伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ポール・ボウルズ(2):少年期、4ページの『新聞』を毎日発行

ポールが小学校に入学する以前からつづけていたことは、「地名」のリストづくりで、その延長上に「時刻表づくり」がありました。外を歩いている時に、気になった岩や薮があると名前をつけ時刻表に書き込むのです。

さらに架空の地名や鉄道の駅名、それに山脈、川、街をどんどん書き込んでいきます。森の小径にも紙片に地名をつけて置いていった。  


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「時刻表」はじょじょに大掛かりになっていき、最終的には陸地と海のある「惑星」すらも「時刻表」に書き込まれたのでした。「時刻表づくり」は小学校への入学で中断されたといいます。小学校は校長の面接で、1年からでなく2年生のクラスに入れられました。その2年生のクラスであっという間に一番になったといいます。しかし学校は集団のいじめが横行していて、一日通っただけで子供の世界もまた絶えまない”戦争状態”にあることを知り、石を尖らせ待ち伏せして背後から襲い仕返しをするのでした。学校では担当の先生と波長が合わず、ある時期から歌うことを拒否し、「努力の欠如」と判断されます。あまりに理解がなさすぎる先生に恨みを晴らそうと、テストの答えをわざと逆の綴りで書くようになり、テストはいつも「0」点に。母に言いつけられこっぴどく起こられて以降、学校では要注意人物に格上げされたといいます。</span>

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「ごく幼い頃から私が悟っていたのは、自分が楽しいと思ったことはさせてもらえず、楽しくないものを無理やりさせられているいう事実だった。ボウルズ家では楽しみは人をだめにし、一方、面白くない仕事は人格形成に役立つというのが常識だった。こうして私は、少なくとも全体の雰囲気や顔つきに関するかぎり、だましの達人となった。私にとって、言葉とその意味が何よりも重要なものだったので、私は口先で嘘をつけなかった。けれども私は大嫌いなことを夢中になってやっているふりをすることができ、さらに肝心なのは、私が楽しいと感じたあらゆることを隠せた点だった。こうした態度は望ましい結果をつねに生むわけではなかったが、私から家族の注意をそらすのにしばしば役立ち、そうなればすでに私の大勝利だった」ポール・ボウルズ自伝『止まることなく』白水社 山西治男訳 p.14)
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ポールが音楽のレッスンを受け始めたのは8歳の時。家にグランドピアノが一台購入された。毎週火曜日に理論とソルフェージュ、金曜にピアノのテクニックを学んだ。ポールがピアノを好きになった一つの理由は、ピアノの前に座っている間は、誰も邪魔してくることはないということ。しかも一通り練習を終わらせれば、後は自由気侭にあれこれ弾ける。その後、手際よく宿題を終わらせてからだポールの本当の時間がはじまるのでした。


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「…それから自分に課した毎日のいろいろな雑用をこなした。雑用とは、鉛筆とクレヨンで書いた4ページの『新聞』を毎日発行したり、何人かの架空の人物を日記に書き入れて虚構の世界の情報を増やしたり、取り憑かれたように家の絵を描いて、家の価格と買った人のリストを書き添え、大規模な不動産開発に向けて休むことなく完成をめざすことだった。新聞には毎日、実際には不可能な船旅をしている通信員からの報告が掲載された。「本日、カトシェ岬に上陸。あしたは、どこにいるのやら」とか。私はルーズリーフ式の大きな地図帳を持っていたが、とても重く、やっと持ち上げられるほどだった。いつも、その地図帳を部屋の真ん中に持ってきては、腰を下ろして、床の上に広げ、我を忘れて一ページ一ページ食い入るように見つめた」ポール・ボウルズ自伝『止まることなく』白水社 山西治男訳 p.36-37)


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8歳になるとマンハッタンの歯医者に一人で行かされ、その際に五番街にある公立図書館・児童室で働いていた父方のアデレード叔母とよく会うように。そして児童室の責任者の女性が月に一度、ポールに特別に本を贈ってくれるようになります。ヒュー・ロフティングの『ドリトル先生物語』やカール・サンドバーグの『ルータバガ物語』などでした。どの本にも作家たちが少年ポールへあてた献辞が書き込まれていたといいます。

アデレード叔母さんは、大人は誰もかもが自分の両親のような暮らし方をし、同じような考え方をするわけではないということを最初に示してくれた人だったといいます(父の祖母や母の姉妹たちは、お前のお父さんは手に負えない人だとよく口にしていた)。グリニッジ・ヴィレッジにある叔母さんのアパートは、なんと「日本風」で、屏風や提灯までも掛っていて、初めて見るものばかり。いつも不思議な香りがしていた神秘的空間は、ポールにとって最高のひとときだったといいます。


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それぞれに興味深い父方母方の4人の祖父母のなかで、ポールの興味を最も引いたのは父方の祖父だったようです。白い口髭いっぱいの祖父は四方の壁から天井にまで本で溢れかえった書斎で1日中読書をし、雑誌や新聞の記事を切り抜きファイリングキャビネットをいっぱいにしていました。切り抜きの多くはアメリカ原住民インディアンに関するもので、蔵書の3分の1はフランス語でした(原書でユゴーバルザックを読むためにフランス語を学んでいた。70代になってからスペイン語を学びだしている)。

少年ポールも祖父にならってインディアンの物語や彼らに関する神秘的なモノを収集するようになります。この父方の祖父母はともにどこの宗派にも所属せず新智学教会の本を読み神秘学に関心をもつようなひとだった。祖母の兄弟が瞑想に長けたヨガの唱道者で、祖父に秘義的な呼吸法を教えこんだりしています。それを獲得した祖父はポールに呼吸法を教えようとしたのですがポールはそれを不愉快だったと感じていたといいます。

 

 

 

小学校低学年の時、ボウルズ家に蓄音機がお目見えします。「チャイコフスキー第4番」がポールの記憶するかぎり初めての音楽体験でした。当初は両親の専有物でしたが、数ヶ月たつとポールがいつもレコードをかけるように。同時にレコードを買い出します(父は休みなくレコードを買い続ける)。最初に買ったディキシーランド・ジャズ・バンドもののレコードを父はクズ扱いし、ラテンアメリカの音楽を演奏する軍楽隊のレコードを買う様になったのでした。

カレンダーづくりもまた少年ポールが熱中するものとなり、クレヨンで描いた絵で毎月のカレンダーを飾ったのでした。そのいっけん子供っぽいカレンダーづくりと同じ時期に、少年ポールは「物語」を書き始めています。それは『四角形ー九章のオペラ』と名づけられたもので、叙情詩を間に取り入れ、その叙情詩にはオペラ風にメロディをつけたのでした。ポール・ボウルズが後に作曲する「オペラ」は小学生の時に早くもそのはじまりがあったのでした。

 

 

 

 

土門拳(2):仏像との出会い

鬼瓦に顔が似ているとからかわれる。関東大震災直後、横浜市図書館の蔵書を片っ端から読み、奈良・京都の仏像と出会う。首席だったが学校に行かず「写生」に向う。17歳、「考古学」への関心 


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(1)からの続き:土門拳、14歳の時(当時中学1年)、関東大震災を体験する。横浜に住んでいたが横浜市も壊滅(横浜だけでも3万人余の人が亡くなった)。

この頃、拳は美術への思いをつのらせていて、戒厳令が解除された1カ月後に、瓦礫の中を二科展が催されていた上野まで歩いて見に行っている(臨時の開催日はその1日だけだった)。

 

繰り替えされる引っ越し。「横浜の天神様」岡村天満宮のこと


拳、小学2年生の秋、再び引っ越します。父の勤めの事情でした。移り住んだ先は、横浜市磯子区根岸の下町でした(現在の根岸駅近くではなく滝頭近くだったようだ。磯子区滝頭といえば美空ひばり誕生の地。拳少年がこの地に来てから26年後のことだった。

拳少年の家からも、ひばりの家の近くからも巨大な横浜刑務所の建物が見えている。土門家は磯子区根岸監獄の赤レンガの塀に沿って歩き、共同便所を通り過ぎたところにある原っぱ脇、その原っぱの向かいに刑務所の官舎が見えたとある)。

拳は家から程近くにあったc(京都の北野天満宮の分霊を祀る。「横浜の天神様」として知られる)によく出向いていたようです。

祭礼には多くの露天が所狭しと立ち並び、境内には芝居小屋もかかり、社務所には子供たちの習字や絵が掛けられていました(ちなみにこの岡村天満宮には、現在、伊勢佐木町横浜松坂屋の屋上にあったバンド「ゆず」の壁画が掛けられファンの聖地。岡村天満宮のある岡村の地は「ゆず」の2人の出身地)。   


