伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

パウル・クレー(1):「童話」がよく読まれた音楽一家だったクレー家


音楽一家だったクレー家では、「童話」がよく読まれた。絵の手ほどきをした祖母。物事に没頭しだすと異常なほど熱心になる気質。7歳の時、ヴァイオリンを習いはじめる


www.youtube.com

はじめに:

長い間、一家の大黒柱はピアニスト教師の妻で、

クレーはずっと「主夫」だった


スイス出身の画家パウル・クレーは、表現主義キュビズム、シュールリアリズムの美術動向に関連づけられてきましたが、実際にはそうしたレッテルは及ばないほどにクレーは「運動」と「浸透」と「交錯」、そして「成長」を繰り出していました。

モーツァルトやバッハ、さらにはヒンデミットやシェーンベルグを好み、また自らも才あるヴァイオリニストだったクレーは、時間芸術としての「音楽」を絵画化し、「運動」を秩序づけようとまで目論んでいたのです。


その企ては、バウハウスでの仕事や教えで結晶化され、後に『造形思考』や後の『無限の造形』として著され、モダンアートへの重要な導きともなった『パウル・クレー手稿;造形理論ノート;パウル・クレー・ノートブック』は、ルネッサンス文化におけるレオナルド・ダ・ヴィンチの『A Treatise on Painting』に匹敵するともいわれています。絵画や音楽は無論、クレーの動物・植物、文学、哲学、生命論、建築などに関する知識は躍動し、クレーの「マインド・ツリー(心の樹)」を形づくっていました。

たとえば若い頃から植物に関する書物がいつも手許に宝物のように大切に置かれ、ほとんどすべての植物をラテン語でとなえることができたといいます。自然から賦与された不思議にして多様な植物は形にいつも感嘆し、ガラス箱のなかに保存していました。

クレーの絵画では、部分的で求心的方向をとる線が「女性的成長」として、全体的で遠心的な線が「男性的成長」として、<植物の成長>があらわされました。

また点は原(ウル)要素と考え、すべての「種子」は<宇宙的>であると思考したのです。クレーは、自然の奥に隠されている原形的なもの、精神的なものを求めつづけ、「人間」と「樹木」が同じ自然のなかに形づくられた場所を創造しようとしていたのです。


「芸術の本質は、目に見えるものを再現するものではなく、見えるようにすることである」というクレーの有名な言葉はこうした鋭い感性からきているようです。人間の原(ウル)状態 クレーは自身、豊穣な「始源」の場所にいたと語っています。

 

また、パウル・クレーは、じつは長い間にわたって一家の「主夫」でもありました。一家の大黒柱は、3歳年上のドイツ人ピアニスト、リリーで(26歳の時、結婚)、彼女のピアノ教師からもたらされる収入がクレー一家を14年間支えていたのです。

アパートの台所がアトリエとなり、クレーは家事一切を引き受けています。料理の腕前は、若かりし頃、叔母が経営する「森の端」という名のホテルでよく休暇を過ごした時に、フランス人のコックから習ったものだったようです。

スイスの家庭料理の「ロシュティ」や「ポルチーニ茸のリゾット」「タラの水煮」、スイスのハンバーグ「フリカデル」「豚のヒレ肉とシャンピニオン」「焼きリンゴ」などはクレーの得意料理だったといいます(『クレーの食卓』講談社)。


主夫業は、料理に限ったものではありませんでした。息子フェリックスが生まれると、夜泣きに温かいミルクを飲ませるのもクレーの役割で、「フェリックス・カレンダー」に息子の成長のすべてを書込んでいます。

クレーの絵『新しい天使』について、ヴァルター・ベンヤミンは次の様に語っています。

「廃墟の上に廃墟を積み重ねられたカタストロフィー(破滅・破局、環境の大変化)のなかに滞留し、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めてなんとか組み立てようとするのだが、楽園から吹いてくる強風(それは「進歩」の圧力)を受け、もはや翼を閉じることができず、目前の廃墟の山に舞い戻ろうとするのだが、未来の方へと不可抗的に運ばれてゆくばかりである」と。

 

東日本大震災」のカタストロフィーにも、きっと多くの「天使」が舞い降りてきていることとおもいます。

そしてやがて「風の又三郎」のように、ある日強風にあおられ未来の方へと運ばれていくのでしょう。その時、原(ウル)状態になった廃墟は、目に見えるものをたんに再現するのではない、新たな「運動」をともなって創造されるにちがいありません。

 

それでは一緒にパウル・クレーの「心の樹」の根元に入り込んでみましょう。そして、ぜひともクレーの絵も併せてたくさん見てみることをおすすめします。クレーは「鏡」に映し出されたような真実性を信じるのではなく、胡桃(クルミ)の中の”核”の如きものを心の目で感じ取ろうとしていました。パウル・クレーの「マインド・ツリー」が、これを読まれる方の「心の食卓」の一つの”食材”になればこれ幸いです。

 

音楽一家だったクレー家。

父は普通の音楽家タイプと異なっていた


パウル・クレー(Paul Klee)は、1879年12月18日(〜1940年没)、スイス連邦の首都ベルン(Bern;スイスで4番目の規模の都市、13世紀から自由都市として発展したベルン州の州都でもある。人口12万7000人程。ドイツ語圏)近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれています。

ベルンは湾曲するアーレ河畔につくられた美しいベルン旧市街は世界文化遺産、また6キロにもわたるヨーロッパ最長の石づくりのアーケード街としても知られています。

ベルンといえば、理論物理学アインシュタインが若かりし頃、ベルンにあったスイス特許庁に審査官として勤務しながら、相対性理論(1905年)の論文を執筆した地としてもよく知られています。アインシュタイン(ドイツ・ウルム市生まれ)はパウル・クレーと同年生まれで、ともにヴァイオリンをよくしていました。

クレーは11歳の時に、ベルンのオーケストラに籍をおくほどの腕前で、プロの音楽家へすすむことも充分ありえました。


www.youtube.com

パウルの音楽的才能は、音楽一家だったクレー家の環境から生まれています。

ドイツのチューリンゲン出身だった父ハンス・クレーは、ベルンのホーフヴィルとベルン師範学校で半世紀余にわたって音楽教師をしています(パウルが生まれて数ヶ月後にホーフヴィル師範学校の教師に初めて就く)。

パウル・クレーの「日記」覚書きには、「父は音楽家であるが、第一に教育者であり、音楽学者であり、批評家だった」と記しています。さらに「精神的な関心の広さによって、彼=父)は普通の音楽家タイプと異なっていた」と語っています。

じつはこのこと、つまり父ハンス・クレーの「マインド・ツリー(心の樹)」が、息子パウル・クレーの「マインド・ツリー」に大きな影響と刺激を与え、知的関心領域をぐんと広げることになったのです。

