立花隆(1):探究心の大本にあるもの
「文系」と「理系」をたえず横断する立花隆の探究心の大本にあるもの。本姓は「立花」でなく「橘」、戦前の水戸の超国家主義者を従兄弟にもつ。文部省職員だった父は「全国出版新聞」の編集長に。小学校低学年から家にあった書籍を手当たり次第に読み漁った。小学低学年の時に読んだ「エジソン伝」が理科系への関心のはじまり。
「僕はもともと科学少年だったんですよ。中学ぐらいのときには手作りの望遠鏡を覗いてたりしていた、『子供の科学』という雑誌があった、通信販売でレンズだけ売っていた。あとはケント紙を買ってきて、自分で丸め、レンズを嵌め込むわけです……それで月なんかを見ると、クレーターなどがはっきり見えて驚嘆した。
『角栄研究』以降もずっと角栄支配の時代が続いてしまったため、新聞や雑誌で結構頻繁に政治のことも書いていた。それで何か権力と闘う立花隆というイメージがあったんですね、
だから『宇宙からの帰還』を書いた時には、意外感を持って受け止めた人のほうがはるかに多かった。でも僕自身としては、むしろ角栄のほうがまったく意外な仕事だった」(『立花隆のすべて』文藝春秋 1998年刊 p.93)
『田中角栄研究ーその金脈と人脈』に『日本共産党の研究』『中核vs革マル』『宇宙からの帰還』『アメリカ性革命報告』『農協』『巨悪vs言論』『サル学の現在』『精神と物質(利根川進との対談)』『サイエンス・ナウ』『脳死』『人体再生』『臨死体験』『インターネットはグローバル・ブレイン』『天皇と東大』『滅びゆく国家 日本はどこへ向うのか』など数多くの著作、しかも政治・社会・文化ものから、スピリチャル、そしてサイエンスまで知を横断する旺盛な文筆活動してきた立花隆。
「文藝春秋」誌(1974年)での時の首相・田中角栄の金脈問題に対する綿密な取材の裏打ちは調査ジャーナリズムの嚆矢とされ、『日本共産党の研究』とともに日本のジャーナリズムの画期といわれています(田中角栄退陣の契機に)。
そんな立花隆がどうして関心を一気に宇宙へ、そしてサイエンスへ、さらには脳死や臨死体験へと向けていったのか。<知の横断>といってしまえば、「伝記ステーション」/「Mind Tree」にとってはまったく身も蓋もありません。
それは読者や他人から見てそうだとか、結果としてのことであって、本人からすれば横断ではなく「奥」か「底」へ行く感じだとおもいます。<知の横断>はなにも立花隆にかぎったことではありません。有名無名を問わず、そうした関心・好奇心の向き、有り様はこんにち決して例外的ではありません。
ただ「日本共産党の研究」から「サル学の現在」「脳死」「天皇と東大」ときて、それをまた矢継ぎ早に発表していくとなるとなかなかできるものではありません。こう並べれば横一列のようにみえ、専門性が頑に尊ばれる日本においてはやはり例外的といえるでしょう。
<知の横断>という見方でなければ、立花隆はどうしてその様な多分野に探究心を向けていったのか(最先端分野に猪突猛進で新たなフィールドに突っ込んでいくので時に研究対象を捉え切れていない、事実誤認であると批判を受けることも多々あったが、それでも止むことなく動きつづけるのはそうした部分も含めて立花隆という人間の本質・根本にかかわるものなので)。ではそれをこれからみてみましょう。
まず彼の”根っこ”、つまりは著作をいくら読んでもなかなかのぞけることのない”底”の部分に光をあててみます。
立花隆は、1940年(昭和15年)、長崎県長崎市に生まれています。本名は橘隆志。立花でなく「橘」というのが彼の太い根の一つです。なぜか。長崎市生まれではありますが、父の郷里・茨城県水戸こそが重要になってくるからです。
父方の従兄弟は、戦前の超国家主義者で農本思想家、「戦前の右翼思想家」の橘孝三郎(大杉栄やクロポトキンの影響を受ける。一高をすぐやめ水戸で農村青年のための塾ー愛郷塾をつくる。天皇主義がプラスされ、五.一五事件では塾生を率い東京の変電所を襲撃)です。
つまり水戸という地には、尊王攘夷思想・愛国主義的な「水戸学」(藤田東湖や会沢正志斎らが中軸)が興っています。橘隆志が1歳の幼少期から太平洋戦争敗戦まで北京に居たことは決して無縁なことではありません。
長崎で活水学院の教師だった父は、文部省職員となり中国における日本軍の占領地に建てられた北京師範学校の副校長となり(一家で中国・北京へ)、敗戦後は引き揚げ、母の郷里・茨城県那珂西に住み、次いで同県の父の郷里・茨城県水戸へ移り住んでいます。先祖はもともとは染物業の紺屋(こうや)で、そこから枝分かれした大きな材木屋は祖父の代で没落。
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