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拳少年はこの地で、何度も「狐の嫁入り」(無数の狐火が連なり提灯行列のように見える怪異現象)を見ています。この場所はいろいろ因縁深い土地柄のようです。


入学した磯子小学校では、勉強でも得意の習字でも拳よりもできる子が必ずいました。ならば大好きな「絵」で勝負だと画家を夢見はじめます(岡村天満宮社務所には、拳少年の習字も絵も掛けられたはずです)。拳が一途になるときかない気質だと父はわかっていたので、絵に向いだした息子に内心困っていたようです。

この頃、父は警察から追われていた社会主義者をかくまったりしています。貧乏所帯にもかかわらず居候させたりし、朝から政治論を闘わせたりしています。

社会主義者で思想家、アナキスト大杉栄を尊敬していた父は、羽織をはおい白鞘(さや)の日本刀を背負って選挙の大会に出掛けていました(後に土門拳大杉栄を尊敬するようになり、社会主義に共感していく)。


鬼瓦に顔が似ているとからかわれ顔に自信がもてなくなる。

立川文庫」を読みながら帰宅する日々

 

磯子の地はたった1年半余り、父・熊造はまたも引っ越します(父は気質的に激情家。上司と衝突し退職)。今度は東神奈川方面の神奈川区幸ケ谷で、拳は二ツ谷小学校の四年生に編入します。

ここでも成績はつねにトップクラスで、級長か副級長をつねにつとめていますが、憂鬱になる事件が起こります。鶴見の総持寺への遠足の折り、本堂の屋根の鬼瓦が土門の顔に似ていると皆が騒ぎだしたのです。

拳は少し前に、お前の容貌は魁偉なのでよほど勉強して偉くならないと嫁のきてがないぞ、と脅かされていました。すでにこの頃、声にドスが利いて負けん気が強い拳でしたが、自分の顔にすっかり自信がもてなくなり、くさってしまうのです。

小学生時代であっても、容貌の善し悪しは女の子だけでなく、男の子にも少なからず影響を与えはじめるものなのです(時代を担った人々の顔つきをとらえた写真集『風貌』は、土門の初期作品の内の重要な1冊)。そんな拳は、小学校3年までは帰宅して母がいないとワアワア泣く子供だったといいます。

 

またこの頃、両親に連れられ帝劇で歌舞伎を観ています。『忠臣蔵』の通しでした(松本幸四郎が大星由良助役)。その後、昭和になっておなじく『忠臣蔵』を観ていますが(土門は『忠臣蔵』が大好きになる)、生活が貧しくなる一方の土門家は、歌舞伎に行く機会はほとんどなくなります。

小学校3年から卒業するまでは、「東山36峰静かに眠る丑三つ時…」と無声映画で弁士が発する言葉にのって、チャンバラごっこに明け暮れています(この時代、ほとんどの子供がそうだが)。

土門拳の有名な江東区の下町の腕白小僧を撮った「近藤勇鞍馬天狗」(昭和30年)と題された写真のごとくだったにちがいありません。


ちなみに拳が子供たちを腰を入れて本格的に撮り出したのは、『カメラ』月例で、「モチーフとカメラの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」を方法論としてぶちあげた昭和28年か、その前年頃からだった(土門拳、43、44歳)。

筑豊のこともだち』は昭和35年に刊行されています。ただ子供への視線は、報道写真家として活動しだした昭和10年まで遡り、土門が伊豆や東京・小河内村で撮った子供たちのスナップ写真は、戦前の土門の代表作となっています。


5年生にもなると、拳は上野の絵の展覧会が気になって仕方なくなります。ところが神奈川からでは上野は遠く、両親も生活に追われそれどころではありません。芝の三田通りまでなんとか繰り出し、数件あった絵葉書屋で絵を見るのが楽しみになります。

福田平八郎の帝展の特選絵「鯉」が絵葉書として売っていましたが、絵葉書一枚買う小遣いもありませんでした。小学生高学年になると拳の本好きは誰がみても尋常ではなくなります。学校帰りは、「立川文庫」を読みながら帰るのがふつうで、何度も家を通り越してしまったり、本を読みながら七輪の火を焚けば気づけば七輪が白い灰になってしまったことも度々だったといいます。

小学校5年生の時、「貧乏に負けてたまるもんか」と決意(靴は荒縄で縛ったボロの靴を履いていた)。小学校の卒業式では代表して答辞を読んでいます。

関東大震災直後、横浜市図書館の蔵書を片っ端から読む。

奈良・京都の仏像と出会う


神奈川県立第二横浜中学校(現・横浜翠嵐高等学校)の受験の口頭試問で、将来の希望を聞かれた拳は、「画家」になることと答えています。その思いがどれほどのものだったか、中学1年の夏休み明けの1923年9月1日に起きた関東大震災(横浜の被害も甚大で7万2000戸が焼失、3万人余が命を落としている)直後の拳少年の行動にあらわれているようです。

東京・神奈川・千葉・埼玉に発令されていた戒厳令が解かれてすぐ(大震災から1カ月後)、拳は上野に二科展を見に行っています。震災後、品川までの汽車賃はタダで(品川より東は汽車はまだ不通)、焼け野原の中(神田橋の下には死体が浮いていた)、中学1年の拳は避難民で溢れかえる上野までひとり歩いていっているのです(二科展はその日限りで中止され作品は全部京都に送られた)。

反体制的志向がすでに身についていた拳にとって、絵を見るならば官展の文展ではなく、二科展でした。二科展は在野の芸術家のためのものでした。この年、大杉栄が妻・伊藤野枝と共に憲兵に絞殺され井戸に投げ込まれる事件が起こっています。拳は中学1年にして(14歳)、大杉栄の『自叙伝』をむさぼるように読んでいます。


横浜市では、震災後バラック建てながら横浜市図書館が復興しています。まだ蔵書は不揃いで貧弱でしたが、拳は図書館の蔵書をすべて読み尽くそうと心に誓います。最初は土曜の午後と日曜・祭日に必ず通いました。

美術書から文化・歴史本をかたっぱしから読みはじめます。次第に平日でも学校をさぼって弁当持ちで図書館に通いだし、1年程であらかた読み切ってしまったのです。土門拳はその時の「読書体験」が後年の教養の基礎になっていると後に語っています。


その継続的読書が、拳の教養の基礎になっただけではありませんでした。

この時の読書のなかで、後に写真家「土門拳」の代表作となる『室生寺』や『法隆寺』『古寺巡礼』シリーズで撮影することになる奈良や京都の寺々の仏像や建築を、書籍の挿絵の「写真」のなかに見ていたのです。


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写真という「方法」とアプローチは、拳少年の意識や認識がとらえることはまったくありませんでしたが、そこに写されていたものは拳少年の夢のような憧れとなっていきました。同時に、拳は他の書籍を読んでいる時、必ず『ニール(ナイル)河の草』(木村荘八著)を手許に置いていたといいます。エジプト美術への憧れも、古(いにしえ)の時、古代への憧れを強めたようです。

 

首席となったが、学校に行かず「写生」に行く。

ゴッホに入れあげる


図書館通いが続いたその年の3学期、拳は135名中、首席となっています。従兄に伝えると鼻の先で笑われ(従兄は秀才で一番以外なったことがなった)、それ以降、一番など取らないと決意しています。2年の時も級長を務めていますが、もはや学校ではまともに勉強しなくなっています。

その年の秋、父が失業し病気がちになり、看護婦の母の収入だけでは一家の生計はたたなくなってしまいます(退学して家具屋の小僧になる話がでていた。拳の絵を高く評価していた教師の計らいで月謝が免除され退学だけは回避された)。

 

16歳の時、拳の絵に対する情熱はさらにたかまります。学校の校門まで来ても、校舎に入る気にならず野に山にと「写生」に行ってしまうのです(雨の日は図書館通い)。そのため出席日数が足らず落第寸前に。家に居づらくなり、同じく画家を夢見ていた同級生(出田孝一)の家を居心地のよい自分の家の様におもってしまいます。

スケッチに出る時など、出田少年の母は、夕食だけでなく弁当ももたせてくれたのです。学校の10周年記念祭では、拳のクラスは震災で崩れ落ちた教室の壁に岩絵具で大きな壁画を描きます。拳が陣頭指揮をとって徹夜しながら描いたのはアンリ・ルソーの「原始の森」でした(後に国語の教師が授業の邪魔になるとして撤去された)。

 

この頃、拳の得意な科目は漢文が一番でした。教師が読む前に名調子で素読し、学校中にその噂は知れ渡ります。音楽も秀でていて、ベートーベン好きだった拳はクラスでただ一人満点をとっています。

この頃、夢中になっていたのは、小説では志賀直哉、詩では高村光太郎千家元麿、絵画ではセザンヌゴッホルノアール岡本潤ダダイズム横山大観梅原龍三郎でした。ゴッホにはとくに入れあげ、美術雑誌の原色版の口絵を集めてスクラップしたり、自分の部屋にも作品を掛けていました(ある時飽き足らなくなりゴッホを捨ててしまう)。

 

17歳の時、「考古学」へ関心が向う。両親が破局

ぎりぎりの生活に陥る


横浜貿易新報社主催の横浜美術展で、拳の油絵が入選したのは16歳の時でした(薔薇の花を10程描いた15号の作品。安井曾太郎らが審査)。中学生としては当時破格の30円で売れたといいますが、結局、ほとんどがキャンバスやら絵具代に費やされました(器用な父が額縁をつくっている)。この頃、拳は自分の作画に向う精神は神奈川駅で見た赤い痰壷の”悟り”であると感じています。古書店で雑誌『中央美術』を僅かな小遣いから買い東洋美術関係の論考を合本にしたり、横山大観の「生々流転」の図版を切り抜いて画帳をつくったりしています。興味深いのは、油絵を志しながらも関心は東洋美術だったことです。また、「小さき星の群れ」と題する同人雑誌を刊行したり、浅草のルンペンと一夜を共にして級友の尊敬を集めたのもこの頃でした。

 

 

 


父の困惑をよそに順調に伸びていったかにみえた拳の絵画への取り組みは、17歳の時、突如いったん収束します。拳の関心が、「考古学」へ向ったのです(チェ・ゲバラも深い考古学への関心をもっていたように、現実空間が混迷した時、その土地の古の姿や古人の生き様への関心が、”根っ子”から何かを照らし出してくれる)。

古代や「考古学」への興味は、国漢担当の谷川先生の影響でした(ほどなく退職し国学院大学の教授になっている。最も谷川先生は拳のことをつねに気にかけ絵描きになれば必ず一人前になると励ましていた)</span>。拳は埋め立て様の土の採掘現場になっていた横浜の高島山の山頂近くの崖から、胴に鋸歯文が施された弥生中期の甕(かめ)を掘り出したり、矢じりの研究に没頭します。中学校の周りにも10カ所程の古墳があり、縄文・弥生文化時代の遺物が多く発見されていた頃でした。拳は学校を休んではあちこちの古墳に行って掘っては調査にいそしみます。

後に土門拳が全力で取り組む『古寺巡礼』などに繋がる「二の矢」が、この「考古学」への興味と古代への夢だったといえるかもしれません。遡る「一の矢」は、横浜図書館で「写真」を通して見ていた奈良や京都の寺々の仏像や建築にあり。

 

 


この頃、父の女性問題から、母は拳を連れて家を出、横浜造船所内の医務室の看護婦として働きながら、拳の面倒をみています(横浜市西戸部町へ引っ越している)。両親が別れてからは、経済的には赤貧洗うが如き状態が続きます。母が仕事から帰ってくるまで、七輪で火を熾すのが拳の役割でした(手にはいつも本があった)。
歴史の試験では、出題とはまったく関係のない考古学(矢じりの研究)について書いて提出したり、アインシュタインの『相対性原理』に険しい顔をして取り組んでいます。あれこれ考えあぐねると、鶴見の総持寺へ行って座禅を組むのでした。


中学校の修学旅行は、拳少年にとって後の『古寺巡礼』に向けての「三の矢」となります。修学旅行先は、京都・奈良でした。法隆寺では皆がワイワイ騒ぐのをよそに、拳は一心不乱に画帳に写生しメモを走らせていたといいます。これら「三本の矢」以外にも、生地・山形の日枝神社や持地院の大仏にはじまり、桐(きり)の老樹への愛着、引っ越し先の谷中や芝公園界隈、岡村天満宮などが、それぞれに「三本の矢」を形づくる成分になり土壌になっていたにちがいありません。

修学旅行後の印象記は先生に激賞されていますが、いつも首席だった拳の心はもはや学校の成績にはありませんでした。中学校の卒業時の成績は、119人名、後ろから数えて2番か3番でした(拳はビリで卒業するぞと決めていたが)。それよりも世話になった同級生(出口君)のために合本をつくっていたのです。「落葉集」と題された手づくりの合本には、ギリシャの壷から唐代の五彩壷、南画に「栄華物語」、写楽漱石安井曾太郎などについての口絵や論文、翻訳で埋まっていました。
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土門拳(1):「老樹」に憑依する心

染物の家業傾き父は北海道へ、貧乏な祖父母に預けられる。桐の老樹に憑依した拳の心。6歳、一家は東京谷中の裏長屋に引っ越す


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はじめに:

魂が”遊離”し、被写体に”憑依”するまで対峙する撮影現場


剣豪・宮本武蔵の”殺気”をはらむ「絶対非演出の絶対スナップ」の極意をうたい戦後の「リアリズム写真」をリードした土門拳

そして写真集『筑豊のこどもたち』『ヒロシマ』『室生寺』『古寺巡礼』『西芳寺竜安寺』『法隆寺』『日本の彫刻』『風貌』『文楽』『信楽大壷』などは、偏執狂的な執念と気迫、情念の激しさが生み出したものでした。


土門拳の”鬼気迫る”撮影は、密教行者の修行法と似ているといわれます。自身の魂が”遊離”し、被写体に”憑依”するまで、つまり「実相観入」するまで、ずっと被写体と対峙するのです。

それが仏像ではなく、生きた人物を撮影する時は、カメラによるあまりの凝視に相手の魂が飛び出てきた時に(怒った時)、シャッターを切ったのでした。

計算を裏切るほどの予想を越えた写真ができたときは、「鬼がついた!」と無邪気に喜んだという土門拳

「シャーマン」のごとき写真家だったといわれる土門拳の「マインド・ツリー(心の樹)」には、はたして何があったのでしょうか。

おおむね「観察(Observation)」を撮影の軸にする欧米の写真家や、ドイツの新興写真に刺激と影響を受けて出発した日本の前衛的写真家たちとは異なる土門拳の”求道者”的写真観は、いったい何処から来たのか、何に”依る”ものだったのでしょうか。

それでは一緒に土門拳の「心の樹」の”根っ子”へ向ってみましょう。

 

江戸時代交易の中継点として栄えた酒田。明治期、母の実家の船宿は衰退へ


土門拳は、明治42年(1909年)10月25日、山形県飽海郡酒田町(現・酒田市)に生まれています。北方に鳥海山、南方に羽黒山や月山、その間を日本海へと最上川が流れる庄内平野随一の米どころの町です。

16世紀前半に奥州藤原氏最上川の河口の砂地を開拓して繁栄しはじめ、江戸時代の17世紀後半には、西廻り航路が整備されると、北前船の寄港地・貿易の中継点として、「西の堺、東の酒田」と呼ばれるほど栄えました。

西方の日本海に流れこむ中世から貿易の中継点として栄え旧い歴史が刻まれた町です。

寺と仏像手帳

寺と仏像手帳

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土門拳の母とみの実家の安島家は、その酒田・出町で、まさに船宿「越中屋」(もともとは越中富山の出身)を営んでいたのです。

私の履歴書』では、廻漕(かいそう)店とも記されているので、舶による物資の運送も一部していたのかもしれませんが、主な収入源は船乗りたちの宿料でした。が、交易の中継点となれば古今東西、繁栄あれば、また衰退もあり。また帆前船が発動機船の時代となり、船宿の需要は激減、衰退していきました。

そんな折り、庄内大地震明治27年)で「越中屋」は焼失、船宿は廃業となります。以降、とみは需要が減る中、鷹町にある廻漕店の事務員となって移り住みます。とみは5人兄妹で、兄弟にはさまれていたので勝気な性格になったようです。

 


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鳥海山と月山に囲まれた酒井市は映画『おくりびと』のロケ地としても知られます

 

江戸時代から続いた染物の家業はすっかり傾いていた。

廃業し、父は北海道へ


父の土門熊造の実家は、酒田町内町で代々染物業を営んでいました。内町とはかつての庄内藩(藩庁は鶴ケ岡城)の亀ケ崎城の外郭の内という意味です。1622年信濃国松代藩から酒井忠勝(戦国武将・徳川四天王酒井忠次嫡流)が入封して以来、町屋敷となっていました。

土門家は江戸・元禄以前からある家柄でしたが、明治期に入る頃には、土門家の家産はすっかり傾きかけていました。熊造は、もとは道向こうの隣家で呉服を生業としていた糸谷家(戦国以来の商家)の三男でした。

よく遊びに来ていた熊造は気に入られ(美男子で、ポマードを髪につけモダンな感覚があった)、土門家に実子がいたにもかかわらず養子受けされています。そのため本来の土門家と土門拳とは、血縁はありません(長男を除く男児の養子縁組みは一般的な時代)。

土門拳の祖父・糸谷六郎兵衛もまた糸谷家に養子に入っています。六郎兵衛は、本業の呉服屋をほっぽいて好きな書画骨董の店をもったといいます(後に土門拳が、骨董に熱を上げたのは、晩年、父・熊造も細々と骨董屋を営んでいて、親子血は争えないという証の一つにもなりましたが、じつは祖父もまた骨董に血道をあげていたのです)。

 

拳という名前ですが、文学好きだった父熊造が、作家・(秋田県六郷町出身)の小説『こぶし』からもらったもので、貧乏な家の子は徒手空拳をもって身を立てよ、という意味でした。

このことからも土門家は、すっかり貧乏所帯にあったことがわかります。拳が生まれた頃には、染物業を廃業し、県の酒田支所に勤めサラリーマンになっていました。

拳が生まれ、生活の糧を稼ぐため、熊造は意を決して、ニシン漁で湧く北海道に渡ります。北海道の漁村・漁場(わちやまさ)の事務員となって働きはじめるのでした。

 

近所の写真館での撮影を怖がっていつも暴れた。

幼少期の写真がない理由


母は拳を連れ、酒田・鷹町(現・相生町)に移り住み、すぐに台町にある兄(母の実兄)の家に引っ越します。兄は乾物屋を営んでいました。土門母子は乾物屋の裏にある狭い部屋で暮らしだしました。八重桜の大木が生えていました(後に40年ぶりに酒田に帰郷した土門は、この桜を目安に住んでいた家を探索している)。その桜の花が塩漬けにされたものを食べていたといいます。近所に写真館がありました(伊藤写真館)。

 

新版 土門拳の昭和

そこが土門拳と「写真」との最初の出会いとなりますが、撮影時に黒いかぶりをかぶると拳はそれを怖がって泣いて暴れ出すばかりだったといいます。

母は大きくなった拳の姿を北海道にいる父にみせようと、写真館の家族も総出でなんとかあやして一枚でも撮ってもらおうとするのですが、拳は写真館でなくとも一度暴れだすと誰の手にもおえなくなるほどなので、写真家さんも根をあげてしまうのです。

当時はシャッターチャンスなどありえないカメラで、しっかり露光しなくてはならず、動き回れば乾板に画像は定着できませんでした。このため拳には、幼少期の写真が一枚もないのです。

しかしあまりにも強烈な印象を拳の心に刻印した恐ろしい「カメラ」は、少年時代に、伊藤写真館の娘とすっかり友達になるにつれ、拳の心の内に、反転して興味の対象として記憶の底にあり続けたにちがいありません。

 

2歳の時の記憶。父も母も北海道へ。

貧乏な祖父母の家に預けられる


拳の記憶力は優れたものがあったようです。最初の記憶は2歳の時で、母に連れられ父が仕事をしている北海道に行った時のものだったといいます。いろりの火が赤鬼のような海の男たちを照らしだし、2階に上がると暗い電燈の下で父と母がひそひそと話をしている。そんな光景でした。

そして酒田への帰り、津軽海峡を渡る青函連絡船からみた暴風雨でうねる真っ暗な海も、合わせて記憶に刻み込まれたのです。どちらも恐ろしく暗い記憶です。


拳4歳の時、母子で自活するため、母が看護学校に入校。拳は看護学校に遊びに行っては、白衣の母の両手にぶらさがって甘えたといいます。

しかし母までも、看護婦として北海道に働きに出ることになってしまうのです。それ以降、父も母も年に一度しか酒田に戻ることはなくなってしまうのです。


そのため拳は日枝神社の山門近くにある母方の祖父母の家に預けられました。母の実家の安島家は、日枝神社(山王さん)の氏子の一軒でした。けれども祖父母の家もまた貧しく、端午の節句に鯉のぼりをあげることもできません。

5、6歳の頃、借金取りに責められている祖母の涙声を、拳は障子の陰から聞いています。拳は「貧乏だからだ。貧乏だからだ」と悔し泣きに泣いたといいます。祖父にとってたった一人の孫の拳を祖父は可愛がり毎晩、拳を抱いて寝床に入ったといいます。

そんな祖父と一緒に日枝神社の山門を通って、日和山公園(出羽三山庄内平野を一望できる)へ行くのが拳は大好きでした。5歳の時、鷹町にある持地院境内に13メートルもある銅製の大仏が建立されました(第二次大戦で金属不足から軍に摂取される)。

当時立像では日本一高いとされ、酒田の名物になります。拳少年もこの大仏を子供心に何度も見上げたにちがいありません。

 

桐の老樹への愛着。老樹に「憑依」するような拳の心


でも皆がいない時は、拳は薄暗い家に一人ポツンといるばかり。拳は雑誌の余白や部屋の白壁に落書きをして寂しさをまぎらわせました。家の裏庭の隅に。桐(きり)の老樹がありました。

拳はよくこの大木の下で遊び、友達と手をつないで幹の太さを計ったりしたといいます。桐の老樹は、拳の日常そのものでした。雨の日も、窓から雨に打たれる桐の樹を眺めていたといいます。

すると心が「遊離」し、老樹に「憑依」したようになってしまうのです。あるいは老樹と「交信」しているようにさえ感じたといいます。拳少年の「マインド・ツリー(心の樹)」は、この桐の老樹に深く、強くつながっていました。


拳は生まれた時から老樹のように色黒だったといいます。意地っぱりで、まっ黒になって容易に泣き止まない拳は6歳の時、祖父母の家が商売に失敗し、家を手放さざるをえなくなった時、桐の老樹も伐り倒されることになることを知り、拳は大きなショックを受けます。伐り倒される前夜、拳は寝床を抜け出して老樹に抱きつき、樹肌を撫でて泣きどおしたといいます。後年、土門拳は、愛するものと別れる切なさ、つらさを知ったのは、桐の樹がはじめてだったと述懐しています。桐の老樹の一件は、なにか根源的なものに向おうとする拳の資質、そして気にいった”もの”など対する偏執的な愛着の萌芽を映し出しているようです。また祖父もこの頃、亡くなっています。

 

 

それでもこの頃から負けん気は人一倍強かったといいます。意地っぱりで、町の人を閉口させるほどのガキ大将になっていました。

「集まれ!」と一声叫べば、同年の子はもとより年上の子まで集まってきたといいます。そしてはじまるのが物干竿を振り回してのチャンバラでした。拳が戦後に東京の江東でさかんに撮った「こども」(未刊『江東のこども』)の写真は、まさに自らもそうだった腕白小僧たちだったのです。

写真「江東のこども」は、後の荒木経惟の写真『さっちん』の原型の一つといっても過言ではありません(写真「江東のこども」の一点には、ヤモリをくりくり頭に乗せた子供の写真がある。アラキ写真にしばしば登場するヤモリの「ヤモリンスキー」を思いださせる)。

 

6歳の時、一家は、東京谷中の裏長屋に引っ越す


拳、6歳の時、土門一家は、東京へ居を移すことを決意します。生活を打開するためでした。両親が先発隊となって乗り込み、拳は後に伯父に連れられ上野に向かいました。

上京先は、下谷区(したやく/現在の台東区)谷中初音町の裏長屋でした。ガキ大将だったこともあり、そうやすやすとキザな東京弁を使うには抵抗を感じ、なかなか友達ができませんでした。さすがに方言丸出しを通すのも恥ずかしく、間違った東京弁を使い、それがおかしく駄菓子屋のおばさんに可愛がられたと言います。

遊び場所は、谷中の墓地を抜けたところにある上野の山界隈でした。翌年、また引っ越し。拳は麻布区の板倉尋常小学校に入学します。神社仏閣が多い芝公園界隈は、腕白小僧には格好の遊び場で、そもそも苦手な勉強はいつも後回しでした。

