伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

白土三平(1):『カムイ伝』の原点の自然

美術家だった父・岡本唐貴は、「日本プロレタリア美術家同盟」に参加、三平が誕生した時、特高警察に検挙、投獄中。若き黒澤明に絵を教える。警察の監視から逃れ被差別部落在日朝鮮人集落周辺に住む。長野・真田村への疎開。そこで村の記憶である真田一族の歴史を知る。「赤本」や「立川文庫」を読む。『カムイ伝』の原点の自然を知る

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「優れた芸術家の生涯を眺めていくと、その人物を形成してきたものが本人の一代だけの努力と習練だけではなく、先行する世代から長い時間を通して蓄積されてきた知的・芸術的体験であることが、しばしば理解されてくるときがある。芸術家を父親とした息子や娘が、幼少期より薫陶を受け、長じて芸術家として大成するといった事例は、古今東西枚挙に暇がない。能楽観阿弥の後を継いだ世阿弥から、画家オーギュスト・ルノワールを父とした映画監督ジャン・ルノワール岡本かの子を母とした岡本太郎まで、われわれはいくらでもその例をあげることができる」(『白土三平論』四方田犬彦著 作品社 2004年 p.17)


白土三平といえば、『カムイ伝』『サスケ』『忍者武芸帳影丸伝』がすぐに思い出される。月刊漫画『ガロ』もまたそうだろう。私自身も少年時代、マンガやテレビアニメでずいぶんとお世話になった。今でも「サスケ」のTV主題歌は記憶に残り、時折、口に出てくる。が、原作者の白土三平はどんな人間で、白土漫画がどのように生み出されたか、といったことはほとんど知る機会がなかった。戦後10代で紙芝居作家となり、『忍者武芸帳影丸伝』が「貸本マンガの金字塔」だったこと、『カムイ伝』と『カムイ外伝』を含め、なんと37年がかりで描き継がれ、しかも依然未完であることなども知らなかった。つく加えれば、月刊漫画『ガロ』青林堂もまた事実上、白土三平が自己資金で創刊(1964年)したものだった(編集長・長井勝一ではなかったのか? 


『ガロ』刊行以前、足立文庫という貸本屋向けの卸を営みつつ、神保町に貸本マンガを出版する日本漫画社を立ち上げたばかりの長井勝一に、白土三平が作品を持ち込み買い取られている。長井勝一は貸本で仕入れていた白土マンガ『こがらし剣士』を読んで興味を持っていた。それが接点となり長井勝一白土三平初の長編マンガ『甲賀武芸帳』を出版。2人は月刊漫画『ガロ』刊行になだれ込んでいく)。

「ガロを創刊するあたりの経緯は、今でも謎だね。よく、できたなぁと思う。大手出版社の雑誌で仕事を始めたけど、やってるうちに話が壊れていく。それなら雑誌を作ってしまおうか、と自然発生的に思いついた。損だの得だのは関係ないんですよ。自分と同じような気持ちの仲間がいるだろう、そういう若い人たちの発表の場ができたらいいなぁ。そういう話を長井勝一さんとしていた。それにしても、いざ雑誌創刊の話を持ってこられて、それに乗った長井さんも不思議な人ですよ。普通ならビビる。俺も長井さんも暢気というか楽天的だったんだね」(『白土三平カムイ伝の真実』毛利甚八小学館 2011年 p.110 : 白土三平へのインタビュー)<<

白土三平伝-カムイ伝の真実

実際、雑誌名「ガロ」も、白土三平の「忍法秘話」の忍者名であり(我々の道を行くという「我道」という意味合いと、アメリカのマフィアの名前のイメージも込められたという)青林堂から出版されたものの制作は白土三平の制作会社・赤目プロダクションだった(『カムイ伝』の掲載は創刊号に間に合わず、旧短篇が採録されている)。これに刺激を受けた手塚治虫は、雑誌『COM』を自ら創刊、ライフワーク『火の鳥』もまた、白土三平のライフワーク『カムイ伝』への対抗心からだったといいます。
手塚治虫にとって白土三平は最大のライバルだった」といいます夏目房之介の言葉/『白土三平カムイ伝の真実』毛利甚八著p.10) 。もっとも白土三平の方は、戦後の闇市時代の昭和22年頃、手塚治虫の「赤本」マンガを貪り読んでいます(獲ったカブトムシと手塚マンガを交換した。『甲賀武芸帳』や『サスケ』『ワタリ』など白土初期マンガには手塚治虫の影響が濃いといわれる。『白土三平伝ーカムイ伝の真実』)



ともあれ戦後日本マンガの始祖とも呼ばれる天才・手塚治虫がライバル視した白土三平にはどんなライフ・ヒストリーがあるのか。そして1960年代後半の学生運動とシンクロしていった『カムイ伝』は一体どのように生み出されていったのでしょう。ライフワーク『カムイ伝』は白土三平の”魂の土壌”から生み出されていたものだったことがみえてきますが、冒頭に上げた一文のように、それは白土三平一代の”魂の土壌”ではありませんでした。そこは日本左翼美術史のなかの重要人物・岡本唐貴の”魂の土壌”でもあったのです。「岡本唐貴」とは、白土三平の父でした。


白土三平は昭和6年(1932年)、2月15日に、東京杉並で長男として生まれています。本名は、「岡本登」です。南画や西洋画の研究から独自の画報を生み出し蘭学のリーダー的存在だった渡辺(華山)登に因んでつけられたもの。まずは父・岡本唐貴について少したずねてみます。岡本唐貴(本名・岡本登喜男)は岡山県浅口郡連島町(現・倉敷市に生まれています。

生家は地主でしたが、岡本唐貴の父白土三平の祖父)には放浪癖があり、家の相続も嫌い転居を繰り返した挙げ句、商売にも失敗。古本屋をはじめたものの脳卒中で急死しています。その時、岡本唐貴16歳。残された古本を読み漁った唐貴は、ボードレールの『悪の華』など文学と芸術に強い関心を抱き、同時に当時の米騒動労働争議から社会的不正義への怒りを覚えていきます。

岡本唐貴は80歳の時に「自伝的回想画集」を刊行しています。そのなかの「自伝走り書き」によれば、17歳の時1920年、画家を目指し東京へ。翌年、中央美術展に入選。同年に東京美術学校(現・東京芸大の彫塑科入学。2年後に二科展入選。文学者からアナキスト、社会労働家たちと交際。二科会内の急進グループ「アクション」に参加。三科造形美術協会の結成に、つづいてグループ造型の結成に参加。
全日本無産者芸術連盟(ナップ)を改組した日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)の結成に参加。その年に後に映画監督になる黒澤明に絵を教えています。日本プロレタリア文化連盟(コップ)が成立。「第2回プロレタリア美術大展覧会」ポスターを、雑誌「戦旗」「東京パック」に挿絵を描いています。

日本プロレタリア美術史 (1967年)
日本プロレタリア美術史 (1967年)

(2)に続く

草間彌生:幼少期にあらわれた「幻視」

江戸後期から種苗業で繁盛した草間家は地元の美術科のパトロン。祖父も父も芸者遊びに狂う。家の中はメチャクチャで両親は喧嘩ばかり、水玉模様や網模様は、幼少期に「心の病(「非定型精神病」)」あらわれた「幻視」だった。10歳の頃に描いた「母の肖像画」に無数の水玉模様を描き込んだ


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「物心つく頃から私の視覚や聴覚や心の襞には、自然界や宇宙、人間や血や花やその他さまざまなことが、不思議や怖れや神秘的な出来事として強烈に焼きついて、私の生命のすべてを虜にして離さなかった。そして、しばしばこれらの得体の知れない、魂の背後に見え隠れする不気味なものは、怨念にも似た執拗さをもって、私を脅迫的に追いかけ廻し、長年の間、私を半狂乱の境地に陥れることになった。
 これから逃げれ得る唯一の方法は、その『モヤモヤ』、輝いたり、暗く深海に沈んでしまったり、私の血を騒がせたり、怒りの破壊へとけしかけるモモンガア、それらは一体何だろうかと、紙の上に鉛筆や絵具で視覚的に再現したり、思い出しては描きとめ、コントロールすることであった」(『無限の網 草間彌生自伝』作品社 2002年 p59 )

草間彌生といえば、その奇抜なファッションに、水玉模様や網模様が無限に反復、増殖する絵(ポルガドットとネットは、一つの原型の二つの現れ)、男性器状の突起が無数生えたオブジェにソフトスカルプチャー、人前でのSEXパフォーマンス、電飾彫刻や合わせ鏡をもちい無限の広がりをみせるインスタレーションなどがすぐに思い出されます。それらは今やポップ・アートや環境芸術の先駆とも位置づけられるほどの先鋭的、前衛的活動でした。

遡れば、28歳の時(1957年)、単身渡米し1960年代後半の全米の話題をさらっていく裸体のボディ・ペインティングとボディ・フェスティバル、度肝を抜くファッション・ショーにヌードダンサー一座を引き連れ「パフォーマンス」の先駆者の一人として位置づけられています。さらに映画制作「草間の自己消滅」(1968制作)や自身もブティックを開店(1969年)など、アメリカでは最も有名な日本人アーティストとして知られています。また全米のデパートやブティックでも販売されたクサマドレスやテキスタイルを手掛けただけでなく、小説、詩集も多数発表していますプライベートでは、コラージュ・アーティト、ジョセフ・コーネルとの日々はそのすべてがほとんど伝説です。

草間彌生が描き出さなくてはならなかった水玉模様や網模様、無数の男性器状の突起物、そして裸体ハプニングとは何だったのか。草間アートを随分見知っている方ならば、どこかでその背景や出来事を幾らか聞き及んだことがあるかもしれません。しかし『無限の網 草間彌生自伝』を具に読んだ時、その噂や聞き及んだ情報は、かなり揺らぎはじめるにちがいありません。


まずは草間彌生の生い立ちから確認してみましょう。草間彌生は、1929年3月22日、長野県松本市に生まれています。生家は広大な土地を持ち、江戸後期から種苗業と採種場を営んできた旧家で、大勢の雇い人が働き、各地に卸しと小売りをしていました。資産家となった草間家は、地元の画家のパトロンでもあり、そんなかたちで草間家は「美術」とつながっていたようです。しかし婿養子だった父・草間嘉門は奔放な性格で芸者遊びに狂い放蕩の限りを尽くすような人物でした。女郎屋から芸者のもとに通ったり、家の家政婦にも次々と手をつけたり、芸者を身請けして勝手に上京してしまったこともあったほど。しかしそれは父・嘉門だけでなく、草間家の祖父とにかく草間家は父子の二代にわたって、女遊びに明け暮れ、祖父と父が競争で女を漁っていたというのです。なんという草間家。

そんな父に気位が高く激しい気性だった母は絶えず怒り荒れ、両親は喧嘩ばかり。母は彌生に小遣いを手渡し、どんな寒い日にも父の跡をつけてどこに行ったのか探偵させるのです。とにかく家の中はメチャクチャだったといいます。彌生は子供心にも、男は無条件にフリーセックスをし、女は耐える一方、「こんな不平等なことがあっていいものだろうか」と憤りを感じています。このことは「後の思想形成に大きな影響を与えた」と自身語っているほどです。どこかで聞いた話ではなく、日々そうした修羅場を目のあたりにしていた子供が受ける影響はどれほど強く深いものでしょうか。

彌生が幻覚や幻聴を体験するようになったのはいつ頃からか。『無限の網 草間彌生自伝』では、12歳の時、長野県立松本第一高等女学校に入学した頃からと記していますが、実際には小学校時代、否、それ以前からだったと思われます。というのも同著の同頁(p.55)後半、「幼い頃から…」からはじまる次の一文は、中学生の時分の体験でなくそれ以前のものと思われるからです。

「幼い頃から.私は採種場へスケッチブックを持ってよく遊びにいった。そこにはスミレ畑が群をなしていて、私はその中でもの思いにふけって座っていた。すると突然、スミレの一つ一つがまるで人間のようにそれぞれの個性をした顔つきをして、私に話しかけてくるではないか。そして、それがどんどん増殖していって、耳が痛くなるほどに語りかけてくる。人間だけが喋れると思っていたのに、私に言葉をもって交流してきたスミレたちに、まず私は驚いてしまった。その時、私にはスミレの花が人間の顔に見え、それが全部私の方を向いている。私は恐怖で足がガタガタと震えるのをどうすることもできなかった。
 走って夢中で家に逃げ帰ると、今度は家の犬が人間の話す言葉で吠えかかってきたのだ。すると今度は逆に自分の声が犬の様になってしまっている。どなってしまったんだろうというパニック状態で家に飛び込んだ。青くなって押し入れにもぐり込み、やっと息をつくことができた。思い返しても、それが現実だったのか夢だったのかほとんど判断できなくなっていた」(『無限の網 草間彌生自伝』p56 )

はやくも10歳の頃に描いた「母の肖像画」には、すでに無数の水玉模様が描き込まれています。それは眼前の母の姿に、彌生の視覚にどうしようもなく浮かび上がってくる無数の水玉模様が、1枚の絵の上に融合したものでした。別の書籍『クサマトリックス角川書店 2004年)でも、小学校に入学した頃の体験として「幼い頃より、物もまわりにオーラが見え、スミレの花や犬など、植物や動物の話す言葉が聞こえるといった幻覚を体験するようになる。絵を描くことが好きな少女だった草間は、幻想や幻覚、幻視体験、怖れや不安感を絵に描き始める」と記しています(草間氏本人の確認が入った一文として)


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少女彌生のこうした幻覚・幻視体験については、23歳の時に郷里の松本市公民館で初個展が開かれた際、立ち寄った信州大学精神病理学の泰斗、西丸四方(芸術にも深い関心があり、彌生の絵を購入)によって診断されています。西丸博士は、草間彌生を、統合失調症と躁鬱の感情障害の波が合併した「非定型精神病」と診断。通常は幻覚のほとんどは幻聴であることが多いといいますが、草間彌生のように「幻視」を伴うのは稀な症状とみています。
西丸博士は、精神科病棟は窓に柵をとりつけ扉に鍵をかける閉鎖病棟ではなく、開放病棟を設置した「改革者」であり、彌生に出会った3年前に刊行された『精神医学入門』(1949年)は、以降半世紀以上、精神医学の教科書の先駆的名著とされています。

じつは西丸博士が東京帝大医学部をでて精神科に向ったのは、実弟の西丸震哉(食生態学者、作家、登山家)が小さな頃から鮮明な幻覚を見ていて、彌生の珍しい「幻視」にも寄り添うことができたのでした(以降、彌生は西丸博士を良き相談相手として、また患者として長く交流がつづく。家を離れるように助言したのも博士だった)

西丸博士とのやりとりを通じ、彌生は独学独流だった絵を描く行為に、意識的にアプローチができるようになっていくのです。さらに西丸博士を通じて博士の恩師、東大精神医学教授・内村祐之へ、そしてゴッホ研究家としても著名な式場隆三郎へと紹介され、そこから白木屋での個展へとつながっていきます。同公民館での2度目の個展では、美術評論家瀧口修造とも出会い、タケミヤ画廊での個展、そしてニューヨークのビエンナーレへと繋がっていくのです。

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彌生の「幻視」とはどんな時に生じたのか、それはどんな様子だったのか、『無限の網』でみると、

「ある日、机の上の赤い花模様のテーブル・クロスを見た後、目を天井に移すと、一面に窓ガラスにも柱にも同じ赤い花の形が張りついている。部屋じゅう、身体じゅう、全宇宙が赤い花の絶対の中に、私は回帰し、還元されてしまう。これは幻ではなく現実なのだ。私は心底から驚愕した。…夢中で階段に駆けていく。下を見ると、一つ一つの段々がバラバラに解体していく。その有様に足を取られて、上から転げ落ち、足をくじいてしまう。
 のちの私の芸術の基本的な概念となる、解体と集積。増殖と分離。粒子的消滅感と見えざる宇宙からの音響。それらはもう、あの時から始まっていた」
(『無限の網 草間彌生自伝』作品社 2002年 p61 )

ある時は、夕刻時に山並みの稜線からパァーと光が溢れ出て、さまざまなキラキラするものが目に飛び込んでくる。そんな時には家に飛んで帰って、見たものをスケッチブックにどんどん描いていきます。そんな幻視イメージが消えないうちに記録しようとすると、イメージは次から次へと沸き上がってきて、手が追いつけない状態に。そうした幻視イメージを描いた手帳は何冊にもなったといいます。「その時に感じた驚きや恐怖をそうやって静めていく。それが私の絵の原点である」と彌生は語ります。

彌生は西丸博士と出会うまで、相談できる人などいず、幻覚・幻視からくる不安に自分ひとりで耐えていました。その理由の一つに、幻視が生じるのは聴覚を一部欠損しているのではないか、自分だけが知る秘密が暴露されてしまうことへの怖れがあったといいます。

ポール・ボウルズ(1):最も影響を受けた「読書」をする祖父

ポール・ボウルズが作曲家であり、作家となった根っこにあるもの。幼年期に「地名」づくり「時刻表」づくりをはじめ、小学生の時には鉛筆とクレヨンで4ページの『新聞』を毎日発行。最も影響を受けたのは祖父は一日中「読書」をしていた。8歳の時にピアノをならわされ、レコード・音楽好きに

坂本龍一が映画音楽を担当した映画『シェリタリング・スカイ』(監督ベルナルド・ベルトリッチ)の原作となった小説(『極地の空』1949年)の作者として知られるポール・ボウルズ。1947年からモロッコのタンジールを永住の地(生涯88年のうち52年間居住)としたポール・ボウルズのもとには、ビート詩人のアレン・ギンズバーグウィリアム・バロウズ、グレゴリー・コルソ、それにトルーマン・カポーティゴア・ヴィダルテネシー・ウィリアムズらが会いに来たのだった。
ポール・ボウルズは、American expatriate(米国人の国外居住者/追放者)のシンボルと化し、同時にポール・ボウルズの居住した地タンジールは、国外居住者/追放者が住むシンボリックな地となります。

一方、ポール・ボウルズといえば、『エル・サロン・メヒコ』(1936年)や『ビリー・ザ・キッド(1938年)、『アパラチアの春』(1944年)などで知られ、アメリカ古謡を取り入れ親しみやすいメロディーで「アメリカ音楽」を生み出したといわれるアメリカの代表的作曲家のひとり、アーロン・コープランド(ジャズや12音技法を用いた曲調もある)に師事し音楽を学び、パリに渡り、ガードルード・スタインの文芸サークルに属しながら、コープランドと一緒に初めてモロッコのタンジールを訪れていますポール・ボウルズ21歳の時)

その後、ポール・ボウルズはそのままタンジールに留まったのではなく、ベルリンへ、そして再び北アフリカのチェニジアやアルジェリアを訪れ、27歳の時に、ニューヨークへ戻り、オーソン・ウェルズテネシー・ウィリアムズの舞台の舞台音楽を作曲。作曲家として広く知られるようになり、翌年に作家で劇作家でもあるジェーン・アウアーと結婚。33歳の時にはマース・カニングハムの振付けで、レオナード・バーンスタイン指揮によるオペラ「風は帰る」が上演されています。その4年後(1947年、37歳)にモロッコ・タンジールに永住しようと決意し、妻ジェーンとともに再訪。

後に「シェルタリング・スカイ」として映画化される最初の長編小説『極地の空』を書き出版したのは、タンジールに永住しはじめた2年後のことでした。最も作家となって以降も、作曲や音楽から完全に身を引いてしまったわけでなく、45歳の時に再びオペラを手掛け、その後、ロックフェラー財団連邦議会図書館の援助で、モロッコの伝統音楽の録音を行い、舞踊音楽、世俗音楽、ラマダーンなど祭りの音楽、儀礼音楽など収集して各地をまわっています(現在も連邦議会図書館に保存されている)。また伝統音楽のだけでなく、モロッコの語り手から聞いた伝承や当時のモロッコの作家たちの作品を多数英訳し、欧米世界に紹介しています。

