伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

小学校時代からはじまった父の折檻。ブコウスキー一族に流れていたアルコールの血。高校生になると酒場へ潜りこむ。高校卒業時に読んだ「自伝的小説」を書くジョン・ファンテが神様に。放浪の旅の間中、肉体労働をしながら短篇を書き出版社に送りだす


くそったれ!少年時代 (河出文庫)

▶(1)からの続き:ブコウスキーは自伝的作品『くそったれ! 少年時代』の中やインタビューで、自身の子供時代をふりかえり、「喜びとは無縁で怯(おび)えてばかりだった」と語っています。何に対して怯えていたかといえば、父と母の無関心でした。おそらくはあまりに怯えてばかりいたので、幼い頃の最初の記憶もねじ曲がってしまったのかもしれません。

「何かの下にいたというのがわたしの最初の記憶だ。何かというのはテーブルで、テーブルの脚や、家族みんなの脚、それに垂れ下がったテーブルクロスの一部分などが見える。テーブルの下は暗く、わたしはそこが気に入っていた。たしかドイツでのことで、一歳から二歳にかけての頃だった。1922年のことだ。テーブルの下にいると気分がよかった。わたしがいることに誰も気づいていないようだった……」

これは世界中の「すべての父親たちに」捧げられた自伝的作品『くそったれ! 少年時代』の冒頭の部分です。本当に最初の記憶なのかはわかりませんが、気分がよかったといわしめるほどの原風景にやはり何か背景があるにちがいありません。
軍人だった父ヘンリー・チャールズ・ブコウスキーは、第一次世界大戦後にドイツに軍曹として駐留中ブコウスキーの家系のルーツはドイツだった)、お針子をしていたカタリナ・フェットと出会います。ヘンリー・チャールズはカタリナの気持ちを汲むことなく(カタリナは嫌っていた)、ドイツ語で話しかけたり食料を届けたり両親にとり入ります。デートを重ねるうち子供ができます。チャールズ・ブコウスキーでした(本名はハインリッヒ・カール・ブコウスキー
1923年、ドイツは経済破綻。ヘンリー・チャールズとカタリナは3歳になる幼子を連れてアメリカへ。母カタリナは自らをアメリカ人らしくするようにケイトと名前をつけました。ハインリッヒもヘンリーと呼ぶようになりました。また姓もヨーロッパ風の「ブコフスキー」ではなく英語で発音しやすい「ブコウスキー」と変えています。
ブコウスキー一族の血脈に流れているのは「アルコール」でした。とにかく飲んだくれ者が多く、父ヘンリーの兄も飲んだくれで絶えず失業し、弟はサアントリウムに引きこもっていました。兄弟の仲も悪くファミリー内で仲良くやっている者は誰一人としていなかったといいます。1924年ブコウスキー一家は後にブコウスキーの小説の舞台になるロサンジェルス近郊へと引っ越し。俗物的な気取り屋精神のままロスに移り住んだ両親は、荷馬車で牛乳を配達しはじめようがどうしようが自分たちは近所の皆よりも優れた存在だと考える癖(心的習慣)が治ることはありませんでした。そのため息子が劣った近所の子らと付き合うことを許さなかったといいます(それでけでなく服が汚れるからと一人で遊ぶことすら好まなかった)。近所の子供からは俗語で「ハイニー(ドイツ人)」と呼ばれブコウスキー少年はじょじょに性格が歪んでいったといいます。
ブコウスキー 酔いどれ伝説

父から折檻されるようになったのは、少年ブコウスキーが小学校にあがってからのことでした。最初の折檻は喧嘩についての報告の手紙を学校から父に届けた時でした(お尻とふくらはぎはみみず腫れ物と打ち傷だらけに)。浮気を重ね他に部屋を借りていた父は、母にも酷い仕打ちをしだしていました(失業が父を苛んでいた)。街の中心部に近いスペイン風の平屋に引っ越した時、父の折檻は異常なほどエスカレートしていきます。家の前後に広がる庭の末ごとの芝刈りを息子に命じ、刈り込み作業をサディスティックなゲームに仕立てあげたのです。狩り残した芝が1本でもあれば父は難癖をつ、ブコウスキーを鞭打ったといいます。折檻は日常化し、母は悲鳴を聞いても同情を寄せることもなく平然と見ているだけでした。ブコウスキーに母に対する愛情や尊敬がまるでないのはそれが理由です。無言の抵抗は父を怖れさせ、ついに折檻は終わります。2年間余りつづいた残忍な仕打ちは、ブコウスキーの喋り方まで変えてしまいます(ゆっくり喋るようになった原因は、つねに父の顔色を見ながら恐る恐る喋っていたからだという)
折檻がやんだとおもったら今度は悪性の疱瘡(ざそう)に怯えることになった少年ブコウスキー(愛称ブク)。中学校時代、友達もほとんどできず、症状が悪化したときは寝室に閉じこもることが多くなります。13歳の時、気づけば読書にはまり込んでいました。図書館が学校になるほど出入りし、D.H.ロレンスからエズラ・パウンドの詩、シンクレア・ルイスの『メイン・ストリート』、ジェイムズ・サーバーの『苦い思い出』、シャーウッド・アンダーソンの『黒い笑い』や『ワインズバーグ・オハイオ』、ドス・パソスの『USA』、ヘミングウェイの初期短編集『われらの時代』やツルゲーネフを読破していきます。
高校生になるとアルコールを求める血が騒ぎだし、両親が寝た夜8時、寝室の窓から這い出し通りのバーへ。にきび面のせいで年齢不詳が幸い。一時の幸運も束の間、近所の高校からエリート校のロサンジェルス高校への転校がさらなる非運をブコウスキー(ブク)にもたらします。転校は上昇志向の父の意向でしたが、男子生徒は日に焼けたイケ面、女子生徒も健康で輝くばかり。週末のデートやドライブ、ダンス・パーティ。ルックスが支配するキャンパスライフでは、酷いにきび面には生存する場所はまったくありません。気取り屋ばかりのロサンジェルス高を憎悪するばかり。学校を休学する程にきびは悪化、集中治療が施されます。いつも一人ぼっちで、意識的に孤独を生きはじめます。初の短篇第一次大戦時のドイツ空軍兵が主人公)を書きあげたのはこの頃、15歳の時でした。体育の時間も背中の腫れ物を見られるのを怖れ、逃れるように軍事教練の科目ROTC(予備役将校訓練部隊)を選択。卒業のダンスパーティでは、体育館の茂みから彼等の姿を凝視していたといいます。

高校卒業と同時に職探し。職探し中、ロサンジェルス高校と真逆に、ロサンジェルス公立図書館はブクにとって癒しの場所となります。ジョン・ファンテ(John Fante)の小説『アスク・ザ・ダスト』が人生の最大の導き手に。短い文節と短い章分け簡潔な文体にくわえ、移民の両親の許に生まれた作家志望の若者が主人公の話はブクを刺激せずにはおきませんでした。小説に登場するバンカー・ヒルは、ブクが出入りする公立図書館から通りをへだたった実在する地名だったことがブクを異常に興奮させたといいます(ファンテもよく通ったその交差点は、2009年に「ジョン・ファンテ・スクエア」と命名された)。後に家で学校であれだけ酷い目にあった「ロサンジェルス」という土地が、ブコウスキーの小説の舞台となり取り替えることのできない土壌となった背景には、ジョン・ファンテの小説から受けた感銘があったのです。ジョン・ファンテはブクの「神様」となり、「作家」になる”宣託”を感じ取ったのでした。ブクが安宿や工場仕事、バーを描けるように、アメリカのディープな場所へ探求の旅に出たのも、ジョン・ファンテのようになりたかったためでした。ニューオリンズへの最初の旅の時も、倉庫で働き貯金できると安部屋にこもって書き続けるのでした。小説『アスク・ザ・ダスト』こそ、後のブコウスキーの長編小説と同じように自伝的な小説でした(ファンテの処女作は1933年に書かれた『The Road to Los Angels』。処女作が出版されたのは遅く、死後2年後の1985年だった。『アスク・ザ・ダスト』は第3作目。ブクは1970年代後半にファンテの作品を再販するよう自身の作品を刊行するBlack Sparrow Pressに要請、再販されファンテの知名度をあげるのに貢献)
*下に紹介した本はジョン・ファンテの自伝的小説『アスク・ザ・ダスト(塵に訊け)』
塵に訊け!
塵に訊け!

