宇野亜喜良(1):絹織物に「絵」を描く父の姿
職業が判然としなかった父。絹織物に「絵」を描く父の傍らで無意識の内に絵を描く技術を習得していく。お医者さんごっこが好きな少年。学校で習う絵はつまらなく、講談社の「絵本」に夢中になって「模写」していた
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*三次元にひろがった宇野亜喜良ワールドは、寺山修司作・演出の『毛皮のマリー』(1967年初演。宇野亜喜良が参加したのは翌年ドイツ・フランクフルトで開催された第三回国際実験映画祭における天井桟敷の公演)した時で脚光を浴びていった。
メランコリックで、ロマンチック、耽美的で妖艶な少女のイラストレーションといえば、昭和(そして平成へ)の挿絵画家、グラフィックデザイナーの宇野亜喜良の名がすぐに思い出されます。
宇野亜喜良の世界=AQUIRAXは、ポスターや本の装丁・挿絵だけでなく、舞台美術の三次元空間にまでのびています。代表的なのは、故寺山修司作・演出の『毛皮のマリー』や、『千一屋物語・新宿版』『アダムとイヴー私の犯罪学』。後には様々な舞台の舞台美術や芸術監督も担っています。
宇野亜喜良ファンはすでに知ってのことですが、寺山演劇のポスターを横尾忠則と担うようになって脚光を浴び時代の寵児となる以前の宇野亜喜良について少し記しておきます。
昭和39年、宇野亜喜良30歳の時、横尾忠則と原田維夫の三人で「インフィル」を設立(横尾忠則が気にいっていたニューヨークの「プッシュピン・スタジオ」を真似たスタジオ)。創刊された『話の特集』からの挿絵依頼を受けています(横尾忠則が表紙で、宇野亜喜良は寺山修司のピカレクス・ロマン『絵本千夜一夜』の挿絵。全体のアート・ディレクションは和田誠)。
寺山修司との仕事はそれ以前からあり、詩集『ひとりぼっちのあなたに』などの挿絵を描いてきていました。「インフィル」の前は、宇野亜喜良の履歴に一般的に出てくるように日本デザインセンターに勤務し、広告デザインを仕事とし、『朝日ジャーナル』に挿絵を描く仕事もしています。
さらに遡ると、宇野亜喜良はカルピスに入社していて、新聞広告やパッケージのデザインをしています。2年後に社員から嘱託になる頃には、講談社の『世界児童文学全集』の広告や絵本、専売公社のパッケージングの仕事の注文を受けています。
そうした履歴に、昭和9年(1934年3月13日生まれ)、愛知県名古屋市生まれを加えると、一般的に流布するおおまかな宇野亜喜良のプロフィールができあがります。
しかしそれらは、”AQUIRAX”と名づけられたロマンチックな樹木の表皮であり緑葉であり実った鮮やか色の果実ばかりで、その花や果実を生み出した樹体、そして根っ子や土壌については何も教えてくれません。しかしそこにこそ宇野亜喜良の”本体”がいるのです。メランコリックな少女の瞳、物憂げな表情の源となるものがあるのです。
文章を書くことが苦手で、自身のこともあまり多く語らない宇野亜喜良ですが、自身の半生を綴ったエッセイがあります。それが『宇野亜喜良 全エッセイ1968-2000 — 薔薇の記憶』(東京書籍 2000年刊)です。幼少期から青年期にかけてのことはエッセイのうちの幾つかにすぎませんが、そこには宇野亜喜良の内なる記憶と光景が記されています。
名古屋市の中心街・栄の南方1.5キロ程、上前津の交差点の一本裏通りの路地は、近所の子供たちのビー玉とメンコ遊びの格好の場所でした。
ビー玉とメンコ遊びは亜喜良少年を夢中にさせましたが、同時に他の少年とちがうことにも心を奪われるようになります。
それはお医者さんごっこでした。木を器用に削り、銀色のポスターカラーを塗って即席の注射器をつくり、それをうつ伏せになった近所の女の子のお尻へと突っ込むのです(宇野亜喜良『ヰタ・セクスアリス(vita sexualis ウィタ・セクスアリスと読む。ラテン語で「性欲的生活」の意味。1909年発表の森鴎外の小説として著名)』の最初の頁に描かれているのは少女の銀のアヌスだった)。銀色のポスターカラーをどこから持ってきたかといえば、父の部屋からでした。父の部屋にはいろんな絵の具があったのです。
亜喜良少年の父は職業は判然としないひとだったといいます(絵を描いたり室内設計をてがけていたが一家の大黒柱ではなかった)。絵描きといっても書くのは白いキャンバスではなく黒繻子(じゅすとは絹織物のこと。サテンとも)の帯の上だったりしました。イエロー・オーカー、マゼンダ……と、父は独り言をつぶやくように絵具の色を言っていたので亜喜良少年は色の名前を無意識のうちに覚えていたといいます。
絵を描いた後、父は亜喜良少年に筆を拭くよういいつけるのでしたが、父の傍らにいるうちに絵画にまつわる知識が断片的ではあっても蓄積されていったようです。本書でも、宇野亜喜良は「絵を描くことの技術を父から引き継いだ」と語っています。
MONO AQUIRAX+—宇野亜喜良モノクローム作品集
亜喜良の幼少期は、支那事変から太平洋戦争のキナ臭いにおいがずっとたちこめ、講談社からでていた「絵本」も戦車やトーチカなどが載っていて、亜喜良少年はボール紙で戦車を真似てつくったりしています。そしてその戦車の砲の部分に花火を取りつけ、マッチをすった瞬間、花火が爆発し戦車が爆発してしまったこともあったようです。
とにかく小学校では雨の日には、亜喜良少年はクラスの人気者。雨で校庭で遊べない級友たちがやって来ては、飛行機や汽車の絵がうまい亜喜良少年に絵を描いてくれとたのむのです(蒸気機関車D51の流線型の新型タイプが出現し多くの少年たちを興奮させていた時期だった)。
飛行機や汽車の絵もうまかったのですが、亜喜良少年が最も得意だったのは、講談社の「絵本」でみるような絵(伊藤幾久造や樺島勝一、梁川剛一らの挿絵)で、そうした絵を何度も何度も見て「模写」していたのです。伊藤幾久造は、大佛次郎の『鞍馬天狗』や講談社の絵本『乃木大将』(南洋一郎・作)や『怪傑黒頭巾』(高垣眸・作)の挿絵画家。樺島勝一は、海野十三や中山峯太郎らの軍事・冒険小説に挿絵を描いた。
梁川剛一は『蝶々夫人』や『怪人二十面相』『シンデレラ姫』『密林の王者』などの挿絵画家。学校の図画の教科書に載っているような絵(石井柏亭らのもの)はつまらなく、「絵本」の絵は亜喜良少年を夢の世界に飛翔させるのでした。
父から断片的に無意識のうちに仕入れていた絵を描く技術が、もし「絵本」と深く出会っていなかったら、宇野亜喜良の”AQUIRAX”の世界は誕生していなかったにちがいありません。
宇野亜喜良(2)に続く: