伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

10歳、学校に行かず山で遊んだり読書する。15歳で上京、「俳句」の投稿。社会主義への傾倒。父の死、家運が傾くなか遊里で放蕩。24歳、民謡詩集『枯草』自費出版。莫大な借金から禁治産者に。記者になり北海道を転々とする、石川啄木との出会い。故郷に戻り炭焼き小屋で暮らしつづける


*映像の途中、雨情の生家「観海亭」の2階、雨情の過ごした部屋が出てきます
野口雨情童謡の時代
野口雨情童謡の時代

▶(1)からの続き:雨情7歳の時、磯原分校へ、8歳のとき磯原尋常小学校に入学します。当初は気が弱く、心細くて一人では学校に行けなかったほどでした。向かいの家の2歳上の渡辺源四郎少年に面倒をみてもらい一緒に学校に連れて行ってもらっています(源四郎は幼少時から神童といわれ、雨情の伯父にも可愛がられていた文学少年だった。雨情に文学面でも刺激を与え、後に新体詩や短歌をつくる。クリスチャンでもあった。19歳で死去)。行けば行ったで「おしゃれ」とか「侍の子」というあだ名をつけられ、それを嫌がり学校に行くことを好まなくなります。10歳の頃には実際に登校せずに、山に行っては本ばかり読むようになるのです。叔父からの薫陶と読書から学校の成績は、国語と漢文は群を抜くようになり、教師も雨情の放つ質問に答えられないことがよくあったといいます。
13歳の時、雨情が一時厭世的になり、文学に親しむ契機となった出来事がありました。祖母の死でした。雨情はとても悲しみ人の大勢いるところを嫌うようになり、学校にも行かず一人山の中で遊ぶようになります。一方で、雨情は淋しがり屋で、(大人になってからも)一人でいることを心細く感じ、よく女の子と遊ぶようになっていきます(後に芸者遊びにはまっていった)
磯原尋常高等小学校を卒業後、雨情は上京し(15歳)、神田猿楽町の東京数学院中学に入学しています。好きでもない数学を勉強させられたのですが、気持ちに余裕がではじめると雑誌「文庫」に俳句を投稿しはじめます(号を水戸の天守閣に烏の心として、烏城ーうじょうーと付けていた)。上京した18歳の時、同郷の先輩横瀬夜雨が処女詩集『夕月』を発表、当時の子女に愛誦されています(「お才」など郷土的で民謡調の詩は、北原白秋によって日本民謡史の初期の例証とされた)。大きな刺激を受けた翌年19歳の時明治34年、雨情は東京専門学校(後の早稲田大学の高等科分科に入学(東京で代議士になっていた伯父の野口勝一の家に寄宿)。同級の小川未明と出会い(この6年後に小川未明の紹介で「早稲田詩社」の結成に参加)坪内逍遥が雨情の恩師となります。
キャンパス外でも、新たな思潮に敏感に反応する一面もあった雨情は、クリスチャンだった内村鑑三幸徳秋水の思想に触れていきます(クリスチャンだった故郷の源四郎との関係)。また同年、幸徳秋水片山潜らが日本で初めての社会主義政党社会民主党」を結成、階級制度全廃や土地・資本の公有、公平な財富の分配をうたった「社会民主党宣言書」が発表され、雨情の青年の心は一気に社会の矛盾へと向っていきます。雨情は雑誌『社会主義』に新体詩を発表、後年、「社会主義詩人」野口雨情といわれるのはこのためです。ところが治安警察が即座に動きだし、社会民主党は2日後に結党禁止、日露開戦をひかえ社会主義者への取り締まりが厳しくなり、雨情の身辺も慌ただしくなります。
一つの組織からの束縛を嫌う体質だった雨情は、社会主義者になることはなく、むしろ大杉栄が説く無政府主義に関心を寄せていたといわれます(旧家に生まれ育った雨情は、はみだせないような窮屈さを感じ始めていた。ただ無政府主義は雨情の考えの一つにしかすぎず、雨情の中心には理想社会をつくるうえで太陽のような私心のない聖者としての天皇がいたという。天皇を神格化はしなかったが)。結局、退屈な講義に飽き足らず、雨情は東京専門学校を1年で中途退学(当時は時勢から文学志望者は中途退学者が多い)。学校の講義よりも雨情は、詩やお伽噺、短篇小説の執筆に熱中し、発表しだしていくのです。
22歳の時父が亡くなり、急遽雨情は故郷に呼び戻され学業を中断せざるをえなくなります。待っていたのは屋敷も山林も抵当に入っていたため債権者から矢のような催促。雨情は耐えかね遊里に出入りするように。家運はすっかり傾いても遊里では名家の若旦那。放蕩に身をもちくすず雨情をみかねて親類が妻(ひろ夫人)を娶らせます。ところが飲み・打つ・買うの道楽に染まった雨情は芸者の家に入り浸り、借金もふくらみ芸者と情死するまで思い詰めます(25歳の時、小樽の地で禁治産者を宣告されるまでに)。24歳の時明治38年に出版された「日本民謡詩集」の嚆矢ともなったといわれる『枯草』はそんな最中に自費で出版されています。雨情は遊里を彷徨いながらも試作はつづけていたのです(水戸の古い書店・高木知新堂から発行)。出版してみたものの本はまったく売れません(自ら電信柱に広告を貼って歩いた)。夢を打ち砕かれた雨情は、夫人の実家から騙すように大金を借り馴染みの芸者を連れて樺太に行き、一旗あげようとしますが芸者に有り金を持ち逃げされてしまいます。25歳の時のことです(この年春にひろ夫人との間に長男が生まれていた)。帰郷を懇願する夫人の言葉も受け入れず「東京にとどまって詩人として名をなすのが俺の生き方だ」として言い放つのでした。恥をさらして帰郷できるわけもありません。背水の陣でした。これから雨情の放浪時代がはじまります。親戚や知人に迷惑をかけどおし、不義理を重ねるも、放蕩が終わることはありません。