能筆家だった父に厳しく手習いを受けた習字の時間だけは先生に誉められましたが(土門拳は生涯、「書」を好み、手紙は巻紙に書いた)、他は押して知るべしです。

浅草では直前で財布を落として観れなかった映画を、芝の大門館ではじめて観ています。無声映画時代で「目玉の松ちゃん」が全盛の時で、暗闇の中の映像の不思議さに驚くばかりだったようです。

また土門拳の記憶では、2年生の夏休みの時、家の書架にあった俳句集をひっぱり出し、偶然によんだ松尾芭蕉の俳句からえもいわれぬ清々しさ、全身を包み込むようなさわやかな光を感じたのでした。

(2)に続く


・参考書籍『拳眼』土門拳世界文化社 2001刊/『土門拳-生涯とその時代』阿部博行著 法政大学出版局 1997刊/『火柱の人 土門拳』都築政昭著 近代文芸社 1998刊

 

 

 

 

 

 

鬼の眼 土門拳の仕事

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  • Mitsumura Suiko Shoin
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ヨーゼフ・ボイス:自然との関係こそがルーツ(2)


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ギムナジウム時代、ボイスは多面的で複雑な性格をみせています。

じっとしていられない性格のボイスは独創的な悪戯ら者で落第も経験する一方、校長先生はボイスをかばったり、かつて戦争体験で両脚が義肢だった英語教師が学校まで安全に通勤できるよう自転車で学校まで伴うリーダー役であり、早朝の挨拶は一番大きな声を出す快活な生徒だったといいます。

 

そんなボイスは、自宅に帰ればほとんど実験室の様な自室でさまざまな植物や茸などを観察し帳面に書き留め、「植物コレクション」(15歳の時、絵にあらわれた芸術的早熟さは周囲を驚かせていた)をつくりあげただけでなく、ネズミや蠅、蜘蛛、カエル、魚などを飼育するミニ「動物園」をつくりだしています。

 

その一方、チェロとピアノのレッスンを受けていました(学校のオーケストラではチェロ担当だった)。後の作品「鹿追い」や「チンギスハン」のイメージは、この頃羊飼いの様に走り回っていた記憶を呼び覚ましたものといいます(『評伝 ヨーゼフ・ボイス』ハイナー・シュタッヘルハウス著 p16)。

この頃ボイスは、小説もよく読み込んでいて、ロマン主義文学のヘルダーリンノヴァーリスゲーテやシラー、またスカンジナヴィアの詩人ハムスンには魅了され、哲学では、実存主義の先駆者キルケゴールに熱中していました。

 

たとえば、「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが肝要」であり、「自分の存在に無関係に成立する<客観的真理>よりも、自分の存在と直接重要性を持つ<主体的真理>のほうが大切ではないか」というキルケゴールの認識はボイスに通じます。

 

 

そして、エドヴァルド・ムンクの画を画家のなかで最も評価し、作曲家でお気に入りだったのはサティとリヒャルト・シュトラウスでした。

そんななかボイスは「彫刻」に目覚めていきます。

さらにボイスはしばしばクレーフェの彫刻家モートアトガード(エゴン・シーレを虜にした彫刻家ジョルジュ・ミンネを敬愛)と知り合いアトリエを訪れています。

 

そして17歳の時(1938年)、ボイスの芸術家人生にとって決定的な影響を与え、”霊感”を与え、まさに手本となった彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックを”発見”するのです。

ボイスはレームブルックから彫刻を”直感”によって把握する、新たな彫刻概念を獲、それは後に「心的な材料」で彫刻をつくりだす「社会彫刻」へとつながっていく

 


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このギムナジウムの校庭で、ナチスが命じた焚書しなくてはならない書籍のなかで見出し、灰になる寸前、レームブルックの彫刻の複製図版が載ったカタログを抜き取って救ったのでした。

その本の山の中にはトーマス・マンの作品やスウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネの『植物分類体系』もあったので、ボイスは抜き取っています。

 

ギムナジウム時代、ボイスの”心根”は、なんとも広く深く伸びていっていることがわかります。


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そしてその独特なかたちをとりはじめた”心根”ゆえ、ボイスは小さな旅回りサーカス団の虜になり、動物飼育係として働いたり、サーカス団のポスター貼りや大工仕事をして過ごすようになるのです。

ギムナジウム卒業時(大学入学資格試験がある)前の1年間にわたってのことでした。

 

ギムナジウム卒業がご破算になったと嘆き悲しんだ両親は、息子ボイスをライン河上流で探し出し連れ戻し、マーガリン工場で働くよう仕向けましたが、教師たちがボイスを援護し1年かけて卒業までこぎつかせています。

 

キース・リチャーズ(2):自伝『ライフ』に記されていた驚くべき事実

さてこの頃には、少年キースは聖歌隊(イギリス有数の聖歌隊に成長をとげた。ウエストミンスター寺院内の教会でエリザベス女王の前で学校対抗の合唱コンクールに出場)に所属し、優秀なソプラノとして学校を代表して活躍していていました。


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キース・リチャーズ(1)より:一方、少年キースの「ワル」が突如あらわれだし、軌道がズレだした時期と理由を知っておくとよいかとおもいます。

時は13歳。なぜ少年キースは、学校に対して「敵意」をもちだし「反抗」しだしたのか。それは学校側の少年キースに対する心ない仕打ちがあったからでした。


「当時の俺にはこの国と国が象徴する、あらゆるものをぶち壊すだけの理由があったんだ。それからの3年間は学校を困らせるために費やされた。反抗者を育てたけりゃ、あんなふうにすりゃあいい。もう散髪はしない。

 ……学校が困ることはなんでもやった。それで何か得られたわけじゃない。親父からは何度も顔をしかめられたが、それでも俺はやめなかった。今思うとすまないことをした…悪かったな親父。

 だが当時の俺はそれどころじゃなかった。今でも心がうずくんだ。あの屈辱はいまだに消えてなくならない。あの燃えたぎる怒り。世の中を疑い始めたのはあのときだ。ただのいじめっ子より大きないじめっ子がいることに気がついたのは、あのときだった。

 やつら、権威や権力者のことだ。退学になろうと思えば簡単になれる方法はいくらもあった。しかし、そうなるとわざと退学になったことを親父にたちまち見抜かれただろう。だから、ゆるやかな作戦にせざるをえなかったんだ。

 いずれにしろ、学校にも、思いどおりいい子にする努力にも、完全に興味を失った。通知表? 好きなのをよこしな、いくらでも書き換えてやる。俺はすごく偽造がうまかったんだぜ」(キース・リチャーズ自伝『ライフ』p.59)

何が起こったか。それは13歳で変声期を迎え声が出なくなったソプラノ担当の3人(キースを入れ)に対し、学校側はツレなくお払い箱にし、早々留年を言い渡したのです。

学校サイドは授業の時間の一部が合唱のトレーニングがあてられていたことなど全く考慮ない無慈悲な留年宣告でした。

少年キースが学校を「敵意」しだし「反抗」しだしたのにはまったくもって充分な理由があったのです。

これは私自身にも状況は違えど身に覚えのあることで、お門違いも甚だしい留年宣告に多感な少年が反抗心を抱いて当然といえます。

キースが言うように「ただのいじめっ子より大きないじめっ子(=学校権力)がいることに気がついた」わけです。

一族のDNAともいえる自由奔放さに、この仕打ちからくる反抗心、それに音楽好きが相俟って、少年キースは無意識のうちにもある方向へと歩みだしていきます。

しかし、10代半ばではその方向が何なのかは、すべてが不確かで根拠もまったくないわけですが。『「まっとうな職につけ」「ええ?親父みたいにかい?」俺は親父に憎まれ口をたたき始めた。よせばいいのに。「俺にもバルブや電球を作れってのかい?」


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「ただそのころ、俺は大きな野望をいだいていた。どう実現したらいいか、何か根拠があったわけじゃないが、なんのかんの言っても自分にはこの社会の綱を抜けて立派に戦える力があると思っていた。両親は世界大恐慌のなかで育った。何かを手に入れたら、必死にそれを守りつづけ、それでおしまいだ。

 バート(父)は世界一野心のない男だった。一方、俺はガキだったし、野心がどういうものかさえ知らなかった。だが、俺の育っていた社会やら何やらは、俺にはちょっと窮屈すぎたんだな。

 単なる十代特有のいきがりだったのかもしれないが、出口を探す必要があることだけは確かだった」(キース・リチャーズ自伝『ライフ』p.72

「何か根拠があったわけじゃない」っていうのもまさにそうで、少年キースはアコースティック・ギターをようやく手に入れた頃。15歳の時、母が初めてガット弦のギターを買ってくれたのです。

