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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

アナ・ウィンター:超然とした少女だった訳(1)

アナ2歳の時、ウィンター家を襲った悲劇。一家は悲劇を境に崩壊しはじめた。地味な母は悲劇を境にソーシャルワーカーに。ロンドンの高級紙に勤務しだした父は家に立ち寄らなくなる。友達をつくらなかったアナ。「超然」とした態度は少女の頃からあった。14、5歳の時、「ファッション」がすべての中心に


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映画『プラダを着た悪魔』のモデルとしても知られる『ヴォーグ』の編集者として約4半世紀まさに”ヴォーグ宮殿”に君臨しつづけている「ファッション女王」アナ・ウィンターにアプローチしてみます。参照資料は『アナ・ウィンター ファッション界に君臨する女王の記録』(ジェリー・オッペンハイマー著 MARBLE BOOKS 2010刊)です。

ファッション王国『ヴォーグ』やアナ・ウィンターに関心のある方はすでにリアル・ワーキング・ムービーの映画『ファッションが教えてくれること:原題 The September Issue』(2009製作)をご覧になっていることでしょう。約4半世紀というあまりに長いウィンター政権なので、『ヴォーグ』ではアナ・ウィンターの超然としたあり様や仕事ぶりが当たり前のような気にさせますが(無論、編集長には大きな権限を有しますが)、『ヴォーグ』のエディターの歴史の中でもかなり特異なもののようです。つまりはアナ・ウィンターの「キャラクター」や気質に帰せられるものがかなり多くあるといって過言でないようです。


そして「ファッション女王」アナ・ウィンターは、『ヴォーグ』の編集長の椅子に座る前から、ほとんど”あの調子”で、その「ファッション女王」然としたキャラクターから周りから疎まれぶつかったり職を失ったり、一般にイメージされているよりもその強烈な上昇志向の陰で、失意と落胆の日々がかなりあったことはあまり知られていないかもしれません。
10代後半から20代前半くらいまでは、ロンドンの有名な高級夕刊紙「イブニング・スタンダード」(日本のタブロイド夕刊紙や「東スポ」とはわけがちがったが、2009年に元KGBのビジネスマンのアレクサンダー・レベデフが実権を握りフリー・ニュース・ペイパーに。金曜日はタブロイド版)の編集長だった父チャールズ・ウィンターがその名声とコネクションでアナを一時期支えたことはありましたが、その頃にはウィンター家は崩壊しており、アナは無意識の裡にも父親的存在を探しはじめた頃でした。


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プラダを着た悪魔」とまでイメージされる編集長になるまでは想像以上の紆余曲折があり、しかしそれがアナ・ウィンターならではの紆余曲折であったことが『アナ・ウィンター ファッション界に君臨する女王の記録』からみえてきます。アナがファッション王国『ヴォーグ』の編集長になることに狙いを定めたのは、なんと22歳の時でした。それ以前になると、「編集者」やファッション・ジャーナリストになろうと思いや野心はなく、「ファッション」と「美容」にのめり込んでいた一人の女性でした。ただそののめり込み方が尋常ではなく、同性の友達をつくることにもほとんど関心がなく、すでに「超然」とした女の子だったというのです。


その特異な感覚は、ウィンター家のある「悲劇」から色濃くなっていったようです。ウィンター家のある「悲劇」とは何だったのか、まずはそのあたりからアナ・ウィンターの「心の樹」の根元の方へ接近してみましょう。アナが2歳の時の出来事でした。優秀で両親の期待を一心に受けていた長男ジェラルドが自転車で下校中に車に撥ねられ即死してしまったのです。この時の父チャールズ・ウィンターの対応が長男を失っただけでなく一家を崩壊させる原因になってしまうのです(半狂乱になって連絡してきた母エレノアに対し、メディア界の有力者ビーバーブルック卿の口述を何事もなかったかのように続けたといわれている。周囲からチャールズ・ウィンターの体内には冷たい血が流れていると噂されるようになるが、この時のチャールズの姿勢に感心したビーバーブルック卿は、以後チャールズを庇護していく。チャールズ・ウィンターの職歴は、「Sunday Express」のassistant editorや「Daily Express」のManaging Editor、「Standard Express」にゴシップコラムを導入したり、あの「Times」の編集者の候補にまでされていた)


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が、直後チャールズは殻に閉じこもるようになり家庭内の空気も一変。エレノアはアナと息子を連れボストンへ(その年ロンドンへ戻りなんとか和解。その後アナの弟と妹が生まれる)。物心つきだした頃、アナの生育環境は悲しみとたえず陰鬱な空気に包まれていました。ウィンター家は、まさに誰もが”冬”から抜け出せないでいたのです。

一家の悲劇を契機に、ハーバード大学出身者を親に持つ才女だった母エレノアは、ジャーナリストやライターだった目標を鉾に収め、「ソーシャルワーカー」の仕事に打ち込むようになります(政府認定の心神喪失者の支援をメインに里子や里親の支援も。50代からは長年の夢であるライター業もやりはじめ「タイム・アンド・タイド」誌に映画評を寄稿。その辛口さは娘アナ・ウィンターそのもの)。一方の父は仕事に明け暮れるようになり家にはほとんど寄り付かなくなります。その厳格な仕事ぶりと超然とした態度から「チリー(冷淡な)・チャーリー」とあだ名されるようになったのもこの頃のことのようです。大好きだった父が家にほとんど帰らなくなり、シャルワーカーの母も外出ばかり、親友もいないアナは家でいつも一人、内向的で引っ込み思案になります。


アナはそのまま学校でも、もの静かで目立たない生徒だったといいます(仲のいい友達はほとんどいず女友達すら必要としていないようだったという)。ただ内向性や口数の少なさといったことは、マイナスにとらえられがちですが決してそうとばかりではありません。負けず嫌い、執着心、我の強さ、気質や個性と相まって、そのひと独特の「キャラクター」を形成していくことになるのです。もの静かで目立たず、内向的で、口数も少なく、友達もほとんどいなかったというのは、「ユニクロ」の柳井正氏の少年時代を彷彿とさせます。

11歳(1960年)の時、ロンドンの超名門校クイーンズ・カレッジ(資産家令嬢だけが通う中・高一貫学校)に入学する頃には、アナは衣装に関して敏感になっています(両親には衣装に対するセンスも関心もなく、その影響は街やショップにあったに相違ない。家は陰鬱でつまらない場所だった)。時代遅れだと毛嫌いする学校の「制服」だけでなく、アナの衣類に対する意識は同年代の少女たちも理解をしかねるほどのものだったといいます。またすでにアナの意識は、「ファッション」だけでなく「美容」にも向っていて、当初アナは陸上部に所属し走るのが速く有望な選手とみなされましたが、体育会系の「脚」になることを危惧し、11歳の頃早々と走ることをやめているほどです。


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アナは、14、5歳(日本で言えば中3から高1にかけて)の頃に年齢にそぐわないほど「ファッション」が生活の中心になり、ボブ・スタイル・ヘアにし、後の「ファッション女王」の片鱗をのぞかせだしていたと言われます(ボブ・スタイルはアナのトレードマークに)が、『アナ・ウィンター ファッション界に君臨する女王の記録』によれば、アナがボブ・ヘアにしたもう一つの理由は父の部下で才女だったモーリンへの対抗だったようです。そして時代は、「スウィンギング・ロンドン」。ボブカットはセクシーでイカしたヘアスタイルになっていったのです。
▶(2)に続く

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