伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

宇野亜喜良(2):妹がとっていた『それいゆ』が気になりだす

中学生の時、妹がとっていた『それいゆ』が気になりだすし宝塚や中原淳一を、つづいて父が隠しもっていた「春画」と竹久夢二を知る。木村荘八の挿絵に夢中に。すべて「挿絵」への関心だった。母の経営する喫茶店の壁を飾った絵が噂に

宇野亜喜良(1)の続き:
亜喜良の幼少期は、支那事変から太平洋戦争のキナ臭いにおいがずっとたちこめ、講談社からでていた「絵本」も戦車やトーチカなどが載っていて、亜喜良少年はボール紙で戦車を真似てつくったりしています。そしてその戦車の砲の部分に花火を取りつけ、マッチをすった瞬間、花火が爆発し戦車が爆発してしまったこともあったようです。

とにかく小学校では雨の日には、亜喜良少年はクラスの人気者。雨で校庭で遊べない級友たちがやって来ては、飛行機や汽車の絵がうまい亜喜良少年に絵を描いてくれとたのむのです蒸気機関車D51の流線型の新型タイプが出現し多くの少年たちを興奮させていた時期だった)

飛行機や汽車の絵もうまかったのですが、亜喜良少年が最も得意だったのは、講談社の「絵本」でみるような絵(伊藤幾久造や樺島勝一、梁川剛一らの挿絵)で、そうした絵を何度も何度も見て「模写」していたのです。
伊藤幾久造は、大佛次郎の『鞍馬天狗』や講談社の絵本『乃木大将』南洋一郎・作)や『怪傑黒頭巾』高垣眸・作)の挿絵画家。樺島勝一は、海野十三や中山峯太郎らの軍事・冒険小説に挿絵を描いた。

梁川剛一は『蝶々夫人』や『怪人二十面相』『シンデレラ姫』『密林の王者』などの挿絵画家。学校の図画の教科書に載っているような絵石井柏亭らのもの)はつまらなく、「絵本」の絵は亜喜良少年を夢の世界に飛翔させるのでした。
父から断片的に無意識のうちに仕入れていた絵を描く技術が、もし「絵本」と深く出会っていなかったら、宇野亜喜良の”AQUIRAX”の世界は誕生していなかったにちがいありません。

宇野亜喜良氏の実家は名古屋の中心地・栄のすぐ南より上前津の交差点の裏通りにありました。ビー玉やメンコ遊び、そしてお医者さんごっこ、絵本の「挿絵」のに夢中になっていた亜喜良少年のテリトリーも名古屋大空襲から焼け野原になり、あちこちに闇市が立ち並んだといいます。


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戦況も悪化してきた小学2年の頃、名古屋の中心部は危険なため、亜喜良少年も愛知県南部の碧南・鷲塚にあるお寺に疎開することに(月に一度、肉親との面会。お寺には教師を兼ねた女性がいた)。亜喜良少年は2年間の間、その寺で過ごします。泣き出す子や脱走する子もいたなか亜喜良少年は、環境の変化に順応力がある方だったといいます。というのも物心ついた頃から母はほとんど家にいなかったので、母や両親のいない状態には慣れていたのです。

本人も「家なき子」だったというほど、夜は独りぼっちでいることも多かったので、絵を模写して時を過ごしていたようです。なぜ母は家を空けることが多かったのか。それは母が一家の大黒柱として「喫茶店」を経営していたからでした。

なんといっても愛知県は全国屈指の「喫茶店文化」がある地域です(全飲食店の4割が喫茶店1920年代に日本で喫茶店ブームが巻き起こっていて、まさに喫茶店が住民の間に根づきはじめた時期でした。
そしてなんとも興味深いことに、母の経営していた「喫茶店」こそが、亜喜良少年が「絵」を自分の仕事にしようと思わせたある契機を与えることになるのです。

小学6年の時に太平洋戦争が終結。亜喜良少年は折り畳み仕様で復刊された『少年倶楽部』に熱中しはじめます(亜喜良氏の記憶では復刊だが、『少年倶楽部』は戦時中も不定期的に刊行され続けていた。用紙割り当ての問題など総頁数は32ページにまで減り、1945年8・9月合併号は「終戦詔書」が仮名つきで掲載された)。『少年倶楽部』や『少年(松野一夫の表紙絵)』を購入していた亜喜良少年の視野のなかに、三歳下の妹が勝っていた少女雑誌がはいりはじめるのです。

「三つ違いの妹は『少女』を買っていて、そのうちしばらくすると『ひまわり』や『それいゆ』が発行されはじめ、そちらに切り替えたようであった。妹が僕の少年雑誌を読むことはなかったが、僕のほうは妹の雑誌をよく読んだ。『それいゆ』は、その頃の雑誌のなかでは取りたてて豪華で、ちょっと正方形っぽい変型サイズ、表紙もニス引きだった。中原淳一の、線描に色を塗っていくスタイルとは別の水彩画風だったり、パリに行かれた頃油絵に変わったりした表紙の絵は、いつも楽しいものだった。
 …そういってみれば、僕の<少女>というもののイメージとの邂逅は実人生よりも、むしろ『それいゆ』のなかでだったような気がする。宝塚を知ったのも、『マリウス』や『ファニー』といった名作読物も、カーテンのフリルも、
小花のコサージュやブーケも、アップリケもフリンジも、ペチコートも、女の子の髪型も、人形も、芹沢光治良川端康成も、鈴木悦郎も長沢節内藤ルネも、ここから始まっているのだ……
 今でもイラストレーションでGパンのステッチを描いたり、人物の瞳をどうしても大きめに描いてしまう僕のDNAのようなものは、きっと中原淳一を原体験に持っているせいなのかもしれない」

(『宇野亜喜良 全エッセイ1968-2000 — 薔薇の記憶』中「僕の中原淳一体験」より p.56~57)