伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ル・コルビュジエ(3):「東方への旅」の前に

コルビュジエ(2)の続き:

ここでコルビュジエの家系と祖先について確認しておきましょう。というのも「ル・コルビュジエ」という名前はもともと33歳の時に雑誌の記事や著書(後に造形作品や建築面でも用いるようになる)に用いていたペンネームで、そのペンネームを用いたことじたい、コルビュジエ自身のものの考え方や姿勢と無関係ではないからです。

スイスに生まれ育ったコルビュジエですがその家系はフランス系で、17世紀初頭の頃まで遡ることができるようです。
コルビュジエは「運命的な力」というものを信じていたようで、その源泉を自身の家系と出身地に求めています。

 

コルビュジエの祖父は、スイスのヌーシャテルでの1848年の革命(フランスで勃発しヨーロッパ各地に伝播したもの。ブルジョワジー主体の市民革命から労働者主体の革命へと転化。ウィーン体制の崩壊の始まりと共和制への移行。ナポレオン3世が介入することになりスイス全体の安全保障の意識が高まることに)の指導者の一人だったとされ、コルビュジエ自身、勇気あるその祖父の存在に誇りをもっていました。

祖父はヌーシャテルの城を奪取した革命家の指導者の一人だったといいます(曾祖父もまた革命に身を投げ、最期は長い牢獄生活がもとで亡くなったという)。

 

コルビュジエはそのことを、「自主独立や鋭い観察、自由な意志や勇気を示した過去を自らの血のなかにもつ者は、それを恥じたり、隠したりする必要はない」と語っています。

スイスのヌーシャテルは、生地のスイスの北西ジュラ地方ラ・ショー・ド・フォンからも近く、コルビュジエは荒涼たる山岳の住人でもあった祖父や祖先を通じ、その土地に息づいているある種の理想主義を抱いていたのです。

 

コルビュジエは自身を祖父や曾祖父の如き「迫害された少数者」「革命家」に自分を重ねようとしていたともおもわれます(『ル・コルビュジエー建築・家具・人間・旅の全記録』(エクスナレッジ刊 p.55)

建築への理想を追い求めたコルビュジエにとって、「旅行」はつねに有益な学習であり続けました。啓示を受けたギリシャパルテノン神殿などについて記し自身の遍歴時代を綴った『東方への旅』がよく知られています(1966年刊行。

 

最後の本となったが、旅自体は1911年、24歳の時のもの。当時実際にもちいた10冊の「手帖」そのものを原本にした『東方への旅ー手帖』がファクシミリ完全復刻版として1987年に内6冊、1994年に残りの4冊が刊行されている。日本語版は『ル・コルビュジエの手帖ードイツ紀行』同朋社 1995年刊)。

 

この「東方への旅」の4年前、20歳(1907)の時の北部・中部イタリアへ旅が最初のものでした(師レプラトニエが自身のイタリア旅行体験談をよく生徒に話しコルビュジエも感化されたものだが、20世紀初頭にはイタリアへの旅は美術や建築を目指す者にとって不可欠な経験とされていた)。

コルビュジエはこの旅で、フィレンツェのカルトジオ会修道院の建築に決定的な影響を与えられます。

修道院は独立した小房につながる回廊によって結ばれた構造となっていて、感銘を受けたコルビュジエは、「人間の真の願望が充たされている。すなわち沈黙と孤独があり、かつ共同生活と日々の出会いがある」と語っています。つづいてイタリアからブダペストへ、そして新しい工芸の中心地ウィーンへと巡り、マーラーの音楽を聴き惚れクリムトと出会っています。

この旅でコルビュジエは、「私がなにかを知っているというつもりはありません。自分が知らないことを知っている」と自己省察し、自身に足りないものを見つけた旅となったようです。

それが翌年のパリヘの旅へとコルビュジエを駆り立てます。両親やレプラトニエ先生の反対を押し切っての行動でした。コルビュジエはパリで2年間滞在していますが、オギィースト・ペレ兄弟のもとで製図の仕事をもらいつつ「鉄筋コンクリート」の可能性を学んでいます(これが後の仕事の基盤に)。

 

時間があればエコール・デ・ボザールの講座を受けたり、図書館に通いつめ、欠落していた数学と幾何学や歴史の知識を我武者らに身につけます。同時に、その間にもコルビュジエの心の裡でラ・ショー・ド・フォンの生活空間とあまりに異なる大都市(パリ)に対する違和感も芽生いていたようです。

 

そして「東方への旅」の前年、母校ラ・ショー=ド=フォン美術学校に提出していた「ドイツにおける装飾芸術の動向の研究」が認められ教官に採用され、公的派遣としてドイツへの調査研究の旅にでます。

新しい教育体制を生み出そうという師レプラトニエの考えが背景にあるものでしたが、すでにこのときコルビュジエの裡には「都市の建設」が胚胎していて、後に著書『輝く都市』へと結実していくのです。