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となれば、ポール・ボウルズがモロッコ・タンジールに永住しようと決意したのは、決して地位を築いた作曲家や音楽界から完全に身を引き剥がし、作家になろうという動機だけからだけではなかったことがわかります。ポール・ボウルズの内面は、モロッコのバザールの迷路のように相当に複雑だということは、自己を映し出してもいる映画『シェリタリング・スカイ』からも予感されることです。


なんとも興味深いことに、そのポール・ボウルズの行為と思考は、彼の幼少期にあることが、彼の自伝『止まることなく』からいえてくるのです。そこには一体何が記されてあったのか。ポール・ボウルズはどんな少年期を送っていたのか。一緒にみてみましょう。

「…私はひとりでその家の一室にいた。突然、金時計が4回鳴った。4つ目の音が鳴り止んだ瞬間、重大なことが起こっているのを悟った。私は4歳で、時計が4回鳴り、そして『マグ』という単語が実際のマグ(マグカップのこと)を意味した。したがって、私は私となり、私がそこにいて、そしてその瞬間がほかならぬまさにその瞬間となった。満足のゆくあらたな経験で、すべてを確信をもって声に出すことができた」ポール・ボウルズ自伝『止まることなく』白水社 山西治男訳 p.3)

これはポール・ボウルズ自伝『止まることなく』の冒頭部分に記された一文です。この一文の直前に、ミルクを飲む「マグ」と何度も繰り返し口に出したが、その意味するところを忘れてしまい不安感を覚えていた、という記述があります。その不安が4歳の時、忽然と消え、私が私となり、「マグ」とすべてを確信をもって声に出すことができるようになったと。幼少期から言語的感覚に鋭いある種の子供は、どうも最初に言葉を感得した時の様子を覚えているようなのです。
いったいそんなことがあるのかと思われるかも知れませんが、レイ・ブラッドベリ桑田佳祐の様に誕生した時のことを明確に覚えている「誕生時記憶」の持ち主もいるように、「言語獲得記憶」の持ち主もいるようなのです。後に作曲家となり、また作家にもなるポール・ボウルズは、どうして「言語獲得記憶」の持ち主であったのか、まずはボウルズ家のことからあたってみます。

父は歯科の開業医で、4階建ての2階に受付けと診療室があり(1階は父の実験室)、3階と4階が居住スペースになっていました。父の兄も歯科医で、本当はコンサート・ヴァイオリニストを夢見ていた父でしたが両親から大反対され、兄に続いて実業の世界に入ったのでした。父方の祖父はかつてヴァーモント州に「デパート」を持っていたことから、物価やさまざまな商品の卸し値や小売り価格を知悉し、店を売って以降も興味の関心は「物価」だったというほどでした。

とにかく突発的に感情を爆発させる不機嫌きわまりない人物で、宗教や社会、政府など「組織」というものにつねに反感をもっていて(祖父は南北戦争経験者だった)、癇癪をおこすとドイツ語と英語で怒鳴りまくったといいます。とにかく祖父は恐ろしいところがあり、息子たちの鼻柱をハンマーで砕いたのですが、自分の鼻もまた父によって砕かれていました。なんとも恐ろしいことですが。しかしそんな祖父は晩年は一人本に埋もれた書斎で読書に明け暮れ、少年ポールは祖父に惹かれていくのです。逆に祖母は温和で快活で、農場で働き「自然」を熟知し、一族のなかでも母の鑑といえるほど素晴らしい人でした。

鼻のみならず夢を砕かれた父は、家では度し難い権威主義者となり、とくに食事の席は、少年ポールにとって苦痛であり、耐え難い試練だったといいます。どんな食べ物でも40回噛んでから呑み込む食事健康法の実践者で、全員も倣わないと逆上し怒鳴りちらすのです。料理も材料や調理も監視し、パンも自家製以外はすべ合成された危険なパンだと受け付けなかった。病気になりさえずれば、ベッドに寝て一人で食事をとることができたので、幼い頃の病気の半分は仮病だったといいます。


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母との仲は良好で、2歳頃から7歳まで、いつも寝る前に30分間、母は本を読んでくれたのです。それ以降になっても、ポールと母とはナサニエルホーソンの『タングルウッド物語』やアラン・ポーの物語などを交替で互いに読んで聞かせています。母は読み聞かせるのが巧く、恐ろしい場面になるとまるで人格が変わったかのようになるのでした。

まだ小学校に上がる前のこと。祖母が一人の女性を連れてきて、まだ小さなポールと2時間一緒に話したことがあったといいます。「この子はすごく年寄りじみている。しばらく様子を見るしかありません」とその女性が語っているのが聴こえたたことが、いつも家族たちから「自然じゃないね」と言われていたことや、何かと欠点を見つけて話しあっていたことが重なってきたのです。実際、ポールは5歳になるまで他の子供たちと話したこともなければ一緒に遊んだこともなかったのです。
「自然じゃないね」ということは、年がら年中、一人でいようとし、そしてつねに「本」を読んでいることを上の兄や父から言われたのでしょう。母からは、父も祖母も疑り深い人たちで、あんな人たちのようにならないようにとポールに言い聞かせたりするのでした(この頃、時折、両目を見開き意識は覚醒しないまま叫び声をあげることがあったという)

■参照書籍『止まることなく―ポール・ボウルズ自伝 』白水社 1995/『ポール・ボウルズ伝』ロベール ブリアット著 白水社 1994


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ビートたけし(1):祖母は、たけしの芸能のルーツ

母は義太夫語りのアイドル、芸名「竹本八重子」の祖母・北野うしは、たけしの芸能のルーツ。長兄は戦後GHQの通訳、ペーパーバックが積まれていた家。当時足立区の北野家の近所は、下町の職人街。たけし映画に登場する「ヤクザ」は、近所にあった「ヤクザの事務所」の影響があった

http://youtu.be/vW7XssMTNy8:フランス人作家による伝記『北野武による「たけし」』インタビュー

「オフクロは教育に対して、信仰にも似た独特な考えを持っていました。貧乏の悪循環を断ち切るには教育しかない、というんです。
「貧乏は輪廻する」、つまり循環するというのがお袋の説です。
 …それはお袋自身の体験から生まれた教訓なんです。…(お袋の)さきは、子供たちが小学5年生になるまでは、どの子にも鉛筆を削ってやり、前夜のうちに教科書やノートの点検をしてやった。
そして朝十時になると、子供たちがちゃんと授業を受けているか確かめに学校へ行った。教室には入れないので運動場の窓から様子を観察した。
上の三人はとくに問題はなかったが、たけしの場合はときに不真面目な態度が目につき、思わず窓をガラッとあけて『何してる、このバカたけが!』と怒鳴ったこともあったという」
(『北野家の謎』ビートたけしを勝手に研究する会』 スコラ p.55-56 /ほぼ同様の内容は、兄の北野大著『なぜか、たけしの兄です』にもあり)


映画監督として「世界のキタノ」となった元漫才師・ビートたけし北野武を取りあげます。
お笑いはもちろん司会業、作家にアートに高等数学もこなすマルチタレントは、いったいどのようにして今日の<ビートたけし>、そして<北野武>になったのか。
ビートたけしについて知っていることを幾らかあげてみれば、浅草生まれで足立区の下町育ち、父は飲んべえのペンキ(塗装)屋の菊次郎に母さきは猛烈な教育信者。
兄の大は温厚な研究者で大学教授。そして本人は明治大学工学部中退、新宿ジャズ喫茶などでバイトを重ね、浅草へ。ツービートとして毒舌ギャグを連発。苦節十年で芽が出て、ラジオ番組「ビートたけしオールナイトニッポン」、テレビのバラエティ番組「オレたちひょうきん族」へ、そして世界で人気者の映画監督へ。ざっくりつかめばこんなところでしょうか。

無論、たけしファンならば、さらにストリップ劇場の浅草フランス座時代のエレベーターボーイ、前座時代、掟破りの残酷ギャグ・毒ガス標語赤信号みんなで渡れば怖くない等)、コマネチ・ギャグ、B&Bザ・ぼんちらとともに「マンザイブーム」が巻き起こり一気に知名度があがり バラエティ番組「オレたちひょうきん族」「スーパージョッキー」「風雲たけし城」「天才・たけしの元気がでるテレビ」「平成教育委員会」など、その間のたけし軍団の結成や、深作欣二監督の映画を受け継ぐかたちで映画を監督するようになった経緯、数学を解く「マス北野」等々、つっこむ場面は無数あることでしょう。


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ここでは「伝記ステーション」ならではのアプローチ(「Mind Tree」の方法)をかけてみることにします。まずは北野たけし少年が漫才師「ビートたけし」になったその背景ですが、北野家ならではのとびっきりの事情や家庭環境(土壌)、東京の田舎・足立の下町ならではの人間関係、それらが何重ものぎらついた分厚い塗装の如くそのメンタリティに塗り込められていることがみえてきます。

しかし教育第一の母さきの敷いたレールからは飛び出していきます。それができたのは、兄の大(まさる)によれば、たけしが末っ子だったことと、「ちゃっかり者で調子のいい子」という持って生まれた気質、そして18歳も離れていた一番上の兄や姉が働き出していて家計も少し楽になりだしたことも大きかったようです(北野家は貧乏だったが、末っ子の武だけは少年時代、兄姉たちと比較しそれほどの貧乏は経験しないですんでいた。
これはソフトバンク孫正義にもいえるが孫家の場合は正義が小学生にあがる頃にはパチンコ業が繁盛し相当の金持ちにのしあがっていた)

くわえて日本の高度成長がはじまり、家のために働かなくては生きていけないという状況も脱していて、エネルギーをもてあました遊び盛りのたけしが皆と遊びまわらない理由などもはやありえませんでした。
母さきや、やりたくもないペンキ塗りを手伝わせる父菊次郎から逃げて(兄の大とちがって嘘を言って手伝わない)遊びまわった場所のはじまりは、近くを流れる荒川にかかる千住新橋の土手でした。


一般的に、たけしの兄弟といえばすぐ上の北野大がよく知られていますが、18歳年上の長兄と他に姉がいます。長兄の北野重一(後に宇野製作所取締役、技術者)は戦後にGHQの通訳をやれるほど、とにかく英語がよくでき、次男の大や三男のたけしに「英語」の面で影響を与えることになります。

長兄重一は英語のペーパーバックを外人から沢山もらってきたため、狭い北野家の部屋の一角は1000冊余のペーパーバックで埋もれていたといいます(当時としては相当の冊数のなかに『チャタレー夫人の恋人』等もあった)
この長兄重一は父と違い気も強く、父の酒癖の悪さをなじったり父も長兄に怖れをなしていたほどで、母さきのほかに北野家のもう一つの重心をなしていました。

たけしといえば母さきの存在がよく語られますが、実際にも圧倒的な存在で、あらゆる面で北野家とたけしに強烈な影響を与えていきます。そのことはよく知られていますが、母さきのことをたけしは次の様に語っています。


孤独 (ソフトバンク文庫)

「…ある環境のなかでこそ、ある生物が生まれるみたいなもんで。俺を作ったのは俺の周りの環境なんだと思うよね。もうそれは自然なもんだよ。
…だから、おふくろにほんと溺愛されたのが大きいと思うなあ。でもまあ、そのぶん、愛情はすごいんだけど、方っぽで妙な倫理観も徹底的にやられた感じするんだ、躾っていうかね。

…食事の仕方とかさ。だから俺、しばらくは人と一緒に食事できなかったもん。躾にうるさくて箸の使い方やなんだで怒られたから、子供のときに食事が儀式になっちゃってね。
買い食いですぐに食べるスタイルを知ったときなんて、これほどいいもんないと思ったもんね。

だから、俺ってなんか変なところあってね。ネタでもそうだけど、俺のしゃべってることとかやることって、そういう儀式みないなものをブッ壊すというか。
食べ物、手で掴んで食っちゃったりするような感じだと思うんだ。
それぐらい逆に溺愛されたし、徹底的に躾をやられたんだよね。そういう意味じゃ、やっぱり今、たけしというのがあるのは、おふくろとかカミさんが大きかったんだろうね」(『孤独』北野武ロッキング・オン p.63-68)


たけしは、さきが43歳の時の子でした。未熟児で生まれ体も弱く小児喘息も患っていたたけしは、5歳頃まで母に半纏(はんてん)でおぶわれて通院しつづけています。
上の兄たちと同様、躾や教育面に関しては貧乏が輪廻しない様に徹底して支配していました。
その背景には、母さきの自身の置かれた状況における「違和感」があったといわれています(母自身、自分は旧男爵か何かの家系に縁のある特別な存在だと思っていたふしがあるという)
それは飲んだくれの菊次郎との生活の「違和感」で、「ここは本来自分のいるべき場所ではないのではないか」というつのる思い。自分をどこかへと<救い出そう>とした結果が、「教育」への過度ともいえるほどの熱心さが生まれたようです。
しかも子供だけやらせて自分は勉強など知らん顔のよくいるタイプの教育ママではなく、母さきは近所の人たちから「女博士」と呼ばれるほど物知りで、頭の回転がたけしそこのけにもの凄く早かったといいます(しかもかなりのお転婆だった;少年たけしを彷彿とさせる)。その「教育」への熱意は、近所の一家をも教育一家に変えてしまうほど感化力がありました。


