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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

 セザンヌ:「近代絵画の父」の源流へ(1)

 セザンヌはなぜ「近代絵画の父」と呼ばれるようになったのか? セザンヌがぶちあたった困難とは。「模写」から個人の「感覚」へのジャンプ。一般的な解説がセザンヌの生涯をまるで面白みのないものに。セザンヌ少年を生んだプロヴァンスの色彩と光、そしてサント・ヴィクトワール山


ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」
ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」
本書『ポール・セザンヌーサント・ヴィクトワール山』(ゴットフリート・ベーム著 三元社)は、セザンヌと「サント・ヴィクトワール山」の結びつき、60点にも及ぶ作品で何が明らかになっていったのか、「変化した自然解釈」や「色彩」のことなど、その”根本的”な意味をえぐった名著です。セザンヌ晩年の取り組み、その謎めいた意図とは、目の前の風景を描くのではなく、「自分がまさにこの風景を見ていることそのものを絵によって表現した」こと、<見ることを描く>という困難への挑戦でした。近代絵画の重要な出発点の一つになったもの、それが「サント・ヴィクトワール山」だったのです。


ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)といえば、それほどの絵画好きでなくとも知らない人はいないでしょう。どの美術の教科書にだって載っています。ところがピカソゴッホゴーギャンらの生涯が、伝記物語の最たるようなのに比べ、色彩に満ちた作品や知名度の割にはセザンヌの人物像やその生涯はそれほど知られることはありません。南フランスの裕福な銀行家の家に生まれ、父との確執はあったもののゴッホのようにたえず経済的な心配をすることもなく画業に専念できた、と淡々と紹介されれば、美大で近代絵画を勉強しないかぎり、面白みのない画家とのっけから片付けられてしまうのがオチです。
しかし芸術家にしてはドラ息子のようにみえるそんな人物が、19世紀後半の生き馬の目を抜く怒濤の美術界で、いったいどうして「近代絵画の父」ともいわれる重要人物と目されるようになったのでしょう(ユーロ導入前の旧100フラン紙幣に肖像と作品が描かれた)マチスらフォービスムの画家たちが色の安定性をセザンヌに参照し、「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい」というセザンヌの言葉は、ピカソやブラックらキュビストたちの絵画を準備することになったのです。


セザンヌは何をもってして「近代絵画の父」と呼ばれるようになったのか。それはセザンヌの次の言葉に要約されています。
「自然にならって絵を描くことは、対象を模写することではない、いくつかの感覚を実現させることです」
つまり風景絵画は、もはや「模写」によるものでなく、画家”個人”の「感覚」を実現化させた結果だとしたのです。もう少しわかりやすく、セザンヌに注目した哲学者メルロ=ポンティの言葉を借りれば次のようになります。

「その方法は文化を新たに基礎づけようとしており、……最初の人間が語ったように語り、それ以前に絵画がなかったかのように描く」と。

さらにセザンヌがぶちあたった困難は、「最初の言葉がもつ困難」と等しいものだったとさえみなしています。


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ということは、カンディンスキーもダリも、ミロもパウル・クレーも、ピカソ岡本太郎も、このセザンヌが拓いた「感覚」を”実現”させた絵の未来のなかに存在する(した)ことになるのです。このポイントをおさえるとセザンヌ(の絵画)が俄然興味くなってこざるをえません。

それでは近代絵画がもつ”最初の困難”をなしとげたセザンヌについて、「伝記」を通して一歩踏み込んでみましょう。まずは生地と幼少期からです。
セザンヌ1839年、南フランス・プロヴァンス地方のエクス(エクス・ド・プロヴァンスとも)に生まれています。エクスは大地が聖壇のように盛り上がったサント・ヴィクトワール山の麓につながる丘陵にオリーブと松の樹木が生える田園地帯です。

そうなのです、セザンヌの絵画で最も有名なあの何十枚もの「サント・ヴィクトワール山ーSainte Victoire 」の絵は、生まれ故郷の風景だったのです。サント・ヴィクトワール山麓につうじる丘陵に点在する古い家並は、かつて貴族たちが世を避けるように住み着いていた古い館で、3万人にも満たないエクスの町はイタリアの「ポンペイ」と比べられるような過去に微睡(まどろ)む土地柄でした。



セザンヌの父の家系はもとを辿ればイタリアの貧しい山人たちのなかにあったようです。セザンヌの姓は、移住し居着いたフランスの町「セザンヌ」の名をとったものでした。子だくさんのセザンヌ家でしたが、靴屋やかつら師、仕立て屋の家業では貧しさから抜け出ることはできません。
セザンヌの父ルイ・オーギュスト・セザンヌはエクスの町で昔から繁盛していた帽子造りに狙いを定めます(農家で飼われていた兎の毛がフェルト帽の素材に。輸出用のフェルト帽製造所が数多くあった)。帽子造り技術を習得しようとパリにでて丁稚奉公をし、職人となり、27歳の時にエクスに戻ります。ルイ・オーギュストは仲間らと帽子販売と輸出仲買の店を開業。商売は当り、ルイ・オーギュストは念願の富を手にし、その富を元手に銀行業へと事業を拡大していったのです。


ただ一般に記述されているようにセザンヌの父ルイ・オーギュストを裕福な銀行家だけとみると、セザンヌの生まれでる背景や生育環境を完全に見誤ってしまいます(銀行業のおこりは資金に困った兎飼育者への資金融資が発端。エクスにあった銀行が破産したのを契機に、そこの出納係に共同経営を持ちかける。帽子業は打ち切り銀行業に一本化、大きな成功をおさめる。父の人間活動の意味と価値は次第に「金を増やすこと」だけとなったという)

この父ルイ・オーギュストの次のような気質が、息子ポールに受け継がれるのです。「つねに目覚めている洞察力、慎重だが大胆、敏速で創意に富んだ知性、貪欲だが細心、強情で怒りっぽい、容赦しない、好みは質素だが情熱的、欲しいとおもたものは手放さない、自分に対してもいたわることをしない」

ポール・セザンヌは、「気質」こそ、ひとが目標を抱いた時に、その目標達成に最重要な要因になると次のように語っています。

「人を、その到達すべき目標にまで連れて行くことの出来るのは、ただ『根本』の力、即ち、『気質』だけである」


セザンヌの地味ながら粘り強い生涯にわたる絵画への取り組みをみてみれば、この「気質」「性格」ではなく「気質」。気質は人間の身体的にも、精神的にも根深い場所から滲みでる独特な性質、気性)が備わっていてはじめてなしとげられたものだったと考えてよいでしょう。

また生育環境や影響関係についても、この人間の”根本”にある「気質」如何によるともいえます。幼児期における何らかの刺激や行為がある子供には「意味」をもち、ある「方向」に向わせても、別のある子供にはさっぱりだということもここに理由があります。

そしてポールの「気質」は、父だけでなく、椅子職人の血が流れている母がもっていた、モノを見たり組み立てたりする時の豊かな「想像力」や、瞑想的で直感力に満ちた「気質」をも等分に受け継いでいたのです。ポールが5歳の時、母はポールが壁に向ってひとりで夢中になって何かをやっている様子を目撃したのです。それは木炭の切れ端を手に壁に何か「落書き」している姿でした。母は息子ポールが子供らしい笑顔が少なく、夫に似て強情で怒りっぽい性格を気にしていました。そんな息子が一人静かに熱中してのめり込んでいたのです。しかもたんなる落書きでなく、川にかかる橋の風景で、それを見た父の友人を驚かせたといいます。母はポールのなかに自分の気質が流れているのを感じ、嬉しくなったといいます。▶(2)に続く

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