新資料野口雨情《詩と民謡》
新資料野口雨情《詩と民謡》

雨情が「日本民謡詩集」の『枯草』を出版した明治30年代は、舶来ものの流入が激しくなり民族古来の文化に対するアプローチが生まれ、日本民謡の蒐集がおこなわれだしていた。文学雑誌「白百合」を発行していた前田外林が明治36年に各地に散在する民謡を集め、『日本民謡全集(2巻)』を明治40年に刊行。雨情の民謡創作に大きな影響を与えていく。また森鴎外正岡子規、齋藤緑雨、山田美妙、岩野泡鳴、島崎藤村、土田晩翠らが創作した民謡体の多くは軍隊調であり小唄・端歌調だった。民謡風の創作として最も早いものは、新体詩人の中西梅花の「浦のとまや」といわれる。他に洗練され品格高い民謡を生み出した泣菫や、俗謡体で子守唄「手鞠唄」を手がけた平井晩村らの作品が知られる。雨情のこの頃打ち込んでいたのは、小唄、端唄、俗謡などの民謡体ではなく、純粋な民謡の創作だった。新体詩、短歌、俳句の近代文学勃興期の只中であり、民謡は試作の余技とみなされた時代でもあったが、民謡体の作品は「明星」や「文庫」に発表され、それらの雑誌は創作民謡の母体となっていた。


