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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

パウル・クレー(1):「童話」がよく読まれた音楽一家だったクレー家


音楽一家だったクレー家では、「童話」がよく読まれた。絵の手ほどきをした祖母。物事に没頭しだすと異常なほど熱心になる気質。7歳の時、ヴァイオリンを習いはじめる


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はじめに:

長い間、一家の大黒柱はピアニスト教師の妻で、

クレーはずっと「主夫」だった


スイス出身の画家パウル・クレーは、表現主義キュビズム、シュールリアリズムの美術動向に関連づけられてきましたが、実際にはそうしたレッテルは及ばないほどにクレーは「運動」と「浸透」と「交錯」、そして「成長」を繰り出していました。

モーツァルトやバッハ、さらにはヒンデミットやシェーンベルグを好み、また自らも才あるヴァイオリニストだったクレーは、時間芸術としての「音楽」を絵画化し、「運動」を秩序づけようとまで目論んでいたのです。


その企ては、バウハウスでの仕事や教えで結晶化され、後に『造形思考』や後の『無限の造形』として著され、モダンアートへの重要な導きともなった『パウル・クレー手稿;造形理論ノート;パウル・クレー・ノートブック』は、ルネッサンス文化におけるレオナルド・ダ・ヴィンチの『A Treatise on Painting』に匹敵するともいわれています。絵画や音楽は無論、クレーの動物・植物、文学、哲学、生命論、建築などに関する知識は躍動し、クレーの「マインド・ツリー(心の樹)」を形づくっていました。

たとえば若い頃から植物に関する書物がいつも手許に宝物のように大切に置かれ、ほとんどすべての植物をラテン語でとなえることができたといいます。自然から賦与された不思議にして多様な植物は形にいつも感嘆し、ガラス箱のなかに保存していました。

クレーの絵画では、部分的で求心的方向をとる線が「女性的成長」として、全体的で遠心的な線が「男性的成長」として、<植物の成長>があらわされました。

また点は原(ウル)要素と考え、すべての「種子」は<宇宙的>であると思考したのです。クレーは、自然の奥に隠されている原形的なもの、精神的なものを求めつづけ、「人間」と「樹木」が同じ自然のなかに形づくられた場所を創造しようとしていたのです。


「芸術の本質は、目に見えるものを再現するものではなく、見えるようにすることである」というクレーの有名な言葉はこうした鋭い感性からきているようです。人間の原(ウル)状態 クレーは自身、豊穣な「始源」の場所にいたと語っています。

 

また、パウル・クレーは、じつは長い間にわたって一家の「主夫」でもありました。一家の大黒柱は、3歳年上のドイツ人ピアニスト、リリーで(26歳の時、結婚)、彼女のピアノ教師からもたらされる収入がクレー一家を14年間支えていたのです。

アパートの台所がアトリエとなり、クレーは家事一切を引き受けています。料理の腕前は、若かりし頃、叔母が経営する「森の端」という名のホテルでよく休暇を過ごした時に、フランス人のコックから習ったものだったようです。

スイスの家庭料理の「ロシュティ」や「ポルチーニ茸のリゾット」「タラの水煮」、スイスのハンバーグ「フリカデル」「豚のヒレ肉とシャンピニオン」「焼きリンゴ」などはクレーの得意料理だったといいます(『クレーの食卓』講談社)。


主夫業は、料理に限ったものではありませんでした。息子フェリックスが生まれると、夜泣きに温かいミルクを飲ませるのもクレーの役割で、「フェリックス・カレンダー」に息子の成長のすべてを書込んでいます。

クレーの絵『新しい天使』について、ヴァルター・ベンヤミンは次の様に語っています。

「廃墟の上に廃墟を積み重ねられたカタストロフィー(破滅・破局、環境の大変化)のなかに滞留し、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めてなんとか組み立てようとするのだが、楽園から吹いてくる強風(それは「進歩」の圧力)を受け、もはや翼を閉じることができず、目前の廃墟の山に舞い戻ろうとするのだが、未来の方へと不可抗的に運ばれてゆくばかりである」と。