 

父ハンス・クレーは小学校に入る頃にはすでにヴェルツブルグ市交響楽団の団員の許で数種の学器を習いだしています。小学校教員としてアモールバッハの鉄工所学校に赴任中に、自らもヴァイオリンを弾くライニンゲン侯婦人がハンス・クレーの音楽的才能を覚え、私財から出された奨学金をもとにハンスは22歳の時シュトゥトガルト音楽院へ入学。

その地でピアノと声楽を学んでいた4つ年下の女性イーダ・フリックと知り合い1875年、結婚。ヴェルツェンハウゼンで最初の教職、長女マティルダ誕生。ライン峡谷のアルトシュテッテンへ、継いでバーゼル、そしてベルンの師範学校で音楽教師として赴任している。

 


声楽家の母だったが、絵画の”遺伝子”は母方にあり。

詩文入りのフランスの「絵草紙」が手本


南仏系のスイス人だった母イーダもピアノと声楽に優れ、クレー家はまさに音楽一家だったのですが、母方の家にはある伝説がよく囁かれていたといいます。その伝説とは大伯父のことで、ロンドンで肖像画家として成功しながらも行方不明になったというものでした。

後にパウル・クレーは自身の造形的資質に関して大伯父の資質が”遺伝”していると考えていたようですが、母方にはこの大伯父だけでなく他にも才能のある画家(祖母アンナの兄弟の一人)がいたといいます。

また祖母アンナ自身も絵心に満ち、幼いパウルがやって来ると、絵の描き方の手ほどきをしたり、パウルのために複製絵を切り取って集めたり、画用紙や色鉛筆うや紙切りハサミを与えています。パウルのスケッチ好きと彩色好きはこの祖母アンナのそれと、刺繍好きが影響を与えていました

 

Paul Klee: Painting Music


パウルが幼少期に描いていたものは、動物や教会、馬や馬車、橇(そり)、如雨露(じょうろ:植木などに水遣りするときの道具)や庭園の様子だったようで、風光明媚なスイスの自然そのものを描くことはありませんでした。

その理由は、祖母が見せてくれた詩文入りのフランスの「絵草紙」が最初のお手本になったからでした(パウルは後年になってもその「犬と猫」といった「絵草紙」のタイトルを記憶している。ちなみにパウルは、その自由さ、気まぐれさ、動きの優美さ、家に対する愛着さから「猫」を愛し、若い頃から二匹の猫を飼い、いつも描いていた)。


次いでパウルは、カレンダーに付いている複製絵を「模写」しはじめたようです(これも祖母からの影響)。その複製絵は、ベルン近郊を主題にして描いたものが多く、パウルが近郊の景色を鉛筆やペンでスケッチするきっかけになっています。

けれども、4歳の時、ある日、絵に描いたお化けが急に本物になってしまい、驚いて母のところに逃げ込んだという記述が『日記』にあることからみても、心に映ったものを描いていたようです。そのお化けが小さい悪魔のようになって窓からのぞいていたという記憶は深くパウルの心に刻み込まれていました。

 


物事に没頭しだすと異常なほどに熱心に


3歳頃までの幼い頃、パウルは姉と同じようにスカートを履いていて、それがとてもお気に入りだったのに、ある時、自分が女の子ではなく、可愛らしい衣装を身につけることができないことを知って悲しんだといいます。パウルはかなり早いうちから美しい小さな少女たちの印象が強烈で、同じようにフリルのついた可愛らしい衣装を着れなくなっても、5歳までは女の子のように人形と遊ぶのが大好きでした。