北海道から東京に戻った雨情は、早稲田の恩師、坪内逍遥の世話になり編集の手伝いの職を得、西大久保に居住します。26歳の時、月刊パンフレット詩集『朝花夜花』を発行。個人の月刊民謡詩集として日本初となるもので、郷土的な哀調が東京の詩壇で受け入れられたのです(民謡復興に寄与することになり後に創作童話の嚆矢とまでいわれるようになる。まだ十代半ば過ぎだった西條八十は『朝花夜花』に心驚かされている)。後に童謡「七つの子」となる「山がらす」はこの詩集に掲った作品でした。翌年「新声」に発表した「十五夜」は江戸ぶりの俗謡詩として評価を得ることはできず、詩壇も注目することはありませんでした。
野口雨情そして啄木
野口雨情そして啄木
結局、文学では食べていけないことを悟った雨情は、報知新聞通信員の仕事を得て北海道へ大正天皇の北海道巡幸の取材)。そのまま北海道にとどまると、札幌で北鳴新聞社で社会部記者として働きだします。3歳年下の石川啄木と出会ったのはこの頃のことです。雨情の知人の紹介で、放浪していた石川啄木は「北門新報」の校正係となりますが、将来への野望を語り合い意気投合した2人は共に「小樽日報」の創刊にくわわるのです。が、雨情は主筆に不満を持ち排斥運動を陰謀、暴露し1カ月足らずでクビに(啄木は残る。主筆は啄木に好意を寄せていた。啄木の目には雨情は独善的だと映った)。雨情は札幌で「北海タイムス」の記者になり旭川の本局へ転じ、以降北海道をめまぐるしく変転するようになります。この頃、「空に真赤な」や「片恋」を発表した北原白秋が、文学的真価を宿すものとして新民謡を確立していっています。
生活に追われ焦燥の日を送りながらも、雨情は早稲田英文科出の友人相馬御風や三木露風、加藤介春、人見東明、小川未明らが起こした早稲田詩社の運動にくわわっています。早稲田詩社は「早稲田文学」などに国語詩の運動を展開、相馬御風の「痩犬」や三木露風の「暗い扉」は詩壇を刺激したものの詩社は翌年解散しています(解散後、山村暮鳥らが参加し自由詩社をおこすと「自由詩運動」へと発展していった)。小樽で久しぶりに啄木と再会していますが(その後、啄木は上京)、27歳の頃から雨情は再び道内奥深くへといたり、室蘭新聞社で働いて以降消息を断ち、音信不通となります。雨情死亡の誤報が新聞に載り啄木が追悼文まで書き初めていました。後に雨情は北海道で「世の中の苦を味わいつくしていた」と語っています。
北海道の歴史がわかる本

啄木が『一握の砂』を発表した翌年のこと、夢破れて6年ぶりに故郷に戻った時、雨情は30歳になっていました。借財を整理すると先祖伝来の山林で植林と炭焼の仕事に打ち込みはじめます。炭焼小屋での自炊生活で生活は質素そのものだったといいます。そうしたなかでぽつぽつと「詩」をつくりはじめたのでした。それから16年後の大正10年(1922年)、雨情の傑作の多くが収められた民謡集『別後』と童謡集『十五夜お月さん』が発刊されました。雨情の民謡と童謡は広く世に迎えられ、何度も版を重ねられていくことになります。野口雨情、46歳になっていました。

野口雨情は自身の民謡について以下のように心構えを語っています。

「私は郷土芸術の所信もあり、民謡を野のものとして、認める関係上から、多くの作をした。これに対して『土の匂いが豊富だ』といって、喜んで下さる人もあるし、また『余りに田園に偏し過ぎる』と云う人もある。然し私は、前の評言で満足するもので、私自身が、いつになっても、田舎者のような気分でいることだし、素朴な田舎の人心、情緒を愛することは、都会のそれよりも数倍強いので、あくまでもこの態度を続けて行きたいと思っている。殊に現代文明の中心は、都会に集中して、人心はややもすると、軽跳な浮薄に流れよいとする傾のある今日、日本人口の八割以上も占めている田舎の人の為、またその芸術を高唱することは決して、無意味なことではないと思っている。だから私はその詩法に於いても、華麗なそして粋なものよりも、寧ろ朴訥純心を尊んでいる。そして華やかな生活者よりも、貧しいあわれな生活者の為にと、心かけている。また私自身も、貧しくてあわれなものであるからである」(『野口雨情ー近代作家研究叢書58』p.116 平輪光三日本図書センター 1987年刊)

詩人で近代文学研究者の伊藤 信吉の言葉を最後に。

「底辺暮らしの唄の数々。底辺の社会的感傷。同時代の民謡、童謡などの作者たちで、人生におけるこの<弱者の哲学>を把握した詩人は雨情ひとりであった」

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