イサム・ノグチ(2):母レオニーは当時の「ニュー・ウーマン」
当時の「ニュー・ウーマン」だった母レオニー。茅ヶ崎に建てた小さな家の設計と「庭づくり」を少年イサムに任せる。指物師に弟子入りし大工道具を学ぶ。札幌モレエ沼公園の中核「遊び山」とは何だったのか
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イサム・ノグチ(1)より:
27歳の時、12年ぶりに父と再会。京都に滞在し「日本庭園」に魅了される。日系人強制収容所での志願拘留(ユートピア的環境作品を制作する目的)、「ノグチ・テーブル」を制作(イームズ夫妻を見出したハーマン・ミラー社のジョージ・ネルソンからの依頼)。古代文化・考古学的関心「季節のピラミッド」構想。
「遊び場」への関心(禅の芸術論)ー遊園地としての「遊び山」を設計しはじめる。メキシコ滞在など費用を捻出するため肖像彫刻を数多く制作。メキシコの壁画アーティストのオロスコやロシアのダヴィッド・ブルリュークへの関心。ニューヨーク万博フォード自動車やAP通信社のコンペで入選(最初の噴水制作)。
山口淑子(李香蘭)との結婚やフリーダ・カーロやアナイス・ニンらとのアヴァンチュール(とにかく数多くの美女と不倫や情事を楽しんでいる。実父の野口米次郎のDNAだろう。とにかく惚れやすい)。
そして毎年のインド訪問、イギリスやフランスの先史時代の洞窟やバリ島への関心、インドネシア・ジャワ島のボロブドゥール遺跡で上ることの重要性を体感。和風の照明「Akari」の制作、雪舟や良寛、芭蕉、デュシャンについて(長谷川三郎らとの旅や会話)。
ユネスコ・プロジェクト。ジョセフ・キャンベルの起源神話やプレ・ジャパン(縄文)、雅楽、ハワイへの関心、さらには鎌倉で魯山人に陶芸を学び、広島平和記念公園のモニュメントに選ばれ(アメリカ側の人間ということで最終的に外され丹下健三の推挙で氏が設計した「原爆慰霊碑」に活かされた)、広場の彫刻や噴水制作(広場の設計へ)。香川県牟礼町にアトリエを構え、大阪万博で噴水を制作、勅使河原宏や武満徹との交流。
アトリエを構えていたニューヨークのロングアイランドにイサム・ノグチ「ガーデン・ミュージアム」がつくられ、土門拳記念館の庭園や草月会館内の天国、札幌モレエ沼公園の計画に取り組んでいた折りに死去(1988年、84歳)しています。死後にもかつてアトリエのあった香川県牟礼に「イサム・ノグチ庭園美術館」がオープン(1999年)、アースワークとしてのモレエ沼公園が2004年に完成し多くの人々を迎え入れています。
これですらイサム・ノグチという大樹の一姿にしか過ぎません。イサム・ノグチの伝記映画をつくるとなるとインドの映画監督サタジット・レイが制作した『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』の3つのシリーズとなってようやく少しはかたちになるのではというほどの波瀾の生涯です。▶(2)に続く
参考書籍:『イサム・ノグチー宿命の越境者』上・下巻 ドウス昌代著 講談社/『評伝イサム・ノグチ』ドーレ・アシュトン著 笹谷純雄訳 白水社 1997刊
イサムが語った「母の想像力」とは何だったのか。いま少しそのあたりを探ってみましょう。映画『レオニー』でもイサムの母となるレオニー・ギルモアが学んだ女子大ブリンマー大学のことが冒頭近くででてきますが、その女子大は奴隷解放を実践してきたクエーカー教徒が、「男女同権」の信念のもとに設立したアメリカでもかなりすすんだカリキュラムをもっていました。レオニーの3年上に日本からの留学生・津田梅子も学んでいました(映画にも登場し語り合う場面がある。
津田梅子は津田塾大学の創始者であり、日本の女子教育の先駆者)。学生時代に若きレオニーが翻訳に取り組んでいたのはフランスの初期フェミニスト、ジョルジュ・サンド(詩人ミッセ、音楽家リスト、さらにはショパンらとも恋愛。カール・マルクスやバクーニンとも交流)の作品でした。2年生の時には、パリのソルボンヌ大学の留学生試験にも合格しパリ留学も果たしています。
レオニー・ギルモアは、当時の「ニュー・ウーマン」と呼ばれるような女性だったようです。ただ他の女性たちと異なるのは、レオニーにはチェロキーインディアンの血が4分の1でしたが流れていることでした(ギルモア家はアイルランド人でアメリカに19世紀半ばの米国移民。4分の3はケルト民族の血だったが、レオニーの母親はインディアンの顔つきをしていた)。母はレオニーがまだ幼い頃インディアンの民話をよく話して聞かせていたといいます。自分にはマイノリティの血が流れていていることを大学時代の親友にも話していました(当時白人で通用する容貌をしていればあえて話すひとはほとんどいない時代だった)。
レオニーの母は、後のレオニーの様に朝早くから夜遅くまで働く母子家庭でしたが(レオニーの父は別の女性との間に子供をもうけ結婚は破綻)、レオニー自身、自活による女性解放を目的とした教育を受けてきてもいました。歴史、哲学専攻で文学に憧れ編集者志望だったそんなレオニー・ギルモアが新聞の求人広告で詩人・野口米次郎が出した「編集者」の募集広告を目にとめたのは決して偶然ではなかったのです(当時編集者の職業は女性にとってあまりに狭き門で夢叶わず、修道女が移民の子女を対象にしたカソリック女子学校で教職に就いていた。野口米次郎と出会うのはその4年後)。
The Life of Isamu Noguchi: Journey Without Borders
一方、イサムの実父・野口米次郎はまだ日本人と言えば肉体労働の移民がほとんどだった19世紀の末どうして米国にいて「編集者」募集の広告を新聞に出していたのか。慶応義塾大学を1年で辞め17歳の時、汽船の3等客船に乗り込んでサンフランシスコに向かいましたが渡米の動機は好奇心だけだったといいます(渡航費は長兄が調達してくれたが滞在費用はなかった)。
好奇心だけといえども遡る少年時代に渡米したいという好奇心は芽生えていました。小さな雑貨店(紙や下駄、雨傘など)を営む生家に生まれた米次郎がアメリカに行こうという強烈な思いをもったのは、ウィルソンの第一読本を読んだ時だったといいます。とにかく利発で負けん気が強かった米次郎は、英語学習に燃え愛知県立第一中学に通い、学校での英語学習に飽き足らず15歳の時、英和辞典を風呂敷に入れ家出のように上京。
10歳年上の長兄(東京で日本鉄道の測量技師に就いていた)もとに住み込み、神田の予備校に1年通い、16歳の時、慶応義塾に入学していました。
イサム・ノグチ(3)へ続く: