伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

坂口安吾(2):幼少期に始まっていた「切なさ」の感覚


「私は私の気質の多くが環境よりも先天的なもので、その一部が母の血であることに気付いたが、残る部分が父からのものであるのを感じていた。私は父を知らなかった。

そこで私は『伝記』を読んだ。それは父の中に私を捜すためであった。そして私は多くの不愉快な私の影を見出した。

父に就て長所美点と賞揚せられていることが私にとっては短所弱点であり、それは私に遺恨の如く痛烈に理解せられるのであった」坂口安吾『風と光と二十の私と・いずこへ』中「石の思い」より)<

 


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坂口安吾(1)より:

「父を知らなかったので、父の『伝記』を読んだ」とは、どういう親子関係といえばいいのでしょう。父が亡くなり大人になってから父親の「伝記」や「自伝」がある子息がその類を読んで、父なる人物の若かりし日や仕事の一切を知ることは限られた者だとはいえ、なくはない話しでしょう。

しかし安吾の場合は、父がまだ生存し、安吾もまだ青年未満の時のことなのです。


『風と光と二十の私と・いずこへ』中の「石の思い」のなかでは、「父は自分とは無関係な存在だった」とまで記しています。

その背景は、父は議員として長い間、東京を拠点に暮らし、安吾が幼少期の頃に家に住んでいたのは、母と長男、六女、四男、それに安吾と妹の6人だっ次兄と三兄は幼児に死去。異母姉の3人や他の姉はたちは安吾が物心つくまでに嫁入りしています。

安吾8歳の時には長男は早稲田大学政経学部に入学するなど、ある時期は母と安吾を含め4人だけだった時期もあったといいます。

しかしそこに見るのは「私の影」だと。安吾は父の『伝記』に何を見てしまったのか。安吾が「田舎政治家」と呼称した父・坂口仁一郎とはどんな人物だったのでしょうか。

安吾の観察では、頑固で気むずかしい気質をもった「小さな悪党」だと。豪放さを装うのだが、そのじつは、真逆に野暮ったい律儀者、「誠実で、約束を守り、嘘をつかない人物」。

地方政治の小さな悪党ゆえに「人に道を譲り自分の栄達はあとまわしにする」、自分を犠牲にする人だったとみていたようです。


大物政治家がするような本当の悪事のできない男でありながら人に称賛してもらおうとする、その性根が「小さな悪党」と映ったのでした。

自身を「偽悪的」にみつめる安吾が子供の頃ほとんど顔を見ることがなかったという父に対して感じとっていたことは、父としてでなく、「ひとりの人間」としてだったにちがいありません。

なお父は代議士の他、新潟新聞社長、ラジオ新潟と株式取引所の理事長もやっていますが、安吾がいうにはそうした立場から私欲でいくらでも儲けられただろうに、そういうことをする人間ではなかったこともあわせて記しています。

 

私欲のない「小さな悪党」は、五峰の号をもつ漢詩人(森春濤門下)としても知られていました。自身の漢詩集を出し、晩年になると新潟県下の古今の漢詩を集成した『北越詩話』に纏めていて、安吾は1カ月に一度くらいのペースで書斎で墨をするのを手伝わされていました。といって書斎以外で父と接触することもなく、書斎で言葉を交わすこともなく威張りくさった父は自分とは「無関係な存在」だったとまで語っています。


ゆえに「父の愛」など知ろうはずもなく、そんなことを言えば滑稽で戯言だと。総じて子供の頃の父の記憶で強烈なのは、父の冷淡な「気質」だったようです。後にそこに「自身(安吾)の影」を感じとってしまう安吾。気質的冷淡さとは、「あらゆるものを突き放して」しまう安吾の気質の一面だといいます。そして気質とはいえ、その姿の裏面にあるのは世間への怖れなんだと。

 


「私は私の心と何の関係もなかった一人の老人について考え、その老人が、隣家の老翁や叔父や学校の先生よりも、もっと私との心のつながりが希薄で、無であったことを考え、それを父とよばなければならないことを考える。

墨をすらせる子供以外に私について考えておらず、自分の死後の私などに何の夢も托していなかった老人について考え、石がその悲願によって人間の姿になったという、『紅楼夢』を、私自身の現身(うつしみ)のようにふと思うことが時々あった。

オレは石のようだな、と、ふと思うことがあるのだ。そして石が考える」(坂口安吾「石の思い」より)

 


実際の父の姿は、あまりにも家にいないので父の「伝記」を読むしかなかった安吾であるが、客観的な人間の姿などまず意味がないので、要は安吾がどう父を感じとっていたのかが重要であることは間違いありません。

父は「石」の様だったと。そしてその父の姿を、面影を偲んで安吾自身が感覚するのです。自身もまた「石」のようだと。

 

そんな安吾は、幼少期、まだ小学校にあがらないうちからなんと「新聞」を読んでいたというのです。しかも「字」が面白いからとか、その「字」を読むのが面白いからではなく、書いてあることが面白いから熟読していたというのです。

 

「講談」が面白かったというのですから(小説は読まなかったという)、どれだけ早熟だったか思い知らされます。そして角力の記事を読み、決まり手の四十八手の絵が魅力的だったというのです。

この時期はまだ代議士だったとおもわれますが、父は新潟新聞の社長になる人物です。「新聞」を通して、「文字」を覚え、「講談」や「記事」を読みすすんでいく幼い安吾

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「私は幼稚園のときから、もうふらふらと道をかえて、知らない街へさまよいこむような悲しさに憑かれていたが、学校を休み、松の下のグミの薮陰にねて空を見ている私は、虚<span class="deco" style="font-size:small;">(むな)</span>しく、いつも切なかった」<span class="deco" style="font-size:small;">坂口安吾「石の思い」より)</span>
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「文字」を覚え「講談」に親しむ安吾でしたが、その一方、大人になってもずっと感覚せずにおられなかった「心の悲しさ」「切なさ」は、幼少期の頃にすでにはじまっていた感覚だったことに、後になって気づき驚いたことを安吾は告白しています。