 

東日本大震災」のカタストロフィーにも、きっと多くの「天使」が舞い降りてきていることとおもいます。

そしてやがて「風の又三郎」のように、ある日強風にあおられ未来の方へと運ばれていくのでしょう。その時、原(ウル)状態になった廃墟は、目に見えるものをたんに再現するのではない、新たな「運動」をともなって創造されるにちがいありません。

 

それでは一緒にパウル・クレーの「心の樹」の根元に入り込んでみましょう。そして、ぜひともクレーの絵も併せてたくさん見てみることをおすすめします。クレーは「鏡」に映し出されたような真実性を信じるのではなく、胡桃(クルミ)の中の”核”の如きものを心の目で感じ取ろうとしていました。パウル・クレーの「マインド・ツリー」が、これを読まれる方の「心の食卓」の一つの”食材”になればこれ幸いです。

 

音楽一家だったクレー家。

父は普通の音楽家タイプと異なっていた


パウル・クレー(Paul Klee)は、1879年12月18日(〜1940年没)、スイス連邦の首都ベルン(Bern;スイスで4番目の規模の都市、13世紀から自由都市として発展したベルン州の州都でもある。人口12万7000人程。ドイツ語圏)近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれています。

ベルンは湾曲するアーレ河畔につくられた美しいベルン旧市街は世界文化遺産、また6キロにもわたるヨーロッパ最長の石づくりのアーケード街としても知られています。

ベルンといえば、理論物理学アインシュタインが若かりし頃、ベルンにあったスイス特許庁に審査官として勤務しながら、相対性理論(1905年)の論文を執筆した地としてもよく知られています。アインシュタイン(ドイツ・ウルム市生まれ)はパウル・クレーと同年生まれで、ともにヴァイオリンをよくしていました。

クレーは11歳の時に、ベルンのオーケストラに籍をおくほどの腕前で、プロの音楽家へすすむことも充分ありえました。


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パウルの音楽的才能は、音楽一家だったクレー家の環境から生まれています。

ドイツのチューリンゲン出身だった父ハンス・クレーは、ベルンのホーフヴィルとベルン師範学校で半世紀余にわたって音楽教師をしています(パウルが生まれて数ヶ月後にホーフヴィル師範学校の教師に初めて就く)。

パウル・クレーの「日記」覚書きには、「父は音楽家であるが、第一に教育者であり、音楽学者であり、批評家だった」と記しています。さらに「精神的な関心の広さによって、彼=父)は普通の音楽家タイプと異なっていた」と語っています。

じつはこのこと、つまり父ハンス・クレーの「マインド・ツリー(心の樹)」が、息子パウル・クレーの「マインド・ツリー」に大きな影響と刺激を与え、知的関心領域をぐんと広げることになったのです。

 

父ハンス・クレーは小学校に入る頃にはすでにヴェルツブルグ市交響楽団の団員の許で数種の学器を習いだしています。小学校教員としてアモールバッハの鉄工所学校に赴任中に、自らもヴァイオリンを弾くライニンゲン侯婦人がハンス・クレーの音楽的才能を覚え、私財から出された奨学金をもとにハンスは22歳の時シュトゥトガルト音楽院へ入学。

その地でピアノと声楽を学んでいた4つ年下の女性イーダ・フリックと知り合い1875年、結婚。ヴェルツェンハウゼンで最初の教職、長女マティルダ誕生。ライン峡谷のアルトシュテッテンへ、継いでバーゼル、そしてベルンの師範学校で音楽教師として赴任している。

 


声楽家の母だったが、絵画の”遺伝子”は母方にあり。

詩文入りのフランスの「絵草紙」が手本


南仏系のスイス人だった母イーダもピアノと声楽に優れ、クレー家はまさに音楽一家だったのですが、母方の家にはある伝説がよく囁かれていたといいます。その伝説とは大伯父のことで、ロンドンで肖像画家として成功しながらも行方不明になったというものでした。

後にパウル・クレーは自身の造形的資質に関して大伯父の資質が”遺伝”していると考えていたようですが、母方にはこの大伯父だけでなく他にも才能のある画家(祖母アンナの兄弟の一人)がいたといいます。

また祖母アンナ自身も絵心に満ち、幼いパウルがやって来ると、絵の描き方の手ほどきをしたり、パウルのために複製絵を切り取って集めたり、画用紙や色鉛筆うや紙切りハサミを与えています。パウルのスケッチ好きと彩色好きはこの祖母アンナのそれと、刺繍好きが影響を与えていました

 

Paul Klee: Painting Music


パウルが幼少期に描いていたものは、動物や教会、馬や馬車、橇(そり)、如雨露(じょうろ:植木などに水遣りするときの道具)や庭園の様子だったようで、風光明媚なスイスの自然そのものを描くことはありませんでした。

その理由は、祖母が見せてくれた詩文入りのフランスの「絵草紙」が最初のお手本になったからでした(パウルは後年になってもその「犬と猫」といった「絵草紙」のタイトルを記憶している。ちなみにパウルは、その自由さ、気まぐれさ、動きの優美さ、家に対する愛着さから「猫」を愛し、若い頃から二匹の猫を飼い、いつも描いていた)。


次いでパウルは、カレンダーに付いている複製絵を「模写」しはじめたようです(これも祖母からの影響)。その複製絵は、ベルン近郊を主題にして描いたものが多く、パウルが近郊の景色を鉛筆やペンでスケッチするきっかけになっています。

けれども、4歳の時、ある日、絵に描いたお化けが急に本物になってしまい、驚いて母のところに逃げ込んだという記述が『日記』にあることからみても、心に映ったものを描いていたようです。そのお化けが小さい悪魔のようになって窓からのぞいていたという記憶は深くパウルの心に刻み込まれていました。

 


物事に没頭しだすと異常なほどに熱心に


3歳頃までの幼い頃、パウルは姉と同じようにスカートを履いていて、それがとてもお気に入りだったのに、ある時、自分が女の子ではなく、可愛らしい衣装を身につけることができないことを知って悲しんだといいます。パウルはかなり早いうちから美しい小さな少女たちの印象が強烈で、同じようにフリルのついた可愛らしい衣装を着れなくなっても、5歳までは女の子のように人形と遊ぶのが大好きでした。


3歳から5歳まで、パウルは女の子でないこの頃の記憶としては、自分が女の子ではないので、スカートの下に素敵な白いレースのついたズボンを履けないのを悲しみます。そのためなのか、大好きだった人形や物を窓から外に投げだすのが癖になってしまいます。絵や人形遊びだけでなく、空想の羽根をのばしながらあれこれ「演技」するのも大好きだったのですが、演技中に時々、「ぷぅー!」という嘲笑するような声が聞こえてきて心をかき乱され我慢できなかったといいます。その声の主は父でした。幼い頃からずっと、父を絶対的な存在で、「パパは何でもできるんだぞ」という父の言葉はそのまま真実として受け入れていたので、その思い込みは少しゆらいだりしたようです。</span>
<span style="color:#333300;font-size:medium;">こうした繊細にして抵抗力のある気質は、父ではなく母から受け継いだもののようです。またこの年頃から物事に没頭しだすとその熱心さはふつうでなく、几帳面な程にずっと取り組んでいたといいます。たとえば部屋の隅にあったカルタ遊び用の小さな机に向って絵を描きだと、うずくまるようにしてずっと描いているように。母はパウルを少しでも庭に出して外気を吸うようにと考えよく部屋から追い立てたりしたといいます。</span>
***「童話」がよく読まれたクレー家。叔父さんの所でユーモア雑誌をよく見る
<span style="color:#0000CC;font-size:medium;">クレー家では音楽だけでなく、「童話」もよく読まれたようです。パウルはそうした物語を暗記していて成長してからも物語ることができました。小学校にあがる前から、パウルは人形芝居が好きになっていて、とりわけ道化役がお気に入りでした。これもどうやら母方の人物からの影響だったようです。母方の叔父エルンスト・フリック<span style="font-size:small;">(フリック叔父さん。レストランを経営していて。パウルはスイスで一番のデブだと日記に記している)</span>がパウルのためにと新聞のなかから劇場のチラシを切り取ってくれていて、パウルはそのチラシを集めていたという記述があるからです<span style="font-size:small;">(『パウル・クレー』フェリックス・クレー著 みすず書房)</span>。人形芝居の観客は、姉とクレー家の女中と近所の子供たちでした。パウルはこのフリック叔父さんのレストランによく連れていかれたようで、そこで絵を描いたり、絵入りの週間ユーモア雑誌<span style="font-size:small;">(ミュンヘンで発行されていたもの)</span>をよくみていました。また食卓のテーブルが「化石」の断面でできていて、そのグロテスクな迷宮のようなかたちを鉛筆でなぞっては紙に書きとっていました。それがパウル・クレーの「奇怪なもの好き」のきっかけで、9歳の時のことだったといいます。</span>
<span style="font-weight:bold;font-size:medium;">フリック叔父さんは動物の鳴き真似が得意で小さな子供を騙したりしていますが、後にパウルも7歳の時、2、3歳年下の男の子たちに、お前たちは罪深い人生を送っていると責めて泣かせ、泣き出すと手の平を返して嘘だからといって慰めたといいます。少年パウルは決して心穏やかで優しいばかりの少年ではありませんでした<span style="font-size:small;">(『クレーの日記』は、後に他人に読まれることを意識し改竄されている部分があるという。この日記は19歳の時から約20年間つけられ、40歳過ぎてから清書された時に「子供時代の思い出」という一文が添えられた)</span>。9歳の時には初恋の美少女<span style="font-size:small;">(クレーはとにかく美少女好きだった)</span>に機会を狙いすまして強引にキスしようとしますが、激しく抵抗され失敗に終わっています。</span>
***父の繊細な職人気質。夏には一家で森の中へ
<span style="color:#3300CC;font-size:medium;">母はことあるごとにパウルを連れ祖母の家を訪れていたようです<span style="font-size:small;">(祖母や親類は、バーゼルからベルン市内や近郊に引っ越して来ていて、お互いに盛んな行き来があった)</span>。そして自分の生家の人からの影響をパウルが自然に受け入れるままにしていたにちがいありません。ピアノと声楽に優れ母イーダもまた、そうした環境に育ったからで、しかしまさか息子パウルが後に画家の道を選択することになるとは想像もつかなかったにちがいありません。母方の人々からの影響に比べ、父ハンス・クレーの郷里はドイツのテューリンゲンだったこともあり、父方の人たちからの影響はかなり少なく、根本的な内面的接触はほとんどなかったといわれています。最も父は、地理的にドイツ中部のやや右に位置し「緑の心臓」とも呼称されるテューリンゲン出身らしく<span style="font-size:small;">(多くのドイツ人は森の中に入るのが好きだといわれるが)</span>、夏には家族で森へ入っていったといいます。そして冬によくパウルを連れて行ったのは、美術館でした。また父ハンスは、教会の日曜礼拝にオルガン奏者として手を貸していただけでなく、片手間に煙草パイプや釣針、弓矢などを自らつくるなど、その繊細な職人気質的な部分は、音楽以外にも多分にパウルにも受け継がれていったようです。</span>