さて探求の旅に出る前、高校卒業後ブクが就いたのはロサンジェルス高校近くのシアーズ・ローバックでした。人並みに就職することを期待する両親にかたちだけ従ってみましたが、賃金の奴隷のような仕事に嫌悪がつのるばかり(店に来た高校時代の生徒と喧嘩。わずか1週間の勤務で解雇される)。翌年(19歳)ロサンジェルス・シティ・カレッジ(市立大学)に奨学生として入学。物書きがすぐにはだめなら新聞記者になれるかもしれないという思いのなか、ジャーナリズム、国語、経済学などを学ぶが成績は平均点以下ばかり。勉強用に買い与えられたタイプライターが隠れて小説を書く道具にになっていたことが母にバレただけでなく、奨学金留保扱いになったことで家庭内の緊張は破裂。タイプライターと短篇小説は父によって芝生の上に無惨に放り出されるます。家には居られなくなり、ベニヤ板でできた安部屋に引っ越し。カレッジを辞めた21歳の時、サザン・パシフィック鉄道の貨物操車場や工場で半年間肉体労働し旅費を貯めニューオリンズの旅へ。ついでジョージア州アトランタへ。ブクのどん底時代中の極めつけのどん底時代がこの頃で、裸電球だけのバラック小屋に住んで短篇を書いては各地の雑誌社に投稿しています(50以上の短篇はすべて送り返されてきた)。クヌート・ハムスンノルウェーノーベル賞作家)の好きな小説『飢え(Hunger)』を地でいくように、定職に就くより書いて飢え死にすることすら考えにのぼるほどでした。
地下室の手記 (新潮文庫)
列車をタダ乗りするホーボーとなってテキサスから西へ。その頃、ドストエフスキーの『地下室の手記』を図書館で読み、生涯忘れられない強烈な印象を受けています帝政ロシアの社会エリートとロサンジェルス高校のルックスの良い連中が重なる)。サンフランシスコでは赤十字のトラックのドライバーは(22歳の時)、良い条件で大満足を味わいます。第二次世界大戦に徴兵登録をおこないますが精神科医によるテストで「サイコ(狂人)」と分類されてしまい、兵役につくことはできませんでした。極端なまでに鋭い感受性が兵役に適さない一因と徴兵カードに書き込まれたのでした。赤十字も解雇されたブクは再び放浪の旅へ。セントルイスではスポーツ用品店の地下室で梱包作業をします。内気な性格が禍いし女性との関係も築くこともなく、部屋に閉じこもっては短篇小説を書きちらし出版社へ郵送を繰り返していました。
24歳の時、短篇『アフターマス・オブ・ア・レンクシー・リジェクション・スリップ(長たらしい原稿不採用通知による後遺症)』がセントルイスの「ストーリー・マガジン」から採用され($25で採用)、気をよくしたブクは一路ニューヨークへ。が、作品は巻末に目先の変わった作品としてちらりと載っていただけで失望を味わうだけに。貯蔵庫の仕事をして再び放浪の旅へ。フィラデルフィアでは徴兵拒否が理由となりFBIに連行、収監されます。ロサンジェルスに戻ったのは太平洋戦争終結後の1946年(26歳)のことでした。この年に10歳年上の女性ジェーン・クーニー・ベイカーとバーで出会い、くっついたり離れたりの酒と喧嘩に染まった同棲生活を送りだすと同時に(この時期の自堕落な生活が映画『バーフライ』で描かれた。ブクはそうじゃないと憤慨することになるが)ジャン・ジュネヘンリー・ミラーが寄稿する「ポートフォリオ」誌に短篇が掲載されます。ブクがはじめて「詩」を書きはじめたのは、一般的にはジェーンと出会ってから9年後の35歳(1955年)の時のこととされ、一気に「詩人」として才能を開花させていったようにみられていますがドキュメンタリー映画ブコウスキー:オールド・パンク』もそのように描いている)、実際には26歳の時、つまり放浪の旅からロサンジェルスに戻ってきた年、すでに詩を書きはじめていて、「マトリックス」誌に書き送った詩2篇が認められ短篇小説とともに掲載されています。
しゃぶりつくせ!ブコウスキー・ブック
しゃぶりつくせ!ブコウスキー・ブック

しかもその詩には、すでに「バーでの日々」「不実な女たち」「安宿」が主題となっていました。後年のブクのトレードマークがはやくもあらわれていたのです。それはジョン・ファンテの小説を詩にした様に、すでに「自伝的」なものでした。その詩を書く前にブクはウォルト・ホイットマンらの詩人の作品を読みすすめていたといいます。そして「詩こそが最も簡潔にして最も優美で、最も衝撃を与える方法だ」と結論づけたのです(詳細は『ブコウスキー伝』ハワード・スーンズ著へ)
これは驚きです。要するにブコウスキーがはじめて「詩」を書いたのは、あまりの不摂生で吐血し死に近づき大量の輸血を受け一命をとりとめた後に復調しトラックのドライバーをしていた時、そしてジェーンと別離してからのことではなく、20代半ばの時、短篇を次々に書き送っていた頃のことだったのです。1969年にBlack Sparrow Pressから出版された重要な選詩集『The Days Run Away Like Wild Horses Over the Hills(日々は丘を越えて駆けて行く野生の馬のように過ぎて行く)』は、確かにジェーンとの日々がインスピレーションの源泉になったものだったのですが。
Black Sparrow Pressの出版人ジョン・マーティンが、「ブコウスキーは、現代のウォルト・ホイットマンだ!」と彼の詩を発見した時に叫んだと言いますが、そもそもブコウスキーは20代の半ばそのウォルト・ホイットマンの詩を読み続け確かなインスピレーションを得ていたのでした。
*参考書籍:『ブコウスキー伝』(ハワード・スーンズ著 中川五郎河出書房新社)/『しゃぶりつくせ! ブコウスキー・ブック』(ジム・クリスティ著 山西治男訳 メディア・ファクトリー)/『くそったれ! 少年時代』(中川五郎河出書房新社
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ブコウスキー伝—飲んで書いて愛して
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ブコウスキー・ノート
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