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生きる

キース・リチャーズ(1):自伝『ライフ』に記されていた驚くべき事実

キース・リチャーズ自伝『ライフ』に記されていたこと。父方の祖父と祖母は、なんとイギリスの労働党の創設にかかわった人物だった。市長になった祖母は児童福祉制度を創案したり、イギリス社会の「改革者」だった。音楽好きで自由奔放な母方の一族である。


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自伝『ライフ』は、「サティスファクション」や「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」の様に脳天に突き刺さってくる自伝である。それまでに刊行されていたキース・リチャーズ伝記本では、関連する記述はあるもののそれ以上に突っ込めず描き切れていなかった所や疑問点がキース自身によってあますところなく語られます。

ここではキース・リチャーズ自伝『ライフ』から、それまでの伝記作家が突っ込み切れなかったポイントとなる幾つかの重要な事実や体験に絞って紹介しておこうとおもいます。

その事実や体験は、キース・リチャーズ本人が、振り返ってみれば大きな意味のあったことでありターニングポイントを促した体験だったと語っているからです。

まず驚かされたのは、キースの父方の祖父と祖母です。祖父アーネスト・リチャーズは、食品製造会社に長年勤め、一方で庭師の仕事をしながら、まだイギリスに社会主義運動のなかった頃から労働党の創設にかかわっていた人物で、労働党議員になり初期の労働党の重鎮にまでなっています。

祖母のイライザも労働党議員になりウォルサムストウ市の市長になり、児童福祉制度を創案したり、イギリスきっての公営住宅拡大計画をも打ち出したイギリス社会の「改革者」だったのです。父方の祖父母のことはこれまで語られていませんでした。

キース・リチャーズの伝記本に必ず登場するのは、母方の祖父の方ばかりでした。祖父のガス・デュプリーこそ、少年キースに「音楽」や「楽器」を教えこんだ張本人だったことはよく知られています。

どの伝記本にも必ず登場する人物です。この祖父ガスは母ドリス(キースの母)にもたっぷりと音楽の影響を与えていますので、少年キースはまさに音楽のなかで生まれ育ったのでした。

ちなみに菓子職人で剽軽でユーモアのセンスがあった祖父ガスは、ダンスバンドで腕をならしサキソフォンやバイオリンが上手かったようです(ギターはそれほどでもなかった。キース自身にある「放浪癖」は祖父ガス譲りなのだろうとも語っている)

しかも少年キースが幼少期の頃、ガス・デュプリー・アンド・ヒズ・ボーイズというダンスバンドを結成していて、夜になればアメリカ空軍基地へ行き演奏していたといいます(この辺りも自伝『ライフ』で初めて触れられたと思われます)

また祖母エマもまた相当に腕のあるピアノ弾きだった様で、少年キースの音楽的環境がかなりのものだったことが自伝『ライフ』であきらかになります。

デュプリーという姓の祖父ガスは、フランスから亡命してきたプロテスタントの血筋(祖母エマは上品でフランス語も話せた)です。祖父ガスの一族は、音楽だけでなく女優として「演劇」にものめり込んでいる者もいて、周囲ではそれほどの自由奔放な一族はかなり珍しかったようです。

母ドリスについてもう少し突っ込んでみましょう。キースの他の伝記本では、ウクレレの演奏もできた母ドリスは「歌と踊りが大好きな女性」で、エラ・フィッツゲラルドなどのアメリカの音楽が好みだったこと、そしてキースは幼少の頃からアメリカの歌をいつも聴かされてきた、と語られています。

自伝『ライフ』では母ドリスの音楽好きの様子が次の様に描かれ、一般的な「歌と踊りが大好きな女性」ではなかったことがわかります。

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まだレコードプレイヤーがなくラジオだけが音楽を流していた時代、ラジオのつまみの選択権をもっていた母ドリスは、たいていチャネルをBBCに合わせ北部のダンス楽団からバラエティー番組に登場する演奏家にいたるまで、気にいった演奏家をつねにチェックしていたといいます。

そして誰の演奏が秀でているかとか、それは他の誰よりも巧みだということをいつもキースに語って聴かせるような母だったのです。
母ドリスのその姿勢を「音楽に対する捜査能力」とキース自身語っているほどです。そんな母の音楽的感性が少年キースに影響しないわけがありません。

「俺は音楽を吸い上げるスポンジみたいなもんだ。音楽を奏でる人間を見ることに魅せられていたんだな。路上に演奏者がいると、そこに引き寄せられた。パブのピアニストでもなんでもだ。耳が一つ一つの音を拾っていた。調子っぱずれでもかまわない。そこに展開している音があり、リズムとハーモニーがあり、それが耳のまわりで拡大される。ドラッグに似た感じだ。いや、ヘロインよりもはるかに強力な麻薬だった。その証拠に麻薬は絶つことができたが、音楽は断つことができなかったからな。ひとつの音が別の音につながっていく。次に何が来るかわからない。綱渡りのロープの上の美しい景色のなかを歩くような感じだった」キース・リチャーズ自伝『ライフ』p.64-65)

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坂口安吾(1):幼少期に始まっていた「切なさ」の感覚

代議士だった父との接触はほとんどなく、父の「伝記」を読んで父のことを知った安吾少年。小学校にあがる前から新聞を読み、「講談」を読みだしていた。父は新潟新聞の社長にもなる。「切なさ」は幼少期の頃にすでにはじまっていた。憎み合う関係だった母とは、後に命をすてるほど母を愛すように


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「8歳の時、母は安吾に手を焼き、『お前は私の子供ではない、貰い子だ』と言った。そのときの私の嬉しかったこと。この鬼婆アの子供ではなかった、という発見は私の胸をふくらませ、私は一人のとき、そして寝床へはいったとき、どこかにいる本当の母を考えていつも幸福であった。
私を可愛がってくれた女中頭の婆やがあり、私が本当の母のことをあまりしつこく訊くので、いつか母の耳にもはいり、母は非常な怖れを感じたのであった。

それは後年、母の口からきいて分かった。母と私はやがて20年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変わったのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。

私ほど母を愛していた子供はなかったのである。母のためには命をすてるほど母を愛していた。…オレはおっかさまのために蛤をとってやろうと思って夜の海にいつまでももぐっていたんだ。家に帰ったらこっぴどく叱られたよ」坂口安吾『風と光と二十の私と・いずこへ』中「石の思い」より)


坂口安吾と言えば、太平洋戦争敗戦直後に発表した『堕落論(1946年)一世風靡時代の寵児となります。
アンチ既成文学・無頼派の一人であり、新戯作派として『白痴』『桜の森の満開の下』『不連続殺人事件』『夜長姫と耳男』『日本文化私観』『風博士』『肝臓先生』『信長』『道鏡』等々もまたよく知られ、小説に鋭い感性で切り込んだ歴史もの(小説からエッセイ)推理小説、評論などは、後生の作家たちに大きな影響を与えてきています。

安吾巷談』『安吾史譚』『安吾新日本地理』などで評論もし、「巷談師」を自称しているほどです。また「歴史探偵家」でもありました。

古代王朝などに関する大胆な仮説や歴史観は、後の松本清張黒岩重吾ら小説家が古代史をひもとく魁(さきがけ)となり、芥川賞選考委員時代、新人松本清張の小説「或る「小倉日記」伝」を強く推し新風を巻き起こします。

一方で、太宰治が自殺した1948年に鬱病に陥り、病状は悪化、睡眠薬中毒と神経衰弱となり転地療養を繰り返した時期もありました。
堕落論 (新潮文庫)

坂口安吾は若干48歳(1955年没)で亡くなっていますが、どんな土壌に生まれ落ち、どんな環境が感化したというのでしょう。

とにく母と父との関係には驚かされるばかりです。今日であれば、まずネグレクトの状態のように映るほどです(しかしこれは安吾少年のひねくれた感覚だったことが分かってくるのだが)

しかし当時は子だくさんの時代、坂口家も13人もの兄弟(妾の子も含め)の末男(下に妹が一人)。そうした親子関係は当時決して稀ではないかと思われますが、坂口家においてはやはり他家とは異なるものがあったのです。

それではその辺りから坂口安吾の”大樹”の根元をのぞいてみましょう。

坂口安吾1906年明治39年10月20日新潟県新潟市西大畑町(現・中央区西大畑町)に生まれています。本名は、坂口炳五(へいご)。「炳五」は、「丙午」年生まれの「五男」に因んだもの。

父の坂口仁一郎は、若槻禮次郎加藤高明らと親交があり、憲政本党所属の衆議院議員、新潟新聞(現・新潟日報の社長なども務めたこともあり、また一般的に坂口家は代々の旧家で、大地主、「阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きることがない」と言われるほどの富豪だったと言われています。ウィキペディアでも同様です。


ところがそれは坂口安吾が、自伝的文章「石の思い」の中で単純化して書いたものの引用にしかすぎず、しかも「石の思い」の後半には自分が生まれ育った家は仮の住宅で、かつての旧家の様にだだっ広い家ではなかったと記しています。
もっともその仮の住宅といえども、昔は坊主の学校だったという建築なのでいっけん寺の様でもあり松の密林の中、鴉や梟の住処の様な佇まいだったと。

坂口家は、大資産家の遠祖・坂口津右衛門から分家し後に田畑を失い零落したものの3代目まで医業を生業としていたため、再び盛り返し安吾の祖父の代新潟県・阿賀浦村ー現・新津市大安寺の村長になった)で相当の地主になったといいます。

しかし祖父が米相場や鉱山の投機に失敗。さらに安吾の父が残りのお金を政治資金にもちだし、安吾が生まれた頃には財産はほとんど無くなっていたといいます。大資産は父の代でついえ、松林の中、寺の様な建物だけが残ったようです。

自伝的文章「石の思い」の中で、まず驚くのは、安吾少年と母との関係です。

安吾少年は少年期の長い期間にわたって母を憎んでいたというのです。後妻だった母には、母と年齢もそれほど違わない3人の娘がいて、上の2人の姉たちに共謀されモルヒネで毒殺されそうになったという噂も(実際にその種の謀り事はあったようだ。『新潟毎日新聞』に事件の顛末が連載されている)安吾少年と先妻の子供たちは、とにかく母から愛されることはなかったといいます。
町内の子供と喧嘩し、乞食の子供のような破れた着物を着て夜帰宅する安吾を家に入れず、戸にカンヌキをかけヒステリーをよく発する母とは、ただただ憎み合う関係だったと綴っていますが、冒頭の一文の様に、その関係は様変わり。再度ここに記してみます。

「母と私はやがて20年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変わったのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。私ほど母を愛していた子供はなかったのである。母のためには命をすてるほど母を愛していた」と。

この母方は吉田姓でこれまた大地主、「その一族は安吾にもつながるユダヤ的な鷲鼻をもち、母の兄は眼が青かった」(『評伝・坂口安吾ー魂の事件棒』七北数人著 集英社といいます。さてそして父ですが、安吾は次の様に書いています。

坂口安吾(2)へ続く:

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中上健次:「路地」の記憶から

熊野信仰の中心地・新宮市の「春日地区」とはどんなところだったのか。そこにある「路地」を描きつづけた理由。小説『枯木灘』『鳳仙花』『千年の愉楽』などには、実在のモデルが存在していた。父は盛り場のアウトローとして名を馳せていた


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春日町の、汽車が通る度に汽笛が家の中にいっおあいに飛び込んでくる線路そばに生まれ、そこできょうだいらと小学二年生まで住んだので、春日という土地がなつかしくてたまらぬ。愛おしくてならぬ。小説家としてデビューしていらい、小説のことごとくをこの春日と覚しき路地を舞台に取って書いてきたが、いまこの新宮に来て、愛おしさの熱病のようなものにかかっているのに気づく。小学二年の時、現在の私の姓氏である中上の男と内縁関係になった母に連れられ、春日を出たのが、その春日という土地への熱病の第一の原因だが、自分が数々ある庶民の物語の主人公でもある気がするのである(「祖母の芋」全集第14巻/「評伝 中上健次高澤秀次 p.112 )」

枯木灘』『鳳仙花』『地の果て 至上の時』『奇蹟』、尾崎豊の「十七歳の地図」のタイトルにも影響を与えたという短編集『十九歳の地図』や同じく短篇集『岬』『千年の愉楽』『熊野集』『水の女』『重力の都』など、また随筆の『ジャズと爆弾 中上健次 VS 村上龍』『都はるみに捧げる』『甦る縄文の思想』『夢の力』『America, America』など数多くの著作を残し、わずか46歳にして亡くなった稀代のヘヴィー級・小説家中上健次をとりあげてみます。


中上文学をそれほど読み込んでいない方でも、『枯木灘』や『岬』、『紀州:木の国・根の国物語』、それとも写真家荒木経惟と生み出した『物語ソウル』の本を手にとったり、あるいは韓国の詩人金芝河(キム・ジハ)との交流、評論家柄谷行人氏や都はるみとの長い付き合い、故郷・熊野新宮市での活動熊野大学など)や描きつづけた「路地」のこと、浅草に出る前のビートたけし永山則夫がバイトしていた新宿ジャズ喫茶「ヴィレッジ・バンガード」の常連客だったことなど、どこかに記憶されているかもしれません。