***7歳の時から「ヴァイオリン」を習いはじめる。美術を愛するヴァイオリン教師と巡り会う
<span style="color:#990000;font-size:medium;">クレー家やパウル・クレーの音楽的才能について知悉している人にとっては、クレーの絵画に「音楽的感覚」が色彩としてあらわされている作品が数多くあることはあらかた知ってられることとおもいます。さらにはクレーが10歳にしてベルン音楽協会<span style="font-size:small;">(管弦楽団)</span>の非常勤団員になり、それ以降も持ち歩いていたスケッチブックやノート、教科書に風刺的デッサンや風景画を描いていたことも。「音楽」も「絵画」<span style="font-size:small;">(今日なら「イラスト」や「映像」や「写真」だろうか)</span>もともに上手い少年少女は周りには時折りいたりするので、パウル・クレーの場合もたまたま2つのこと<span style="font-size:small;">(実際には、これに「文学」も加わる)</span>を”器用にこなす才能”があるとおもってしまいがちですが、クレーの「マインド・ツリー」をよくよく辿ってみれば、やはりそれぞれにしっかりした”根っ子”があることがみてとれます。「音楽」も「絵画」は、クレーの「心の樹」のなかで、祖母がよくした「刺繍」の様に織り上げられ、重なりあい、融合していったにちがいありません。</span>
<span style="color:#330000;font-size:medium;">パウルは小学校にあがった7歳の時から、ヴァイオリニストだった父ハンスと同じくヴァイオリンを習いはじめています。家では無論のこと、「音楽」で満ち溢れていたはずなので、急速に上達していったようです。ヴァイオリンを素直に習いはじめた一つの背景には、5歳の時に大好きだった祖母が亡くなったことも幾らか関係しているようで、「絵かきとして”孤児”になってしまった。そのかわりにしばらくして、ぼくの音楽教育が始められた」とあります<span style="font-size:small;">(パウル・クレーの日記覚え書より『パウル・クレー』&#8212;フェリックス・クレー著)</span>。しかしフリック叔父さんのレストランで化石の断面のかたちを映しとったり、ノートや教科書の余白に、風刺的デッサンや風景画を描いていたのは、祖母という絵の<臍の緒>と切れてしまった後のことで、すでにかなりの養分が”樹液”の様にパウルの感性に取り込まれていたためだったとおもわれます。</span>
<span style="color:#3300CC;font-size:medium;">少年パウルは2、3年もするとヴァイオリンの腕前はかなり上がり、モーツァルトやバッハの作品も弾けるようになります<span style="font-size:small;">(10歳の時に、ベルン管弦楽団の非常勤団員として定期演奏会に参加)</span>。そしてある優れたヴァイオリン教師に巡り会っています。そのヴァイオリン教師は、「音楽」以外でも少年パウルに影響を与えることになります。そのヴァイオリン教師は、スイスのバーゼル大学の教授で美術史家、文化史家として知られるヤーコプ・ブルクハルトを尊敬し、彼の著述を手引きに、美術を深く愛するひとだったのです<span style="font-size:small;">(ブルクハルトは、当時バーゼル大学で古典文献学を担当していたニーチェの”注意”を<世界史>へうながした人物)</span>。バーゼルと言えば、母の出身地でもあり、大好きだった祖母もかつて暮らしていた土地でした。パウルの裡で再び留まっていた「美術」への意識と感性が蠢きはじめます。パウルは教師の書棚に揃っていた美術書に耽溺するのに時間はかからなかったようです<span style="font-size:small;">(21歳の時に、友人と半年のイタリア旅行に出掛けた時に持参していったのが、ブルクハルトの『チチェローネ&#8212;イタリア美術的観賞の手引き』だった。現地ではその書籍からのクレーの感化は限定されたものだった)</span>。パウルの心のなかで、絵画がまるで色彩鮮やかな「楽譜」の如く、連なりはじめたのでした。</span>
&#9654;(2)に続く