3歳から5歳まで、パウルは女の子でないこの頃の記憶としては、自分が女の子ではないので、スカートの下に素敵な白いレースのついたズボンを履けないのを悲しみます。そのためなのか、大好きだった人形や物を窓から外に投げだすのが癖になってしまいます。絵や人形遊びだけでなく、空想の羽根をのばしながらあれこれ「演技」するのも大好きだったのですが、演技中に時々、「ぷぅー!」という嘲笑するような声が聞こえてきて心をかき乱され我慢できなかったといいます。その声の主は父でした。幼い頃からずっと、父を絶対的な存在で、「パパは何でもできるんだぞ」という父の言葉はそのまま真実として受け入れていたので、その思い込みは少しゆらいだりしたようです。</span>
<span style="color:#333300;font-size:medium;">こうした繊細にして抵抗力のある気質は、父ではなく母から受け継いだもののようです。またこの年頃から物事に没頭しだすとその熱心さはふつうでなく、几帳面な程にずっと取り組んでいたといいます。たとえば部屋の隅にあったカルタ遊び用の小さな机に向って絵を描きだと、うずくまるようにしてずっと描いているように。母はパウルを少しでも庭に出して外気を吸うようにと考えよく部屋から追い立てたりしたといいます。</span>
***「童話」がよく読まれたクレー家。叔父さんの所でユーモア雑誌をよく見る
<span style="color:#0000CC;font-size:medium;">クレー家では音楽だけでなく、「童話」もよく読まれたようです。パウルはそうした物語を暗記していて成長してからも物語ることができました。小学校にあがる前から、パウルは人形芝居が好きになっていて、とりわけ道化役がお気に入りでした。これもどうやら母方の人物からの影響だったようです。母方の叔父エルンスト・フリック<span style="font-size:small;">(フリック叔父さん。レストランを経営していて。パウルはスイスで一番のデブだと日記に記している)</span>がパウルのためにと新聞のなかから劇場のチラシを切り取ってくれていて、パウルはそのチラシを集めていたという記述があるからです<span style="font-size:small;">(『パウル・クレー』フェリックス・クレー著 みすず書房)</span>。人形芝居の観客は、姉とクレー家の女中と近所の子供たちでした。パウルはこのフリック叔父さんのレストランによく連れていかれたようで、そこで絵を描いたり、絵入りの週間ユーモア雑誌<span style="font-size:small;">(ミュンヘンで発行されていたもの)</span>をよくみていました。また食卓のテーブルが「化石」の断面でできていて、そのグロテスクな迷宮のようなかたちを鉛筆でなぞっては紙に書きとっていました。それがパウル・クレーの「奇怪なもの好き」のきっかけで、9歳の時のことだったといいます。</span>
<span style="font-weight:bold;font-size:medium;">フリック叔父さんは動物の鳴き真似が得意で小さな子供を騙したりしていますが、後にパウルも7歳の時、2、3歳年下の男の子たちに、お前たちは罪深い人生を送っていると責めて泣かせ、泣き出すと手の平を返して嘘だからといって慰めたといいます。少年パウルは決して心穏やかで優しいばかりの少年ではありませんでした<span style="font-size:small;">(『クレーの日記』は、後に他人に読まれることを意識し改竄されている部分があるという。この日記は19歳の時から約20年間つけられ、40歳過ぎてから清書された時に「子供時代の思い出」という一文が添えられた)</span>。9歳の時には初恋の美少女<span style="font-size:small;">(クレーはとにかく美少女好きだった)</span>に機会を狙いすまして強引にキスしようとしますが、激しく抵抗され失敗に終わっています。</span>
***父の繊細な職人気質。夏には一家で森の中へ
<span style="color:#3300CC;font-size:medium;">母はことあるごとにパウルを連れ祖母の家を訪れていたようです<span style="font-size:small;">(祖母や親類は、バーゼルからベルン市内や近郊に引っ越して来ていて、お互いに盛んな行き来があった)</span>。そして自分の生家の人からの影響をパウルが自然に受け入れるままにしていたにちがいありません。ピアノと声楽に優れ母イーダもまた、そうした環境に育ったからで、しかしまさか息子パウルが後に画家の道を選択することになるとは想像もつかなかったにちがいありません。母方の人々からの影響に比べ、父ハンス・クレーの郷里はドイツのテューリンゲンだったこともあり、父方の人たちからの影響はかなり少なく、根本的な内面的接触はほとんどなかったといわれています。最も父は、地理的にドイツ中部のやや右に位置し「緑の心臓」とも呼称されるテューリンゲン出身らしく<span style="font-size:small;">(多くのドイツ人は森の中に入るのが好きだといわれるが)</span>、夏には家族で森へ入っていったといいます。そして冬によくパウルを連れて行ったのは、美術館でした。また父ハンスは、教会の日曜礼拝にオルガン奏者として手を貸していただけでなく、片手間に煙草パイプや釣針、弓矢などを自らつくるなど、その繊細な職人気質的な部分は、音楽以外にも多分にパウルにも受け継がれていったようです。</span>
***7歳の時から「ヴァイオリン」を習いはじめる。美術を愛するヴァイオリン教師と巡り会う
<span style="color:#990000;font-size:medium;">クレー家やパウル・クレーの音楽的才能について知悉している人にとっては、クレーの絵画に「音楽的感覚」が色彩としてあらわされている作品が数多くあることはあらかた知ってられることとおもいます。さらにはクレーが10歳にしてベルン音楽協会<span style="font-size:small;">(管弦楽団)</span>の非常勤団員になり、それ以降も持ち歩いていたスケッチブックやノート、教科書に風刺的デッサンや風景画を描いていたことも。「音楽」も「絵画」<span style="font-size:small;">(今日なら「イラスト」や「映像」や「写真」だろうか)</span>もともに上手い少年少女は周りには時折りいたりするので、パウル・クレーの場合もたまたま2つのこと<span style="font-size:small;">(実際には、これに「文学」も加わる)</span>を”器用にこなす才能”があるとおもってしまいがちですが、クレーの「マインド・ツリー」をよくよく辿ってみれば、やはりそれぞれにしっかりした”根っ子”があることがみてとれます。「音楽」も「絵画」は、クレーの「心の樹」のなかで、祖母がよくした「刺繍」の様に織り上げられ、重なりあい、融合していったにちがいありません。</span>
<span style="color:#330000;font-size:medium;">パウルは小学校にあがった7歳の時から、ヴァイオリニストだった父ハンスと同じくヴァイオリンを習いはじめています。家では無論のこと、「音楽」で満ち溢れていたはずなので、急速に上達していったようです。ヴァイオリンを素直に習いはじめた一つの背景には、5歳の時に大好きだった祖母が亡くなったことも幾らか関係しているようで、「絵かきとして”孤児”になってしまった。そのかわりにしばらくして、ぼくの音楽教育が始められた」とあります<span style="font-size:small;">(パウル・クレーの日記覚え書より『パウル・クレー』&#8212;フェリックス・クレー著)</span>。しかしフリック叔父さんのレストランで化石の断面のかたちを映しとったり、ノートや教科書の余白に、風刺的デッサンや風景画を描いていたのは、祖母という絵の<臍の緒>と切れてしまった後のことで、すでにかなりの養分が”樹液”の様にパウルの感性に取り込まれていたためだったとおもわれます。</span>
<span style="color:#3300CC;font-size:medium;">少年パウルは2、3年もするとヴァイオリンの腕前はかなり上がり、モーツァルトやバッハの作品も弾けるようになります<span style="font-size:small;">(10歳の時に、ベルン管弦楽団の非常勤団員として定期演奏会に参加)</span>。そしてある優れたヴァイオリン教師に巡り会っています。そのヴァイオリン教師は、「音楽」以外でも少年パウルに影響を与えることになります。そのヴァイオリン教師は、スイスのバーゼル大学の教授で美術史家、文化史家として知られるヤーコプ・ブルクハルトを尊敬し、彼の著述を手引きに、美術を深く愛するひとだったのです<span style="font-size:small;">(ブルクハルトは、当時バーゼル大学で古典文献学を担当していたニーチェの”注意”を<世界史>へうながした人物)</span>。バーゼルと言えば、母の出身地でもあり、大好きだった祖母もかつて暮らしていた土地でした。パウルの裡で再び留まっていた「美術」への意識と感性が蠢きはじめます。パウルは教師の書棚に揃っていた美術書に耽溺するのに時間はかからなかったようです<span style="font-size:small;">(21歳の時に、友人と半年のイタリア旅行に出掛けた時に持参していったのが、ブルクハルトの『チチェローネ&#8212;イタリア美術的観賞の手引き』だった。現地ではその書籍からのクレーの感化は限定されたものだった)</span>。パウルの心のなかで、絵画がまるで色彩鮮やかな「楽譜」の如く、連なりはじめたのでした。</span>
&#9654;(2)に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

イサム・ノグチ(3):何になりたいという目標に欠けた子


www.youtube.com

イサム・ノグチ(2)から:

>>
「ぼくは母の想像力の落とし子なのかもしれない」と語っていたイサムですが、父の生き方もまた含まれねばならないこと、そして2人の生き方の軌道が交点を結ばなかったことを次のように語っています。
「ぼくの物語を書くとしたら、すべては父と母の生き方からはじめねばならない。今世紀初頭の、明治のあの時期に、母がなぜ日本へ渡ったのかというところからだ。いわば、ぼくという落とし子は、母がそのときにとった人生の選択の結果なのだ。

また、母の苦労と、母の期待が、ぼくがいかにしてアーティストになったかと深く結びついているはずだ。母が心に描いたもの、つまり母の<日本>とね。

しかし、父は、母が描いたもののなかに納まるような存在ではなかった。不幸にして、父には別の、つまり父自身が描いた絵があった。二人の出会いのその不幸な部分が、ぼくの育ちそのものなのだ」(『イサム・ノグチー宿命の越境者』ドウス昌代著の冒頭の文章でもある)
<<

2人が出会ったのは米次郎の驚くほどの意志と行動力の結果だったことは間違いありません。生活費のない米次郎が最初にありついた仕事は、日系の愛国同盟の日刊「桑港新聞」の配達ボーイでした(後に記者も体験)。

ついで住み込みで家庭内の労働をしながら通学(小学校に通った)。異国生活で「ジャップ」呼ばわりされその悔しさから愛国心をつのらせますが、その頃に英詩に関心をもちだします。夢想家で異常に好奇心が強い米次郎は、「シエラ山脈の歌」で知られサンフランシスコ文壇の花形詩人ウォーキン・ミラーの丸太小屋を訪れます(ミラーはオークランド郊外の地に7万本の植林をした)。

心の広い自由人ミラーを師とあおぎ生活をともにしながら詩を書きはじめるのです。「アメリカで詩人になる」、それが米次郎の目標になります。ミラーはエドガー・アラン・ポーの詩風に倣った米次郎の詩を自身が起稿していた地元の文学誌に紹介し、話題となり、処女詩集『見界と幽界』が出版されるまでにまります。

余勢をかって米次郎はロンドンに行き、詩集『東海より』を出版し(出版社からの出版は叶わなかったため私家版として刊行。米次郎は「帝国文学」誌や慶応義塾学報に寄稿し日本文壇とのつながりを築いていたこともあり詩集『東海より』は日本で翻訳本が出版されることに。

詩作で英米の地での成功は偉業とされ予想以上のインパクトを日本の詩壇に与えた)、アメリカ東部の詩壇でも認められるようになります。とにかく米次郎の詩人としての成功への思いは驚くほどのものです。

しかし経済的余裕はなく生活資金を得るために書いていた『お蝶さん日記』と、書きためていた英詩の手直ししてくれる人を求め新聞に求人広告を出したのでした。レオニーに編集的仕事を任せつつ、米次郎は「ワシントン・ポスト」紙の才色兼備の文芸記者エセル・アームスに熱を上げていきます。レオニーに対する恋愛感情がないなかで生まれたのが、イサムだったのです。

幼子のイサムを連れ来日した折にレオニーは一時的に米次郎と暮らしています(米次郎には本妻があったが、私事に疲れ北鎌倉の円覚寺にある蔵六庵に一人籠るようになっていた。蔵六庵はかつてロンドンから帰国した夏目漱石が筆をとった場所)。

レオニーは自活するため働きにでます。茅ヶ崎に住んでいた頃、レオニーはイサムとは異父の娘アイリスを生んでいます。イサムは7歳年下の妹の面倒をみるのを嫌がり家出ばかりするため、イサムを土地の大工(指物師)の許へ弟子入りさせています。

それは茅ヶ崎の地に小さな持ち家「三角形の家」を自ら設計し建てるためで、レオニーはイサムをなんらかのかたちで国境をこえ文化の多様性を表現できるアーティストにしたいという願望を、自分たちの家を設計することから具体化させようとしたのでした(建築家というイメージは強要しなかった)。家の西面に造った丸窓からは浮世絵のように「富士山」が見えるのでした。イサムはその時の様子を後年次のように語っています。


「美へのもっとも鮮烈な、最初の目覚めとなった。そのときの感動が、体の一部のように生涯のこった」<

 

禅的な丸窓は、札幌モレエ沼公園の遊具にもあけられました。そしておそらくは「遊び山」のイメージの源流は、茅ヶ崎の「三角形の家」の丸窓から眺められた「富士山」にあったのではないでしょうか(イサムはピラミッドや聖なる山を生涯イメージの核心に置きつづけた。初めての持ち家として、子供ながら自ら設計図を引いたのも「三角形の家」だった!)。

この時期にイサムは「大工道具」の基本的な使用法を覚えています。「三角形の家」を設計し、大工の許にいた10歳から11歳にかけての時期が、イサムが少年時代に唯一心から喜びをもって学んだことだったでした。彫刻家イサム・ノグチの”樹芯”になる手の感覚が深くかたちづくられ美的感性が刻み込まれた時期だったといえるでしょう。


その数年後、母レオニーは「日本人」としてイサムを育てようとした当初の願いと自分の手で教育するという独自の考えを断念しはじめていました。

アメリカ人」としてサバイブしていけるように横浜の山の手にあるセント・ジョセフ校の寮に送り、イサムの気持ちをはかり間違え、13歳の時ひとりアメリカ・インディアナ州の片田舎にある自給自足を旨としたスクールへ送りだしたのです(アメリカ開拓精神をもとに生徒は自分たちで建てた丸太小屋に暮らし自分たちの育てた作物で食事をし、母親から引き離し独立心をもった一人前の青年に育てるというカリキュラムをもったスクールだった)。

この時、イサムは母が突然に自分を突き放したと大きなショックを受けています。

 


www.youtube.com

 

「好きなことに熱中すると、他のことすべてがおろそかになる傾向があります。また何になりたいという目標に欠けた子です……手先が器用で、手仕事に非常な集中力があります」


これは母レオニーが送り出す息子イサムについてアメリカのスクールの校長に送った手紙の一文です。この数年前に少年イサムは、大工と一緒に「三角形の家」の設計と大工仕事を心底楽しんでいたのでした。そしてその手感覚と美的感性は生涯つづくことになったのです。


さらに興味深いことに、少年イサムが最も夢中になったのは家の「庭づくり」だったというのです。

レオニーが小さな庭のすべてをイサムに任せたので、イサムはレオニーに英語を習いに来ていて知り合った園芸試験場に勤める青年からバラの苗木を沢山あつめ、さらに見事な庭をつくろうと日曜日になると4、5キロも離れた山に入りこんで山ツツジなどの珍しい花をとって植えるほどのめりこんでいます。そして次の一文に驚くことになります。

 


www.youtube.com

>>
「ポンプから溢れる水を引いた小川をつくった。この庭には私にとってはじめての罪の意識が伴っている、というのは隣家の林から岩を一つ失敬して庭に置いていたからだ」(『イサム・ノグチー宿命の越境者』p.150)
<<

少年イサムは、花だけでなく「岩」を庭に置いた! のでした。そしてそれは母レオニーの美意識とも合致していたはずです。「ぼくが母からしっかりと受け継いだのが、日本庭園への憧憬である」イサム・ノグチ

アンドリュー・カーネギー(3):叔父の「教育方針」方針と「記憶力」


www.youtube.com

アンドリュー・カーネギー(2)から:

そしてもう一人、A.カーネギー少年に特段に影響を与えた人物がいました。ラウォーター伯父でした。伯母を亡くした伯父は一人息子(アンドリューにとって従兄弟)とアンドリューと、よく3人で一緒にいました(父はいつもあまりにも仕事に忙しかった)。

いろんなことを教えてくれたなかでも、A.カーネギー少年に強烈な印象を残し、生涯にかけて影響を与え続けることになったのは、英帝国やスコットランドの「歴史」や「詩・文学」でした。イングランドスコットランド支配に抵抗し戦ったウィリアム・ウォレス(後にスコットランド貴族の裏切りにあいロンドンに送られ謀反人として四つ裂きの刑で処刑された。

 

メル・ギブソンが製作した映画『ブレイブハート』の主人公でもある)やスコットランド王のこと、それにロマン主義運動の先駆者でスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズスコットランド民謡を蒐集し改作したものの一つに日本でもお馴染みの『蛍の光 Auld Lang Syne オールド・ラング・サイン』がある)のこと、さらには作家のウォルター・スコット(『アイヴァンホー』など)や劇作家で詩人のアラン・ラムゼー、盲人の吟遊詩人ハリーのことなど、たくさんのことを覚えたといいます。

 

こうしてカーネギー少年の”心根”は、スコットランドに滔々と流れる歴史と文化の地下水に至ったのでした。カーネギー少年にとって、スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスは、「ブレイブハート」=「勇気」の象徴となったのです。

 

A.カーネギーは、「少年にとって<英雄>を崇拝するということは、大きな力となる」と語っています。ところがこのことが新大陸に移住して以降、気持ちの上で支障をきたしてしまいます。スコットランドの英雄が、A.カーネギー少年の力と魂の象徴でありつづけたため、かなり長い年月にわたってアメリカの地は一時的に居を構えるにすぎない場所だという感覚から脱出できないでいたといいます。


さらにラウォーター伯父は、A.カーネギー少年の生涯に響きわたる「教育方針」をもっていました。伯父は従兄弟とカーネギー少年に「朗吟」をやらせたのです。少年の教育には、「朗吟」(詩歌を声高らかに唱えること)が非常に重要な役割をはたすと、伯父は固く信じていたのです。

従兄弟とカーネギー少年は、顔に化粧をし紙でつくった兜(かぶと)をかぶり木の剣を手に学友たちや大人の前で、勇ましくロバート・バーンズらの中世の英雄詩を声高らかにうたったのです。


「伯父のこのような教育方針にしたがって、私の『記憶力』はたいへんに強化された。この方法は若い人たちを訓練する最もよい手段で、自分の好きな詩を暗誦させ、それをたびたび人の前で語らせることである。

私は自分が好きだと思ったものであったら、すぐ暗誦してしまうので、この速さが私の友人たちを驚かせたのである。好きでなくても私はすぐ暗誦することができるが、自分に強く訴えるものがないなら、数時間後にはすっかり忘れてしまうのであった」(『カーネギー自伝』p.31)

結果的にカーネギー少年の「記憶力」が高まるなか、父の織物業の仕事はついに息の根をとめられまでになります。母の2人の姉妹はすでに新大陸のピッツバーグに移り住んでいて、手紙を書き送ると息子たちのためにもアメリカに来るように連絡してきたのです(機織機をすべて売っても家族でアメリカに渡る旅費のすべてをまかなえず母の友人から一部借りている)。

カーネギー一家は、カーネギー少年13歳の時、新大陸へ向けて出発します。

 

 

新大陸に渡ったカーネギー一家はスコットランド人が経営する綿織工場で働きだしています。カーネギー少年は最初、糸巻の仕事に就き、すぐに別の工場で子供ながら蒸気機関を扱わされ、ついで請求書づくりで単式簿記を、さらに複式簿記を学んでいきます。

そして電報配達夫にならないかと叔父を通じ声をかけられるのです(このあたりからが子供用伝記に描かれだす場面です)。これ以降、電信局での活躍と若くしてペンシルベニア鉄道の主任となり、橋梁建築での実績からいよいよ「製鉄所」へと転身し、「鉄鋼王」となるまでは、『カーネギー自伝』にあたってみて下さい。

 

 

最期に冒頭でも紹介した「カーネギー図書館」の原点について記しておこうとおもいます。カーネギー少年が電報配達夫だったある日のことです。ピッツバーグに暮らす大佐が自分が所有する400巻の書籍を「働く少年たち」のために開放したのです(土曜日に1冊借り出すことができた)。

ところが「働く少年」も職によって分類され、電報配達夫は借りることができなかったのです。カーネギー少年は地元新聞に「働く少年」の条件を限定しないようにと一文を書いて寄せ功を奏し、ついに『合衆国の歴史』や『シェークスピア物語』を毎週借りて読むことができるようになったといいます。

本を借りることがかなわなければ、A.カーネギーが成人して以降も歴史や文学に関心を寄せつづけることはおそらくなかったにちがいありません。後にロサンジェルスの「カーネギー図書館」に毎週のように通い続けたレイ・ブラッドベリチャールズ・ブコウスキーもそうした少年たちだったのです。

 

 

立花隆(2):読書好きになった環境


www.youtube.com

立花隆(1)の続き:
立花隆は自身の若い頃からの放浪癖は、伯父(4人兄弟だった父の一番上の兄)の血筋を引いたのではないかと語っていますが、その伯父は最後には東京・三谷に辿りつき居着いています(隆志少年は”三谷のおじさん”と呼んでいた)。

その後、父は全国出版協会の事務局に入り、機関紙「全国出版新聞」の編集長になっています(後の「読書タイムズ」になっても編集長続ける)。その後「読書新聞」と合併し「週間読書人」になった際に父は営業畑の専務へ。その一方、父は女学校の教師をしていた時分からずっと小説を書いていたといいます。小説家志望でした(隆志も大学時代、小説家にならんと志していた)。

 

母は、羽仁もと子(日本人初の女性ジャーナリストで、東京・目白にある自由学園フランク・ロイド・ライト設計、「婦人之友」誌を創刊。また教会に属さない無教会のクリスチャンでもあった)の信奉者、クリスチャンでした(父も活水学園の教師になるため信仰をもつ必要からクリスチャンに)。橘家にとっては良妻賢母の鑑であり、水戸の女性たちの間では、「友之会」のボス的存在でもあったといいます。

 

>>
「まず僕が読書を好きになったのは、環境の影響が大きいと思う。僕の父も母も文科系の人で文学を好んでいるし、それに加えて父の仕事が出版関係なので、自然に僕も本に多く接するようになった。

また良く家で父母が文学の話をすることがあるが、僕には良く解らない事が多く、何かとり残されたような気がしてつまらない。

そこで僕も本を読んでそれに関する知識を得ようという気が起こって来た。というようなことが、僕が読書をするようになった最大の理由と思われる」(『ぼくはこんな本を読んできた』文春文庫.p171)

 

<<

隆志少年が意識的に「読書」をしはじめたのは小学校3年の時のことだったといいますが、小学校入学前には「童話」に夢中になっています。


グリム童話アンデルセンイソップ物語アラビアンナイト小川未明坪田譲治で、小学校入学して以降は、『トム・ソーヤの冒険』や『ロビンソンクルーソー』『アンクルトムの小屋』『宝島』『ピノキオ』など童話から読み物へすでに移っていました。

 

手にとった本はすべて家にあったものでした。小学校3年の時にあった変化は、家の内外にその要因がありました。まず家の内では、全集に手をつけだしています。『山本有三全集』でした(『志賀直哉全集』も読んだが面白くなかったという)。

家の外とは、近所の人に江戸川乱歩の探偵小説を見せてもらったことで、それ以来、探偵小説から冒険小説、推理小説怪奇小説、捕物帳などに病み付きになっていったのです。

ただその類のものは家になく貸本屋や友だちから借りたり、本屋で「立ち読み」するのが常でした。貸本屋では吉川英治の全集『太閤記』と『三国志』も借りて読んでいます(『三国志』のスケールの大きさに魅了される)。

 

驚くのは本屋での「立ち読み」で、日曜日には午前中から水戸の川又書店に入り浸り、1、2冊読んだり、夕方までねばれば4、5冊読むこともあったといいます。
『ぼくはこんな本を読んできた』(文春文庫)を見れば、『西遊記』から『フランダースの犬』『不思議の国のアリス』にシェイクスピア全集など次々に手をだしていっています。難しい箇所はそのままにしてとにかく最後まで読んでいったといいます(シェイクスピア全集などはとくに悲劇的結末に衝撃を受けたという)。夏目漱石の『坊ちゃん』や『我が輩は猫である』は親戚の家で読んだという。

そしてその1年後の小学4年になり隆志少年の「読書空間」は一気に拡大するのです。それは「図書館」を知ったからでした。この「図書館」で隆志少年は初めて理系の本と出会います。大作の『キュリー夫人伝』でした(娘のエーヴ・キュリー著)。

 

この1冊こそ隆志少年が将来にわたって「科学」に興味をもたせた確かな嚆矢の一つでした。それがきっかけとなり大人向けの『現代科学物語』(2巻本:竹内均著)を読み出し、小学生時代の読書体験の中でもっとも強烈な印象を受けた本になるのでした。物質を細分していくと原子になる、そのことを知った隆志少年は仰天したといいます。

 

この『現代科学物語』と同様、『ぼくはこんな本を読んできた』には出て来ない話ですが、『キュリー夫人伝』や『現代科学物語』に関心を持つ最初のきっかけはどうも小学校低学年の時に読んだ『エジソン伝』だったようです。『立花隆のすべて』に、立ち読みばかりしていた自分がどうしても買って欲しいとねだった本だったという話がでてくるからです。


『ぼくはこんな本を読んできた』だけを参照すると、上述の様にヴォリュームも内容も濃い『キュリー夫人伝』がきっかけで理系の世界の扉が初めて開かれた様に描かれていますが、やはり小学生が突如、理科系の大作や大人向け科学読本に手をのばすことはなかったわけです。

しかも『子供の科学』誌を定期購読していて当時の定番ではあるものの「鉱石ラジオ」や「手製の望遠鏡」づくりにも熱中していたようです。

 

そうした知的好奇心に、大部の『キュリー夫人伝』や大人向けの『現代科学物語』が接続されていったとみるのがふつうでしょう。この理科系への関心は、家庭環境に理科系への関心を伸ばす要因はほとんどなかったことから、積み重ねられた「読書」体験こそが、その土壌となったようです。高校一年までは理科系へ行くつもりでいたというのも、その読書体験の強烈さゆえでした。しかしこの後に、隆志少年に思わぬことが起こるのです。

 

 

 

尾崎豊(3):母の気象・気質が受け継がれた

母の気象・気質・性格は、兄よりも弟・豊に受け継がれたようです。尾崎豊の「心の樹」は、尾崎ファミリーそれぞれと強く重なりながらも、とくに母親と最も深く重なっていたとおもわれます。母の死後4カ月後に尾崎豊が突然不慮の死を遂げたのも母の死と決して無縁ではないと父や兄は考えているようです。


www.youtube.com

尾崎豊(2)の続き:

9歳にしてのこの悟り感はどうだろう(別人格なのではというほどの)。自分を突き放し客観的に自身をみているだけでなく、このわずか1カ月後に、「希望」と記していた「尺八の先生」と「躰道の先生」と「自衛隊の三番隊長」は、「希望と言うことにしている」と本音を露にしているう希望が実際にあった。父にそうした物件を探してもらおうと要望もしている)。
この時期から2、3年後の次の中学1年の時の日記を以下にあげてみます。

>>
「午後、全科にわたって父の指導あり。後、ギター練習(テープレコーダー使用)。さて、本年より練東中1年生。中学生の自覚にもようやく目覚め、中間試験には平均約八十点の好レコードをつくった。目下、余暇はギターの練習に凝っている。塾にも喜んで通っている。できれば七月にはAクラスに進みたいものだ(現在Bクラス)。将来はよく決めていないが、両親には医師か弁護士になると言って安心させることにしている。ラジオのアナウンサーにもなりたいと思っている」

<<

この時期には、「医師」か「弁護士」が両親の希望だったようで、「勘」の鋭い少年尾崎は、表面的にはそう取り繕って両親を安心させておいたのでしょう。

じつは父・健一氏の著作ではあまり描かれていませんが、兄・尾崎康氏の著書(『弟・尾崎豊の愛と死』講談社)には、母は父とは対極的に怒り出したら恐ろしいほどの剣幕で、息子たちに厳しく接していたようです(外では外向的で快活な母は、家では内攻的になり、不安になり自身を苛み、悲観的になり、勢い時にヒステリックになるほど)。


母はどんな心情を持ったひとだったのでしょう。息子豊が高校を停学するようになった時の母の日記からその一端が伺えます。

 

 

>>
「毎日毎日心の重い日が続く。朝起きると、大きく不安が広がる。心の重さは仕事を何倍もの重さにする。疲れる。身も心も疲れ果てるのに眠れない。これが地獄の辛さかと思う。私の性格でもあろう。業が深いことだ。豊をにくむ気になれない。母親の業なのだ。可愛さあまってか、自分が辛いのだ。学校なんか、中退でもいいのではないか。豊には豊のこれからの人生がある。中退だから不幸になると考える必要はない。しかし。教養人として、よりよく世の中で生きる為に、私は(親として)学校を出したい。私の考えは間違っているだろうか……」

 

「毎日毎日、日誌だけをつけさせて、教育を放棄しているのではないか。そもそも停学とは教育の放棄ではないのか。悪い事をしたからと学校から放逐して家庭におしつける。そして子供も親も苦しみのどん底に落とし込む。希望を与えないでおいて、日誌をつけさせる。…そしてまたある日突然、訪問をうける。復学の望みは、またもたたれる。こうした繰り返しの停学三ヶ月の豊や私の苦しみ、悲しみを先生方は考えたことがありますか……」

 

「豊。とうとう三学年の文化祭に参加できなかった。逃げ出したいと思い、かくれたいと思い、この世から消えたいと思いながら、不安におののく日々の何と多かったことか。もっともっと極悪非道の子に泣く親もあることだろうと思うが、私には私なりの性格からくる悲しさがあった。親の育て方が悪かったのでもあろうと思う。それに対して、親として反省をし、また許しも乞わなくてはならないと思う。いま、少しずつ良くなってゆく豊をみる。今の停学が、豊の人間性を良質のものに変えてゆくのなら、このことは彼の一生にとってよかったのではないかとも思う」(『尾崎豊デビュー』尾崎健一著 角川書店 1993刊 p.38〜44)

 

<<

尾崎家の中で停学中、出口が見えず最も苦しんでいたのは母でした。母は停学のことで一人カウンセリングに何度も足を運び、次第に不眠症に陥り、コップ一杯のウィスキーを一気飲みする寝酒が欠かせなくなり、睡眠薬にも頼るようになっていきます(デビュー以降、尾崎豊不眠症に陥っていく)。

一方、どこか楽観的で恬淡とした父は、停学でレコーディングに必要な時間がとれるだろうからといった心持ちだったようです(後に父は、母が遺した日記を読みその悩みの深さに驚くことになる)。


尾崎豊の歌に漂う深い孤独感と真実の愛への渇望は、深淵をのぞきこむこほどに内面的に深く強く求める母の魂をどこか映しだしているようです。そこに父が好む哲学や思想が流れ込んでいきました(CBSソニーのオーディション時、尾崎が鞄に入れていた本は、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』。父と豊は高校時代をのぞき、よく哲学や思想、宗教、芸術のことを語り合ったという)。

 

また、父によれば、息子豊が歌う「愛に飢えた孤独感」の根元には、(母が3カ月間入院し)1歳4カ月の時に信州高山の祖父母の家に預けられたことと、なついた頃には婆ちゃんとの急な別れとなったことが無意識の裡の心の深い傷になっていたのではと語ります。

 

実際、尾崎豊自身も遠いその時の記憶によく思いを馳せていたほどでした(祖母が亡くなった時に、実家の寝室で祖母の霊を感じとっている)。

次回は、尾崎豊が4歳の時、毎日のように父や母のところに持っていって読んで欲しいとねだったある「絵本」について紹介しようとおもいます。その絵本は豊少年の柔らかな感性に刺激を与えたようなのです。
&#9654;(3)に続く-未

田中一光(3):キャスティングの手習い


www.youtube.com

田中一光(2)から:

鐘淵紡績への入社において一光が希望したのは宣伝(まだ世は「宣伝・広告」の時代ではなかった)でしたが、配属先はテキスタイルの意匠室でした(室長は佐伯祐三と画家をめざしパリ留学した人物でプリントデザイナーに転向した人物)。

演劇部のアトリエ座の同期生は、照明や衣装、舞台美術など全員が演劇に関係する仕事に就いていたので、「宣伝」という一光の希望は異質だったようです。なぜ「意匠」でなく「宣伝」だったのか。おそらくは少年時代に、似顔絵をつけたり切り抜きをコラージュしたり、キャッチフレーズをひねりだし、新作の映画を企画し新聞広告を作ってひとりで楽しんでいた記憶が木霊していたにちがいありません。

 

ところが意に反する配属先の意匠室で一光は、海外からエアメールで次々に届く『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』『モダン・ファブリックス』など最先端の雑誌に目を奪われ、マチスピカソからマグリット、ミロ、グリュオー、アーヴィング・ペンの写真に心を奪われるのです。大阪の駅前にまだ闇市が残るなか、あまりにも斬新な視覚体験の連続。また鐘紡意匠室は松竹少女歌劇の舞台衣装をデザインすることもあり、「少女趣味」の一光はおおいに張り切ることに。

 

が、入社して2年半後、仕事中も芝居の話ばかりで盛り上がっていた一光は左翼と間違えられ(新劇=左翼の時代)、なんとクビになってしまいます(この時、自暴自棄になって自殺しようと白山まで行って躊躇した話が自伝にでてくる)。

クビになった苦痛を紛らわすため行動美術協会で知り合った妹尾河童が手がけていた看板やポスター制作を手伝いだします(鐘紡の勤務時間後、美術をはじめからやり直そうと行動美術協会の研究所に通っていた)。

その時、産経新聞社が建物を建築中だということを知り、面接に行った一光は採用されるのです(皮肉にも鐘紡の重役の紹介状をたずさえていた)。配属先は文書課で、描くことができない心的苦痛がつづきます。しかしこのやりたいことのできない<心的苦痛>こそが、自身の裡に確かに”芽生えた”欲望だということにはたと気づくもとになります。

一光は誰にも頼まれない手書き「ポスター」を描きまくるのです。一光は鐘紡の意匠室にいた間、さまざまな上質の刺激を受けるうちに、「ポスター」をつくりたいという欲望が押さえきれなくなっていきます。

 

一光が勝手に制作していたのは産経グループ内の別会社が企画するイベントのポスターで、「次週上映」とか「前売開始」とか書き込み、実際の印刷物が貼り出されるまで、会社のエレベーター前に無断で貼り出したのでした。


勝手なポスター制作が1年ほど続いた頃、そのポスターがある人物の目にとまり呼び出されます。産経グループ内の別会社の社長でした(ファッションショーの舞台美術も担当していた吉原治良で、日劇の舞台の緞帳のデザインもしていて一光はそのモダンなデザインにしびれていた。吉原治良は1年後に「具体美術協会」を結成)。

 

一光は吉原から舞台美術の助手を任されるようになり制作物の評判が上がると「資材部」に配属されることに(ポスターなども制作していた部署だった。次いで広告部に配属されたもののそこでの仕事は肌に合わず、今度は新聞の部数を伸ばす販促活動をする事業部へとまわされる)。まるで”根比べ”のような日々がつづきます。


事業部の様々な販促活動のなかで、一光は生涯で一番長く付き合うことになるある「ポスター制作」に出くわすのです。それが「能公演(産経能)」のポスターでした。田中一光産経新聞を辞めて以降も、観世能と提携した「産経観世能ポスター」を30年に渡って手がけることになります(生涯で一番長く付き合うことになったこのポスターについて、奈良で生まれ京都で刺激を受けた環境が体質的に合っていたと一光は語っている)。



後に「西欧の先端的なモダニズムのデザインと日本の伝統にルーツをもった意匠を巧みにブレンドし、コンテンポラリーなヴジュアル表現を生み出したグラフィック・デザイナー」と世界で評価を得ていく田中一光の「グラフィック・デザイン」の原点がこの「能公演」のポスターでした。


その後、永井一正木村恒久らと「Aクラブ」を名乗り、早川良雄や亀倉雄策、原弘らと出会い大きな刺激を受け、田中一光は「デザイン」を認識し、「デザイナー」となっていきます。

 


www.youtube.com

 

27歳の時、ライトパブリシティに入社、その3年後に日本デザインセンターに移り、またその3年後に「田中一光デザイン室」を立ち上げ独立(33歳。煙草の「ロングピース」のデザインコンペで優勝し、優勝賞金をデザイン室の敷金にしている)するまでの、20代後半から30代前半、クリエーターならば誰もが我武者らに仕事をし自問自答し煩悶するこの熱くも曖昧な時期について、『自伝ーわれらデザインの時代』のなかで田中一光は自身のその時期を熱く記します。



最後に「アートディレクター」としての田中一光の原点をみてみましょう。西武グループととの仕事が多くなった時、一光は振り返るように次の様に語っています。

>>
「アートディレクターなどというと聞こえはいいが、興奮が醒めると、自分が単なる手配師にすぎなかったのではないかという虚しさに襲われることさえある。それでも私はこうした裏方が好きで、仕掛けの時間を楽しんでいるのかもしれない。

……すべてを自分の手で行なうのではなく、デザインの総合性という観点から、時にコピーやイラストレーションなどを他人に依頼するほうが、美しい三角形ー起業とデザイナーと社会・消費者ーとなることが多い。つまりキャスティングによってアートディレクションの半分は完成するわけで、それは演劇を上演する作業ととても似ているのである」『自伝ーわれらデザインの時代』(p.210〜211)
<<

 

 

そして、『自伝ーわれらデザインの時代』を読んだ私たちはすでに知っています。美術学校時代の「演劇」の遥か昔、ひとり「芝居」を観にくりだし「映画狂」だった小学生の一光少年は、新聞や雑誌を切り抜きし俳優を並べ「キャスティング」し、広告を作ってひとりで遊んでいたことを。

田中一光によればアートディレクションの半分の仕事はこの「キャスティング」なのです。田中一光はつねにお客を喜ばせる仕掛けを考え、その効果を陰で確かめる行為を好むといいます。こうした感性もアートディレクターに必要な要素で、田中一光はそれを「芝居」の現場と感覚から学んだのでした。

 

ウィリアム・モリス(2):ロマンス小説に耽溺

ウィリアム・モリス(1)から:

8歳の時、父に連れられてカンタベリー大聖堂を訪れていますが、そのとき天国の門が開かれたような圧倒的な印象をもちます。9歳、少年モリスはパブリック・スクールに進学するための私立小学校に入学。13歳の時、父が死去。


この頃ウォルター・スコットのロマンス小説に耽溺。翌年パブリック・スクール入学。学校ではほとんど学ぶことはなかったといいます(何も教えてくれなかったと語っている)。

5年生以下の生徒が大部屋に一緒に詰め込まれているような学校でしたが、そのぶん自由で規律もゆるやか、午後の時間帯に他の少年たちがクリケットをしている間、少年モリスは近くのサバーナクの森や、エイヴバリの古代環状列石群(ストーンサークル)、山稜にあるケルト文化以前の古墳にふれに行っていたといいます。


 

学校での成績は真ん中程で、幾何学だけは最下位でした。ラテン語の学習も大嫌い。どういうわけか「歴史」に関することは何でも惹き付けられたといいます。性格は気だてよくみなに親切ではありましたが、ひどい癇癪もちだったそうです(ただ怒ればすぐに消えてしまう性質のもの)。

少年モリスには始終手を動かしていなくてはいられない妙な癖があり、ある時など机に網の片端をつないで何時間でも編み続けていたといいます。


生涯のうちウィリアム・モリスが手がけたもののほとんどは手仕事だったことを思えば(詩も含む)、奇妙な一致とおもわずにおられません。

 

また幼い頃は家系的に体質が虚弱で食事療法で命を保っていたほどだったといいますが、森を歩きまわり外気に触れるうちにがっしりと逞しい少年になっていったようです。
しかし後年にみられる堂々とした体躯と男性的な積極果敢な態度の奥には、神経質で激しやすい気質と女性的な感じやすさが潜んでいました。そのため異性よりも同性の方に気持ちがむきがちだったといわれています(異性問題とはまったく無縁な人にみえたといわれている)。

18歳の時、聖職者になることを夢に描き、20歳の時、友人バーン=ジョウンズと修道会を組織する計画をたてています。モリス家の空気と少年期の圧倒的な感動は、ウィリアム・モリスの”樹芯”を流れるものでした。

19歳の時、ラスキンの『ヴェネチアの石』に出会い、翌年同じくラスキンの『建築・絵画・講演集』を読み、またラファエル前派を知るにいたったモリスの心の裡で、強烈な<化学反応>が起こります。その<化学反応>は、モリスが子供の頃、日々遊びに行っていた「エピングの森」での体験と記憶とにさまざまに反応しあうものでした。


>>
「子供の頃、エピングの森のチングフォード・ハッチのそばにあるエリザベス女王の狩猟小屋で、色あせた草木模様の飾りが掛っている部屋を初めて見て、強烈なロマンスの感覚に打たれたことをよく覚えている。その時の感覚は、ウォルター・スコット卿の『好古家』をひもときーこの物語を私は繰り返し読むのだがー、この小説家が絶妙な技をもって夏の詩人チョーサーの新鮮で輝きに満ちた詩句をちりばめてモンクバーンズの『緑の部屋』を描写したくだりに行き当たるたびに、私の心によみがえってくる感覚だ」(『ウィリアム・モリス伝』フィリップ・ヘンダースン著 晶文社
<<

実際に森の中のその部屋(草木模様も飾りも含め)こそ、ウィリアム・モリスが装飾を手がけることになる多くの部屋の原型になったといわれています。モリス&カンパニーや『ユートピア便り』、ケルムスコット・プレス設立のあたりも極めて興味深く、興味のある方ぜひモリス伝にあたってみて下さい。

余談ですが、建築家フランク・ロイド・ライトの母は、あまりにもウィリアム・モリスのファンで、幼少期の息子フランクの部屋を徹底的にウィリアム・モリス好み(つまり母好み)でしつらえたといわれています。


それがフランク・ロイド・ライトに影響を与えなかったわけがありません。そのあたりこのブログ中のフランク・ロイド・ライトのコーナーであたってみて下さい。

参考書籍:『ウィリアム・モリス伝』(フィリップ・ヘンダースン著 川端康雄他訳 晶文社 1990刊)