数多くの著作や活動は、中上健次自身の野太い”根っこ”につながっていることはうすうす感じてられる方も多いことでしょうが、それがどういうことなのか「伝記ステーション」で掴みとってみたいとおもいます。まずは氏の小説の登場人物の多くに、<実在のモデル>が存在していたということです。背景やシチュエーションにフィクションが入りこんではいきますが、『鳳仙花』の子供たちを抱え古座の製材工場で働きながらも私生児を孕むトミや浜村龍造は、健次の母ちさとと父鈴木留造であるし、『千年の愉楽』のオリュウノオバのモデルは代理母として生きた路地の産婆田畑リュウであったし、『枯木灘』の主人公・秋幸は健次同様に私生児で、義兄は首吊り自殺、義姉は気が狂ったのでした。『地の果て 至上の時』にも引き続き私生児秋幸と父留造が登場しています。そしてそのすべてに描かれるのが「路地」でした。「路地」とは何であったか、今一度確認してみましょう。


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「それはごくありふれた路地の日常である。子をもつ女がよその男のもとへ走り、そこまた子が生まれる。男もまたよその女といい仲になって子が生まれ、新しい所帯を持つか、もたずにまた別の女へ走る。差別のために路地では路地以外の者との婚姻がままならず、それで路地の者どうしの婚姻が増え、多情多恨の路地の者たちは蜂のように蜜を運び、花のように受精した」高山文彦著『エレクトラ中上健次の生涯』より p29)

「路地」とは同じ新宮市でも、「春日地区」にしかないものだったことがわかってきます。新宮市春日地区、つまりは新宮で最も古い歴史をもつ「被差別部落」のことだったのです。中上健次(当時はまだ、結婚する前の「なかうえけんじ」という姓名ですらなく、木下健次という名だった)はこの「路地」に幼い頃住んでいただけで、母ちさとが再婚すると同時に新宮市の野田地区へと転居してしまいます。転居先は市の新興地で、そこには「路地」はなかったのです。これが中上健次に決定的な動機と契機を与えていきます。まさに「三つ子の魂百までも」です。ウィキペディアはだいたい単純化される傾向があるので、中上健次被差別部落出身と表記してしまっていますが、「血」からみれば中上健次の身体のなかには、春日地区の「路地」の血は入っていません(『高山文彦著『エレクトラ中上健次の生涯』)


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どういうことかというと、母ちさとも実父の鈴木留造ももともと春日地区の外部の人間だったからで、古座川の河口の西向と三重の熊野市からそれぞれ流れ者のように新宮市の「路地」へとだどり着き居着いたからでした。その地は、「人と人とが蔦のように縒りあわさり絡みつく一本の大きな樹木のよう」高山文彦エレクトラ』)で、昼間から酒を飲んでぶらぶらしている人が多かったことが鈴木留造を、この路地に引き寄せたのでした。しかし、多くがぶらぶらしている訳は、この路地の者たちが差別の目で見られていたため材木担ぎや丸太を使った木馬引き(木場や製材所が多かった)か下駄の修繕(女も下駄の修繕手伝いか行商)の仕事にしかつけなかったためでした。27歳になっていた母もまた行商の仕事ならそこでなんとか就けたために居着いたようです。
枯木灘 (河出文庫 102A)

「昭和二十一年 飢餓の喜びにふるえた 女の 陰部から ビロードの不幸をまとって 父のない 流動体のスピロヘータが とびだした 四歳の時、髭の感覚をともなった男が 網走までの 片道切符をくれた。 隣家の二羽には固いつぼみのバラが 神話を語っていた。 十一歳 山々の連りに 圧しつぶされても 歌うべき生命を知った。 十三歳 人々は密殺の企てを 夢に きらびやかな虚栄をまとって 嫁いだ。……」(「履歴書」1966年より抜粋;19歳の時の詩/地元の文芸の会「道」の同人誌に掲載)


中上健次は1946年、8月2日、母・木下ちさとの第6子として、和歌山県新宮市新宮に誕生しています。新宮は「記紀」の世から日本の神話にあらわれる地で、それは大和に平定された隠国(こもくり)であり、熊野信仰の中心地であり寺社町、城下町です。かつてはその地の中程に臥龍山がありそこより海寄りを熊野地、熊野の山寄りを新宮と呼んでいました。その新宮の方に繁華街も盛り場も遊郭もあり、健次の実父鈴木留造は、そこで博打と喧嘩で名を馳せシャブもやるアウトローとして知られた人物だったのです。

通称「イバラの留」こと留造は、「路地」でかき集めた朝鮮人を何人も引き連れた喧嘩好きの無頼派でしたが、一向宗徒の頭で武装化した雑賀一族の末裔が自身の”根”にあると語っていたようです。鬱憤を晴らせば再び留置場へ。その繰り返しで結婚生活も半年未満。健次は私生児として誕生することに(ちさと六月ーむつきの腹の時、父留造は賭博で逮捕。上の健次の詩にある網走とは、父が網走刑務所に送られたとのことを言う)。しかも博打で上げれば春日で最も羽振りをきかせていた「イバラの留」は、時を経ずして母の他に2人の女をつくり、同時に妊ませていたのです。
小説『火宅』のなかで、刑務所から出てきた実父がやってきた時に「お父ちゃんとちがう」と言って追い返したことが描かれていますが、それは実際に3歳の健次の身の上に起こったことでした。母と健次は実父を否認、そのため「私生児」になったのでした。じつは私生児だったのは実父もまた同じで、さらに母ちさともまた私生児だったのです(母ちさとは8人兄姉の末っ子、健次と同様ただ一人父が違う私生児だった。ちさとは敗戦前年に次男を亡くし、肺病を患っていた先夫・木下勝太郎夫とも死別)


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中上健次は『紀州 木の国・根の国物語』の中で、かつて町の中を熊野川が流れていた新宮の土地を次の様に描いています。「新宮は水の上にある土地である。そこで水よりも濃く、重く、ぬくもりのある血を持った人間が、四方を、山と川と海に囲まれ、生活している。夜、寝静まったこの土地に、海鳴りがする。その鳴りつづける水、あふれる水の方にではなく、”穢れ”は澱のように、草と木でつくった折りたたみできるような家の暗がりの中で、血のつまった体を持った人間の方に降りつもる」と(町のどこを掘っても丸い角の削りとられた石のばかり出てくる土地だと)

水の上にある新宮市には、上田秋成の『雨月物語』にある「蛇性の淫」にまつわる樹木が繁る浮島の森があったことも知られています。また秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて日本に送りこんだ徐福の墓も駅前にあります。新宮市は木材の集散地だったため敗戦前に米軍機が焼夷弾攻撃をしていて、さらにその翌年、中上健次の誕生4カ月後、死者58人をだした南海道地震にもみまわれていたのでした。
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