それからというものギターは、少年キースの身体の一部になります。魂の延長に。何処へ行くにもギターと一緒、とにかく他のことなどすべて忘れるほどに夢中。眠る時もギターと一緒でした。

これは超一級になるギタリストならばほとんど同じ光景といってもいいでしょう。ただ少年キースの場合はかなり几帳面なところがあり、スケッチ兼ノートブックに、聴き込んだロックンロールのレコード「リスト」を綺麗な文字で記しています。

エディ・コクランエヴァリー・ブラザーズ、クリフ・リチャード.....そして別枠で書き込まれていたのがエルヴィス・プレスリーでした。 

 

Talk Is Cheap

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自伝『ライフ』では、エルヴィスの感動とはまた別に少年キースが圧倒的な感銘を受けたものについて触れています。しかも極めて重要なことにつながることです。

少年キースがエルヴィス同様に魅了されたのはスコッティ・ムーアとそのバンドでした。つまり、演奏をする「バックバンド」のサウンドとその存在が少年キースを虜にしたのです。

バンドのメンバーのなかで互いに反応しあい、そこから溢れだすサウンド。そうしたサウンドは一人の歌い手ではなく、「バンド」から生まれてくるものでした。少年キースにとって「バンド」はこうして特別なものになっていくのです。

 

「バンド」といえば、「ローリング・ストーンズ」! 

キース・リチャーズはバンド「ローリング・ストーンズ」の要の位置にいつづけています。

キース・リチャーズの存在こそが、「ローリング・ストーンズ」が半世紀にもかけて、強力なバンドでいつづけられている理由です。

それは決して結果的に続いたというのではなく、バンドを結成する以前に、バンドリーダーとなるキース・リチャーズの心の裡に芽生えていたことだったのです。

身も心も打ち震えるサウンドは、「バンド」でなくては生み出せないものなんだと。

 


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グループで「結束」することの面白さを、少年キースはギターを手にするより少し前に入団していた「ボーイスカウト」で発見しているのです。学校と違いボーイスカウトで、少年キースはあっという間に昇進しています。進級章(バッジ)を立て続けに幾つももらいパトロール・リーダーにすらなります。

キース・リチャーズは自伝『ライフ』の中で、「この頃の経験は思った以上に意味があったような気がする」「グループを組む訓練になった」と実際に語っています。しかも少年キースは、ボーイスカウトで「団結が堅い」グループをすでに結成していたのです。

 

 

こうした少年期のことはもちろん、自伝『ライフ』には興味がつきないことが数え切れない程書かれています。そのほんの一例をあげてみます。オープンGチューニングを発見した時のことです。

シタールの共鳴弦と同種の不思議な鳴り響きつづけるサウンド。「根源音(ルート・ノート)」=ドローンをついに発見し、これまで以上にギターサウンドの探求に向うキース。

この探求心にしてこのサウンド、そして半世紀鳴り続けたバンド「ローリング・ストーンズ」。最強のロックンロール・バンドの核心にあるものがここに記されているといって過言ではありません。


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「夢中になってギターを学習しなおした。気持ちが奮い立つ感じがした。まるで別の楽器に向きあってる気分だった。

……五弦をきっかけに西アフリカの部族を訪ねた。すごくよく似た楽器があった。五弦楽器の一種で、バンジョーに似た感じだ。同じドローンを使っている。それが声と太鼓をすばらしく引き立てる。

 

その底辺には一貫して、全体を通り抜けていくひとつの音が潜んでいる。モーツァルトやヴィヴァルディの作品に耳を傾けると、あの二人もドローンを知っていたことがわかる。

ひとつの音を本来ないはずの場所に残し、消さないで、風に揺れるにまかせ、死者を美しく甦らせる。

いつどこでそれをやればいいか、あの二人は知っていた。これが音楽なんだ」(キース・リチャーズ自伝『ライフ』p.273)

 

Let It Bleed

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Aftermath

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Beggars Banquet

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デイヴィッド・リンチ(2):「映画」と「絵画」と


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小さい頃から絵を描くのが好きだった。

庭に「発見」した生命の活気と死

デイヴィッド・リンチ(1)の続き:

デイヴィッドは小さい頃からいつも絵を描いたりそこに色を塗っていたといいます。描いていた多くは当時一番のお気に入りだったブルーニング・オートマティック水冷式サブマシンガンで、ピストルや弾薬、飛行機もよく描いていました。

第二次世界大戦が終焉し、周りにはまだその感覚や空気が漂っていて、デイヴィッドは木製のライフルからヘルメットにアーミーベルト、それに飯盒(はんごう)ももっていた頃でした。絵を描くことが好きだと分かった母は、デイヴィッドに塗り絵帖を買い与えることはしませんでした。

それは創造力についての母エドウィナなりの考え方で、塗り絵帖を与えてしまうとせっかくの創造力やイメージ力を限定してしまうと思ったからだといいます。その代わり、父がいろんなサイズの紙を山のように持ち帰ってきていました。林業にも関する仕事だったので、紙だけは仕事柄いくらでも手に入ったのでした。

 

おそらくは絵を描いていた頃のこと、デイヴィッドはクローズアップで好きなものを描いているのが好きだったので、少年デイヴィッドの世界は、2ブロックほどの範囲以内ですっぽりと収まってしまったいたといいます。

実際に、その範囲以外の記憶がほとんどなく、思い起こすことができないというのです。けれどもその2ブロックの範囲内の世界は、少年デイヴィッドにとって一つの宇宙のように広大で無限でした。

それは物事のディテールが虫眼鏡を通して見るかのように異様に膨らんでくるかのようにーミクロコスモスが目の前に迫り来るかのようにー少年デイヴィッドの感覚を捉えるのでした。

走り回るのが仕事の子供ならば、一足で飛び越えてしまったりするような庭の片隅にしゃがんで、デイヴィッドは何時間でも過ごすことができたといいます。

 

その庭は一皮剥けけば生命の活気に満ち、いろんな世界が出現することがいったん分かれば、子供にとってもう一つのプレイランドの家の中は、少年デイヴィッドにとっては閉所恐怖症をもたらしかねない場所になっていました。

それでもデイヴィッドが子供時代は、牧歌的で本当に幸福だったと思えたのも、庭の<自然>と<生命の多様性>がすぐ近くにあることを知ったからだったのです。

同時に、幸福な少年時代であったがゆえに、その庭で誰にも知られないままおこなわれている生命の腐敗や死、生き物同士の攻撃や虐殺があることを知ったデイヴィッドは、美しいものの裏側、世界の裏側のことに敏感になっていったのです。


少年デイヴィッドの「マインド・ツリー(心の樹)」は、家の庭を芝生の裏側に無数に根を這わせ、さらにそこと地続きの深い森へと続いていたにちがいありません。

そしてその根は、生命<span class="deco" style="font-size:small;">(いのち)</span>が水分とともに別の生命の腐敗と死からなる養土としていることを感知してしまっていたのです。

 

そのため幸福な少年時代だったと同時に、少年デイヴィッドは、一方で「子供の頃は恐怖の中で暮らしていたというより苦しんでいた。こんなの普通じゃない」と感じ取っていて、自分だけがどうもどこか感性帯が違うのではないかという疑いが生じてきて、それは子供ながらほとんど確信に近いものがあったといいます。

 

映画『イレイザーヘッド』の異様な胎児や、チーズと七面鳥の肉で人間の頭のかたちをつくりそれを粘土でくるんで蟻がやってくるのを待ってつくった「クレイ・ヘッド・ウィズ・ターキー、チーズ・アンド・アンツ」というアート作品などは、その確信の延長線上にあるものにちがいありません。

 

デイヴィッド・リンチは自身を「アイデアやイメージに波長を合わそうと試みる”ラジオ”のようなもの」と形容していますが、自然や生命もまた何処か”向こう側”からやってくるのであり(それはデイヴィッド・リンチが映画製作において偶然や事故、ツキや直感に対しつねにオープンだということにつながる)、それに静かにチャネルを合わせようとすることが、そもそも創作のはじまりであり重要な要素なのです。

サウンドやリズム、イメージの質感、色感覚に、異様にこだわるのも、空間のなかの”見えない”領域や地形を感受するからに相違ありません。


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画家だった友達の父のスタジオを訪れ、

画家の道に全力ですすむことを決意

 

14歳(1960年)は、少年デイヴィッドにとって一大転機の年でした。将来どうなるのだろう、どうしたら一番いいのか、あまりにも獏(ばく)として、絵を描くのが好きだということ以外なにも思いつかなかったといいます。

せいぜいが父が林業関係の科学を専門にしていたので、薄ぼんやりと自分もそうなるのかなと思っていたくらいでした。ところがある日のこと、当時のガールフレンドの家の前で、友達のトビー・キーラーに偶然会ったことが少年デイヴィッドの運命を決定づけます(じつは友達のトビーはその女の子が好きで家の近くに居合わせたのだった。

 

後にトビーはデイヴィッドから彼女を奪うことになる)。トビーはどうもデイヴィッドが絵を描くのが好きだということを知っていて、自分の父は画家なんだとデイヴィッドに教えたのです。

トビーの父はアート界にその存在が広く知られる画家ではありませんでしたが人生を絵に捧げていた渋い画家で、デイヴィッドはワシントンD.C.近くのジョージタウンにスタジオを構えるトビーの父ブッシュネル・キーラーを訪ねます。

 

少年デイヴィッドはブッシュネル・キーラーに会い、絵を見て、本当に魂に触れたといいます。まるで即答で、絵の道にすすむことを決意したほど、映画監督デイビィッド・リンチとなったいまでも、人生のなかで屈指の素晴らしい出来事だったといいます。

ブッシュネルは少年デイヴィッドにロバート・ヘンリー(ヘンライ)が著した『アート・スピリット』という本を教えてくれました。

 

芸術的生活の規範を示した内容が語られたこの本は、少年デイヴィッドにとって「聖書」となります。叔父母の店の隣で風景画を描く夫婦と一緒に絵を描き、またいつも絵を描くことが好きで好きで仕方のなかった少年デイヴィッドだったからこそ、ブッシュネル・キーラーの存在や『アート・スピリット』が少年デイヴィッドの魂に深く届いたのです。

樹幹からまさに太い枝(画家へ)が生えだそうとしていた状況だったにちがいありません。


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イーグル・スカウトに所属、ジョン・F・ケンディの大統領就任式に立ち会う

またこの頃、ボーイ・スカウトに参加していた少年デイヴィッドは、勲功バッジを集めるため精力的に活動し、晴れてイーグル・スカウト(ボーイ・スカウトの中でもリーダーシップがあり優秀な者の僅か2%程しかなれない)に所属することになるのです。

世間的にはこの頃、ボーイ・スカウトは徐々にどこかダサイ存在になってきていたといいます。デイヴィッドによれば、当時イーグル・スカウトですらどこか恥ずかしくなるような空気があったといいますが、勲功バッジとその狭き門は少年デイヴィッドにとって精力を出し切るべき対象であったことは間違いありません(イーグル・スカウトと同時に絵も精力を出し切るべき対象に)。

 

優秀なイーグル・スカウトに所属できたおかげで、少年デイヴィッドは、1961年1月20日ジョン・F・ケネディの大統領就任式で、ホワイト・ハウスの外の観覧席のVIP席に、他のイーグル・スカウトのメンバーとともに招待されるのです。

その日は少年デイヴィッドの誕生日(15歳)でもありました。1メーター50センチ程の目の前をアイゼンハワー大統領と、これから大統領就任式に向うジョン・F・ケネディが車に乗って移動していく姿を目撃するのです。

&#9673;Art Bird Books Website「伝記ステーション」へ
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  http://d.hatena.ne.jp/syncrokun2/

David Lynch: Lithos

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宮沢賢治の多面体の根っこ(3)

小学4年の時、川原での「石拾い」に夢中に。小学生5年の頃から植物や昆虫も蒐集しだす。盛岡中学では「植物・鉱物採集」「登山」が学校教育の一環だった。中学で成績は急降下、<反抗的>になる賢治  


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泣き出したら手に負えなかったが、行儀のよい子供だった


小学校に上がるまでの賢治は、あまりものを喋らず、笑うこともあまりなく、庭に生えていた梅の木に吊るしたブランコに乗ったり、ひとりで縄跳びをしているような子供だったといいます。

ところが泣き出すと手に負えず、母イチがいくらあやしても泣き止まない頑固な子だったといいます。

 

泣き止まなかった2つのエピソード。1歳年上の本正少年が、賢治が遊んでいた馬のおもちゃを貸して欲しいと頼んで遊んでいると、おもちゃをとられたと思って突然泣き出し泣き止まなかった。これは皆さんもよく経験すること。

2つ目は、本正少年が小学校に上がった時、自分も一緒に行けるとおもい、実際には1歳年下なので小学校に一緒にあがれないことを知って泣き止まずずっと機嫌が治らなかった。

子供を持つ親御さんも、泣き止まない我が子をしかりつづけることはやめましょう。小さな子供は泣くことで自己を感じ生み出していますから。たんに意地っ張りはよくありませんが、強い意志形成にもきっとつながっていきます。

 


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賢治6歳の時、赤痢に罹り花巻の隔離病舎に入れられた時、看病に付き添った父・政次郎も感染した様に、長男の賢治は両親に大事に育てられ、行儀が悪くならないよう、あまり他の子供と遊ばせてもらえなかったため、ひとり遊びばかりしていたようです。

まだ小さな頃、賢治が行儀よく大人しかったのは、仏教講習会の影響や家庭内の仏教的雰囲気が一番影響したようです(自然と正座して耳を傾ける姿勢をとらせていた)。

家でも食事の時には、いつも恥ずかしそうに恐縮しながら食べ、物を噛むときもなるべく音をたてないようにしていたのもその影響下だとおもわれます。


また、仏教だけでなく「キリスト教」の精神も賢治に強い影響を与えています

花巻には、新教のバプテスト派が早くから伝道に着手していて、明治13年に教会を設立していました(賢治が生まれる16年前)。

賢治との直接的な接点は、父と昵懇の仲になっていた斎藤宗次郎(花巻きっての熱烈なクリスチャンとして知られる内村鑑三の直弟子。内村鑑三全集の編集者)と花巻で活動していた内村鑑三の高弟・照井真臣乳(まみじ)でした。

照井真臣乳は当時小学校2年生だった賢治にキリスト教を教え、賢治はキリスト教実践者たちの熱意ある行動と思想に深く影響されていきます(照井真臣乳は小学校5年の賢治の担任先生でもあった)。


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斎藤宗次郎氏とは、少年時代だけでなく、20代半ばの上京前後、花巻農学校在職中にも交流はつづきました(少年時代に斎藤師に賢治は作文や習字を見せている)。

入学した花巻川口尋常高等小学校でも、賢治は行儀よく、言葉使いは丁寧で、柔和な表情でしたが、どこか態度が大人びていたこともあり、いじめっ子も手をださず、不思議とクラスで一目おかれる存在になっていきます。

今でいう番長(6、7歳年上)が年下の金持ちの子供を脅しお金をまきあげていた時、毅然とした賢治だけには脅しが通じなかったといいます。

 

小学校時代の赤シャツ事件:ある同級生がめかして当時珍しい赤シャツを着て学校に登校した時、まわりから「メッカシ(めかしてる)!」と騒がれいじめられ時、賢治は自分も赤シャツを着てくるから、いじめるなら自分をいじめてくれとたのんだという。

ちなみにこの当時、小学生の通学姿は、ランドセルはまだなく風呂敷包み。制服もなく着物やモンペ姿に草履だった。また馬車に指を轢かれ傷をした同級生の血にまみれた指を吸って治療した話もある。傷ついたひとに深い同情をよせる気質は母親ゆずり。


1年終了時には、修身・国語・算術・遊戯・操行のすべてで優秀の「甲」でした。が、2年生の頃、礼儀正しい優秀な子供と誰もがおもっていた矢先のこと、賢治少年はすすきの野原に火をつけたり、4年生の頃には小舟にのって北上川の対岸の畑にわたって瓜を盗んだりしています。

そうかと思えば、当時のガキ大将が戦争ごっこの最中に野に火をつけたのが風にあおられ火が広がり、皆が唖然としているなか、率先してくい止めたのも賢治でした。


「昔ばなし」を話して聞かせながら学校へ通う。3、4年担当の八木先生から受けた影響


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賢治は学校へ行く道すがら、「むかしこ(昔ばなし)」を話して聞かせるようになります。連れ立って学校に通っていた近所の金治少年相手でしたが、次第に何人かが話を聴こうと後をついて行くようになったといいます。

賢治少年が語る昔ばなしの多くはその頃、賢治が愛読しはじめていた巌谷小波の本を読んで感銘を受けたものでした。3、4年時に担任となった八木英三先生(当時19歳の新人先生だった。後に早稲田大学を卒業し中学教師になる)が、その賢治に大きな影響を与えることになります。

八木先生は、授業とは別に「童話」や「少年小説」(外国語から翻訳されたばかりの『まだ見ぬ親』五来素川訳など)をよく生徒たちに話して聞かせたのです

賢治は熱意溢れる八木先生の自由さに目をうばわれます(伝記本には必ず、でっぷりとした八木英三先生の写真が掲載されている。八木先生は、「君が代」も「わが代こそ千代に八千代に」だと語り校内で問題となり警察に引っぱられ、敗戦までずっと監視されていた人物だった。

八木先生が皆に「立志」をたずねた時、賢治はまだこの時は「家業を継いで立派な質屋の商人になる」と応えている)。


小学4年生、川原での「石拾い」に夢中に。小学生5、6年の頃、植物や昆虫も蒐集しだす

 

小学校も4年生の頃になると、学校から帰るとすぐに鞄を放り出して近くの豊沢川(西の山々から流れきて花巻市内で北上川に注ぎこむ)にかかる豊沢橋の下に広がる川原に直行しだします。

その場所は、賢治だけでなく近所の子供たちの集合場所であり、イコール遊び場でした。そこで子供たちは、水泳ぎしたり、魚とりをしたり、虫を取ったり、「石拾い」を楽しんだのでした。

上流から雪どけ水が新しい石を運んでくるので、とくに春は「石拾い」の季節でした。賢治だけは季節を問わず「石拾い」に夢中になっていきます。皆が「石拾い」に飽きても、賢治だけは「もっと透き通った石を探すから」と言ってひとり拾いつづけたといいます。「石ッコ賢コ」という綽名(あだな)はこうして皆の間で自然につけられたものでした。そんな賢治でしたが4年生終業時にも、依然すべての学科で「甲」でした。


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賢治が通っていた時代に小学校は、尋常科だった4年制から現在の6年制に切り替わる(明治40年-1907年のこと)。そのため賢治は2度、小学校を卒業することに。一度目は、尋常科での小学4年生で、もう一度は、それから6年制に移行したため残りの2年を終えた時。


小学生5、6年の頃になると、「石」への凝り性はふつうでなくなり、川原で拾ってきたいろんな鉱石や矢の根石、さらには化石を様々な箱に入れだし、家族からも「石っこ賢さん」と呼ばれるようになります。

その蒐集熱は、植物や昆虫にもひろまりだし、植物は押し葉にし大切に保管し、「昆虫」の標本づくりにも凝りだします。賢治は弟の静六に石のことを説明したり、蒐集した宝物を瀬戸物の甕(かめ)に入れて土の中に埋め、昆虫の屍骸があれば土のなかに埋葬して墓をたててりしたといいます。

 

一方、賢治の「童話」好きはさらにすすみ、自分で読むだけでなく、弟や妹にいろんな童話や詩を読んで聞かせるのもまた大好きでした。

自分で絵を描きながら、昔話を聞かせたこともしばしばだったようです。幻燈や活動写真も大好きで、賢治は弟や妹を連れて見に行っています。

 

ちょうどこの5、6年生の頃(10歳〜11歳)は、自意識も濃くなり自己形成が活発化しはじめます。”根っ子”にあった気質が、周囲の者や環境とさまざまに触れ合い交じりあいます。

樹木で言えば、太い幹から突然、太い枝が生えはじめ樹全体はアンバランスになりながらも、樹勢は止むことはありません。

賢治少年は突如、仏頂面をし、おそろしく物事をきかないようになり、時に子分を引き連れて他の学校に遠征に出かけたり、教室で入口の扉を開けると物が落ちて来る悪ふざけを率先してやりはじめるのです(逃げる賢治を先生が追いかけもした)。

賢治少年のこの<心の造山活動>はその後もつづき、断層もある様な複雑な<心の地形>が生み出されていきます。

 

 

盛岡中学では「植物・鉱物採集」や「登山」が学校教育の一環


賢治少年は、中学に入る頃には、<心の地形>のさらに根源にある東北の地へと<アースダイブ>しはじめます。

悪戯好きでガキ大将化しはじめた<心の造山活動>は、その深部へと潜りはじめ、何百万年、何億年を経て生み出された鉱物や地層へ、森へとその意識は蠢(うごめき)はじめます。


13歳(1909年)、県立盛岡中学の受験に合格、入学します(当時は中学は義務教育でなく倍率は3倍。盛岡中学は国語学者アイヌ語研究で知られる金田一京助銭形平次の作家・野村胡堂、後に賢治にも大きな影響を与える賢治の10年先輩にあたる詩人・石川啄木を輩出している)。

学校は盛岡市にあるため賢治は寄宿舎住まいとなります。盛岡中学では教育の一環として、「植物・鉱物採集」や「登山」「兎狩り」がおこなわれていて、賢治少年の「石」や「植物」への情熱をさらに促すことになります。行事でなくとも賢治少年は、岩石用ハンマーを腰にかけ、盛岡市内の岩手公園や岩山にはじまって、郊外の鬼越山、のろぎ山、蝶ケ森山へと通いだしています。

 

盛岡一帯は、花崗岩や蛇紋岩、古生代の地層からなり(海底火山の噴出物も堆積)、盛岡はまさに「石の町」というにふさわしい町だったのです盛岡城の石垣も花崗岩でつくられている。岩手県全域が鉱山が盛んな県だった)。

1年生の賢治少年は、花崗岩の中でもとくに雲母の一種の「蛭石(ひるいし)」やチョーク代わりになる黒脂石を好んで採集していました。


 公園の円き岩げに蛭石を われらひろえば ぼんやりぬくし

 

これは中学1年の時に、賢治が詠んだ短歌です。賢治は中学1年から「短歌」もつくりはじめていました。


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盛岡中学1年の時、賢治少年が初めて学校教育の一環として「登山」した南部富士「岩手山」(2040m)。賢治少年はすっかり岩手山の虜になり生涯で十数回登っている。

 

賢治が初めて南部富士と呼ばれる「岩手山」登山を体験したのは中学2年の時でした。最初は学校行事の一環で、植物採集が目的の登山でした(寄宿舎監長を兼ねていた博物の先生が引率し、岩手山神社社務所に宿泊。午前1時起床、松明の灯をかざしながら、生徒80人が標高2040メートルの岩手山に登った)。

この時、ふだんは体操の授業はクラスで運動神経のにぶさにかけては筆頭を通していた猫背の賢治(柔道も剣道も野球も何もかもスポーツはまるで音痴。ボール投げの姿はまるで女の子の様だったといいます)が、登山になると別人のようにさっそうとした健脚になり他の生徒たちを驚かせています。

 

 

3カ月後にも英語の先生の引率で、唱歌を歌いながら夜明け前の岩手山を登っています。以来、岩手山の虜になった賢治は、ひとりで(時に数人で)登山するようになり、生涯を通じ数十回にのぼっています。中学3年の時に、小岩井農場に学校行事で遠足があり、以降賢治少年のお気に入りの場所になります。


中学時代、成績は急降下。<反抗的>になる賢治


小学校高学年に反抗心が芽生えた賢治が、家から離れ解放的な気分に浸れたのは2年余りで、次第に<反抗的>になっていったようです。小学校では「甲」ばかりだった成績も見事に急降下、授業中も教科書を開かず、哲学書を読むようになり、教師へも反発しはじめ心は屈折していきます。中学を卒業すれば、家業の質屋を継がされるという思いからでした(祖父はもともと商家を継ぐ者に学問は不要という考えだった)。それは重荷どころか賢治にとって質屋家業は、嫌悪の対象になっていたのです。先に書いた様に、自然災害を受けいっそう生活が苦しくなった近隣の貧しい農民から、僅かな品物を”収奪”するようなひどい仕事に賢治には映ったからでした。同級生は皆、進学をめざして勉強をかさねていたなか、自分だけは進学できそうになく賢治は鬱屈するばかりだったのです。

 

弟の清六も後に著書『兄のカバン』で、「家業の質屋は陰気な商売で、宮澤家に病人が絶えないこと、いつともなく人の世の哀しさが兄弟の身に染み込むようになった」と語っています。さらに「兄・賢治は、表面的には陽気にみえたところもあったといいますが、本当は小さな時から何とも言えないほど哀しみを抱えていた」とし、その哀しみは賢治が諸国を巡礼して歩きたいという思いが小さな頃から大人になるまでずっと抱いていたことと通じているようです。