伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

サティ(2):「変わり者」の遺伝子

 


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この父アルフレッド・サティなくして、エリック・サティは生得の才を宿すことも伸ばすこともなかったとおもわれます(最もかなりねじれた枝葉の様に)。

父アルフレッド・サティは「音楽マニア」でした。音楽好きだけでなく「言葉」にも長け、数カ国語に通じていました。サティ少年はこの父に直接、学校教育を受けることになります。

 

というのも父は大の学校嫌いで、息子エリックも自分と同じようにきっと学校嫌いになるだろうと先読みし、父自ら息子エリックの教育にあたった時期があったようです(父はかつて自身が通ったコレージュ・ド・フランスに息子を連れ行き講演や講義を聴かせもした)。

 

またこの父にしてこの叔父あり。叔父アドリヤン・サティはオンフールの町で知らぬものはいない存在で「海鳥ーシー・バード」というあだ名をつけられていました。羽目をはずす遊び人で奇人変人といってもよい人物で(ぺてん師で怠け者とも)、サティの「奇行癖」はこの叔父からきているのではないかと疑われている人物です。

さらに母方の方にも奇行癖のある人物がいました。大叔父のマック・コンペイです。劇場で道徳を説くチラシを配ったり車を奇抜な色彩に塗ったり、馬の前で何時間も物思いに耽ったかとおもえばヨットに乗って漂流者のよう港をぐるぐるまわような人物でした。

こうした人物たちに交わって成長したわけですから、「変わり者」の遺伝子を受け継いでいたともいえます。

 

しかしもし祖父のジュール・サティがいなければ、少年サティはたんに奇行癖のある音楽好きの人物で終わっていたかもしれません。

祖父ジュール・サティはサティ家の中では立派な人物だったようで、父と同じく海運業者であり、市会議員・消防隊長も務めていました。

この祖父ジュールが少年サティの奇妙に「音楽好き」に気づいたのです

 

1960年代になるまで40年余り完全ともいえるほど見捨てられていたサティ。脚光を浴びるきっかけは、この映像で演奏しているアルド・チッコリーニがサティの作品をリサイタルにのせたことだったといわれている。曲は「グノシエンヌ」。

下に紹介したのはそのアルド・チッコリーニ演奏のサティ作品集



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「…とはいえこの音楽(『ジムノペディ』)には描写的なところは全くない。もし『ジムノペディ』がイメージを形作るとしたら、そのイメージは本質的に発動的なものなのだ。

まず最初に自分がゆれ動く地面を歩いているような感じがし、なんの解説もないその彷徨から、想像力がゆり動かされる。これは聴くものの頭のなかでしか終わらない音楽なのだ。

 

ジムノペディ』は、いささかクリスタルの球体に似た働きをする。人は自らもたらすものをそこに見出す。それはカンバスとなり、人々は自分自身の気分と連想によってそこに刺繍するよう求められる。聞き入るよりも耳にするための曲なのだ。壁

 

を消す音楽、地平に建てられたばかりの真新しい空間を描き出す音楽。それは旅や異国趣味への誘いではなく、標識もなければ目的もない散歩への誘いなのだ。よしなしごとを考えている自分に耳を傾けるために歩くことへの誘いなのだ」(『エリック・サティ』マルク・ブルデル著 アールヴィヴァン選書 p143)
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少年サティがノルマンディーに住む祖父ジュールの許に連れて行かれたのは、母ジェインが病死したためでした。一家でパリに出て2年後のことでした(サティ6歳)。

パリでは「散歩者」ボードレールの後裔たちが目的もなく舗道を散歩していたはずです(サティはボードレールが亡くなった1867年の前年に生まれている)。そんなパリの散歩者たちを幼いサティも少なからず見ていたことでしょう。

 


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とにかく母を亡くした3人の子供たちのうちエリックと弟コンラッドの男兄弟が父方の祖父母の許に預けられることになったのです(英国教会で洗礼を受けていたエリックは、カトリックとして再洗礼を受ける)。

サティはこの祖父母の許で公立小学校に通い寄宿舎に入ります(小学校は父母の住む家から300メートルと隔たっていなかったが寄宿舎生活は6年続く)。学校の成績はまったく凡庸、規律を守ることはなく、成績に関しては記述することはまるでなしの状態だったようです(第8年級の時、一度だけラテン語で一番になった)。