の中へ
母はことあるごとにパウルを連れ祖母の家を訪れていたようです(祖母や親類は、バーゼルからベルン市内や近郊に引っ越して来ていて、お互いに盛んな行き来があった)。そして自分の生家の人からの影響をパウルが自然に受け入れるままにしていたにちがいありません。
ピアノと声楽に優れ母イーダもまた、そうした環境に育ったからで、しかしまさか息子パウルが後に画家の道を選択することになるとは想像もつかなかったにちがいありません。
母方の人々からの影響に比べ、父ハンス・クレーの郷里はドイツのテューリンゲンだったこともあり、父方の人たちからの影響はかなり少なく、根本的な内面的接触はほとんどなかったといわれています。
最も父は、地理的にドイツ中部のやや右に位置し「緑の心臓」とも呼称されるテューリンゲン出身らしく(多くのドイツ人は森の中に入るのが好きだといわれるが)、夏には家族で森へ入っていったといいます。そして冬によくパウルを連れて行ったのは、美術館でした。
また父ハンスは、教会の日曜礼拝にオルガン奏者として手を貸していただけでなく、片手間に煙草パイプや釣針、弓矢などを自らつくるなど、その繊細な職人気質的な部分は、音楽以外にも多分にパウルにも受け継がれていったようです。
7歳の時から「ヴァイオリン」を習いはじめる。
美術を愛するヴァイオリン教師と巡り会う
クレー家やパウル・クレーの音楽的才能について知悉している人にとっては、クレーの絵画に「音楽的感覚」が色彩としてあらわされている作品が数多くあることはあらかた知ってられることとおもいます。
さらにはクレーが10歳にしてベルン音楽協会(管弦楽団)の非常勤団員になり、それ以降も持ち歩いていたスケッチブックやノート、教科書に風刺的デッサンや風景画を描いていたことも。
「音楽」も「絵画」(今日なら「イラスト」や「映像」や「写真」だろうか)もともに上手い少年少女は周りには時折りいたりするので、パウル・クレーの場合もたまたま2つのこと(実際には、これに「文学」も加わる)を”器用にこなす才能”があるとおもってしまいがちですが、クレーの「マインド・ツリー」をよくよく辿ってみれば、やはりそれぞれにしっかりした”根っ子”があることがみてとれます。
「音楽」も「絵画」は、クレーの「心の樹」のなかで、祖母がよくした「刺繍」の様に織り上げられ、重なりあい、融合していったにちがいありません。
パウルは小学校にあがった7歳の時から、ヴァイオリニストだった父ハンスと同じくヴァイオリンを習いはじめています。家では無論のこと、「音楽」で満ち溢れていたはずなので、急速に上達していったようです。
ヴァイオリンを素直に習いはじめた一つの背景には、5歳の時に大好きだった祖母が亡くなったことも幾らか関係しているようで、「絵かきとして”孤児”になってしまった。そのかわりにしばらくして、ぼくの音楽教育が始められた」とあります(パウル・クレーの日記覚え書より『パウル・クレー』;フェリックス・クレー著)。
しかしフリック叔父さんのレストランで化石の断面のかたちを映しとったり、ノートや教科書の余白に、風刺的デッサンや風景画を描いていたのは、祖母という絵の<臍の緒>と切れてしまった後のことで、すでにかなりの養分が”樹液”の様にパウルの感性に取り込まれていたためだったとおもわれます。
少年パウルは2、3年もするとヴァイオリンの腕前はかなり上がり、モーツァルトやバッハの作品も弾けるようになります(10歳の時に、ベルン管弦楽団の非常勤団員として定期演奏会に参加)。
そしてある優れたヴァイオリン教師に巡り会っています。そのヴァイオリン教師は、「音楽」以外でも少年パウルに影響を与えることになります。
またヴァイオリン教師は、スイスのバーゼル大学の教授で美術史家、文化史家として知られるヤーコプ・ブルクハルトを尊敬し、彼の著述を手引きに、美術を深く愛するひとだったのです(ブルクハルトは、当時バーゼル大学で古典文献学を担当していたニーチェの”注意”を<世界史>へうながした人物)。
バーゼルと言えば、母の出身地でもあり、大好きだった祖母もかつて暮らしていた土地でした。パウルの裡で再び留まっていた「美術」への意識と感性が蠢きはじめます。パウルは教師の書棚に揃っていた美術書に耽溺するのに時間はかからなかったようです(21歳の時に、友人と半年のイタリア旅行に出掛けた時に持参していったのが、ブルクハルトの『チチェローネ イタリア美術的観賞の手引き』だった。現地ではその書籍からのクレーの感化は限定されたものだった)。
パウルの心のなかで、絵画がまるで色彩鮮やかな「楽譜」の如く、連なりはじめたのでした。
パウル・クレー(3)に続く: